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ユリウスの力に集ってくる悪質な連中を遠ざけるのに、養親は苦労していた。何度断っても、「ヒトじゃないんだから」と主張して、再訪する人間は後を絶たない。
「だから言ってるじゃない! あたし、あんな子いらないの!」
中でも悪質だったのは、自分の産んだ子どもを金に変えてしまおうと企んだ女だった。
森を歩くにふさわしくない華美な服の胸元は、大きく露わになっており、たわわな乳房が溢れんばかりだった。
ユリウスは来訪時に顔を合わせただけだったが、「教育によくない」と判断したアメリアによって、遠ざけられていた。
それでも、居間で交わされる会話は自分に関係することで、無視するのも気分がよくない。こっそりと入り口付近に立ち、聞き耳を立てた。
このとき、ユリウスはまだ七つ。女が「娼婦上がり」だと聞いても、何のことだかわからなかった。最初の来訪時、女が帰ったあとにアメリアに聞いても、「あんたはまだ知らなくていいの!」と、なぜか怒られた。
女は何度も何度もやってきた。最初は自分ひとりでやってきた。子どもは泣いて喚いて、森に入る頃にはぐったりと疲れてしまうから、了承が得られたら、連れてくるつもりでいたらしい。
頑として首を縦に振らないデニスたちに痺れを切らして、女は子どもを連れてくるようになった。まだ二つの男の子。立って歩いてはいるものの、すぐに疲れたとぐずっては、母に抱っこしてほしいとねだる、ごく普通の子どもだった。
連れて来さえすれば、事故を装って触れさせることもできるだろう。
そんな女の考えを、デニスたちは看破しており、怒り狂った。追い出そうと奮闘していたが、ユリウスがその子を見つけたのを、女は見逃さなかった。
ユリウスが、自分よりも小さい子どもを見たのは、そのときが初めてだった。
どこもかしこも柔らかそうで、特に薔薇色の頬は、ふくふくしていた。焼きたてのパンみたいにむちむちした手を、自分に向けて一生懸命ににぎにぎしている。
言葉は遅いらしく、単語をひとつふたつ発するだけで、しかもユリウスにはよくわからなかった。
「ほら。この子、可愛いでしょう?」
子どもに釘づけになったユリウスに、彼女は満足そうだった。デニスたちを横目に見つつ、鼻で笑う。
「遊んでくれるかしら? この子の名前はアンジェロ。ついでにあたしは、ルイザよ」
「アンジェロ……」
天使を意味する名前は、まさしく天真爛漫に手を伸ばしてくる子どもに、ぴったりだった。ユリウスをまっすぐに見つめて、ずっとニコニコ笑ってご機嫌だ。
思わず、その頬に触れたいと右手を伸ばしてしまい、手首に下げた鈴の音にハッとした。
自分から触れてみたいという気持ちになったのは、初めてのことだった。
柔らかそうで、きっと頬を突いたら、一瞬驚いた顔をして、きゃっきゃと笑うだろう。
触りたい。でも、触ったらこの子どもは金に変わってしまう。
葛藤するユリウスを、ルイザはにやにやと笑いながら唆す。
「いいのよ。触っても。むしろ、あなたに触ってもらいたくて連れてきてるんだから」
彼女の唇が、奇妙な形に歪む。真っ赤な唇だけが浮いているように見えて、ぞっとした。ソファに座ってにこにこしていたアンジェロは、母親のそんな顔を見て、途端に顔を曇らせ、「ふえぇ……」と、泣き始める。
ルイザはあやして泣き止ませるでもなく、憎らしいものを見る目つきで、自分の息子を見下げた。代わりにアメリアが抱っこして、身体を揺らす。
「本当、可愛くないったら。この子が女の子だったら、まだよかったのに」
アンジェロは、ルイザとレタリアの大商会・ヴァリーノ家の当主との間に生まれた子どもだった。とはいえ、彼女は愛人である。アンジェロの上には男の子ばかり三人、正妻との間に子どもがいる。
赤ん坊を身ごもったときには、娼館から買い上げられて、安泰な暮らしになると思った。ヴァリーノの妻は懐の広い女で、ルイザの存在や子どものことを聞いても、動じたりしなかった。
一軒家をあてがわれて満足していたが、すぐに物足りなくなった。欲望は、一度満たせばよいものではない。際限なく沸き上がり、ルイザはいろいろなものを渇望した。
しかし、主人は冷静であった。大金をつぎこむべき勘所を押さえ、それ以外は倹約をする生活が、沁みついている。
こんなことなら娼館で、いろいろな男から貢がれる生活の方がよかった。
元に戻るわけにはいかないルイザは、腹の中の子に賭けた。この子に財産が渡るように、旦那にも働きかけたが、彼は愛情深い父親という以上に、冷徹な商売人でもある。
すでに優秀な息子が三人もいる状態で、まだ海のものとも山のものとも知れぬ赤子に、本格的に家を継がせる理由はない。もちろん、ルイザにも子どもにも、不自由なく暮らせるだけのことはするつもりだが……。
と、面と向かって断られたルイザだが、出産前は、希望を捨てていなかった。
女であれば、息子しかいないヴァリーノも、溺愛するにちがいない。それに、女はいずれ嫁ぐ。ヴァリーノ商会のご令嬢となれば、相手も富豪に決まっている。ルイザは母親として、嫁ぎ先についていけばよい。
思惑は外れる。結局、腹の子は男児だった。四男の誕生をヴァリーノ一家は喜んだが、ルイザはいよいよ、赤ん坊への興味を一切なくした。それどころか、どんどん疎んじるようになった。
私はまだ若い。高級娼館では売れっ子だった。ヴァリーノ以上の家の男に見初められ、もっと高みに昇ることができる。
そう、こんな子どもさえいなければ、別の場所でやり直すことができる。
アメリアは、「子どもの前でなんて話を!」と激怒した。ユリウスを引き離そうとしたが、アンジェロの傍を離れたがらなかった。それまでわがままを言ったことはほとんどなかったのに、「いやだ」と主張をした。
ユリウスの関心はすべて、アンジェロに注がれていた。その母のことは、はっきり言って嫌いだった。細心の注意を払い、絶対に右手が触れないようにしながら、一生懸命に話しかけた。
「ゆー?」
「違うよ。ユ・リ・ウ・ス! ほら、もう一回言ってみて」
舌足らずな幼子相手に、どうにかして名前を呼んでもらいたくて、ユリウスは根気よく教え込んだ。途中でぐずって泣き出すかと思いきや、アンジェロは嫌がらなかった。
むしろ、ずっとユリウスが自分に話しかけることで、機嫌よく笑っている。
仲のいい兄弟にしか見えない自分たちを、デニスたちは複雑な表情で見守っていた。ルイザはといえば、こんな森にずっといたら、虫に刺されたり草でかぶれてしまう、と、アンジェロを置いて街に戻ってしまった。十日後に、再び来ると言う。
「そのときには、ね……?」
ユリウスは、ルイザの語った身の上話を半分も理解していなかった。妾だの娼婦だの、森での生活にはまるで必要のない知識である。
それでも、彼女がよからぬことを考えていることや、アンジェロにまるで愛情を抱いていないということだけは、わかった。
「ゆーり、ゆり……うす、ユリウス!」
練習を経て、ようやくユリウスの名前を明瞭に発音できるようになったアンジェロに、ユリウスは深く感動し、頬を綻ばせた。左の手で撫でた黒髪は、ほわりと柔らかな感触を伝えてくる。
全身くまなくくすぐって、抱き締めてあげたら、アンジェロはどんな顔をするのだろう。
十日間の暮らしの中で、アンジェロはすっかり森の小屋暮らしに順応していた。最初から、四人家族であったかのように。
泣き出したアンジェロを、アメリアは抱き上げる。自分が産んだ子ではないのに、彼女の母性は溢れんばかりに、アンジェロを慈しむ。
うらやましいと思った。本当は全部、アンジェロの世話は自分でしてあげたい。呪われた右手が疎ましい。母や乳母を黄金に変えてしまったときよりも、アンジェロに触れられない今の方が、より一層、呪い子として生まれた己を忌まわしく感じる。
そして約束の日。
ルイザは午後になってからやってきた。先日とは違う、豪華なドレスを身に纏っていた。荷物もたくさん抱えていて、おそらく、まっすぐ別の土地に旅立つ算段でいる。資金はもちろん、黄金に変わったアンジェロだ。
当然、デニスたちは許可しなかった。
「そんなにこの子がいらないと言うのなら、うちで世話をしますから、どうぞ置いていってくださって構いません」
すっかりアンジェロに情の移っていたアメリアは、毅然と対応した。慎ましい生活をしていれば、子どもを二人育てることくらいはできる。
だが、ルイザはこれ幸いと乗ってはこなかった。アメリアを見下げて、
「あら。無料で子どもをあげられるとでも?」
などと言い、金貨五百枚を要求した。さすがにそんな金はなく、アメリアは言葉に詰まった。
「可愛い可愛い我が子をさしあげるんだもの、それ相応のお値段で買ってもらわないと。ねぇ?」
猫なで声とともに、ルイザはユリウスを見た。
ああ、この女は駄目だ。
幼心に、そう思った。
こんな女と暮らしても、アンジェロは幸せになれない。ここでユリウスが彼に触れなくても、いずれこの女に、愛しいアンジェロは、殺されてしまう。
そんなの、絶対に嫌だ。
「おばさん」
黙っていたユリウスが声をかけると、ルイザは「おばさん」呼ばわりに頬をひきつらせつつも、「何かしら?」と応じた。
「触ってあげてもいいよ」
「ユリウス!」
突然の申し出に、デニスが鋭い声を飛ばした。アメリアは顔面蒼白になり、口元を手で覆った。まさか、ユリウスがそんなことを言い出すとは思っていなかったのだ。
ユリウスは二人に向かって、「ごめんなさい」と、頭を下げた。
「やめなさい、ユリウス!」
何もわからず、近づいてくるユリウスに笑いかけてくるアンジェロ。
下手に動くこともできず、足が動かないデニスとアメリア。
自分の思い通りになることを確信し、高笑いをするルイザ。
アンジェロの笑い声と、アメリアの悲鳴が響く中、ユリウスは動いた。
「え?」
ユリウスは、ルイザに体当たりをして、抱きついた。当然、右手も彼女の身体に触れる。
アンジェロに一度近づいたのは、油断させるためだった。最初からルイザのところに駆け寄った場合、非力な少年であるユリウスは、振り払われてしまう可能性があった。
ユリウスの作戦通り、ルイザはアンジェロが金に変わると思って疑っていなかった。ぽかん、と間抜けな表情を浮かべたまま、みるみるうちに彼女の身体は、金の彫像へと姿を変えていく。
「ユリウス……」
すっかり固まってしまったルイザから離れた、ユリウスの目からは、ぼろぼろと大粒の涙が零れた。
これでよかったのか。本当は、もっといい方法があったのではないか。
養親たちに、多大な迷惑をかけることが、申し訳なかった。どうして自分は、いつもいつも、誰かを傷つけることしかできないのだろう。
でも、アンジェロを守りたかった。
泣き続けるユリウスを、デニスは「大丈夫だ」と、何度も請け負った。本当は、ちっとも大丈夫なんかじゃないのに。これからのことを思うと、彼も不安で押しつぶされそうになっているに違いないのに。
「ユリウス?」
ユリウスが、自分の行動を後悔するとすれば。
「アンジェロ……ごめん。ごめんね……!」
毒婦とはいえ、ルイザはアンジェロにとっては唯一の母親だ。そんな彼女が金になってしまう光景を、目の前で見せてしまった。人ひとりを金に変えたこと以上に、そのことがユリウスにとっては、大きな罪に数えられる。
わぁわぁと泣くユリウスを見て、アンジェロも感化されたのだろう。きょとんとした表情が一気に曇り、大きな声を上げて泣き出した。
二人の、いや、四人のそれぞれに違う泣き声が、森の中に響いた。
「だから言ってるじゃない! あたし、あんな子いらないの!」
中でも悪質だったのは、自分の産んだ子どもを金に変えてしまおうと企んだ女だった。
森を歩くにふさわしくない華美な服の胸元は、大きく露わになっており、たわわな乳房が溢れんばかりだった。
ユリウスは来訪時に顔を合わせただけだったが、「教育によくない」と判断したアメリアによって、遠ざけられていた。
それでも、居間で交わされる会話は自分に関係することで、無視するのも気分がよくない。こっそりと入り口付近に立ち、聞き耳を立てた。
このとき、ユリウスはまだ七つ。女が「娼婦上がり」だと聞いても、何のことだかわからなかった。最初の来訪時、女が帰ったあとにアメリアに聞いても、「あんたはまだ知らなくていいの!」と、なぜか怒られた。
女は何度も何度もやってきた。最初は自分ひとりでやってきた。子どもは泣いて喚いて、森に入る頃にはぐったりと疲れてしまうから、了承が得られたら、連れてくるつもりでいたらしい。
頑として首を縦に振らないデニスたちに痺れを切らして、女は子どもを連れてくるようになった。まだ二つの男の子。立って歩いてはいるものの、すぐに疲れたとぐずっては、母に抱っこしてほしいとねだる、ごく普通の子どもだった。
連れて来さえすれば、事故を装って触れさせることもできるだろう。
そんな女の考えを、デニスたちは看破しており、怒り狂った。追い出そうと奮闘していたが、ユリウスがその子を見つけたのを、女は見逃さなかった。
ユリウスが、自分よりも小さい子どもを見たのは、そのときが初めてだった。
どこもかしこも柔らかそうで、特に薔薇色の頬は、ふくふくしていた。焼きたてのパンみたいにむちむちした手を、自分に向けて一生懸命ににぎにぎしている。
言葉は遅いらしく、単語をひとつふたつ発するだけで、しかもユリウスにはよくわからなかった。
「ほら。この子、可愛いでしょう?」
子どもに釘づけになったユリウスに、彼女は満足そうだった。デニスたちを横目に見つつ、鼻で笑う。
「遊んでくれるかしら? この子の名前はアンジェロ。ついでにあたしは、ルイザよ」
「アンジェロ……」
天使を意味する名前は、まさしく天真爛漫に手を伸ばしてくる子どもに、ぴったりだった。ユリウスをまっすぐに見つめて、ずっとニコニコ笑ってご機嫌だ。
思わず、その頬に触れたいと右手を伸ばしてしまい、手首に下げた鈴の音にハッとした。
自分から触れてみたいという気持ちになったのは、初めてのことだった。
柔らかそうで、きっと頬を突いたら、一瞬驚いた顔をして、きゃっきゃと笑うだろう。
触りたい。でも、触ったらこの子どもは金に変わってしまう。
葛藤するユリウスを、ルイザはにやにやと笑いながら唆す。
「いいのよ。触っても。むしろ、あなたに触ってもらいたくて連れてきてるんだから」
彼女の唇が、奇妙な形に歪む。真っ赤な唇だけが浮いているように見えて、ぞっとした。ソファに座ってにこにこしていたアンジェロは、母親のそんな顔を見て、途端に顔を曇らせ、「ふえぇ……」と、泣き始める。
ルイザはあやして泣き止ませるでもなく、憎らしいものを見る目つきで、自分の息子を見下げた。代わりにアメリアが抱っこして、身体を揺らす。
「本当、可愛くないったら。この子が女の子だったら、まだよかったのに」
アンジェロは、ルイザとレタリアの大商会・ヴァリーノ家の当主との間に生まれた子どもだった。とはいえ、彼女は愛人である。アンジェロの上には男の子ばかり三人、正妻との間に子どもがいる。
赤ん坊を身ごもったときには、娼館から買い上げられて、安泰な暮らしになると思った。ヴァリーノの妻は懐の広い女で、ルイザの存在や子どものことを聞いても、動じたりしなかった。
一軒家をあてがわれて満足していたが、すぐに物足りなくなった。欲望は、一度満たせばよいものではない。際限なく沸き上がり、ルイザはいろいろなものを渇望した。
しかし、主人は冷静であった。大金をつぎこむべき勘所を押さえ、それ以外は倹約をする生活が、沁みついている。
こんなことなら娼館で、いろいろな男から貢がれる生活の方がよかった。
元に戻るわけにはいかないルイザは、腹の中の子に賭けた。この子に財産が渡るように、旦那にも働きかけたが、彼は愛情深い父親という以上に、冷徹な商売人でもある。
すでに優秀な息子が三人もいる状態で、まだ海のものとも山のものとも知れぬ赤子に、本格的に家を継がせる理由はない。もちろん、ルイザにも子どもにも、不自由なく暮らせるだけのことはするつもりだが……。
と、面と向かって断られたルイザだが、出産前は、希望を捨てていなかった。
女であれば、息子しかいないヴァリーノも、溺愛するにちがいない。それに、女はいずれ嫁ぐ。ヴァリーノ商会のご令嬢となれば、相手も富豪に決まっている。ルイザは母親として、嫁ぎ先についていけばよい。
思惑は外れる。結局、腹の子は男児だった。四男の誕生をヴァリーノ一家は喜んだが、ルイザはいよいよ、赤ん坊への興味を一切なくした。それどころか、どんどん疎んじるようになった。
私はまだ若い。高級娼館では売れっ子だった。ヴァリーノ以上の家の男に見初められ、もっと高みに昇ることができる。
そう、こんな子どもさえいなければ、別の場所でやり直すことができる。
アメリアは、「子どもの前でなんて話を!」と激怒した。ユリウスを引き離そうとしたが、アンジェロの傍を離れたがらなかった。それまでわがままを言ったことはほとんどなかったのに、「いやだ」と主張をした。
ユリウスの関心はすべて、アンジェロに注がれていた。その母のことは、はっきり言って嫌いだった。細心の注意を払い、絶対に右手が触れないようにしながら、一生懸命に話しかけた。
「ゆー?」
「違うよ。ユ・リ・ウ・ス! ほら、もう一回言ってみて」
舌足らずな幼子相手に、どうにかして名前を呼んでもらいたくて、ユリウスは根気よく教え込んだ。途中でぐずって泣き出すかと思いきや、アンジェロは嫌がらなかった。
むしろ、ずっとユリウスが自分に話しかけることで、機嫌よく笑っている。
仲のいい兄弟にしか見えない自分たちを、デニスたちは複雑な表情で見守っていた。ルイザはといえば、こんな森にずっといたら、虫に刺されたり草でかぶれてしまう、と、アンジェロを置いて街に戻ってしまった。十日後に、再び来ると言う。
「そのときには、ね……?」
ユリウスは、ルイザの語った身の上話を半分も理解していなかった。妾だの娼婦だの、森での生活にはまるで必要のない知識である。
それでも、彼女がよからぬことを考えていることや、アンジェロにまるで愛情を抱いていないということだけは、わかった。
「ゆーり、ゆり……うす、ユリウス!」
練習を経て、ようやくユリウスの名前を明瞭に発音できるようになったアンジェロに、ユリウスは深く感動し、頬を綻ばせた。左の手で撫でた黒髪は、ほわりと柔らかな感触を伝えてくる。
全身くまなくくすぐって、抱き締めてあげたら、アンジェロはどんな顔をするのだろう。
十日間の暮らしの中で、アンジェロはすっかり森の小屋暮らしに順応していた。最初から、四人家族であったかのように。
泣き出したアンジェロを、アメリアは抱き上げる。自分が産んだ子ではないのに、彼女の母性は溢れんばかりに、アンジェロを慈しむ。
うらやましいと思った。本当は全部、アンジェロの世話は自分でしてあげたい。呪われた右手が疎ましい。母や乳母を黄金に変えてしまったときよりも、アンジェロに触れられない今の方が、より一層、呪い子として生まれた己を忌まわしく感じる。
そして約束の日。
ルイザは午後になってからやってきた。先日とは違う、豪華なドレスを身に纏っていた。荷物もたくさん抱えていて、おそらく、まっすぐ別の土地に旅立つ算段でいる。資金はもちろん、黄金に変わったアンジェロだ。
当然、デニスたちは許可しなかった。
「そんなにこの子がいらないと言うのなら、うちで世話をしますから、どうぞ置いていってくださって構いません」
すっかりアンジェロに情の移っていたアメリアは、毅然と対応した。慎ましい生活をしていれば、子どもを二人育てることくらいはできる。
だが、ルイザはこれ幸いと乗ってはこなかった。アメリアを見下げて、
「あら。無料で子どもをあげられるとでも?」
などと言い、金貨五百枚を要求した。さすがにそんな金はなく、アメリアは言葉に詰まった。
「可愛い可愛い我が子をさしあげるんだもの、それ相応のお値段で買ってもらわないと。ねぇ?」
猫なで声とともに、ルイザはユリウスを見た。
ああ、この女は駄目だ。
幼心に、そう思った。
こんな女と暮らしても、アンジェロは幸せになれない。ここでユリウスが彼に触れなくても、いずれこの女に、愛しいアンジェロは、殺されてしまう。
そんなの、絶対に嫌だ。
「おばさん」
黙っていたユリウスが声をかけると、ルイザは「おばさん」呼ばわりに頬をひきつらせつつも、「何かしら?」と応じた。
「触ってあげてもいいよ」
「ユリウス!」
突然の申し出に、デニスが鋭い声を飛ばした。アメリアは顔面蒼白になり、口元を手で覆った。まさか、ユリウスがそんなことを言い出すとは思っていなかったのだ。
ユリウスは二人に向かって、「ごめんなさい」と、頭を下げた。
「やめなさい、ユリウス!」
何もわからず、近づいてくるユリウスに笑いかけてくるアンジェロ。
下手に動くこともできず、足が動かないデニスとアメリア。
自分の思い通りになることを確信し、高笑いをするルイザ。
アンジェロの笑い声と、アメリアの悲鳴が響く中、ユリウスは動いた。
「え?」
ユリウスは、ルイザに体当たりをして、抱きついた。当然、右手も彼女の身体に触れる。
アンジェロに一度近づいたのは、油断させるためだった。最初からルイザのところに駆け寄った場合、非力な少年であるユリウスは、振り払われてしまう可能性があった。
ユリウスの作戦通り、ルイザはアンジェロが金に変わると思って疑っていなかった。ぽかん、と間抜けな表情を浮かべたまま、みるみるうちに彼女の身体は、金の彫像へと姿を変えていく。
「ユリウス……」
すっかり固まってしまったルイザから離れた、ユリウスの目からは、ぼろぼろと大粒の涙が零れた。
これでよかったのか。本当は、もっといい方法があったのではないか。
養親たちに、多大な迷惑をかけることが、申し訳なかった。どうして自分は、いつもいつも、誰かを傷つけることしかできないのだろう。
でも、アンジェロを守りたかった。
泣き続けるユリウスを、デニスは「大丈夫だ」と、何度も請け負った。本当は、ちっとも大丈夫なんかじゃないのに。これからのことを思うと、彼も不安で押しつぶされそうになっているに違いないのに。
「ユリウス?」
ユリウスが、自分の行動を後悔するとすれば。
「アンジェロ……ごめん。ごめんね……!」
毒婦とはいえ、ルイザはアンジェロにとっては唯一の母親だ。そんな彼女が金になってしまう光景を、目の前で見せてしまった。人ひとりを金に変えたこと以上に、そのことがユリウスにとっては、大きな罪に数えられる。
わぁわぁと泣くユリウスを見て、アンジェロも感化されたのだろう。きょとんとした表情が一気に曇り、大きな声を上げて泣き出した。
二人の、いや、四人のそれぞれに違う泣き声が、森の中に響いた。
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