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第1章 出会いと絶望
6話 バンダナと村娘(地獄に菩薩)
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血まみれの槍の穂先が小刻みに揺れていた。
バンダナこと加藤多喜二は、自分の指がこわばり、槍を手放せないでいることに気づいた。
「はっ、ひっ、ふぅー……」
荒い息を繰り返す。
さっきまで四本ツノが立っていた場所には、黒い肉の塊が転がっていた。
あの咆哮。あの爪。勇剛の強張った背中。
すべてが現実だった。
虫歯の痛みも忘れ、ただ槍を前に突き出していた。
マスターがあの無茶苦茶なメイスの投擲と、囮のように走り出して獣の注意を引かなければ——今ごろ切り裂かれ、押しつぶされ、あの巨体の腹の中だった。
多喜二は、その場にへたり込みそうになる膝を押さえて、ようやく槍を床に下ろした。
カランと金属が石畳に転がる音が、大きく響く。
——生きてる。
その実感が、遅れて全身を襲った。
だが、安堵と同時に、別の冷たいものが腹の底から這い上がってくる。
勇剛は、この地獄から生還した。
おそらく新宿に。
——だけど、たとえ自分は日本に帰れたとしても、地獄なのは変わらない。
あの研究室も地獄だった。教授の終わりなきデータ要求、未払いのバイト代、書きかけの論文。
多喜二は倒した獣から目をそらし、自嘲気味に息を吐いた。
しばらくして、柱の影から若い神官がおそるおそる顔を出した。
倒れている四本ツノを見て、その場で膝をつく。
神官は両手を組み合わせると、涙を流しながら何かを叫んだ。
その声に反応したのか祭壇の後ろの扉が開く。
扉の向こうから松明の光を背に、同じローブをまとった娘が駆け出してきた。
松明の光が髪に反射し、一瞬黄金のように輝いた。
薄汚れた容姿、痩せこけた体。
それでも——
松明の炎が彼女の横顔を照らした。栗色の髪が揺れ、鳶色の瞳が一瞬こちらを見た。
息をのんだ。
多喜二は呆然と口を開け、思わず立ち上がろうとしてよろけた。
「いるじゃん……」
乾いた喉から、かすれた声が漏れた。
さっきまでの絶望が、脳のどこかに吹っ飛んでいく。
——この異世界の神様からのサービス、神の啓示、天の恩寵か。
こんな場所で、こんな娘に会えるとは……
神官と娘がそろって三人の前に出る。
深々と頭を下げた。
神官は顔を上げると、不安そうにきょろきょろと周囲を見回す。
勇剛がいないことに戸惑っているようだった。
やがて、獣の脳天に突き刺さったままの長剣を見つけると、神官の顔から血の気が引いた。
喰われたと思ったのだろう。
若い神官の顔が苦痛に歪んだ。
しかし、三人は誤解を解く術を知らなかった。
多喜二にはまだ確かめたいことがあった。
四本ツノは一頭なのか、他に人を捕食する生物はいないのか。
神官は娘に伝言を残し、足早に祭壇の裏に姿を消した。
多喜二はリュックからノートと三色ボールペンを取り出した。
マスターとマッチョもその様子を後ろで見守った。
四本ツノの絵を描き、複数並べる。神殿の絵を描き矢印を引く。
娘は珍しそうにノートを覗き込んだが、すぐに困惑の表情を見せた。
松明の炎に揺らぐ影が、彫りの深い彼女の顔を際立たせた。
——ドキッとする。
「ですから、これですね。今倒したヤツ。他に生きてるヤツはァ、イナイデスカア?」
何故かカタコトでペンをノートに走らせる。
「倒したヤツ」に剣を描き足し、赤インクを走らせた。
「上手いもんだ」
その手際よくポイントを押さえた絵に、マッチョが感嘆の声を上げた。
村娘は眉を寄せ、ノートの四本ツノの絵を指差し、首を振って早口で何か言った。
一際大きく描かれた一頭を指し、祭壇を指差す。そこには四本ツノの頭蓋骨が置かれている。そして他の絵を差しながら、首を左右に振る。
多喜二はそれを赤インクで塗りつぶす。
彼女がこくんと首を縦に振った。
——かわいい……
ペンが止まる。
娘の指が、たまたま小さく書かれた最後の絵で指を指している。何かを早口で話している。しかし意味が分からない。
多喜二の顔を見て真剣な表情で何かを訴えているようだった。
「大きいのはもういない……小さいのがまだいるってことか……?」
多喜二はつぶやき、荒野で見た白骨を思い出した。
あの四本ツノも、縄張り争いか、飢えで死んだのだろう。
「もうこの辺りには、でかいヤツはいないみたいっすね」
多喜二は立ち上がり、二人に確認するように話しかける。
マスターがニヤニヤして見ていた。
嫌な笑顔だと多喜二は顔をしかめた。
「バンダナくん、いたじゃん」
小さくガッツポーズするマスター。勇剛を真似したつもりなのだろう。
多喜二は冷たく黙殺した。
いつの間にか、周りに村人たちが集まってきていた。みな目に涙を浮かべ、口々に感謝の言葉を発しているようだった。
マッチョがここぞとばかりにポージングを始める。
盛り上がった筋肉は艶を失ってはいたが、血と泥と汗で汚れたタンクトップをはちきらせんばかりに存在を誇示していた。
おおおぉ……!
村人たちの間にどよめきが上がった。
夕方に見た老婆が、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら平伏した。
ゆらめく松明の中、マッチョは白い歯を見せ、
「筋肉で解決!」
とバック・ダブル・バイセップス1で締めた。
注1バック・ダブル・バイセップス(Back Double Biceps) 背中と腕の筋肉を同時にアピールするための、ボディビルディングのポージングの一つ。
バンダナこと加藤多喜二は、自分の指がこわばり、槍を手放せないでいることに気づいた。
「はっ、ひっ、ふぅー……」
荒い息を繰り返す。
さっきまで四本ツノが立っていた場所には、黒い肉の塊が転がっていた。
あの咆哮。あの爪。勇剛の強張った背中。
すべてが現実だった。
虫歯の痛みも忘れ、ただ槍を前に突き出していた。
マスターがあの無茶苦茶なメイスの投擲と、囮のように走り出して獣の注意を引かなければ——今ごろ切り裂かれ、押しつぶされ、あの巨体の腹の中だった。
多喜二は、その場にへたり込みそうになる膝を押さえて、ようやく槍を床に下ろした。
カランと金属が石畳に転がる音が、大きく響く。
——生きてる。
その実感が、遅れて全身を襲った。
だが、安堵と同時に、別の冷たいものが腹の底から這い上がってくる。
勇剛は、この地獄から生還した。
おそらく新宿に。
——だけど、たとえ自分は日本に帰れたとしても、地獄なのは変わらない。
あの研究室も地獄だった。教授の終わりなきデータ要求、未払いのバイト代、書きかけの論文。
多喜二は倒した獣から目をそらし、自嘲気味に息を吐いた。
しばらくして、柱の影から若い神官がおそるおそる顔を出した。
倒れている四本ツノを見て、その場で膝をつく。
神官は両手を組み合わせると、涙を流しながら何かを叫んだ。
その声に反応したのか祭壇の後ろの扉が開く。
扉の向こうから松明の光を背に、同じローブをまとった娘が駆け出してきた。
松明の光が髪に反射し、一瞬黄金のように輝いた。
薄汚れた容姿、痩せこけた体。
それでも——
松明の炎が彼女の横顔を照らした。栗色の髪が揺れ、鳶色の瞳が一瞬こちらを見た。
息をのんだ。
多喜二は呆然と口を開け、思わず立ち上がろうとしてよろけた。
「いるじゃん……」
乾いた喉から、かすれた声が漏れた。
さっきまでの絶望が、脳のどこかに吹っ飛んでいく。
——この異世界の神様からのサービス、神の啓示、天の恩寵か。
こんな場所で、こんな娘に会えるとは……
神官と娘がそろって三人の前に出る。
深々と頭を下げた。
神官は顔を上げると、不安そうにきょろきょろと周囲を見回す。
勇剛がいないことに戸惑っているようだった。
やがて、獣の脳天に突き刺さったままの長剣を見つけると、神官の顔から血の気が引いた。
喰われたと思ったのだろう。
若い神官の顔が苦痛に歪んだ。
しかし、三人は誤解を解く術を知らなかった。
多喜二にはまだ確かめたいことがあった。
四本ツノは一頭なのか、他に人を捕食する生物はいないのか。
神官は娘に伝言を残し、足早に祭壇の裏に姿を消した。
多喜二はリュックからノートと三色ボールペンを取り出した。
マスターとマッチョもその様子を後ろで見守った。
四本ツノの絵を描き、複数並べる。神殿の絵を描き矢印を引く。
娘は珍しそうにノートを覗き込んだが、すぐに困惑の表情を見せた。
松明の炎に揺らぐ影が、彫りの深い彼女の顔を際立たせた。
——ドキッとする。
「ですから、これですね。今倒したヤツ。他に生きてるヤツはァ、イナイデスカア?」
何故かカタコトでペンをノートに走らせる。
「倒したヤツ」に剣を描き足し、赤インクを走らせた。
「上手いもんだ」
その手際よくポイントを押さえた絵に、マッチョが感嘆の声を上げた。
村娘は眉を寄せ、ノートの四本ツノの絵を指差し、首を振って早口で何か言った。
一際大きく描かれた一頭を指し、祭壇を指差す。そこには四本ツノの頭蓋骨が置かれている。そして他の絵を差しながら、首を左右に振る。
多喜二はそれを赤インクで塗りつぶす。
彼女がこくんと首を縦に振った。
——かわいい……
ペンが止まる。
娘の指が、たまたま小さく書かれた最後の絵で指を指している。何かを早口で話している。しかし意味が分からない。
多喜二の顔を見て真剣な表情で何かを訴えているようだった。
「大きいのはもういない……小さいのがまだいるってことか……?」
多喜二はつぶやき、荒野で見た白骨を思い出した。
あの四本ツノも、縄張り争いか、飢えで死んだのだろう。
「もうこの辺りには、でかいヤツはいないみたいっすね」
多喜二は立ち上がり、二人に確認するように話しかける。
マスターがニヤニヤして見ていた。
嫌な笑顔だと多喜二は顔をしかめた。
「バンダナくん、いたじゃん」
小さくガッツポーズするマスター。勇剛を真似したつもりなのだろう。
多喜二は冷たく黙殺した。
いつの間にか、周りに村人たちが集まってきていた。みな目に涙を浮かべ、口々に感謝の言葉を発しているようだった。
マッチョがここぞとばかりにポージングを始める。
盛り上がった筋肉は艶を失ってはいたが、血と泥と汗で汚れたタンクトップをはちきらせんばかりに存在を誇示していた。
おおおぉ……!
村人たちの間にどよめきが上がった。
夕方に見た老婆が、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら平伏した。
ゆらめく松明の中、マッチョは白い歯を見せ、
「筋肉で解決!」
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