私から始める恋もある。――公爵夫人、溺愛します

言諮 アイ

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第7章 愛を告げる、その瞬間のために

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 わたしは今、宿の廊下で落ち着かない足取りを繰り返している。まるで心臓が跳ね上がってきて、身体の内側を何かがぐるぐると駆け巡っているみたい。息をするのも苦しくなるほど、胸がざわついて止まらない。

 ――ほんの数日前、あの裏路地でわたしはユリウスに助けられ、「わたしも彼を支えたい」と誓った。あれからわたしたちは、どうにか気持ちを通い合わせながら王太子派の陰謀に備えてきた。セシリアも尽力してくれ、少しずつ手掛かりを集めている。
 でも、だからといって状況が一気に好転するわけじゃない。圧力はむしろ増しているようだし、ユリウスが受けている「王都へ戻れ」という命令は撤回されないままだ。わたしは彼のそばにいたいのに、彼が何かを言いかけては飲み込む様子が、やけに胸を締めつける。

「お嬢様、深呼吸してください。廊下でそんなに行ったり来たりしていると、周りが心配しますよ」

 セシリアの声には呆れと優しさが混ざっている。わたしは「うん、分かってる」と答えながらも、足はじっとしていられない。だって、昨夜ユリウスがわたしの部屋を訪ねてきて「明日の夕方、話したいことがある」とだけ言ったきり、何も言わずに去っていったのだ。
 その「話したいこと」というのが、わたしの想像どおりなら――彼は、ついに本音を言おうとしているのかもしれない。でも、もし違ったら? もし「王都へ行くからもう会えない」という別れの言葉を告げられたら? 考えだすときりがない。

「ちょっと落ち着かないと、せっかくの勝負所を逃しちゃいますよ」

 セシリアがわたしの腕を軽く引き、にやりとする。勝負所、そう呼ばれると余計に鼓動が速くなる。今日の夕方、ユリウスとわたしは宿の離れの小庭で落ち合う約束をしている。
 あの静かな庭なら、周囲の目を気にせずゆっくり話せるはず。そこが、わたしたちにとって何かの転機になる。そんな予感がひしひしとある。

 午後になり、気づけば空は少し厚い雲に覆われている。まるでわたしの不安を映し出すような、どんよりとした空色だ。セシリアが「雨だけは勘弁してほしいですね」なんて笑うから、わたしも一応笑い返すけれど、内心は落ち着かない。
 それでも約束の時刻が近づき、わたしは宿の奥にある小庭へ向かう。飛び石の並ぶ細い道を通り、竹垣のすぐ裏手に回ると、そこにはユリウスが立っていた。
 黒髪を軽く風になびかせ、わたしが近づいたのに気づくと、ふっと目を伏せている。

「ユリウスさま。約束の時間に来ましたよ」

 わたしが声をかけると、彼はゆるく息を吐き、ゆっくりとこちらを向く。その瞳は不思議なほど揺れているように見える。いつもの冷静さを纏う彼からは想像できないくらい、迷いや不安の色を宿している気がした。

「来てくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして。あなたが呼んでくれたんですもの」

 言い終わると同時に、しんと静まり返った空気がわたしたちを包む。小庭の隅では笹が風に揺れて、かさかさと乾いた音を立てている。空気は湿り気を含んで、何だか胸に重くのしかかる。
 わたしは息を整えながら、彼の表情を見つめ続ける。

 しばらく無言のまま、彼は視線をうろうろさせてから、ようやく意を決したように切り出した。
「……実は、再度、王宮から呼び出しがありました。今回こそ本当に“戻れ”と。もし拒否するなら、職を辞するような事態になる可能性が高い」
「やっぱり、そうなんですね」

 わたしの胸は、ぎゅっと強く締めつけられる。分かっていたとはいえ、いざ本人から聞かされると覚悟が揺らぎそうだ。彼は強がりながらも、明らかに苦しそうな顔をしている。

「もう少しここに残って、あなたの力になりたいのが本音です。正直、王都の策略にはうんざりしていて……でも、向こうへ行かなければ何も解決しない気もする。悩みました」
「……それで、ユリウスさまはどうするつもりなんです?」

 彼はしばし黙り込む。やがて、小さく首を振った。

「まだ結論は出していません。今までなら“どんな誤解をされても構わない”と逃げ腰だったかもしれない。でも、あなたがここにいて、わたしを信じてくれる。だからこそ、もう逃げたくないと思う。……けれど、自分があなたを巻き込んでしまうことが怖くて」

 そこまで言うと、彼は眉を寄せて苦しげに俯く。わたしはその様子に耐えきれず、一歩近づいて彼の袖を軽くつまむ。わたしだって不安はあるけれど、彼がこうして苦悩しているのを見ると、胸が張り裂けそうになる。

「怖くてもいいじゃないですか。わたしは、あなたと一緒にいるのを望んでます。あなたを守ろうとしてくれる姿が嬉しいし、今度はわたしもあなたを守りたいんです」
「……あなたが、望んでいる」

 彼はその言葉を反芻するように呟き、顔を上げる。瞳がゆらゆらと微熱を帯びているのを感じる。いつものクールな仮面が外れ、むき出しの感情がこぼれ落ちそうになっているように見えた。
 わたしは心臓が大きく跳ねる。

「わたし、あなたの役に立ちたい。命令を拒否するなら、一緒に戦う。王都に戻るなら、わたしもあなたについて行く。……それくらい、あなたが大切なんです」

 息を詰めながら必死に言葉を並べる。すると、彼は微かに震える声音で返してくる。

「そんな……あなたは公爵令嬢なのに、危険な道を選ぶなんて馬鹿げています」
「いいえ、馬鹿げてない。わたしの人生ですから。わたしが、愛したい人と一緒にいたいだけです」

 “愛したい人”――そう言いながら、自分でも恥ずかしいほど顔が熱くなる。
 でも、嘘はつきたくない。
 すると、彼の瞳がさらに大きく揺れた。呼吸を乱して、震える声で何かを言おうとするが、うまく声にならない様子だ。わたしは痛いほど胸が高鳴り、いつの間にか一歩、また一歩と近づいている。

「わたし、あなたに言わせたいことがあるんです」
「……なん、ですか」
「わたしは、あなたを心から愛しています。……あなたがいないと、何も始まらない」

 ユリウスはまばたきすら忘れたように固まっている。
 沈黙が、風のざわめきだけを強調する。わたしが抱いている袖も、彼の腕がこわばっているのが伝わるぐらい。
 
 しかし次の瞬間、彼は信じられないほどの力でわたしの手を掴む。
 勢いに任せて、そのまま抱き寄せられる形になり、わたしは驚きのあまり小さく声を上げる。
 心臓が壊れそうだ。けれど、彼の体温は想像以上に高くて、必死に抑えていた感情が露わになったかのように感じる。

「……僕は、ずっと怖くて……好きとか愛とか、そんな言葉を持つ資格がないと思ってた。なのに、あなたに嫉妬して、独占したくて、でもその感情を自覚するのがもっと怖くて」

 吐き捨てるように紡がれる告白めいた台詞に、わたしは胸がぎゅっと熱くなる。彼の息が耳元に触れて、ぞくりとする。

「でも今は、もう言わないと駄目だ。あなたがいなくなる方が、もっと嫌だから」

 声が震えている。それでも彼は、緩まずにわたしの身体を抱きしめ、苦しげに言葉を探している。わたしは目を閉じかけながら、はっきりと耳を澄ます。

「……好きです。愛してしまいました。あなたの存在が僕を変えてしまって、もう元には戻れない」

 その言葉が落とされた瞬間、わたしは自分の呼吸が止まったのではないかと思うほど衝撃を受ける。彼が「愛してしまった」と言ってくれた。ずっと聞きたかった“言葉”が、耳朶を震わせて胸に刻まれる。夢なら覚めないで、と神様に願いたいぐらいの幸福感が込み上げてくる。

「……嬉しい。わたしも、あなたを愛してる」

 正直、涙が出そうでやばい。だけど彼の腕の強さと熱が、わたしの不安を全部追い払ってくれる。
 どうしよう、こんなに胸が熱くなるなんて。ふたりの想いが今まさに重なっているんだと考えるだけで、息が詰まるぐらい幸せだ。

 しばらくのあいだ、わたしたちは小庭の片隅でただ抱き合う。ほかには誰の気配もない。遠くから小鳥の鳴き声が聞こえるくらいで、世界から切り離されたような静寂が降りている。こんなにも満ち足りた気持ちを味わうのは初めてだ。

 やがて、ユリウスが少しだけ身体を離すと、わたしの目をしっかり見つめる。声は相変わらず震えているけれど、その瞳には不思議な決意が宿っている。

「……すみません、いまさらかもしれないけど、僕はあなたのそばにいてもいいんでしょうか。平民出身で、騎士団でも失敗して、いまだに王太子派に目をつけられて……問題ばかりの男です」
「もちろん。わたしがあなたと一緒にいるのは、誰の都合でもない。わたしの意志です。あなたが過去にどんな失敗をしても関係ない。わたしはずっと、あなたを好きでいます」

 そう断言すると、彼はほんの少し笑みを浮かべて俯き、ポツリと呟く。

「……本当に、あなたは強い人だ。そして優しい。僕なんかにはもったいないぐらい……でも、ありがとうございます」

 ふわりとした風が吹いて、わたしの髪が揺れる。彼はその髪先を遠慮がちにつまみ、そっと指から滑らせて離す。自然と笑みがこぼれる。だって今、わたしたちは初めて「両想い」になれたと確信できるのだから。

「じゃあ、これからどうしましょうか。わたしたちは王都に行く? それとも、また抵抗を続けてここで粘る?」

 わたしが尋ねると、ユリウスは少し考え込んでから答える。

「決めないといけませんね。もし王太子派がさらに動くなら、いずれここにいるだけでは済まなくなる。……逃げずに向き合うほうがいいのかもしれません」

 そう言う彼の声には、以前にはなかった力強さが感じられる。わたしは安心して微笑み、彼の手をもう一度握る。

「どんな道を選んでも、わたしはあなたと一緒に行く。その覚悟があります。……愛してるから」

 最後の“愛してる”という言葉をもう一度口にすると、彼は恥ずかしそうにうつむいて「……僕も、愛してます」と返してくれた。

 わたしの胸はこれ以上ないほど熱くなり、しあわせと少しの緊張感が混ざり合う。まだ王太子派の策略が終わったわけではないし、わたしたちを取り巻く情勢は不安定だ。それでも、今この瞬間に芽生えた“ふたりの愛”は確かなものだ。
 迷うことなく、わたしたちは手を繋ぎ合い、この世界を一緒に渡っていこうと決める。

 青白い雲が流れる空を見上げると、さっきまでの鉛色が嘘みたいに隙間ができて、わずかな陽光が差しはじめている。まるで祝福してくれているみたいだ。わたしはそんな空を見つめて、小さく笑い、隣のユリウスの手の温かさをじっくりかみしめる。

 王都へ向かうなら、悪意や陰謀と対峙することになる。怖くないと言えば嘘になる。でも、ふたりなら乗り越えられると信じたい。彼がわたしの手を離さないかぎり、どこへでも行ける。
 ユリウスはもう一度、わたしの肩をそっと抱き寄せる。これまでだったら恥ずかしがって視線をそらしていたかもしれないのに。その小さな進歩が、わたしの心をいっそう燃え上がらせる。

「ありがとう、あなたと出会えて、ほんとによかった」

 わたしが笑いかけると、彼は静かに微笑んで、「僕もだ」と返してくれる。ほんの数語だけで、わたしは胸がいっぱいになる。ふたりで並んで立つこの小さな庭こそ、わたしたちの新しい出発点だと思うと、涙が出るほど尊い。
 セシリアはきっと、どこかで「やっとだ!」と小躍りしているだろう。ルカもまた、「祝福しますよ!」と軽口をたたくかもしれない。そんな光景を想像して、わたしはくすりと笑う。全部があたたかく見えてくる。

 彼はまだ、不器用ながらもわたしの頬に触れ、何かを言いかける。でも、その先の言葉は声にならないまま、かすかに微笑んでくれた。――それが、わたしには何よりの“答え”に思える。

 わたしは彼を見つめ返し、心の中でそっと誓う。
 ――絶対に手放さない。絶対に離れない。彼にとっての“救い”になりたいし、わたし自身にとっての“生きる力”にもしたい。ふたりで掴んだこの愛は、王太子派や過去の傷なんかに邪魔させない。

 そう決めたわたしは、ゆっくりとまぶたを閉じる。ほんの少しだけ彼の吐息を感じられるほど近くで、さらに腕を回してお互いを確かめ合う。
 誰も邪魔をしない、小さな庭の一角で、わたしたちは静かに心を重ねる――それだけで、この世界が一気にまばゆく光を放ったように感じられた。
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