食人貴に肉を捧げよ

葉咲透織

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夜の学校

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「あっ!」



 風呂から上がって、午後九時。宿題をするのに机に向かっていた貢の集中力は、同室者の叫び声によってかき消された。



 またか。



 入学以来、寮でも学校でも、何度こんなシチュエーションがあっただろうか。四月が終わろうとしている現在、貢はすっかり、文也のお世話係として定着している。同級生だけじゃなく、教師まで何かあったら文也本人ではなく、貢のところに念押しにやってくるのだから、頭が痛い。



 しかも文也は、こちらが声をかけるまで、本題を話さない。「どうしよう、どうしよう」とブツブツ呟くばかりで、自分から何に困っているのか、貢に何をしてほしいのかを言わないのだ。



 いい友達になれそうだと思ったが、こうも続くと、さすがに。



 溜息をついて、「どした?」と、努めて軽さを前面に押し出した。深刻にならないように、自分のうんざりした気持ちが文也に悟られることのないように、笑みを唇に浮かべた状態で、文也に向き直る。



「明日提出の宿題、学校に忘れてきた……」



 もっと早くに気がついていれば取りに行けただろうに、この時間になるまで宿題のことを忘れていたのだから、救いようがない。さすがに助けることができないと判断した貢は、



「諦めて先生に怒られたら?」



 と、軽口を叩いた。ここから始まる、文也のデモデモダッテ。



「でも僕、忘れ物しすぎててこれ以上やるとまずいんだ」



 じゃあ、明日の朝早くに登校して、授業が始まる前にやればいいと言えば、



「起きれないよぉ……それに、何分かかるかわかんないし」



 と来た。



「今度忘れたら、留年させるぞって言われてるんだ。貢、どうしよう?」

「どうしようったって……」



 うるせーしらねー、を通すことができるほど、貢も薄情ではない。ただ、彼を救いだてる手が見つからないだけであった。



 文也は困惑する貢に両手を合わせた。



「お願い! 宿題取りにいくの、ついてきて!」





「夜の学校って、やっぱりちょっと暗くてドキドキするね」



 怖いからついてきてほしいと揺さぶられて懇願され、貢は渋々、文也に付き従った。



「うちの学校、そういえば頻繁に清掃業者が来るよね。きれいな校舎だから、あんまり怖くないかも!」



 まったく、半泣きだったくせに、都合のいい奴だ。なんとなくウキウキした様子でキョロキョロとあたりを見回す文也に呆れ、貢は促した。



「取りに行っても時間なくてやれませんでした、じゃ意味ないんだからな。とっとと行って、帰ってくるぞ」



 うんうん、と頷いている文也に、本当にこいつはわかっているのか? と思う。結局明日の朝になって、「どうしよう! 終わらなかった!」と、泣きついてくるんじゃないだろうか。あいにく、B組とは教科担任が異なっているため、宿題を見せてやることもできないし、代わりにやってやるほど、貢のおつむの出来もよくない。



 それでもなんだかんだ言って、手助けをしようとしてしまう数時間後の自分の姿がはっきりと脳裏をよぎり、溜息をついた。



 寮は学校の敷地内にある。ほとんど全校生徒が暮らしているため、校舎よりも大きく立派な建物である。程よく田舎であるとはいえ、こんなに広大な学園をよく作り上げたものだと感心していたが、圭一郎から聞いたノブレスォーガという社会的成功者たちの寄付によって賄われていると思ったら、すんなり納得した。



 外の世界に繋がる門はすでに閉ざされている。コンビニに行ったりはできないが、門の内側にある学校へは、実は夜でも申請をすれば入ることができるのだと、今日初めて知った。



 変なの。まぁ、用事がなければ三年間、夜の学校なんて寄りつかずに終わるだけだし、いいか。



 校舎は二十四時間体制で警備員がついていて、これから向かうのはその詰め所だった。そこで許可をもらい、初めて足を踏み入れることができる。



「すいませーん。教室に忘れ物をしたので、取りにいきたいんですけどぉ」



 間延びした声に、「はいはい」と対応してくれたのは髪の長い警備員だった。特に咎められることなく、記録ノートにクラスと名前、それから現在時刻を書いて終了だ。それにしても、ずいぶんとあっさり許可が下りるものだ。よくない目的に使用されることを、考えていないのか。



 例えばいじめだとか、それからカップルがいちゃいちゃするのに使ったりだとか。ありえない話ではない。



 貢の訝しむ視線を感じ取ったのか、警備員は目を細め、制服の帽子を目深にかぶり直した。日も落ちているのに、律儀なことである。



「それじゃあ、いってらっしゃい」



 どうか無事で――……。



「え?」

「どうしたの、貢。早く行って帰ってきて、おやつ食べようよ」



 警備員が不吉な言葉を囁いたような気がしたが、文也に変わった様子はない。空耳らしい。それにしては、はっきりと聞こえたが。



 首を捻りつつも「おう」と言いかけて、「いや、おやつじゃなくて宿題だろ!?」と、ツッコミに余念のない貢であった。





 学校の灯りは消されていて暗かった。一歩足を踏み入れた瞬間、貢ですら「うお」とこぼしてしまったほどである。ドキドキするね、なんて言っていた文也はといえば、完全にビビッてしまっていて、貢の背中にピタッと貼りついている。



「おい、文也。歩けないからやめろって」



 幸い、一年の教室は一階だ。それほど時間もかからずに行って帰ってこられる。



 上靴に履き替えるのも面倒で、靴を脱いで裸足で上がった。学校の廊下は、フローリングの板張りとは違うひんやり感があって、なんとなくゾッとした。



 今日の月は細く頼りない。ポケットからスマホを取り出して、ライトを点灯させる。普段見慣れている明るさの画面に安堵して、貢たちは静かに歩き出した。



 許可を得ているのだから、堂々と真ん中を歩いたって構わないのに、やはり後ろめたい気持ちはどこか拭えず、端を行くふたり。相変わらず文也は、目を開けるのも怖いようで、貢の肩を掴んでいる。存外に力が強く、何度か呻き声を上げた。そうすると、文也が「何の音?」と怯えて、さらに力を加えられるという悪循環になっていた。



 昼間の倍以上の時間をかけて、一年B組の教室にたどり着いた。



「おい。着いたぞ。おーい」



 さすがに机の中を漁るのは自分でやってほしい。暗い中、どれも全部同じ机から、文也の席を見分けるのも大変だし、自分のスマホくらいあるだろうに。



「ほら、行こうぜ」

「う、うん」



 こわごわとスマホを取り出し、ライトをつけた。光源がふたつになると明るくなって、恐怖も軽減されたらしく、迷いなく自席に向かった文也は、がさごそと机の中を手探りする。明らかに宿題のプリント一枚ではない音がして、「とりあえず全部持ってこいって」と、声をかけた。



「帰ってから仕分ければいいだろ」



 なるほどね、と笑った文也に「本当にこいつは」と苛立ちつつも、やっぱり憎めない。



 和やかな雰囲気が夜の教室に流れたその瞬間だった。



 ――カツン、カツン。



「!」

「え……今の、何の音?」



 文也の耳にも届いたらしい。聞き間違いなんかじゃない。誰かの足音だ。上靴でリノリウムの床を叩いている。



「お、オバケ……?」



 幽霊には脚がない。



「でも、妖怪なら?」



 そっちは脚がありそうだ。いや、そんな非現実的なこと、あってたまるか。



 抱き着いて離れない文也は、貢のことを楯にする形で背後についている。文句を言って口論になれば、この教室に自分たちがいることを、廊下の謎の存在に知らしめることになる。だから黙って、ドアを睨みつけていた。



 大丈夫。外は暗い。スマホの灯りも消した。静かにしていれば、やり過ごせるはずだ。



 心臓がうるさいのは、区別がつかなくなるほど、緊張していた。少ない光源によって薄く立ち現れた影は人間の形をしていて、扉についたガラス窓から覗き込む。



 もう駄目だ。



 ぎゅっと目を瞑る。腕を掴む文也の手の力が増した。痛いと思う間もなく、



「あれ? 君たち、どうしたんだい?」



 と、聞き覚えのある声がした。



 恐る恐る目を開ける。閉ざした視界の闇でだいぶ慣れたのか、貢はやってきたのが幽霊でも妖怪でもないことに、すぐ気がついた。



「……広岡先輩?」



 疑問符をつけたのは、いつもと印象が違ったせいだ。なぜだろう。普段から、あまり人の顔に興味がないせいか、原因がわからない。



 寮長の広岡は、笑っていた。彼は腹に大きなリュックを抱えていた。広岡も忘れ物を取りにきていたらしいが、ずいぶんと大きい。



 噴き出していた汗が、一気に冷えていく。増幅していた鼓動が落ち着いた頃、ようやく事態を理解した文也が、貢の後ろから出てきた。



「なんだ。寮長だったんですか」



 先ほどまで怯えて泣きそうになっていたというのに、彼はけろっとしている。唇には笑みを浮かべて、広岡に近づいた。



「……俺は文也の付き添いです。宿題忘れたって」

「今度宿題忘れたら、通知表の成績を1にするって言われたんですよぉ」



 教師の横暴だと訴えるが、まだ入学したばかりの高校でそれほどまでのことを言わせるに値するポカをやらかしている文也の自業自得である。



 呆れた溜息をつく貢には、「君も大変だな」という苦笑を向け、広岡はそれから、文也に向き直った。



 おそらくここで自分の方に話しかけなかったのは、文也の方が懐柔しやすいと思ったからに違いない。



「ねぇ、せっかくこんなところで会ったんだからさ……肝試しをしないか?」



 暗い光を湛えている、彼の目。



 そんな気がして、貢は身構えた。もちろん断ろうとした。せっかくのお誘いですが、文也はここまでのほんの少しの距離でもビビッてたんで、俺らは帰ります。それに宿題もやらなきゃいけない。



 すらすらと理由を述べる自信はあった。



 だが、味方だと思っていた人間に背後から撃たれることは、決してありえないことではないのだ。



「えっ、肝試し!? 行きたいです!」



 興奮した口調に、彼の世話係を自他ともに認める貢は、さすがに引きつる。



「お前なあ……あんだけ怖がってたくせに、何言ってんだよ」



 小突く素振りをみせると、えへへ、と笑う。



「だってさぁ。こんな機会、二度とないかもしれないんだよ? 先輩っていう強い味方もいるしさ。行ってみない?」



 文也がもしも、年の離れた弟であったのならば、貢は全力で止めた。いい悪い、危険安全の分別がついていない子どもには、問答無用で禁止を言い渡し、連れ帰る方がいい。



 彼は弟でもないし、小学校低学年でもない。同い年の男子高校生だ。少しは考える頭もあるし、自分の言動の責任は自分でとれるだろう。



 貢は、高校に入ってから各段に増えた溜息を吐き出しながら、言った。



「帰ったらすぐに宿題やるんだぞ」



 かけたセリフは、まるっきり小学生相手にするようなものであった。







 広岡の先導で、貢たちは夜の学校を徘徊する。



 燭仁学園高校の校舎は、コの字を描くように作られている。東側には一般教室があり、西側には特別授業で使用する教室があった。特に実験や調理実習なども行っていないため、貢たちは入学式の後の校舎案内のときしか、西棟には足を踏み入れていない。



 自分たちのクラスの教室ですら、闇に包まれていると見慣れないものになり、恐怖を覚える。いわんや、特別教室をや。



 しっかりと戸締りはされているに違いないが、なんとなく独特な臭いが廊下に残っているように感じる。



 理科室の薬品の刺激臭、技術工作室の木くずの匂い。それから、人間の本能に「危険だ」と訴えかけてくるような何か。



「理科室といえば、人体模型が……」

「うわーっ、ベタな怪談ですねぇ」



 前を歩くふたりが、学校の七不思議あるあるで盛り上がっている中で、貢はこの臭いがなんなのか、ぼんやりと考えていた。それは徐々に濃くなっていく。たった今、その香りのする香水をぶちまけたみたいな。



「明日真、どうした?」



 振り返る広岡の姿に、違和感を覚える。



 どうしてこの人は、リュックを前に回したままで歩いているのか。背負った方がラクなのは明らかだし、そもそもそういう持ち運び方をする用途で作られているのに、それを無視しているのは、なぜだ。



 返事をしない貢を心配して、文也が駆け寄ってくる。



「大丈夫? 具合でも悪い?」



 心配をかけるわけにはいかないと、貢は首を横に振り、歩みを進めた。



 広岡の最終目的地は、調理室であった。部活というものがなぜか存在しない燭仁学園では、授業でしか使わない教室である。



「調理室って、あんまり怪談ないですよね」



 文也の話に、貢も頷いた。理科室の人体模型やホルマリン漬けの人間の胎児、音楽室のバッハやベートーベンの絵画やひとりでに演奏されるピアノ、技術工作室で誤って切り落とされた手首など、学校の怪談は枚挙にいとまがないが、ある程度似たり寄ったりなものばかりなのも事実である。



 その中に、家庭科室や調理室にまつわる有名な話があったかというと、思い浮かばない。リアルな噂話はもちろん、それでも図書室で読んだその手の本の中にも、なかったんじゃないかと思う。



「理科室や音楽室みたいにいかにも動いたり発光したりしそうなものが飾ってあるわけじゃないし、技術室みたいに使い慣れない危険な道具が置いてあるわけじゃないからな。包丁とか、家にだってあるし」

「あ、言われてみればそうだね。さすが貢、あったまいい!」

「それに、調理実習ってみんなでワイワイやるもんだろ? 幽霊とかも寄り付かなさそう」



 転校続きであったせいで、タイミングを逸することもあったが、貢にも実習経験はある。男子が真面目にやらないと女子が激怒したり、レシピ通りに作っているはずなのになぜか美味しくなかったりと、いろんなハプニング込みで記憶に残りやすい授業であった。



「早く高校でもやりたいね、調理実習」

「お前は食いたいだけだろ」



 貢のツッコミに、文也は「あはは」と笑って頭を掻いた。



 和やかに話をしていたら、前にいた広岡が、ぼそりと告げる。



「そんなに調理実習がしたいなら、今からしよう」



 と。



「は? 何言って……」



 反応が早いのは、いつだって貢だ。文也は言われた言葉を受け止めるのと理解するのにタイムラグがあり、ぽかんと間抜け面をさらしている。



 広岡は、調理室の扉を開けた。



 待て、なぜ開くんだ? 特別教室は普通、毎日放課後、鍵がかけられるものでは? 火元もあるし、刃物もある。外部から侵入者がやってきて、籠城されると一般教室よりもまずいから、防犯のためだ。



 ドアが開いたことによって、調理室の中の空気と廊下の空気が混ざり合う。独特な、あの嫌な臭いが、強く鼻を刺す。



 いったいこの臭いはなんだ?



 不気味さに強張る貢とは違い、文也は何も感じていないらしい。鍵がかかっていなかったことについても、特に疑問を抱いた様子はない。暗闇を覗き込もうと一歩踏み出す。



 待て、と止める暇もなかった。仕方なく付き合う貢の背後から、カチリ、小さな音がやけに大きく響く。



 驚き振り返ると、広岡が立っている。相変わらず、リュックは腹に回したままだ。



「先輩?」



 非常灯のない教室は、かなり暗い。目を凝らさないと、お互いの表情も見えないほどである。だが、なぜか貢にはわかった。



 広岡は、笑っている。



 不気味な雰囲気に、貢はサッと距離を取る。二歩、三歩と後ずさる。



「調理実習に必要なものってなんだと思う?」



 文也は鈍感で素直なので、えーっと、と考え始めた。



「鍋、包丁、フライパン……」



 たいていのものは、調理室に揃っている。けれどここには、最も重要なものがない。



 いや……ある?



 じりじりと広岡から目を離さずに逃げていた。だだっ広いわけではないからすぐに壁に到達するかと思いきや、その手前で何か柔らかいものを踏んだ。



 なんだ? と振り返るために、広岡から視線を外した。彼は笑いを含んだ声で言う。



「食材だよ」



 そう、何よりも調理に必要な食材は、今この場に存在しないはずだ。けれど今、足の下にある柔らかいものの正体に、貢は凍りつく。



 肉だ。俺は今、何らかの肉を踏んでいる。ナマの、未調理の、違う!



「コレ」は肉に違いないが、食材ではない!



「文也!」



 遅かった。彼が貢の呼びかけに反応した文也の首から噴き出した液体を、貢は頭から浴びた。



 ずっと感じていた、おぞましい臭いの源に、今さらながら気がついた。



 血だ。ずっと、血液の臭いがしていたのだ。無防備に開けっ放しであった口の中に、文也の身体の中で今まで温められていた赤い液体が入り込んできて、カッと貢の身体が燃えた。



「え……えっ?」



 貢にははっきりと見えた。ドジで、馬鹿で、なのにちっとも憎めなくて思わず手を差し伸べてしまう友人が、わけのわからないままに絶命する、その顔が。スマホのライトも、窓から差し込む月光もないのに、突然視界がクリアになり、昼間であるかのように視える。



 友を殺した男は、嘲笑っていた。



「いやぁ。今日は大猟大猟。まさかひとり仕留めたあとで、ウサギが二匹ものこのこやってくるなんて」



 やはり、自分の足元にいるのも死体で、広岡が殺したのだ。教室の前で自分たちと出くわす前に、この調理室の中で。



「ウサギ?」



 ここで死んでいる何某や貢たちのことを指す符丁に違いない。どういう意味なのか尋ねたところで、広岡は応えてはくれないだろう。



 ――ウサギは二匹。彼の次の獲物は、俺だ。




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