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四 蛇の罠
蛇の罠【一】
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紫嵐による強姦は、完遂されなかったとはいえ、琥珀は心と身体に傷を負った。
翌朝になって目を覚ました琥珀の手を、紫嵐はずっと握っていた。頭が覚醒し、彼の体温だと判じた瞬間に、琥珀は振り払っていた。
「琥珀?」
どうしてそんな反応をするのかわからない、という顔の紫嵐に、おそらく自分も同じ顔をしていただろう。完全に、無意識での行動であった。心を許していても、同意なき性交は暴力以外のなにものでもない。単なる殴る蹴るの暴力以上に、相手の尊厳を奪う行為だ。
琥珀は全身で、紫嵐を拒絶していた。嫌いじゃない。好きだ。愛している。なのに身体は勝手に震えるし、胸の辺りが苦しくなる。
「悪いけど、今は紫嵐の顔、まともに見らんない」
毛布を頭から被って、彼の目から逃れる。しばらくの間、どうすべきか悩み、かといってこちらに声をかけるのもためらっている気配がしていたが、やがて諦めて、部屋の外へと出て行った。
もぞもぞと毛布の中で動き、脚を抱えて丸くなる。小さくなると、なんだか安心した。おそらく耳も尾も、情けなくへたっているに違いない。それほど琥珀は弱っていた。いつも朝から元気いっぱいに鳴く腹の虫も、今日ばかりはおとなしい。
彼が本当に黄王になるというのなら、最後の思い出に、と縋って抱かれることは考えていた。けれど自分が思い描いていたのは、もっとふわふわとした、幻想のような行為であった。実際には痛みも伴う。お互いの協力があって初めて成し遂げられるのだと思い知った。
自分に触れようとした紫嵐の手を思い出すだけで、身体が震える。こんな状態では、彼の隣に立つことなど不可能だ。
結局、琥珀はその後三日間、部屋からほとんど出なかった。食事に行くのも風呂に入るのも、紫嵐の隙を伺って行った。視界に入りたくないし、入れたくもない。いや、こちらから遠目で見る分には構わないのだが、寝台の上でのしかかってきたときの目の光の鈍さを思い出すと、直視されるのは避けたかった。
黒麗にも負担をかけている。何かあったのかと聞かれたが、琥珀が話したくないと心を閉ざしていることに勘づいて、しつこくは尋ねてこなかった。紫嵐が自分の悪行を話すとも思えないので、おそらく彼は戸惑っているに違いない。
奇劉から手紙が届いたのは、どうにかして紫嵐の隣に戻りたいと悩んでいる折であった。いつも通り不愛想で、こちらへの好意などみじんも感じられない伝令によって届けられたのは、謝罪と見舞いの手紙であった。
最近外に出てこない自分を気遣い、「もしもあの日の私の行動で紫嵐と仲たがいをしているのなら、申し訳ない」といった文言が書き連ねられている。
『あの焼き菓子は、こちらで処分した。結局ひとくちも食べられなかったから、同じものを用意させている。私が絡むとまた揉めるだろうから、君自身で取りにいってほしい』
手紙には、赤い木札が添えられている。これを指定の店に持っていけば、奇劉が手配したものを受け取れるという寸法だ。
琥珀は口頭で、殿下に礼を伝えてほしいと告げた。返礼の手紙を書かないのは無礼にあたるが、これ以上の彼との交信は、紫嵐に本当に見限られてしまいかねない。
不機嫌な顔をした伝令を見送り、琥珀は早速、身支度を整える。
あの日の菓子は素朴そのもので、懐かしさを親しみを覚えた。都にいた頃は、もっと見た目のいいおやつが出た記憶があるが、白蓮の名を剥奪されて以降は、女中たちが作る庶民のおやつが主流であった。
自分と同じく、この菓子を好んでいた子どもの頃の紫嵐――ランを思うと、心が苦しい。きっと兄たちは、こんな菓子を知らない。差別されて生きてきたのだ。
自分の脚で買いに行くのだから、紫嵐も奇劉の介入があったとは思うまい。添付されていた地図は幸い、都の中でも王宮に近い。迷わずに行けるだろう。
そうして辿り着いた店で赤札を渡すと、無言で焼き菓子の包みを渡された。代金もすでに奇劉が支払い済みのようで、琥珀は黙って頭を下げた。客商売をしているにしては、愛想がなくてこちらを睨んできたけれど、評判の悪い第五王子の友人だから、仕方がない。
「これを一緒に食べたら、本当に仲直りできるかな……」
紫嵐と家族の間を取り持つよりもまず、自分たちのぎくしゃくとした関係をどうにかするのが先だと、琥珀は自分の頬を抓り、腑抜けた顔に気合いを入れなおした。
翌朝になって目を覚ました琥珀の手を、紫嵐はずっと握っていた。頭が覚醒し、彼の体温だと判じた瞬間に、琥珀は振り払っていた。
「琥珀?」
どうしてそんな反応をするのかわからない、という顔の紫嵐に、おそらく自分も同じ顔をしていただろう。完全に、無意識での行動であった。心を許していても、同意なき性交は暴力以外のなにものでもない。単なる殴る蹴るの暴力以上に、相手の尊厳を奪う行為だ。
琥珀は全身で、紫嵐を拒絶していた。嫌いじゃない。好きだ。愛している。なのに身体は勝手に震えるし、胸の辺りが苦しくなる。
「悪いけど、今は紫嵐の顔、まともに見らんない」
毛布を頭から被って、彼の目から逃れる。しばらくの間、どうすべきか悩み、かといってこちらに声をかけるのもためらっている気配がしていたが、やがて諦めて、部屋の外へと出て行った。
もぞもぞと毛布の中で動き、脚を抱えて丸くなる。小さくなると、なんだか安心した。おそらく耳も尾も、情けなくへたっているに違いない。それほど琥珀は弱っていた。いつも朝から元気いっぱいに鳴く腹の虫も、今日ばかりはおとなしい。
彼が本当に黄王になるというのなら、最後の思い出に、と縋って抱かれることは考えていた。けれど自分が思い描いていたのは、もっとふわふわとした、幻想のような行為であった。実際には痛みも伴う。お互いの協力があって初めて成し遂げられるのだと思い知った。
自分に触れようとした紫嵐の手を思い出すだけで、身体が震える。こんな状態では、彼の隣に立つことなど不可能だ。
結局、琥珀はその後三日間、部屋からほとんど出なかった。食事に行くのも風呂に入るのも、紫嵐の隙を伺って行った。視界に入りたくないし、入れたくもない。いや、こちらから遠目で見る分には構わないのだが、寝台の上でのしかかってきたときの目の光の鈍さを思い出すと、直視されるのは避けたかった。
黒麗にも負担をかけている。何かあったのかと聞かれたが、琥珀が話したくないと心を閉ざしていることに勘づいて、しつこくは尋ねてこなかった。紫嵐が自分の悪行を話すとも思えないので、おそらく彼は戸惑っているに違いない。
奇劉から手紙が届いたのは、どうにかして紫嵐の隣に戻りたいと悩んでいる折であった。いつも通り不愛想で、こちらへの好意などみじんも感じられない伝令によって届けられたのは、謝罪と見舞いの手紙であった。
最近外に出てこない自分を気遣い、「もしもあの日の私の行動で紫嵐と仲たがいをしているのなら、申し訳ない」といった文言が書き連ねられている。
『あの焼き菓子は、こちらで処分した。結局ひとくちも食べられなかったから、同じものを用意させている。私が絡むとまた揉めるだろうから、君自身で取りにいってほしい』
手紙には、赤い木札が添えられている。これを指定の店に持っていけば、奇劉が手配したものを受け取れるという寸法だ。
琥珀は口頭で、殿下に礼を伝えてほしいと告げた。返礼の手紙を書かないのは無礼にあたるが、これ以上の彼との交信は、紫嵐に本当に見限られてしまいかねない。
不機嫌な顔をした伝令を見送り、琥珀は早速、身支度を整える。
あの日の菓子は素朴そのもので、懐かしさを親しみを覚えた。都にいた頃は、もっと見た目のいいおやつが出た記憶があるが、白蓮の名を剥奪されて以降は、女中たちが作る庶民のおやつが主流であった。
自分と同じく、この菓子を好んでいた子どもの頃の紫嵐――ランを思うと、心が苦しい。きっと兄たちは、こんな菓子を知らない。差別されて生きてきたのだ。
自分の脚で買いに行くのだから、紫嵐も奇劉の介入があったとは思うまい。添付されていた地図は幸い、都の中でも王宮に近い。迷わずに行けるだろう。
そうして辿り着いた店で赤札を渡すと、無言で焼き菓子の包みを渡された。代金もすでに奇劉が支払い済みのようで、琥珀は黙って頭を下げた。客商売をしているにしては、愛想がなくてこちらを睨んできたけれど、評判の悪い第五王子の友人だから、仕方がない。
「これを一緒に食べたら、本当に仲直りできるかな……」
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