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第二章
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松嵜龍児は日が沈むより早く渡舟島に到着することができた。
午後三時に船着き場にたどり着いて、それから三十分後には迎えがたどり着いた。
操縦士は訛りのない標準語で最新のモーターボートを船着き場に着けた。
龍児を乗せてからは慣れた手つきで、霧のかかった孤島に向けて波を切って進む。
島が遠くに見えてくると、大半を山で占められた景観が浮かび上がってきた。
錆びた鉄と雑草に浸食されたアスファルト。幾年も前から時間が止まったような田舎町の営みがそこにはあった。
モーターボートは古ぼけた町を迂回し、海に浮かぶ巨大な建築物の正面に寄せて行った。
近づくとわかるが、この構造物を形容するにはアルカトラズ刑務所が認識として近いだろう。
海側に飛び出した断崖のような壁がそそり立ち、囚人を隔離するかのごとく全ての階に半円形の通し窓が空いていた。
一階から上は波立つ海上から強靭な柱で支えられており、押し寄せる波のしぶきを受ける鉄筋コンクリートの基礎部分はアトラス神のように建築物を持ち上げている。
住宅の地下駐車場を思わせる部分が海面となっており、そこに速度を落としたボートが侵入していく。
日の光を遮る暗闇に入ると導きのランタンの光が奥に続いており、しばし行くと船の係留所があった。
操縦士がロープを係留柱に結ぶと、壁沿いに細長い通り道を進み、ドアを開けると一階に登る階段が見えてきた。
この経路を通れば町を通らずとも直接屋敷に入室できるというわけだった。
操縦士が頑強な扉を開けると、屋敷の中の豪奢な内装が飛び込んできた。
社交界のダンスホールを思わせる広大な一室には、大理石が床に敷き詰められ、高級なアンティーク調ソファが並んでおり、天空にはシャンデリアが輝いている。
深紅のカーテンが付いた出窓からは競技場ほどの庭園が見通せる。
島方面にはまるで逃亡を禁止するように高い塀が敷地をぐるりと囲み、完全に外界を遮っていた。
しかし入館時の外観からは到底想像できない室内の印象だった。
監獄を思わせる海からの外観と陸側の客室ではまるで違う建物じゃないか。そうすると、海側の部屋は使われていないのだろうか。龍児は思案を巡らせていた。
「ご主人様、龍児様がお見えです。」
操縦士、いや屋敷の下男が丁寧に頭を垂れた向こう側に、松嵜世啻人が鎮座していた。
六十代の後半にして衰えぬ180cmを超える長身と特徴的な鷲鼻から覗く鋭い眼光。年老いたといっても昭和の生きる怪物の肉体は頑強そのものだった。
髪色は白く染まっており、肩幅の広い暖色のコートと相まって似合っている。
「龍児か、よく来たな。」
「お誘いありがとうございます、叔父さん。」
「おお、よいよい。わしもかわいい甥の近況を知りたかったところだ。」
龍児は自分の自堕落な生活を説教されるかと身構えていたが、いらぬ不安だったことに気づいた。
世啻人は世間一般の年配者が孫と戯れるように、くだけた顔で大甥と言葉を交わすのだった。
ここは甘えておこうと気を許した龍児は、老いてなお屈強な虎の尾を踏まない程度に話を合わせた。
「まぁ、そう気を使うな龍児。おまえが最近上手くいってないことは風の便りに知っていた。」
「僕の情けない生活ぶりもご存じでしたか。いや、お恥ずかしい。」
「あれはお前の父親の気が短いのが悪いんじゃ。子供の素質というものは多角的に測るもんだぞ。その点お前はまだ若い。」
もったいない言葉だと謙遜したあと、龍児はひとつの疑問を口にした。
「ところで本日の宴会ですが、僕以外ではどなたが呼ばれているんですか。」
手紙には松嵜家の宴を開くと書かれていた。ならば他にも招待された親類がいるはずだ。
松嵜の一族は栄え、様々な業界で活躍している。つまりこの場にどんな猛者が現れるかわからない。成功者に囲まれたなら、とんだ恥さらしといえるだろう。
「あの客間の北に座っているのは松嵜重男じゃ。」
話によると、松嵜重男は作家で主にテレビ業界にコネクションを持っているという。
七三にわけた前髪をアップにまとめ、黒いサングラスをかけた三十代の男だ。
ワイシャツの上にカーディガンを羽織り、業界人の垢ぬけた雰囲気を放っている。
その裏の顔は合法から非合法まで様々な娯楽を極めようとする男。女から薬まで享楽のためには手段を選ばないとの話だ。
「そのとなりの童女は松嵜蝶子。文司の妾腹の子だ。」
松嵜蝶子は、松嵜世啻人の孫である松嵜文司と斜陽貴族の女との間に生まれた娘だった。龍児の目からは中学生ほどに見える。
母親の教えの影響で自分が妾の娘ということに気づいていない。かわいそうに、と世啻人はいう。
貴族の母親の一張羅の反物から作った振袖を身に着けたおかっぱの少女は、松嵜の正当な血族であると思い込んでいる。
そこが世啻人の目に適った。あわれな道化がひとり欲しかったのだと、まるで愚かな飼い犬を憐れむようにいうのであった。
龍児は肌身で感じていた。世啻人は親類にはやさしいが他人には真性のサディストなのだと。
龍児は、他にも外科医師の園田という男などを紹介された。あとは下男が数人という簡素なものだ。
これでは宴の体を成していないのではないか。そこに世啻人の声がフロアに響いた。
「では皆の衆、招待客も揃ったことだ。移動しよう、監獄の側へ。」
松嵜世啻人の買い取った洋館は刑務所を目的として作られたものだ。
本土から二十キロ離れた海に建つ監獄は周囲を高い壁でぐるりと囲み、蟻一匹逃がさない閉鎖性を備えていた。
世啻人はこの建造物を海側は監獄のまま、陸側は居住性能を備えるように改築したのだ。まさに中心の板を挟んで天国と地獄だ。
世啻人を筆頭に下男が二人、それを重男と蝶子が追う。龍児は何が起こるのかわからぬまま、訝しみながら最後方に続いた。
監獄側は古びているものの汚れや埃などは取り除かれていた。折り返し階段を二階に上がる。二階に到達すると、そこには人を閉じ込めるための牢獄が続いていた。
一つの房には四人ほどが入るスペースがある。牢屋の天井には電灯がひとつ備えられているが暗くじめじめしている。
半円の窓には格子があるだけで海風をそのまま通していた。地面はコンクリートで固められており、排水を流す小さな穴だけが空いている。
世啻人が足を止めると、下男たちがひとつの牢屋の前に歩み寄った。重男や蝶子、園田もそこに集まり始める。まるで甘い蜜を察した虫たちのように。
龍児が後ろから顔を出すと、その牢屋にはセーラー服を着た女学生が二人、閉じ込められていた。
ひとりは泣き続けている。もうひとりは世啻人たちに気づき、友達をかばって身を乗り出した。劇的な光景だった。
ブロンドの髪をしたハーフの娘が鳴き声をあげる黒髪の娘の肩を抱き、身を乗り出してこちらを鋭くにらみつける。そこには美しさがあった。気高さがあった。
「今回の売春島で取り寄せた娼婦だ。できるだけ若く瑞々しいものを選んでおる。」
世啻人の目がカッと見開かれ、充血していた。龍児は宴というものの内容を理解してきた。
これは後ろ暗い人間の性の狂宴。この監獄が人の二つの側面を表しているとすると、ここは闇の側だ。
人間は理性的な表の顔で社会に貢献し、逆らえない動物的な欲求を密かに排出しながら生きる。
ただ、その欲求が大きすぎる者がこの世には存在する。それがこの男、松嵜世啻人だった。
島田義一たちは監獄側一階の廃棄室と呼ばれる部屋にいた。名前の通り、屋敷のゴミなどを廃棄するための部屋だった。
義一の売春斡旋の仕事は、事の結末を見届けるまでが勘定に入る。そのため、松嵜の人間がことに及んでいる間も屋敷の隅の一室でただただ待つことになる。
「おれらにも上手い飯くらい出していいだろ。なぁ、岳斗もそう思うだろ。」
島田岳斗は父親の仕事に参加していた。少年は自分の父親のせいで売られてしまった加恋たちに懺悔していた。
俺のせいで売られてしまったんだ。岳斗の顔は緊張に凍っていた。齢十四歳の少年が父親とクラスメイトの問題を同時に解決しようとすると頭が混乱して恐ろしくなった。
ただ、有村たちを助ける機会があるかもしれない。その言葉で自分の理性をどうにか保っていた。そんな息子の顔を読み取ったか、義一は岳斗に言った。
「そんなに緊張するな。初めてのシノギだ。」
義一は一本のナイフを岳斗に渡した。
「それで自分の身は自分でなんとかしろ。」
渡されたのはシンプルなサバイバルナイフだった。腰につけるホルダーも付いている。
岳斗はナイフの鞘を掴みながら天にも祈る思いだった。
午後三時に船着き場にたどり着いて、それから三十分後には迎えがたどり着いた。
操縦士は訛りのない標準語で最新のモーターボートを船着き場に着けた。
龍児を乗せてからは慣れた手つきで、霧のかかった孤島に向けて波を切って進む。
島が遠くに見えてくると、大半を山で占められた景観が浮かび上がってきた。
錆びた鉄と雑草に浸食されたアスファルト。幾年も前から時間が止まったような田舎町の営みがそこにはあった。
モーターボートは古ぼけた町を迂回し、海に浮かぶ巨大な建築物の正面に寄せて行った。
近づくとわかるが、この構造物を形容するにはアルカトラズ刑務所が認識として近いだろう。
海側に飛び出した断崖のような壁がそそり立ち、囚人を隔離するかのごとく全ての階に半円形の通し窓が空いていた。
一階から上は波立つ海上から強靭な柱で支えられており、押し寄せる波のしぶきを受ける鉄筋コンクリートの基礎部分はアトラス神のように建築物を持ち上げている。
住宅の地下駐車場を思わせる部分が海面となっており、そこに速度を落としたボートが侵入していく。
日の光を遮る暗闇に入ると導きのランタンの光が奥に続いており、しばし行くと船の係留所があった。
操縦士がロープを係留柱に結ぶと、壁沿いに細長い通り道を進み、ドアを開けると一階に登る階段が見えてきた。
この経路を通れば町を通らずとも直接屋敷に入室できるというわけだった。
操縦士が頑強な扉を開けると、屋敷の中の豪奢な内装が飛び込んできた。
社交界のダンスホールを思わせる広大な一室には、大理石が床に敷き詰められ、高級なアンティーク調ソファが並んでおり、天空にはシャンデリアが輝いている。
深紅のカーテンが付いた出窓からは競技場ほどの庭園が見通せる。
島方面にはまるで逃亡を禁止するように高い塀が敷地をぐるりと囲み、完全に外界を遮っていた。
しかし入館時の外観からは到底想像できない室内の印象だった。
監獄を思わせる海からの外観と陸側の客室ではまるで違う建物じゃないか。そうすると、海側の部屋は使われていないのだろうか。龍児は思案を巡らせていた。
「ご主人様、龍児様がお見えです。」
操縦士、いや屋敷の下男が丁寧に頭を垂れた向こう側に、松嵜世啻人が鎮座していた。
六十代の後半にして衰えぬ180cmを超える長身と特徴的な鷲鼻から覗く鋭い眼光。年老いたといっても昭和の生きる怪物の肉体は頑強そのものだった。
髪色は白く染まっており、肩幅の広い暖色のコートと相まって似合っている。
「龍児か、よく来たな。」
「お誘いありがとうございます、叔父さん。」
「おお、よいよい。わしもかわいい甥の近況を知りたかったところだ。」
龍児は自分の自堕落な生活を説教されるかと身構えていたが、いらぬ不安だったことに気づいた。
世啻人は世間一般の年配者が孫と戯れるように、くだけた顔で大甥と言葉を交わすのだった。
ここは甘えておこうと気を許した龍児は、老いてなお屈強な虎の尾を踏まない程度に話を合わせた。
「まぁ、そう気を使うな龍児。おまえが最近上手くいってないことは風の便りに知っていた。」
「僕の情けない生活ぶりもご存じでしたか。いや、お恥ずかしい。」
「あれはお前の父親の気が短いのが悪いんじゃ。子供の素質というものは多角的に測るもんだぞ。その点お前はまだ若い。」
もったいない言葉だと謙遜したあと、龍児はひとつの疑問を口にした。
「ところで本日の宴会ですが、僕以外ではどなたが呼ばれているんですか。」
手紙には松嵜家の宴を開くと書かれていた。ならば他にも招待された親類がいるはずだ。
松嵜の一族は栄え、様々な業界で活躍している。つまりこの場にどんな猛者が現れるかわからない。成功者に囲まれたなら、とんだ恥さらしといえるだろう。
「あの客間の北に座っているのは松嵜重男じゃ。」
話によると、松嵜重男は作家で主にテレビ業界にコネクションを持っているという。
七三にわけた前髪をアップにまとめ、黒いサングラスをかけた三十代の男だ。
ワイシャツの上にカーディガンを羽織り、業界人の垢ぬけた雰囲気を放っている。
その裏の顔は合法から非合法まで様々な娯楽を極めようとする男。女から薬まで享楽のためには手段を選ばないとの話だ。
「そのとなりの童女は松嵜蝶子。文司の妾腹の子だ。」
松嵜蝶子は、松嵜世啻人の孫である松嵜文司と斜陽貴族の女との間に生まれた娘だった。龍児の目からは中学生ほどに見える。
母親の教えの影響で自分が妾の娘ということに気づいていない。かわいそうに、と世啻人はいう。
貴族の母親の一張羅の反物から作った振袖を身に着けたおかっぱの少女は、松嵜の正当な血族であると思い込んでいる。
そこが世啻人の目に適った。あわれな道化がひとり欲しかったのだと、まるで愚かな飼い犬を憐れむようにいうのであった。
龍児は肌身で感じていた。世啻人は親類にはやさしいが他人には真性のサディストなのだと。
龍児は、他にも外科医師の園田という男などを紹介された。あとは下男が数人という簡素なものだ。
これでは宴の体を成していないのではないか。そこに世啻人の声がフロアに響いた。
「では皆の衆、招待客も揃ったことだ。移動しよう、監獄の側へ。」
松嵜世啻人の買い取った洋館は刑務所を目的として作られたものだ。
本土から二十キロ離れた海に建つ監獄は周囲を高い壁でぐるりと囲み、蟻一匹逃がさない閉鎖性を備えていた。
世啻人はこの建造物を海側は監獄のまま、陸側は居住性能を備えるように改築したのだ。まさに中心の板を挟んで天国と地獄だ。
世啻人を筆頭に下男が二人、それを重男と蝶子が追う。龍児は何が起こるのかわからぬまま、訝しみながら最後方に続いた。
監獄側は古びているものの汚れや埃などは取り除かれていた。折り返し階段を二階に上がる。二階に到達すると、そこには人を閉じ込めるための牢獄が続いていた。
一つの房には四人ほどが入るスペースがある。牢屋の天井には電灯がひとつ備えられているが暗くじめじめしている。
半円の窓には格子があるだけで海風をそのまま通していた。地面はコンクリートで固められており、排水を流す小さな穴だけが空いている。
世啻人が足を止めると、下男たちがひとつの牢屋の前に歩み寄った。重男や蝶子、園田もそこに集まり始める。まるで甘い蜜を察した虫たちのように。
龍児が後ろから顔を出すと、その牢屋にはセーラー服を着た女学生が二人、閉じ込められていた。
ひとりは泣き続けている。もうひとりは世啻人たちに気づき、友達をかばって身を乗り出した。劇的な光景だった。
ブロンドの髪をしたハーフの娘が鳴き声をあげる黒髪の娘の肩を抱き、身を乗り出してこちらを鋭くにらみつける。そこには美しさがあった。気高さがあった。
「今回の売春島で取り寄せた娼婦だ。できるだけ若く瑞々しいものを選んでおる。」
世啻人の目がカッと見開かれ、充血していた。龍児は宴というものの内容を理解してきた。
これは後ろ暗い人間の性の狂宴。この監獄が人の二つの側面を表しているとすると、ここは闇の側だ。
人間は理性的な表の顔で社会に貢献し、逆らえない動物的な欲求を密かに排出しながら生きる。
ただ、その欲求が大きすぎる者がこの世には存在する。それがこの男、松嵜世啻人だった。
島田義一たちは監獄側一階の廃棄室と呼ばれる部屋にいた。名前の通り、屋敷のゴミなどを廃棄するための部屋だった。
義一の売春斡旋の仕事は、事の結末を見届けるまでが勘定に入る。そのため、松嵜の人間がことに及んでいる間も屋敷の隅の一室でただただ待つことになる。
「おれらにも上手い飯くらい出していいだろ。なぁ、岳斗もそう思うだろ。」
島田岳斗は父親の仕事に参加していた。少年は自分の父親のせいで売られてしまった加恋たちに懺悔していた。
俺のせいで売られてしまったんだ。岳斗の顔は緊張に凍っていた。齢十四歳の少年が父親とクラスメイトの問題を同時に解決しようとすると頭が混乱して恐ろしくなった。
ただ、有村たちを助ける機会があるかもしれない。その言葉で自分の理性をどうにか保っていた。そんな息子の顔を読み取ったか、義一は岳斗に言った。
「そんなに緊張するな。初めてのシノギだ。」
義一は一本のナイフを岳斗に渡した。
「それで自分の身は自分でなんとかしろ。」
渡されたのはシンプルなサバイバルナイフだった。腰につけるホルダーも付いている。
岳斗はナイフの鞘を掴みながら天にも祈る思いだった。
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