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5 文殊の知恵の結果は

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 図書室には冷房が入っているとはいえ、座席によっては暑い。特に、窓際の席はカーテンを引いても日差しが強くて、たまったものじゃない。

 それでも私は、窓の一番近くの席を陣取って、宿題をしつつも耳をすます。

 炎天下でも外でやる部活は、サッカー部と野球部、陸上部くらいのもの。そして野球とサッカーは、日によって午前と午後の活動を交代している。

 サッカー部の顧問の先生の声は、よく通る。冷房の関係で窓を開けていなくても、図書室にもはっきりと聞こえる。地元ののど自慢大会では負けなしの五連覇を達成したことが、自慢だと話していた。

「それじゃ、今日の活動はここまで!」

 その号令を合図に、私は片付けを進める。あまりノロノロやっていてもダメだし、テキパキやりすぎてもダメ。サッカー部の人たちが、更衣室から出て、校門を通りかかるとき、私もただいま帰宅するんですよ、という顔をしていなければならない。焦ったりしたらわざとなのがバレてしまうから、涼しい顔で。

 夏休みに入って最初の五日は、その案配に苦労した。けれど八月になるともう慣れて、このくらいのスピードで、というのがわかっている。

「あれ。小坂さん」

 フォワードの俊くんは、目がいい。私の姿をすぐに見つけて、声をかけてくれる。くるりと振り返って、「こんにちは」と挨拶をした。

「今日も部活、お疲れ様」

 ねぎらいの言葉がスムーズに出るようになったあたりは成長といえる。けれど、自分から「綾瀬くん!」と、話しかける勇気はまだない。

 俊くんはにっこりと笑って、

「最近よく会うよね。すごい偶然」

 と言う。

 嫌味じゃないというのは、彼の表情からわかる。毒気のないというか、悪い感情の一切ない笑顔なのだ。

 まさか私が、紗菜からサッカー部の予定表をゲットして、図書室に足を運び、終わるのに合わせて出てきている……なんて、一ミリも考えていないに違いない。

 他のサッカー部員たちは、監督やコーチによる特訓に、ひぃひぃ言って表情も暗い。俊くんだって同じくらい疲れているはずなのに、彼は私に対しては、いつも笑顔を向けてくれる。

 本当に、私のことを好きだと思ってくれているのかな?

 あの悪意しか感じない妖精の言葉だけじゃ信じられないけれど、俊くんの表情は、私を期待させる。

 今日こそ何か言わなきゃ! 連絡先を知りたいって言うのよ、茉由!

 なけなしの勇気を振り絞って、ひとまず雑談……天気の話でもしようと思い、「今日も暑いね。部活、大変だったでしょう」と一息に言おうと、口を開きかけたときだった。

 ドン、と目の前の俊くんが押されて、バランスを崩す。危うく私の方に倒れてきそうになったけれど、さすがに鍛えられている。体幹バランスがいいのかな、踏みとどまって、くるり振り返った。

 さすがの彼も怒るかもしれないと思ったが、どちらかといえば、その声は呆れている。

「カンナ。危ないだろ」
「ごめんねぇ、俊。今日、すごく暑かったじゃない? だからなんだか、調子悪くって」

 額に手の甲をあて、ふらふらと身体を揺らしてみせる児玉さんは、大根役者だ。絶対、嘘。顔色はつやつやしているし、唇の血色もいい。

 女の演技は女には通用しないのよ。

 この間見たバラエティの再現ドラマで、ぶりっこな後輩を撃退するカッコいい系の先輩のセリフを聞いたのを、思い出した。

 まさしく、児玉さんの「暑さにやられたフリ」は、私には通用しない。ついでに、ちょっと離れたところにいる、他のマネージャーさんたちも、心配した様子はなく、距離を保ったままだ。

 けれど、俊くんをはじめ、男子たちはころっとだまされてしまうのだ。

「無理はするなよ」

 さりげなく彼女を日陰に誘導し、「水は?」と、俊くんは彼女の荷物を探る。女子のカバンの中をあさるなんて、彼は他の子にはしない。幼なじみゆえの遠慮のなさが、かえって俊くんは児玉さんを本気で気遣っているんだ、と思わせる。

「カンナちゃん、水買ってきたよ!」

 そこにやってくる、別のサッカー部員。彼女は「ありがと~」と笑顔で受け取っている。他にも、タオルで彼女をあおぐ部員たちも。

 なんかすごいなあ。漫画やアニメでしか見たことないけど、女王様と下僕? そんな感じ。

 不思議なものを見るような目に、サッカー部のひとりが気づいた。ギロっとにらまれて、私は一歩後ずさる。同じクラスの男子だ。

「あのさあ、児玉が具合悪そうにしてるんだから、小坂も心配くらいしたら?」

 そして一斉に向けられる視線。たじたじになり、私はか細い声で、「児玉さん、大丈夫……?」と、通り一遍に呼びかける。ただ、言われてからの対応を彼らがよしとするわけもなかった。

 舌打ちされたり、「児玉が可愛いからって、嫉妬してるんだろ」と嘲笑われる。

「ちょっとみんな、そういうこと言うのやめてよぉ。小坂さんがかわいそうじゃない。ねぇ?」

 児玉さんは私をかばうけど、それこそ言葉だけだ。

 さすが児玉、と賞賛を受けて、彼女は笑う。私に対してだけわかる、ほんの少しの悪意をにじませて。

 児玉さんは、俊くんの腕を取って、歩き始めた。振り払ったりしないのは、彼が優しいから。ただそれだけ……だよね?

「あー。小坂」

 ぼんやりと、サッカー部のお姫様とそのご一行様を見送っていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、そこにいたのは紗菜の彼氏のシンタくん。

 きまりの悪そうな顔で頭をかいた彼は、視線を部員たちの方に向けた。

「なんか、悪いな。うちの連中が」

 ゴールキーパー特有のおおらかさか、紗菜というチャキチャキの彼女がいるからか、シンタくんは優しいけれど、のんびりだ。私が困っていることに気づいても、割って入る行動力はない。

 それでも、私に優しくしてくれる存在はありがたく、首を横に振った。

「ううん。ありがとう。ところで、紗菜は?」
「今日は家族と遊びにいくんだって」

 時間の許す限り、紗菜はシンタくんの応援に、部活に顔を出す。だから、夏休みになって俊くんを待ち伏せ(うーん、言葉が悪いなあ)している私とも、一緒に帰る機会が多い。

 彼女がいてくれたら、もうちょっと俊くんと話せるんだけどなあ。シンタくんの性格上、フォローを期待することはできない。

 友達の彼氏とふたりきりで帰るのも微妙に気まずいんだけど、彼はあんまり気にならない様子だった。共通の話題といえば、紗菜のことしかないんだけど、彼氏としてと親友としてでは、立場が違うから、けっこう面白い。

「あ、そうだ」

 通学路途中の公園にさしかかったとき、シンタくんがようやく思い出した、と声を上げた。

「どうしたの?」
「うん。うちの部活、八月十日は部活がオフなんだけどさ、その日にサッカー部みんなで、花火大会に行こうってなってるんだよね」
「花火?」

 確かに、ちょっと歩いた先の河川敷では、毎年花火大会が行われる。遠出しなくても唯一見られる花火ということもあって、毎年賑わう、らしい。

 らしいというのは、叔父一家の暮らすマンションからは遮るものがなくてきれいに花火が見えるので、会場で見たことって一回もないからだ。

 花火といえば、浴衣。

『ギャップでみせろ!』

 優美たちの言葉を思い出す。

「紗菜ちゃんも俺と一緒に来るから、それに合わせて参加しない?」

 彼女経由で、シンタくんには私の俊くんへの気持ちはバレていた。内部の協力者は貴重で、私はいちもにもなく、「行く!」と、返事をしていた。

 シンタくんと別れて、家へ。お昼ご飯もそこそこに、仕事中のお母さんへとメッセージを入れる。

『浴衣って、どこにしまってあるっけ?』

 既読がすぐについた。同時に、電話がかかってくる。お仕事暇なの?

「もしもし?」
『もしもし、茉由? 浴衣なんて、いつ着るの?』
「は、花火大会! 友達に誘われたから……」

 好きな男の子も一緒、というのは言わなかった。でも、お母さんはなんとなく察した様子で、

『小学校のときのやつはもう小さいし、子どもっぽいでしょ? 次の土曜日に買いに行こう!』

 と、にやにやを抑えられない声で約束をして、電話を切った。

 お母さん、お父さんに何か余計なことを言ったりしなきゃいいけど。

 ともかく、これで浴衣はOK。あ、小物類で使えるものも確認しなきゃ。まだ時間もあるし、自分で作ってもいいなあ。

 アクセサリーを入れたケースに、バッグの置き場所をあさり、それから使いかけの布が一緒にしまってある、大きなソーイングボックスの中を、ああでもないこうでもないとひっくり返す。
『なーにあせってんだよ』

 けけっ、とかんにさわる笑い声に、手を止めた。

『浴衣だかなんだか知らないけど、普段着慣れないもん着て、どうなってもしらねーぞぉ』

 からかい声にいらだって、私は妖精の首を、きゅっと締めた。もともとは自分で作ったぬいぐるみだ。呼吸をしているわけでもないのに、妖精は「ぐえぇ」と、苦しげにうめいたのだった。

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