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エピローグ
しおりを挟む私が王都に暮らしはじめて、初めて冬を越えた頃、城の中庭には小さな花が顔をのぞかせている。
かつて火の手が広がり、瓦礫だらけになっていた場所も、今では日差しを受けて柔らかく風にそよぐ雑草や花を育て始めた。私はその様子をじっと見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じている。
「ここ、ずいぶん明るくなったな」
隣に立つアレクシスがぼそりとつぶやく。鎧を外した彼はいつもより気配が静かで、私の肩越しに中庭の花壇を見つめている。彼も昔は“鬼神”と恐れられた男だったのに、今はこうして土の匂いと花の彩りを味わっているのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。
私はしゃがみこみ、小さな白い花のつぼみにそっと触れる。冷たい土の匂い、そしてかすかな生温さが指先に残る。あの戦場を駆け抜けていた頃は、花の香りなど気にかける余裕はなかった。
「あの激戦から、もう少しで一年経つのよね。帝国との戦争が終わって、内乱が治まって……。最近は民衆の暮らしも少しずつ落ち着いてきているわ」
私がそう呟くと、アレクシスは腕を組んで軽く息を吐く。
「まあ、まだ問題は山積みだがな。地方では盗賊団の再編や、帝国の残党を名乗る者がちょっかいを出しているという報せも届いている。辺境の警備強化を進めるなら、そろそろ兵を増やすか、分散していた軍をまとめるか、決断が必要だ」
その厳しい言葉に、私は苦い笑みを浮かべる。確かにこの国は、まだ完璧に安定したわけではない。私が“王”として即位した当初、腐敗貴族の残党や王族の血筋を重んじる保守派など、いくつもの勢力が裏で蠢いていた。都市部では一応の平穏が取り戻されつつあるけれど、地方へ目を向けると騎士団や兵士が十分に行き届かず、不安定な領地も多い。
「そうね……。でも、そのあたりの話し合いは今夜の軍議で整理しましょう。ひとまず今日は穏やかな空気を味わいたいわ。だめかしら?」
私がささやくように言うと、アレクシスはわずかに口元をほころばせる。
「お前がそう言うなら、俺は逆らえん。……ところで、今日はあの少年が来るんだったな。辺境の村から預かった孤児だと聞いたが」
「ああ、クラウスが連れてくるはず。帝国の侵攻で家族を失って、まだ十歳にも満たないのに一人で生き延びたんですって。もし可能なら、王都の学舎で引き取って育てたいの。戦争孤児が少しでも安心して暮らせる場所をつくりたいって思っているの」
そう話しながら、中庭に吹き抜ける風を受けて目を細める。冬を越えたばかりの冷たい風だけれど、どこかやわらかな春の気配が混じっているように感じる。去年の今頃は、私はまだ帝国との最終決戦を終えたばかりで、死んだように泥の中で眠り込む日々だった。
私は立ち上がり、小さく肩を回す。宝冠は必要のないときは身につけず、いつもの軽装のままだ。代わりに、布製の薄いマントが背を覆っている。これも昔とは違う装いだと自覚する。かつては重い甲冑を着込んで剣を振り回していた自分が、今はこうして王としての日々を送り、民のために新たな施策を考えているのだから。
「そうだ、アレクシス」
私がふと思いついて声をかけると、彼が小さく首をかしげる。
「どうした?」
「今日の午後は、王都の市場へ行ってみない? 最近、地方の商人たちがこぞって新しい作物や品物を持ってくるらしいの。書類や報告書だけじゃ分からない生の情報が知りたいわ」
アレクシスは呆れたように眉を上げるが、すぐに微かな笑いを浮かべてうなずく。
「お前らしいな。王がそんなに外を出歩くのは珍しいかもしれないが、俺も警備隊を用意しておく。とはいえ、お前の“王威”を見せるまでもなく、今の王都なら歓迎してくれるだろう」
その言葉に、胸がじんわりとあたたかくなる。以前なら、私が城下町を歩けば物珍しそうに見られたり、場合によっては貴族が悪意を向けてくることもあった。けれど、今は私を「国を救った王」として受け入れてくれる人が増えつつあるのを実感する。もちろん、すべてが順風満帆とはいかないけれど、それでも人の心は変わっていくのだと思える。
一方で、帝国との関係はどうだろうか。私は考えを巡らせる。大きな不可侵条約を交わしてしばらく経つけれど、皇帝ルキウスの容体は回復しておらず、帝国内では跡目争いが激化しているとも聞く。もし状況が変われば、また別の派閥が攻めてくる可能性は捨てきれない。とはいえ、今はそれを踏まえつつも国内を安定させることが最優先だ。
「リリア様」
不意に別の声がかかり、振り返るとクラウスが中庭の入り口に立っていた。背後には、小さな男の子が隠れるようにして顔を覗かせている。まだ十歳にもならないだろうか、すっかり怯えた表情だが、目には必死に強さを宿そうとしているようにも見える。
「その子が……」
私が近づこうとすると、男の子は一瞬身を縮こませるが、クラウスが軽く背を押すと恐る恐る私を見上げる。
「ぼ、ぼくは……ジェイドっていうんだ。村のみんなが……戦争で……」
か細い声でそう言う彼の手は、泥で汚れたままだ。私がそっと膝を折り、目線を合わせて声をかける。
「ジェイド、よく王都まで来てくれたね。怖かったでしょう? でも、ここではもう大丈夫。あなたが望むなら、学舎で読み書きや算術を覚えて、ゆくゆくは騎士になることだってできるわ」
男の子は戸惑うように目を瞬かせる。こんなに小さな子どもが家族を失い、一人で辺境から来たと思うと胸が痛む。帝国との戦争がもたらした悲劇は、まだ完全に消えてはいない。私はその一端しか救いきれないかもしれないけれど、手の届く限り救おうと決めている。
「本当……なの? ぼくなんかが……兵士になれるの?」
「ええ、努力すればきっとなれる。兵士じゃなくても、何にでも挑戦していいのよ。私も……昔は小さな屋敷で、剣を握るしかなかったの。だけど今は、こうして国を動かす立場になっている。だから、ジェイドも自分の可能性をあきらめないで」
その言葉に、彼の瞳が少しだけ潤み、強い決意を宿したように見える。隠していた小さな拳がぎゅっと握りしめられるのを感じて、私は胸が温かくなる。どれほど悲しみを背負っていても、次に踏み出す力を人は持っているはずだ。
「ありがとう……。リリア……陛下……」
か細い声でも、はっきりと聞き取れるお礼に、私は微笑み返す。アレクシスも黙ってうなずき、ジェイドの頭を乱暴に撫でている。彼らしい無骨な仕草だけれど、その眼差しは優しい。
こうしてまた一人、戦争が生み出した孤児を受け入れる。王都には同じ境遇の子どもたちが集まってきて、学舎や養護施設を整える必要がある。新体制の支援策として、私が優先的に取り組んでいる事業の一つだ。
剣や“王威の審判”の力で敵を退けても、こうした子たちの傷はすぐには癒えない。だからこそ、今度こそは優しい世界を築きたい。そのために、私は今日も明日も休まずに、国の改革を続けていくのだ。
ジェイドをクラウスに預けてから、アレクシスと私は再び中庭を後にする。辺りには夕方のやわらかな光が降り注ぎ、遠くでは兵士たちが訓練を切り上げる声が聞こえる。王都の空気はかつてよりもずっと穏やかで、噂話や笑い声が風に溶け込んでいるのが分かる。
「なあ、リリア」
歩きながら、アレクシスがぽつりと言葉をこぼす。
「なんでもない日常って、こんなにも悪くないもんだな。お前は新しい王として慌ただしくしてるけど……それでも、国が平和になるっていうのは、こういうことなんだろう」
彼の言葉に、私は心から微笑む。そう、かつては戦乱の最中でしか生きられなかったこの男と、私も同じだった。血と剣のにおいに染まった日々を送り、それが当然だと信じていた。だけど、今はこうして穏やかな夕暮れの王城を歩くことができる。
「この国を……もっと平和にしていこう。帝国だって、まだ油断はできないけれど、私たちが自分の足で歩んでいけば、二度と昔のように侵略されることはないはず」
「まあ、そこが“王”の腕の見せどころだろうな。何かあれば、俺の剣を貸すから、思う存分やれ」
アレクシスの頼もしい言葉を聞いて、私はうなずく。私の頭には、いまだに“覇王”の証である宝冠こそないが、心には国を守るための決意と、それを後押しする“王威の審判”が眠っている。それらを正しく使いこなすことで、私は民と共に進んでいく。
――そう、私の戦いはまだ続いていく。だが、その戦いは血で染まったものばかりではない。これからは、剣を振るうよりもはるかに多くの喜びや温かな笑みを生み出す戦いなのだと思う。
空を見上げると、淡いオレンジの光が王城の壁を染めている。その向こうには王都が広がり、街の通りを人々が行き交っている様子が小さく見える。あの一つひとつの命が、私の背中を押し、私に“王”としての力を与えてくれるのだろう。
もう迷わない。契約結婚から始まった道のりは、私を遠くへ運んでくれた。たとえ幾度となく戦場に立たされようとも、今はこの穏やかな空気の中で息づく多くの人々を守るために、私は戦い、そして国を導くことを選んだから。
やがて夕焼けが柔らかい夜の気配に変わる頃、アレクシスは軽くため息をついて微笑む。
「さあ、そろそろ戻ろう。お前を待っている奴らが、また山ほどいるはずだ」
私は伸びをしながら笑みを返す。
「分かった。行きましょう、私たちの城へ」
歩き出す背中を受け止めるように、城の石壁が穏やかな光を纏っている。私はアレクシスと並んで、ゆっくりと王城の回廊を進む。背後には中庭の花々が、そして未来への希望が、優しい風に乗って揺れている。
――こうして、すべてが動き出した今、私は確信する。契約結婚から始まったこの物語が行き着いたのは、“一つの終わり”ではなく、“大きな始まり”なのだ。私が守り抜いた国はまだ未完成で、私たちが歩む道もどこまでも続く。それでも、この歩みにこそ価値があると思える。
誰もが幸福を感じられる世界など、簡単には作れない。でも、私が信じる限り、仲間たちがそばにいる限り、いつか必ずこの国を真に豊かな場所へと変えていける――私はその可能性を抱きしめながら、静かに歩を進める。
これこそ、私が王として、この国で生きていくという選択。もう迷わないし、剣を振るうことだけが戦いだとも思わない。人々の笑顔や日常を守るために、私は“新しい時代”を切り拓く。それが、戦場の女王から真の“王”へと移り変わった私の使命なのだ。
薄闇が訪れつつある王城を、私とアレクシスは並んで歩いていく。すべてが終わったわけではない。けれど、この胸の奥にはもう、言いようのない安堵と希望が同居している。遠くで聞こえる兵士たちの巡回の足音や、廊下を走る侍女の声。そんな日常の一つひとつが愛おしくて、私はそっと口元を緩める。
――きっと、この先に続く物語も、私たちが自らの手で紡いでいくのだろう。強いだけの王ではなく、みんなが立ち上がれるような王として。どんなに小さな声でも、耳を傾けられる王として。
そう誓いながら、私はささやかに微笑む。夜の帳が下りる城の奥へ向かい、これからの国を支えるための仕事を続けるのだ。剣はまだ手放さない。でも剣だけには頼らない。アレクシスと共に、大きな責任と大きな夢を背負って。
私は深い夜の風を浴びながら、やさしくまぶたを閉じた。
<完>
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