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第1章 出会いと絶望
7話 バンダナと村の井戸(村娘の名前が覚えられない件)
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三人は神殿裏の蔵の二階にある小部屋を与えられた。
厚い雲はかかっているが、雲間から覗く月が窓を照らしていた。
粗末な毛布にくるまって横になる三人。久しぶりに、安心して眠れる夜だった。
疲労と空腹で体は重いはずなのに、三人の目は冴えていた。
「マスターさんのメイス投げ! すごかった!」
マッチョはまだ興奮していた。
「ほんとに今日のMVPっすよ!」
多喜二はそれに続けた。冴えない中年だと見下していた相手が、あの状況で自ら囮になったのだ。
「お腹はもう大丈夫っすか?」
マスターは聞いていたのか、聞いていないのか。
「あの村娘、可愛かったなあ」
マスターはにやにやと笑った。
多喜二は芽生えかけた尊敬の念を即座に消し去り、踵をマスターの腹部にめり込ませた。
「いってえなー!」
マスターはすかさずその足を取ると、アキレス腱固めを極めた。
「ギブギブッ!」
悶絶する多喜二。
翌朝、村娘が起こしに来た時、三人は鼾をかいて眠っていた。
窓の外には優しい朝の日差し。風も爽やかだった。
顔を洗ってきたのだろう。くすりと笑う顔は明るく輝いている。
トレイに木のコップが乗っている。湯気の立つコップをトレイから取り出し、そっとテーブルに置いて出て行こうとする村娘。お茶のような香りが漂った。
多喜二がはっと目を覚ますと、出て行こうとする村娘と目が合った。
待ってというように慌てて手を上げ、手招きをした。
気になることがあった。ノートとペンを取り出し、井戸の絵を描いた。すぐに伝わったようだ。連れていって欲しいと身振り手振りで頼むと、コクンと頷く。
その仕草ひとつに、多喜二の胸が高鳴った。
娘はコップを差し出した。茶色に濁っていたが、口をつけると何かのお茶のような風味がした。乾いた喉が潤う。どことなく土っぽさが残るが、構わず一気に飲み干した。
水の確保はどうなっているのだろうと気になった。
井戸は神殿の裏の階段を降りたところにあった。井戸の周囲には、四本ツノの巨大な足跡が深く残っていた。
爪痕が井戸の櫓の柱にえぐり込まれ、そこには乾いた血痕がこびりついていた。
多喜二は自分が昨日まで、この獣がいた場所のすぐそばで彷徨っていた事実に気づき、背筋が冷たくなった。
井戸の水を滑車で汲み上げると、桶には泥を含んだ濁水が満ちた。おそらく旱魃で地下水が細り、人の手入れもできなかったのだろう。
多喜二が顔を上げると、娘がじっとこちらを見ていた。
目が合うと娘の頬が赤みを帯びた。
取り敢えず簡単な浄水器を作ることにして、他にも水源を探さなければと考えを巡らす。その前に娘の名前を聞いておこうと思った。
多喜二は、自分の胸に手を当てて「さとう たきじ」と名乗った。繰り返し名前をゆっくりと言い、手のひらを向ける。
名前と分かったようだ。娘は両手を自分の胸に当てて、
「りゃありゅうぃあちぇみゅぅ、むぁ、めぇけれぃみ、ぺぺとぅん」
とにっこり笑って言った。
「りゃ? りゅ? みゃ? ぺぺとぅん?」
娘はムスッとした顔をした。
娘はもう一度早口で名前を告げたが、最初と微妙に違って聞こえた。多喜二は頭を抱えた。
慌てながらもう一回「さとうたきじ」と名乗り、今度は娘に言わせようとした。
娘は言った。
「しゃちょお、たきひ?」
もう一回名前を繰り返す。
村娘は頷いて今度は、はっきりと言った。
「サツキトトロ?」
思わず項垂れる。諦めて「バンダナ」と名乗ると娘の顔がぱっと輝いた。
「オー、バンダナッ」
はーとため息をつき、それでいいよと首を垂れる。
今度は娘に手を向け「ぺぺちゃん」と呼んでみた。
娘は少し驚いた顔をして、にっこり笑って頷いた。
どうやら「ぺぺちゃん」で良いらしかった。
多喜二はノートに木と湧水と小川の絵を描いた。絵を描くたびに現地語で名詞を確認しようとしたが、日本語にない発音が舌の上で転がらなかった
。
多喜二は息を吐き、ペンを握り直した。言葉より絵の方が確実だった。
絵を見たぺぺちゃんの目が、一瞬だけ翳った。悲しそうに首を振ると、早口で何かをまくし立て——そのまま多喜二の手を取って駆け出した。
「ぺ、ぺぺちゃん?」
驚いて声を上げる。
そのほっそりとした手は意外なほど力強かった。温もりが胸の奥にまで染み込んでくる。
その瞬間、脳裏に中学の卒業式前日がよみがえった。
幼い頃、近所に越してきた同い年のミィちゃん。
子どもの頃はこんな風に手を取り合って、公園を駆け回っていたものだった。
中学に上がると、ミィちゃんは奇跡の進化を遂げた。その頃にはもう顔を合わすことはなくなっていた。
卒業式の前日、勇気を振り絞り告白した。
ミィちゃんは一瞬、驚いた表情をして、冷たく「キモ」と言って逃げていった。
(キモ、キモ、キモ……)
目の前が真っ暗になった。
その言葉は今も夢に出てくる。
それは失恋というには、あまりにも残酷な拒絶だった。
それ以来、ミィちゃんとは会っていない。
ぺぺちゃんの手の温もりが、あの日の「キモ」を少しずつ溶かしていくようだった。
枯れた木々の間を駆け抜け、廃墟のような小屋が立ち並ぶ一角を通り抜け、坂を登り切ると、眼下に枯れた森が広がった。
はぁはぁと息が切れる多喜二。
ぺぺちゃんは森を指差し、早口でまくし立てる。
かつては緑に覆われた森だったのだろう。いまは、黒々とした枝だけが風に揺れている。
そのとき、多喜二は枯れた木々の間に何か光るものを見つけた。
——何かが反射している。
ぺぺちゃんにその方向を指差して尋ねる。ぺぺちゃんもまた、多喜二が光に気づいたことを悟ったようだった。
ぺぺちゃんは困った顔で必死に光るものを指差し、両手を振りながら何かを叫んだ。最後には地団駄を踏むように地面を蹴った。
多喜二は光るものが気になった。
——水? 水面かも。
坂を下りようとした時、ぺぺちゃんが短く叫び、多喜二の腰にしがみついた。その瞳が大きく見開かれ、小刻みに揺れている。そして首から下げていたペンダントをきゅっと握りしめた。
多喜二は再びドキッとする。腰に回された手の感触が生々しかった。
一瞬固まってしまう。深呼吸してたかぶる心を落ち着かせた。
頭を振って冷静に考え直す。確かめるにしても準備が必要だ。
ひとまず戻ることに決めた。
神殿に戻ると前の広場は大勢の村人で賑わっていた。肉が火で炙られ、香ばしい匂いが漂っていた。倒した四本ツノを解体しているのだ。夜通し行っていたのだろう。眠たげにあくびをする村人が見えた。
それをマスターとマッチョと若い神官が見守っている。
ぺぺちゃんは多喜二に何かを言い、村人たちの手伝いに向かった。
多喜二は手を振って見送った。
血なまぐさい空気の中、多喜二はマスターとマッチョに「おはよう」と声をかけた。
「バンダナくん、どうやら我々が倒した四本ツノは我々の栄養になるらしいぞ」
マスターがしかめ面で言う。
「俺の筋肉はタンパク質を求めているが、こいつは食べる気にはなれないな」
顔が曇るマッチョ。
「こいつ、人を喰った奴ですもんね。寄生虫とか絶対やばいっす」
と返した多喜二の腹がグーと鳴る。
「背に腹はかえられぬという奴だな、しっかり焼けば大丈夫!」
マッチョも空腹には耐えられないという顔をしていた。
「夜勤のコンビニで賞味期限切れの弁当は大丈夫だった」
マスターはなぜか自信満々だった。
「それ横領っす」
多喜二はツッコミを入れる。
「……勇剛だったら何て言うかな?」
マッチョが遠くを見つめて言った。
——命を、無駄にするな……
三人は顔を見合わせる。
勇剛の声でそう再生された気がした。
焦げた肉の香ばしい匂いが漂ってきていた。
ほどなくして骨付きの大ぶりなステーキとなった四本ツノの肉が、三人の前に差し出される。
肉を口に入れると、獣の臭みが鼻を突く。東京なら一口で吐き出していた。
しかし、今はその硬い筋繊維を夢中で噛みちぎっていた。噛むたびに、飲み込むたびに、腹の底から熱が込み上げてくる。
「勇剛にも食べさせたかったなあ」
マスターがしみじみ言った。
「今頃、家でまともなご飯食べてますよ」
多喜二は即座に否定する。
「ゆっくりよく噛んで食べないと、消化に良くないよ!」
マッチョが肉にかぶりついた。
噛むたびに、飲み込むたびに力が漲ってくるのを感じた。
三人は貪るように四本ツノのステーキを平らげていくのだった。
肉を頬張りながら、多喜二は枯れた森に光ったものの正体が気になった。
恐怖に染まったぺぺちゃんの瞳。その奥に、何かを必死に訴える光があった。
——何かある。
物語はまた動き出そうとしていた。
厚い雲はかかっているが、雲間から覗く月が窓を照らしていた。
粗末な毛布にくるまって横になる三人。久しぶりに、安心して眠れる夜だった。
疲労と空腹で体は重いはずなのに、三人の目は冴えていた。
「マスターさんのメイス投げ! すごかった!」
マッチョはまだ興奮していた。
「ほんとに今日のMVPっすよ!」
多喜二はそれに続けた。冴えない中年だと見下していた相手が、あの状況で自ら囮になったのだ。
「お腹はもう大丈夫っすか?」
マスターは聞いていたのか、聞いていないのか。
「あの村娘、可愛かったなあ」
マスターはにやにやと笑った。
多喜二は芽生えかけた尊敬の念を即座に消し去り、踵をマスターの腹部にめり込ませた。
「いってえなー!」
マスターはすかさずその足を取ると、アキレス腱固めを極めた。
「ギブギブッ!」
悶絶する多喜二。
翌朝、村娘が起こしに来た時、三人は鼾をかいて眠っていた。
窓の外には優しい朝の日差し。風も爽やかだった。
顔を洗ってきたのだろう。くすりと笑う顔は明るく輝いている。
トレイに木のコップが乗っている。湯気の立つコップをトレイから取り出し、そっとテーブルに置いて出て行こうとする村娘。お茶のような香りが漂った。
多喜二がはっと目を覚ますと、出て行こうとする村娘と目が合った。
待ってというように慌てて手を上げ、手招きをした。
気になることがあった。ノートとペンを取り出し、井戸の絵を描いた。すぐに伝わったようだ。連れていって欲しいと身振り手振りで頼むと、コクンと頷く。
その仕草ひとつに、多喜二の胸が高鳴った。
娘はコップを差し出した。茶色に濁っていたが、口をつけると何かのお茶のような風味がした。乾いた喉が潤う。どことなく土っぽさが残るが、構わず一気に飲み干した。
水の確保はどうなっているのだろうと気になった。
井戸は神殿の裏の階段を降りたところにあった。井戸の周囲には、四本ツノの巨大な足跡が深く残っていた。
爪痕が井戸の櫓の柱にえぐり込まれ、そこには乾いた血痕がこびりついていた。
多喜二は自分が昨日まで、この獣がいた場所のすぐそばで彷徨っていた事実に気づき、背筋が冷たくなった。
井戸の水を滑車で汲み上げると、桶には泥を含んだ濁水が満ちた。おそらく旱魃で地下水が細り、人の手入れもできなかったのだろう。
多喜二が顔を上げると、娘がじっとこちらを見ていた。
目が合うと娘の頬が赤みを帯びた。
取り敢えず簡単な浄水器を作ることにして、他にも水源を探さなければと考えを巡らす。その前に娘の名前を聞いておこうと思った。
多喜二は、自分の胸に手を当てて「さとう たきじ」と名乗った。繰り返し名前をゆっくりと言い、手のひらを向ける。
名前と分かったようだ。娘は両手を自分の胸に当てて、
「りゃありゅうぃあちぇみゅぅ、むぁ、めぇけれぃみ、ぺぺとぅん」
とにっこり笑って言った。
「りゃ? りゅ? みゃ? ぺぺとぅん?」
娘はムスッとした顔をした。
娘はもう一度早口で名前を告げたが、最初と微妙に違って聞こえた。多喜二は頭を抱えた。
慌てながらもう一回「さとうたきじ」と名乗り、今度は娘に言わせようとした。
娘は言った。
「しゃちょお、たきひ?」
もう一回名前を繰り返す。
村娘は頷いて今度は、はっきりと言った。
「サツキトトロ?」
思わず項垂れる。諦めて「バンダナ」と名乗ると娘の顔がぱっと輝いた。
「オー、バンダナッ」
はーとため息をつき、それでいいよと首を垂れる。
今度は娘に手を向け「ぺぺちゃん」と呼んでみた。
娘は少し驚いた顔をして、にっこり笑って頷いた。
どうやら「ぺぺちゃん」で良いらしかった。
多喜二はノートに木と湧水と小川の絵を描いた。絵を描くたびに現地語で名詞を確認しようとしたが、日本語にない発音が舌の上で転がらなかった
。
多喜二は息を吐き、ペンを握り直した。言葉より絵の方が確実だった。
絵を見たぺぺちゃんの目が、一瞬だけ翳った。悲しそうに首を振ると、早口で何かをまくし立て——そのまま多喜二の手を取って駆け出した。
「ぺ、ぺぺちゃん?」
驚いて声を上げる。
そのほっそりとした手は意外なほど力強かった。温もりが胸の奥にまで染み込んでくる。
その瞬間、脳裏に中学の卒業式前日がよみがえった。
幼い頃、近所に越してきた同い年のミィちゃん。
子どもの頃はこんな風に手を取り合って、公園を駆け回っていたものだった。
中学に上がると、ミィちゃんは奇跡の進化を遂げた。その頃にはもう顔を合わすことはなくなっていた。
卒業式の前日、勇気を振り絞り告白した。
ミィちゃんは一瞬、驚いた表情をして、冷たく「キモ」と言って逃げていった。
(キモ、キモ、キモ……)
目の前が真っ暗になった。
その言葉は今も夢に出てくる。
それは失恋というには、あまりにも残酷な拒絶だった。
それ以来、ミィちゃんとは会っていない。
ぺぺちゃんの手の温もりが、あの日の「キモ」を少しずつ溶かしていくようだった。
枯れた木々の間を駆け抜け、廃墟のような小屋が立ち並ぶ一角を通り抜け、坂を登り切ると、眼下に枯れた森が広がった。
はぁはぁと息が切れる多喜二。
ぺぺちゃんは森を指差し、早口でまくし立てる。
かつては緑に覆われた森だったのだろう。いまは、黒々とした枝だけが風に揺れている。
そのとき、多喜二は枯れた木々の間に何か光るものを見つけた。
——何かが反射している。
ぺぺちゃんにその方向を指差して尋ねる。ぺぺちゃんもまた、多喜二が光に気づいたことを悟ったようだった。
ぺぺちゃんは困った顔で必死に光るものを指差し、両手を振りながら何かを叫んだ。最後には地団駄を踏むように地面を蹴った。
多喜二は光るものが気になった。
——水? 水面かも。
坂を下りようとした時、ぺぺちゃんが短く叫び、多喜二の腰にしがみついた。その瞳が大きく見開かれ、小刻みに揺れている。そして首から下げていたペンダントをきゅっと握りしめた。
多喜二は再びドキッとする。腰に回された手の感触が生々しかった。
一瞬固まってしまう。深呼吸してたかぶる心を落ち着かせた。
頭を振って冷静に考え直す。確かめるにしても準備が必要だ。
ひとまず戻ることに決めた。
神殿に戻ると前の広場は大勢の村人で賑わっていた。肉が火で炙られ、香ばしい匂いが漂っていた。倒した四本ツノを解体しているのだ。夜通し行っていたのだろう。眠たげにあくびをする村人が見えた。
それをマスターとマッチョと若い神官が見守っている。
ぺぺちゃんは多喜二に何かを言い、村人たちの手伝いに向かった。
多喜二は手を振って見送った。
血なまぐさい空気の中、多喜二はマスターとマッチョに「おはよう」と声をかけた。
「バンダナくん、どうやら我々が倒した四本ツノは我々の栄養になるらしいぞ」
マスターがしかめ面で言う。
「俺の筋肉はタンパク質を求めているが、こいつは食べる気にはなれないな」
顔が曇るマッチョ。
「こいつ、人を喰った奴ですもんね。寄生虫とか絶対やばいっす」
と返した多喜二の腹がグーと鳴る。
「背に腹はかえられぬという奴だな、しっかり焼けば大丈夫!」
マッチョも空腹には耐えられないという顔をしていた。
「夜勤のコンビニで賞味期限切れの弁当は大丈夫だった」
マスターはなぜか自信満々だった。
「それ横領っす」
多喜二はツッコミを入れる。
「……勇剛だったら何て言うかな?」
マッチョが遠くを見つめて言った。
——命を、無駄にするな……
三人は顔を見合わせる。
勇剛の声でそう再生された気がした。
焦げた肉の香ばしい匂いが漂ってきていた。
ほどなくして骨付きの大ぶりなステーキとなった四本ツノの肉が、三人の前に差し出される。
肉を口に入れると、獣の臭みが鼻を突く。東京なら一口で吐き出していた。
しかし、今はその硬い筋繊維を夢中で噛みちぎっていた。噛むたびに、飲み込むたびに、腹の底から熱が込み上げてくる。
「勇剛にも食べさせたかったなあ」
マスターがしみじみ言った。
「今頃、家でまともなご飯食べてますよ」
多喜二は即座に否定する。
「ゆっくりよく噛んで食べないと、消化に良くないよ!」
マッチョが肉にかぶりついた。
噛むたびに、飲み込むたびに力が漲ってくるのを感じた。
三人は貪るように四本ツノのステーキを平らげていくのだった。
肉を頬張りながら、多喜二は枯れた森に光ったものの正体が気になった。
恐怖に染まったぺぺちゃんの瞳。その奥に、何かを必死に訴える光があった。
——何かある。
物語はまた動き出そうとしていた。
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