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第一章
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夏の初めだった。三重県の海岸から約二十キロの位置に浮かぶ渡舟島は過疎化が進み、住民の数も二百人ほどだ。本土からの便は小型船のみ。
島の集落の孤立化は進むばかりだ。日本海の水気を吸い込んだ空は雨雲となり、山稜から麓の町に白い帳を落とした。
島の中央に鎮座する緑山から目を移すと、三重県の沿岸部が見える。残るのは廃れた街並み、曇った空と湿った海だけである。
まだ日が白む前の朝、車のブザー音がけたたましい。朝霧が前方を不明瞭にし、車の丸いヘッドライトとフォグライトが闇に浮かび上がる。
島田岳斗は日課として早朝に家を出ると、ジョギングがてら海岸をまわっていた。
少年は去年の秋、十三歳で中等学校を途中退学し、父親の土木会社を手伝っている。
年相応の線の細い骨格には適度な筋肉が付き、短く刈り上げた頭と顔つきは年齢よりも大人めいていた。
岳斗は本土の姿がちらつくと、世間から忘れられていく渡船島の運命を歯がゆく思うのだった。あるいは本土から来た、今はいない母親を思い出すためかもしれない。
どちらにせよ、この孤島で生きていかねばならない。父親の会社に出向き、肉体労働に汗を流す。そんな毎日に満足している。彼は一日も早く大人になりたかった。
そんな彼にも気がかりなものがある。ひとつは去年に在籍していた中等学校、その同級生だった女の子だ。
今は中学二年生だろうか。黄金色の髪の毛を備えた凛とした姿、岳斗が彼女に惹かれたのは渡舟島の小社会から自立しようとする意志と行動力だった。
少年はなつかしいモラトリアムの感情を思い出した。
もうひとつは、この島に良くないものが侵入してきたという噂だ。
島の沿岸部に刑務所ほどの規模を持つ巨大な建造物がある。おおよそ、先のバブル景気に建てられ、買い手が付かず放置されたものではないだろうか。
近隣からもお化け屋敷扱いされていたその物件を何者かが買い取ったらしい。
持ち主の顔を見たことはないが、胸騒ぎがする。流通も娯楽もない孤島の監獄に自ら侵入してくる輩、それは多くの場合ヤクザもの以外にありえないと思うのであった。
少年はヤクザが嫌いだった。幼稚園児の時に家族の絵を描いたことがある。そこには紫のスーツにオールバックの鬼と泣いている母子が描かれていた。鬼とはヤクザだった父親、島田義一のことだ。
渡舟島はバブル景気の折にリゾート計画が考案され、宿場町が栄えた時代があった。
有力者は島を発展させるチャンスとばかりに計画に乗ったばかりか、違法な事業に手を染めることとなる。
開発事業には肉体労働者が集まるため、酒と賭博と売春を売り物にしようとするものが現れた。
そして公権力から隠匿するために町長と宿場町、ヤクザの強い癒着が生まれたのだった。
なかでも人気があったのは売春で、町筋にあるパブやスナックが客を入れたとたんに売春宿に早変わりした。
町中での揉め事はヤクザが暴力で取り仕切り、島の警察を袖の下で口封じした。
ここに売春産業を利益目的とする通称、売春島が生まれたのだった。
本土からは風俗嬢が斡旋され、また借金のかたに女が売られてくる。
島外からは女目当ての好きものが島に押し寄せた。果てしない欲望と金が動き、宿場町は刹那の享楽街として盛況を見せた。
島田の父親は女衒をしており、当時は大層儲けたと思い返している。
しかし、バブル景気がはじけた後はリゾート計画も中止となり、狂乱の時代は幕を閉じていった。
売春の利益が下がり、警察の口を封じられなくなった事でヤクザは島から撤退した。
島田の父親も今ではカタギとなり、社員を雇ってコツコツと働いている。岳斗は島が違法に栄えるよりも今の生活がずっといいと考えるのだった。
海道を真っすぐに走ると、湾曲した堤防に沿った曲道に入る。
岳斗が走り去った木立の脇には、低い緑が増え始め、一本の大きなアカシアの木がそびえていた。
丸く膨らんだ防波堤が半円形の草地を母の手のように包み込み、自然を箱庭に詰め込んだかのようだ。
潮風の強い海沿いに花は咲かないが、二人の花のような女学生が座っている。小さなレジャーシートに腰を乗せ、身を寄せ合いながら座るセーラー服姿は中等学生のものだ。
ひとりは右手を支えに相手の肩に首を乗せるようしなだれかかり、腰まで伸びた白金の毛髪を垂らしたまま、赤子のように眠っている。端正な顔は人形のように整っていた。
もうひとりは肩で友人の頭部を慈母のように支え、スカートから露出した膝から下をくの字に倒している。
ボブカットに揃えられた黒い髪の毛からはまだあどけない顔が見えていた。
お互いに二人は安らかな眠りに身をまかせていた。まるでここにだけは敵がいないかのように。近くの草陰には通学鞄がふたつ、無造作に置かれていた。
やがて空は曙に溶け始め、アカシアの葉の影が制服の白を移動していく。
ふたりは浅い眠りからまぶたを開け、上空を見つめていた。小さな体躯が二、三歩前に出ると同時に白金の髪が金色に反射する雲のように輝いた。
ハーフと思われる小さな顔が手足のスレンダーさを強調している。彼女は短く伸びをすると本土の方向を眺め、それから友人を振り返って言った。
「わたし、中学校を卒業したらこの島から出るよ。」
意志の強い碧眼が宝石のような輝きを放っている。
「それで、県内でもすごい、すごーい有名な美容師になって見せるから。」
無邪気な笑顔だった。彼女は暗闇から明けの光の中へ歩き出すように言葉を綴った。
「うん…加恋はこの島から本土に出て行っても上手くやっていけるよ。私たちよりもずっと頭が良くて、夢を叶えるための才能があるんだよ。」
加恋のとなりでスカートを直しながら友人は答えて言った。
「亜里沙にそう言われると恥ずかしいけど…やる気が出てくる、ありがとう。」
加恋の友人である亜里沙は黒い髪をゆらして花のように笑った。亜里沙の笑顔はまわりの空気を和やかにし、景色に彩りを与える。
「加恋はスーパースターなんだよ。この島で一番の天才なんだから!」
亜里沙のお墨付きをもらった。ああ、そうだ。有村加恋が泣き顔を見せずに前を向いて来れたのは、櫻井亜里沙の笑顔のおかげだった。きっと私はやっていける、と加恋は思った。
二人は朝の雨雲に湿った空気の中、丘の上に建つ中等学校に向かう。
校舎に続く山手の坂道をガードレールに沿って歩くと高台から港町が一望できる。先祖代々から受け継がれた古い校舎だ。
教室に入ると窓辺の席から入り込む光のコントラストとは対照的に、いっせいに敵意の目がこちらを貫いてくる。
しかしクラスメイトの視線を加恋は意に介さず自分の机に歩いていく。亜里沙は視線を下げたまま机に移動した。
有村加恋の髪色は脱色しているわけではない。白金の毛髪は東欧から来た母親からの遺伝だった。
加恋は昔から意志の強い子供で島でも有名な変わり者だった。人と群れることを極端に嫌い、自分を叱りつける教師にさえも歯向かった。
加恋の母親は島が色町だったころに本土から移ってきた女性で、日本語を書けなかったし家事はろくにできなかった。
ひとりでは生きていけないほど依存的な性格で、幼いころの加恋に炊事、洗濯、掃除をまかせ、自分は多くの男と関係を持っていた。
加恋の父親のことは一夜を共にしただけで名前も覚えていないそうだ。
むろん、いじめられた。髪色、目の色、顔の形。ねんごろの母親と理由は尽きなかった。
加恋は他人に決して心を許さなかった。名前も知らない母の連れ込んだ男に乱暴を受けそうになった日は無人のあばら家で夜を凌いだ。
ある日、自分と同じく売春婦の娘だと蔑まれ、石を投げられている女の子を見つけた。
加恋は島の人間の卑屈さに無性に腹が立って、そのいじめっ子たちを追い払い、教師に告発した。だが、基本となるべき教師も同じことを言った。
「余計なことをするな」と。
それでも加恋は自分が間違っていないと信じていた。そして友達ができた。今では親友だと思っている。
義務教育を終えたら島を出て美容師になるという目標もできた。そして十四歳、中学二年生。
155㎝ほどの小さな体躯にモデルのような手足。整った顔立ちからのぞくルビーのような瞳。
少女の瞳は確固とした意志を放ち、古ぼけた田舎町の秩序を変革してしまう。
加恋が島内で浮ついた存在になるのは、誰もが自分の理解できない存在を恐怖と受け止めるためだ。このような人物をカリスマと呼ぶ。
中学校のカリキュラムが終わると加恋と亜里沙は一緒に帰路についた。
二人は同じ通りに住んでいるが、亜里沙のほうがやや遠くになる。加恋と別れた亜里沙は自分の家に帰るのが億劫だった。
「私はきっとこれからも、辛くてもため息をついても結局はこの島から出る自信はないんだよ。」
亜里沙は小さく漏らし、トタン作りの掘っ立て小屋を前にして立ち往生した。
櫻井亜里沙は恵まれたとはいえない家庭環境で育った。
母親は労働力となる男子ではなく、女の子として生まれた亜里沙のことをよく思っていなかった。
むしろ、金を稼げない子供、穀つぶしと見ていた。物心ついたころから家事や労働は彼女の仕事であり、家庭に住まわせる当然の対価だと教えられた。
母親が代わるがわるに連れ込んでくる男と一晩過ごした部屋を掃除するのも仕事のひとつだった。
子供は親の顔を見て育つというが、暴力的でヒステリックな母親に支配された生活は、亜里沙を自虐的で内気な人間に変えていった。
学校は子供のヒエラルキーを表す社会の縮図である。亜里沙は他人に話しかけることもできず、一人だけクラスで浮いてしまっていた。
当然、匂いを嗅ぎつけた小動物のようにいじめの加害者が寄ってくる。その人間を限界まで追い詰める遊び。靴隠し。画鋲を貼った椅子。机に書かれた落書き。性的な嫌がらせ。
「死んじゃえ。死んじゃえ。死んじゃえ。死んじゃえ。」
心を折り屈服させる遊びは長い間続いた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな…さい。」
亜里沙はついに全ての悪意の奴隷となることを承諾した。自分が悪い。友達のいない自分が悪い。目立った自分が悪い。普通じゃない自分が悪い。全部わたしが悪い。
学校という場の役割は、家庭で親から学んだ誤った認識を修正するための場でもある。
しかし、いじめという社交を断絶した環境では意味をなさない。彼女はこれからも自分を責めながら一生のハンデを背負って生きていく…はずだった。
有村加恋との出会いはきっと運命だった。薄く濁った視界の中に、美しい白金の紙が風に舞った。
加恋は傷を作ることを恐れなかった。自分を抑圧する卑怯な人間に屈せず、小さな体で戦った。亜里沙にとってそのさまは、ただただ奇麗だった。
社会から浮いているはみ出し者の二人は、いつの間にか友達になっていた。そう、これは亜里沙にとっての運命だったに違いない。
加恋は亜里沙を頼りにしているが、支えられているのはむしろ亜里沙のほうだった。雨の中、お互いに支えあう植物が倒れずにいるように。
そして道が別れる時はいつか来るだろう。亜里沙は島から出ることはできない。ずっと島で働いて、母の面倒を見ながら生きていくだろう。
でも、いつだって加恋の夢を応援することはできる。親友が頑張っていると思うことで自分も強くなれる。亜里沙は呼吸を整えて、ただいまと言って家に入った。
三重県では渡舟島に渡るための簡素な船着き場がある。潮風が匂う曇天の日本海を前にして舟を待っているものが一人いた。
フォーマルスーツに身を包んだ青年は団扇で扇ぎながら、親戚からの突然の呼び出しに少々苛ついていた。
松嵜龍児は大手財閥、松嵜一族の長男として生まれて、父親の教えに従い英才教育を受けて育った。
エスカレーター式のエリート一貫校に入学し、高等部に進学したが在学中に体調を崩し、長期休学の後に自主退学した。
二十歳になる今まで定職にもつかず目的のない日々を送っていた。休学を決めたとき、実父は息子の体たらくに怒り狂った。
そのため龍児は怒号を避けるように家から離れて暮らしている。働かず、安アパートで暮らし遊び歩く生活。
それでも松嵜の長男という肩書に人は寄ってくるし、父方の叔母は金銭を工面してくれた。
人は真面目に働くことが美徳だというが、出来損ないの自分でも不自由なく生きていける。
真面目に努力することなどくだらない。社会を支える仕事など相応しい奴に譲ってやればいいんだ。
龍児は手痛い挫折を経験してすっかり堕落した生活に染まっていた。そんな環境のなかでも自分を気遣ってくれたのが大叔父である松嵜世啻人だった。
松嵜世啻人は日本の高度経済成長期に会社を起こし、一代で大企業に成長させた怪物である。
大叔父の口癖は「世の中には奪うものと奪われるものだけがある」であり、一族の男に覇道を説いた。
龍児は親に見捨てられた自分にまで、自信を持つようにと労いの言葉をくれた世啻人に好感を持っていた。
三日前のある日だった。アパートに帰ると仰々しい黒服の男が黒いセダンに乗って待ち受けていた。
黒いスーツで固めた男たちの中から一人の中堅幹部らしきものが近寄り、自分は松嵜商事会長、つまり大叔父の使いだと言うのである。
そうして渡された手紙を開くと、「別荘にて松嵜の縁を深める宴を開くので来られたし」といった文面が書かれていた。
龍児は箪笥をひっくり返し、以前見たはずの奇麗目のスーツを引っ張り出して着込むと電車に飛び乗った。
そうしてこの船着き場にいる。さっきまでは急な呼び出しにイライラしていた。しかしどうだろう。今ではくだらない世の中を打ち壊すカタルシスを求めて期待に胸躍らせている自分がいる。
大叔父が邸宅を買い求めた島について人づてに聞くと、昔は売春島と呼ばれていたらしい。
「売春島か、それもいいかもな。」
その語感が気に入った。金に売られた女たちが猛々しい男たちの慰み者にされた歴史があるのだろう。
龍児は口の端を釣り上げる、嗜虐心に満ちた独特の笑いを浮かべた。そして右手でうちわを振りながら期待に満ちて船を待つのだった。
ある土曜日の朝型だった。島田岳斗は目を覚まし、家の洗面所に向かうと父親の義一がいた。
義一は垂れた腹と尻のぜい肉が目立ち、中年の体系になって久しい。
岳斗は今日の義一の様子が少しおかしいのに気づいた。昔の色町で女衒をしていた頃の紫色のスーツを羽織り、コームで髪の毛をオールバックにセットしている。
後退した前髪がワックスの油で照りかえり、富士額を目立たせる。
「女たちに甘い言葉をかけると全ては金に変った」というのは、昔を懐かしむ義一が目を輝かせて語った昔話だ。
あの頃は良かった。金があれば女房も帰ってくる。そんな話は、取り戻せない喪失を懐かしむ無意味な現実逃避のはずだった。
しかしどうだろうか、義一の目は長年の宿願が適ったようにギラギラと光っていた。
「何があったんだ。」
岳斗は訝しんだ。義一が若い衆を連れてどこかに出かけて行った後に、岳斗は会社の社員に尋ねてみた。
この若い社員は前田といって、岳斗に色々な情報をくれる口は軽いが記憶力は確かな男だった。
「ぼっちゃん、知らなかったんですか。社長は最近ヤクザのシノギに戻るって言ってて、今さっき女を買いに行くって出かけたんですよ。ほら、前に言ったお化け洋館を買い取った新しい主人が変態でね。島の若い女を売春にあてがうよう、社長に大金ちらつかせてきたんでさぁ。あんな変態に買われたら最後、生きて帰れやしませんぜ。」
岳斗の脳髄から怒りが込み上げてきた。親父はせっかくカタギに戻ってやり直すと言ってたのに何をやってるんだ。
金で女を売買するという鬼畜の所業に落ちてしまったらお終いじゃないか。
親父の機嫌が良かったのはこのせいか。そんなに昔の自分に未練があったのか。バブル期という時代は今よりもそんなに魅力的だったのか。
はっと、岳斗は怒りに染まっていく自分に気づき、頭を冷やすため深く息を吐き出した。
「それで、誰を買うって話なんだい。」
「それが、むかし女郎だった女が金欲しさに娘を売るって話なんでさぁ。確か、有村と櫻井って言ってましたぜ。」
前田はからからとよく回る糸車みたいに井戸端話に花を咲かせていたが、岳斗は顔を青くしたまま呆然と呟いた。
「なんていうことだ…。」
最悪の事実が自分の予測をはるかに超えて地平の向こうへ走っていく。現実の営みを吐き気を催すどす黒い欲望で塗り替えるために。何もかも遅かった。
「あの母親ども、あいつらだ。…売ったんだ。自分の娘を売ったんだ。金と引き換えに…。」
有村の母親、それに櫻井の母親もこの島で労働者相手に体を売っていた娼婦だった。そして父親、島田義一は女を客に仲介するポン引きをしていた。
有村の母親たちは、リゾート開発事業が頓挫した後も渡舟島の色町に建つ置屋と呼ばれる売春斡旋所で金を稼いできた。
客が少なくなり、色町が終焉を迎えると住居のあばら屋に男を連れ込み、二束三文で体を売った。そういう生き方しかできない人たちもいる。
バブル期に傷つけられた、あるいは狂った人間はまだ夢を見ている。そして岳斗の父親は島に現れた成金に島の少女を売り渡そうとしている。
なんていうことだ。親父がまっとうに働くという言葉を信じた自分が馬鹿だったのだ。
少年は会社施設のドアを強引に開け放つと、鍛えた足をバネのように機敏に動かして海道方面へと走った。
「頼む、間に合ってくれ。」
海辺の町の中心から山に少し上がったところに、林を背にしたトタン屋根のあばら屋がぽつりぽつりと見えてくる。その道筋に有村加恋の実家があった。
加恋は亜里沙と別れ、家に帰ってきたところで母親が知らない男たちと話をしている光景を目にした。
悪い予感がした。足が遅くなり、どこかに隠れようかと思った瞬間、母親が先に加恋に気づいた。
実母は加恋を見ながら申し訳なさそうに眉をひそめて、卑屈に満ちた笑みを浮かべていた。
加恋はゾッとした。不気味なほど卑屈に笑う感情の見えない瞳の奥に、昏く光る鬼の本性を見たのである。
加恋は身の危険を感じ、急いで山道を戻るように駆け出した。変だ、母もこの人たちもおかしい。
捕まえろという声が響き、大人の男たちが追いかけてくる。大人の体力に適うほどの脚力を持っているだろうか。どちらにしても捕まれば酷いことになる。その予感が加恋を必死に駆けさせた。
ああ、母さん…結局私の気持ちは届かなかったね。もしくは島へ売られてきたときに母さんの心は壊れてしまっていたのかもしれない。
後ろまで迫る男たちの息遣いが聞こえる。二人ほどだろうか。筋骨隆々の男たちに腕の一つでも摑まれたなら、そこで彼女の全てが終わる気がする。
自分が吐き出す息と心臓の音、追いかけてくる男たちが大地を蹴る音が加恋の神経を蝕んでいく。
音の洪水の中から大きなエンジン音が鳴ると、アクセルをふかした軽ワゴンが加恋の行き先を遮った。有村加恋は抵抗むなしく車の中に押し込まれた。
島田義一は有村宅で仕事を済ませると、若い衆の帰りを待っていた。そこに島田岳斗は息を切らせて現れた。
そして父親の姿を見つけて荒い息のまま近づいてきた。義一は息子の追跡に気づき小さく舌打ちした。
「いったいどういうつもりなんだよ。」
岳斗は吠えるように言った。
「あんた、人を買ってるんだろ。わかってんのか。俺のクラスメイトなんだぞ。」
「岳斗、おちつけ、おまえの勘違いだ。な、落ち着いて考えてみろ。」
義一は白々しい口調で答えた。
「前田に聞いたんだ。あんた有村の母親とつるんで娘を成金に売ったんだろ。もうこれ以上嘘なんていわないでくれ。」
しまった。あいつがこれほどお喋りな奴とは思わなかった。義一は部下の無能さに頭を押さえた。
「どうなんだ。本当のことを言って――。」
「勘違いだって言ってんだろ――!!。」
開き直った怒鳴り声が岳斗の耳朶に響いた。岳斗は父親の怒声を聞くと、ふいに涙が出て足がすくみ動けなくなるのだった。
「なあ、岳斗。俺は確かに女を買った。でも酷いことなんてしねぇよ。ちょっと借りただけだ。な、父親を信じてくれよ。」
岳斗の父親はナメクジのように這いより、岳斗の心を操作する。これが島田親子の主従関係を保つ術だった。
岳斗は体を硬直させて冷汗を垂らすことしかできなかった。
島田岳斗は大人になりたかった。それは父親に支配されたままの情けない子供のままだったからだ。
父親は岳斗の性格をいつも掌握し、飴と鞭を使って支配した。
ときには心の隙間に忍び込み、言葉巧みに父親としての信頼を得ようとする。岳斗も愛情に飢えているのだ。
もう悪いことはしない、信じてくれが口癖だった。その後は暴力で体を本能から屈服させる。
殴った次の日は優しい顔で謝ってくる。そのとき、岳斗の心は安心に満たされるのだった。
父親の酒癖も、岳斗の心を苦しめる暴力も、いずれ機嫌を直すからと我慢できるようになった。
こうして岳斗は父親に歯向かうことのできない少年に育ったのであった。
「次は櫻井の家だ。」
戻ってきた軽ワゴンの運転席に冷徹な命令が響いた。
「岳斗、おまえも連れて行ってやるよ。もしかしたら女のおこぼれに与れるかもしれないぜ。」
現役のころの調子を取り戻していく義一に対して、少年には歯向かう意志が残っていなかった。
島の集落の孤立化は進むばかりだ。日本海の水気を吸い込んだ空は雨雲となり、山稜から麓の町に白い帳を落とした。
島の中央に鎮座する緑山から目を移すと、三重県の沿岸部が見える。残るのは廃れた街並み、曇った空と湿った海だけである。
まだ日が白む前の朝、車のブザー音がけたたましい。朝霧が前方を不明瞭にし、車の丸いヘッドライトとフォグライトが闇に浮かび上がる。
島田岳斗は日課として早朝に家を出ると、ジョギングがてら海岸をまわっていた。
少年は去年の秋、十三歳で中等学校を途中退学し、父親の土木会社を手伝っている。
年相応の線の細い骨格には適度な筋肉が付き、短く刈り上げた頭と顔つきは年齢よりも大人めいていた。
岳斗は本土の姿がちらつくと、世間から忘れられていく渡船島の運命を歯がゆく思うのだった。あるいは本土から来た、今はいない母親を思い出すためかもしれない。
どちらにせよ、この孤島で生きていかねばならない。父親の会社に出向き、肉体労働に汗を流す。そんな毎日に満足している。彼は一日も早く大人になりたかった。
そんな彼にも気がかりなものがある。ひとつは去年に在籍していた中等学校、その同級生だった女の子だ。
今は中学二年生だろうか。黄金色の髪の毛を備えた凛とした姿、岳斗が彼女に惹かれたのは渡舟島の小社会から自立しようとする意志と行動力だった。
少年はなつかしいモラトリアムの感情を思い出した。
もうひとつは、この島に良くないものが侵入してきたという噂だ。
島の沿岸部に刑務所ほどの規模を持つ巨大な建造物がある。おおよそ、先のバブル景気に建てられ、買い手が付かず放置されたものではないだろうか。
近隣からもお化け屋敷扱いされていたその物件を何者かが買い取ったらしい。
持ち主の顔を見たことはないが、胸騒ぎがする。流通も娯楽もない孤島の監獄に自ら侵入してくる輩、それは多くの場合ヤクザもの以外にありえないと思うのであった。
少年はヤクザが嫌いだった。幼稚園児の時に家族の絵を描いたことがある。そこには紫のスーツにオールバックの鬼と泣いている母子が描かれていた。鬼とはヤクザだった父親、島田義一のことだ。
渡舟島はバブル景気の折にリゾート計画が考案され、宿場町が栄えた時代があった。
有力者は島を発展させるチャンスとばかりに計画に乗ったばかりか、違法な事業に手を染めることとなる。
開発事業には肉体労働者が集まるため、酒と賭博と売春を売り物にしようとするものが現れた。
そして公権力から隠匿するために町長と宿場町、ヤクザの強い癒着が生まれたのだった。
なかでも人気があったのは売春で、町筋にあるパブやスナックが客を入れたとたんに売春宿に早変わりした。
町中での揉め事はヤクザが暴力で取り仕切り、島の警察を袖の下で口封じした。
ここに売春産業を利益目的とする通称、売春島が生まれたのだった。
本土からは風俗嬢が斡旋され、また借金のかたに女が売られてくる。
島外からは女目当ての好きものが島に押し寄せた。果てしない欲望と金が動き、宿場町は刹那の享楽街として盛況を見せた。
島田の父親は女衒をしており、当時は大層儲けたと思い返している。
しかし、バブル景気がはじけた後はリゾート計画も中止となり、狂乱の時代は幕を閉じていった。
売春の利益が下がり、警察の口を封じられなくなった事でヤクザは島から撤退した。
島田の父親も今ではカタギとなり、社員を雇ってコツコツと働いている。岳斗は島が違法に栄えるよりも今の生活がずっといいと考えるのだった。
海道を真っすぐに走ると、湾曲した堤防に沿った曲道に入る。
岳斗が走り去った木立の脇には、低い緑が増え始め、一本の大きなアカシアの木がそびえていた。
丸く膨らんだ防波堤が半円形の草地を母の手のように包み込み、自然を箱庭に詰め込んだかのようだ。
潮風の強い海沿いに花は咲かないが、二人の花のような女学生が座っている。小さなレジャーシートに腰を乗せ、身を寄せ合いながら座るセーラー服姿は中等学生のものだ。
ひとりは右手を支えに相手の肩に首を乗せるようしなだれかかり、腰まで伸びた白金の毛髪を垂らしたまま、赤子のように眠っている。端正な顔は人形のように整っていた。
もうひとりは肩で友人の頭部を慈母のように支え、スカートから露出した膝から下をくの字に倒している。
ボブカットに揃えられた黒い髪の毛からはまだあどけない顔が見えていた。
お互いに二人は安らかな眠りに身をまかせていた。まるでここにだけは敵がいないかのように。近くの草陰には通学鞄がふたつ、無造作に置かれていた。
やがて空は曙に溶け始め、アカシアの葉の影が制服の白を移動していく。
ふたりは浅い眠りからまぶたを開け、上空を見つめていた。小さな体躯が二、三歩前に出ると同時に白金の髪が金色に反射する雲のように輝いた。
ハーフと思われる小さな顔が手足のスレンダーさを強調している。彼女は短く伸びをすると本土の方向を眺め、それから友人を振り返って言った。
「わたし、中学校を卒業したらこの島から出るよ。」
意志の強い碧眼が宝石のような輝きを放っている。
「それで、県内でもすごい、すごーい有名な美容師になって見せるから。」
無邪気な笑顔だった。彼女は暗闇から明けの光の中へ歩き出すように言葉を綴った。
「うん…加恋はこの島から本土に出て行っても上手くやっていけるよ。私たちよりもずっと頭が良くて、夢を叶えるための才能があるんだよ。」
加恋のとなりでスカートを直しながら友人は答えて言った。
「亜里沙にそう言われると恥ずかしいけど…やる気が出てくる、ありがとう。」
加恋の友人である亜里沙は黒い髪をゆらして花のように笑った。亜里沙の笑顔はまわりの空気を和やかにし、景色に彩りを与える。
「加恋はスーパースターなんだよ。この島で一番の天才なんだから!」
亜里沙のお墨付きをもらった。ああ、そうだ。有村加恋が泣き顔を見せずに前を向いて来れたのは、櫻井亜里沙の笑顔のおかげだった。きっと私はやっていける、と加恋は思った。
二人は朝の雨雲に湿った空気の中、丘の上に建つ中等学校に向かう。
校舎に続く山手の坂道をガードレールに沿って歩くと高台から港町が一望できる。先祖代々から受け継がれた古い校舎だ。
教室に入ると窓辺の席から入り込む光のコントラストとは対照的に、いっせいに敵意の目がこちらを貫いてくる。
しかしクラスメイトの視線を加恋は意に介さず自分の机に歩いていく。亜里沙は視線を下げたまま机に移動した。
有村加恋の髪色は脱色しているわけではない。白金の毛髪は東欧から来た母親からの遺伝だった。
加恋は昔から意志の強い子供で島でも有名な変わり者だった。人と群れることを極端に嫌い、自分を叱りつける教師にさえも歯向かった。
加恋の母親は島が色町だったころに本土から移ってきた女性で、日本語を書けなかったし家事はろくにできなかった。
ひとりでは生きていけないほど依存的な性格で、幼いころの加恋に炊事、洗濯、掃除をまかせ、自分は多くの男と関係を持っていた。
加恋の父親のことは一夜を共にしただけで名前も覚えていないそうだ。
むろん、いじめられた。髪色、目の色、顔の形。ねんごろの母親と理由は尽きなかった。
加恋は他人に決して心を許さなかった。名前も知らない母の連れ込んだ男に乱暴を受けそうになった日は無人のあばら家で夜を凌いだ。
ある日、自分と同じく売春婦の娘だと蔑まれ、石を投げられている女の子を見つけた。
加恋は島の人間の卑屈さに無性に腹が立って、そのいじめっ子たちを追い払い、教師に告発した。だが、基本となるべき教師も同じことを言った。
「余計なことをするな」と。
それでも加恋は自分が間違っていないと信じていた。そして友達ができた。今では親友だと思っている。
義務教育を終えたら島を出て美容師になるという目標もできた。そして十四歳、中学二年生。
155㎝ほどの小さな体躯にモデルのような手足。整った顔立ちからのぞくルビーのような瞳。
少女の瞳は確固とした意志を放ち、古ぼけた田舎町の秩序を変革してしまう。
加恋が島内で浮ついた存在になるのは、誰もが自分の理解できない存在を恐怖と受け止めるためだ。このような人物をカリスマと呼ぶ。
中学校のカリキュラムが終わると加恋と亜里沙は一緒に帰路についた。
二人は同じ通りに住んでいるが、亜里沙のほうがやや遠くになる。加恋と別れた亜里沙は自分の家に帰るのが億劫だった。
「私はきっとこれからも、辛くてもため息をついても結局はこの島から出る自信はないんだよ。」
亜里沙は小さく漏らし、トタン作りの掘っ立て小屋を前にして立ち往生した。
櫻井亜里沙は恵まれたとはいえない家庭環境で育った。
母親は労働力となる男子ではなく、女の子として生まれた亜里沙のことをよく思っていなかった。
むしろ、金を稼げない子供、穀つぶしと見ていた。物心ついたころから家事や労働は彼女の仕事であり、家庭に住まわせる当然の対価だと教えられた。
母親が代わるがわるに連れ込んでくる男と一晩過ごした部屋を掃除するのも仕事のひとつだった。
子供は親の顔を見て育つというが、暴力的でヒステリックな母親に支配された生活は、亜里沙を自虐的で内気な人間に変えていった。
学校は子供のヒエラルキーを表す社会の縮図である。亜里沙は他人に話しかけることもできず、一人だけクラスで浮いてしまっていた。
当然、匂いを嗅ぎつけた小動物のようにいじめの加害者が寄ってくる。その人間を限界まで追い詰める遊び。靴隠し。画鋲を貼った椅子。机に書かれた落書き。性的な嫌がらせ。
「死んじゃえ。死んじゃえ。死んじゃえ。死んじゃえ。」
心を折り屈服させる遊びは長い間続いた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな…さい。」
亜里沙はついに全ての悪意の奴隷となることを承諾した。自分が悪い。友達のいない自分が悪い。目立った自分が悪い。普通じゃない自分が悪い。全部わたしが悪い。
学校という場の役割は、家庭で親から学んだ誤った認識を修正するための場でもある。
しかし、いじめという社交を断絶した環境では意味をなさない。彼女はこれからも自分を責めながら一生のハンデを背負って生きていく…はずだった。
有村加恋との出会いはきっと運命だった。薄く濁った視界の中に、美しい白金の紙が風に舞った。
加恋は傷を作ることを恐れなかった。自分を抑圧する卑怯な人間に屈せず、小さな体で戦った。亜里沙にとってそのさまは、ただただ奇麗だった。
社会から浮いているはみ出し者の二人は、いつの間にか友達になっていた。そう、これは亜里沙にとっての運命だったに違いない。
加恋は亜里沙を頼りにしているが、支えられているのはむしろ亜里沙のほうだった。雨の中、お互いに支えあう植物が倒れずにいるように。
そして道が別れる時はいつか来るだろう。亜里沙は島から出ることはできない。ずっと島で働いて、母の面倒を見ながら生きていくだろう。
でも、いつだって加恋の夢を応援することはできる。親友が頑張っていると思うことで自分も強くなれる。亜里沙は呼吸を整えて、ただいまと言って家に入った。
三重県では渡舟島に渡るための簡素な船着き場がある。潮風が匂う曇天の日本海を前にして舟を待っているものが一人いた。
フォーマルスーツに身を包んだ青年は団扇で扇ぎながら、親戚からの突然の呼び出しに少々苛ついていた。
松嵜龍児は大手財閥、松嵜一族の長男として生まれて、父親の教えに従い英才教育を受けて育った。
エスカレーター式のエリート一貫校に入学し、高等部に進学したが在学中に体調を崩し、長期休学の後に自主退学した。
二十歳になる今まで定職にもつかず目的のない日々を送っていた。休学を決めたとき、実父は息子の体たらくに怒り狂った。
そのため龍児は怒号を避けるように家から離れて暮らしている。働かず、安アパートで暮らし遊び歩く生活。
それでも松嵜の長男という肩書に人は寄ってくるし、父方の叔母は金銭を工面してくれた。
人は真面目に働くことが美徳だというが、出来損ないの自分でも不自由なく生きていける。
真面目に努力することなどくだらない。社会を支える仕事など相応しい奴に譲ってやればいいんだ。
龍児は手痛い挫折を経験してすっかり堕落した生活に染まっていた。そんな環境のなかでも自分を気遣ってくれたのが大叔父である松嵜世啻人だった。
松嵜世啻人は日本の高度経済成長期に会社を起こし、一代で大企業に成長させた怪物である。
大叔父の口癖は「世の中には奪うものと奪われるものだけがある」であり、一族の男に覇道を説いた。
龍児は親に見捨てられた自分にまで、自信を持つようにと労いの言葉をくれた世啻人に好感を持っていた。
三日前のある日だった。アパートに帰ると仰々しい黒服の男が黒いセダンに乗って待ち受けていた。
黒いスーツで固めた男たちの中から一人の中堅幹部らしきものが近寄り、自分は松嵜商事会長、つまり大叔父の使いだと言うのである。
そうして渡された手紙を開くと、「別荘にて松嵜の縁を深める宴を開くので来られたし」といった文面が書かれていた。
龍児は箪笥をひっくり返し、以前見たはずの奇麗目のスーツを引っ張り出して着込むと電車に飛び乗った。
そうしてこの船着き場にいる。さっきまでは急な呼び出しにイライラしていた。しかしどうだろう。今ではくだらない世の中を打ち壊すカタルシスを求めて期待に胸躍らせている自分がいる。
大叔父が邸宅を買い求めた島について人づてに聞くと、昔は売春島と呼ばれていたらしい。
「売春島か、それもいいかもな。」
その語感が気に入った。金に売られた女たちが猛々しい男たちの慰み者にされた歴史があるのだろう。
龍児は口の端を釣り上げる、嗜虐心に満ちた独特の笑いを浮かべた。そして右手でうちわを振りながら期待に満ちて船を待つのだった。
ある土曜日の朝型だった。島田岳斗は目を覚まし、家の洗面所に向かうと父親の義一がいた。
義一は垂れた腹と尻のぜい肉が目立ち、中年の体系になって久しい。
岳斗は今日の義一の様子が少しおかしいのに気づいた。昔の色町で女衒をしていた頃の紫色のスーツを羽織り、コームで髪の毛をオールバックにセットしている。
後退した前髪がワックスの油で照りかえり、富士額を目立たせる。
「女たちに甘い言葉をかけると全ては金に変った」というのは、昔を懐かしむ義一が目を輝かせて語った昔話だ。
あの頃は良かった。金があれば女房も帰ってくる。そんな話は、取り戻せない喪失を懐かしむ無意味な現実逃避のはずだった。
しかしどうだろうか、義一の目は長年の宿願が適ったようにギラギラと光っていた。
「何があったんだ。」
岳斗は訝しんだ。義一が若い衆を連れてどこかに出かけて行った後に、岳斗は会社の社員に尋ねてみた。
この若い社員は前田といって、岳斗に色々な情報をくれる口は軽いが記憶力は確かな男だった。
「ぼっちゃん、知らなかったんですか。社長は最近ヤクザのシノギに戻るって言ってて、今さっき女を買いに行くって出かけたんですよ。ほら、前に言ったお化け洋館を買い取った新しい主人が変態でね。島の若い女を売春にあてがうよう、社長に大金ちらつかせてきたんでさぁ。あんな変態に買われたら最後、生きて帰れやしませんぜ。」
岳斗の脳髄から怒りが込み上げてきた。親父はせっかくカタギに戻ってやり直すと言ってたのに何をやってるんだ。
金で女を売買するという鬼畜の所業に落ちてしまったらお終いじゃないか。
親父の機嫌が良かったのはこのせいか。そんなに昔の自分に未練があったのか。バブル期という時代は今よりもそんなに魅力的だったのか。
はっと、岳斗は怒りに染まっていく自分に気づき、頭を冷やすため深く息を吐き出した。
「それで、誰を買うって話なんだい。」
「それが、むかし女郎だった女が金欲しさに娘を売るって話なんでさぁ。確か、有村と櫻井って言ってましたぜ。」
前田はからからとよく回る糸車みたいに井戸端話に花を咲かせていたが、岳斗は顔を青くしたまま呆然と呟いた。
「なんていうことだ…。」
最悪の事実が自分の予測をはるかに超えて地平の向こうへ走っていく。現実の営みを吐き気を催すどす黒い欲望で塗り替えるために。何もかも遅かった。
「あの母親ども、あいつらだ。…売ったんだ。自分の娘を売ったんだ。金と引き換えに…。」
有村の母親、それに櫻井の母親もこの島で労働者相手に体を売っていた娼婦だった。そして父親、島田義一は女を客に仲介するポン引きをしていた。
有村の母親たちは、リゾート開発事業が頓挫した後も渡舟島の色町に建つ置屋と呼ばれる売春斡旋所で金を稼いできた。
客が少なくなり、色町が終焉を迎えると住居のあばら屋に男を連れ込み、二束三文で体を売った。そういう生き方しかできない人たちもいる。
バブル期に傷つけられた、あるいは狂った人間はまだ夢を見ている。そして岳斗の父親は島に現れた成金に島の少女を売り渡そうとしている。
なんていうことだ。親父がまっとうに働くという言葉を信じた自分が馬鹿だったのだ。
少年は会社施設のドアを強引に開け放つと、鍛えた足をバネのように機敏に動かして海道方面へと走った。
「頼む、間に合ってくれ。」
海辺の町の中心から山に少し上がったところに、林を背にしたトタン屋根のあばら屋がぽつりぽつりと見えてくる。その道筋に有村加恋の実家があった。
加恋は亜里沙と別れ、家に帰ってきたところで母親が知らない男たちと話をしている光景を目にした。
悪い予感がした。足が遅くなり、どこかに隠れようかと思った瞬間、母親が先に加恋に気づいた。
実母は加恋を見ながら申し訳なさそうに眉をひそめて、卑屈に満ちた笑みを浮かべていた。
加恋はゾッとした。不気味なほど卑屈に笑う感情の見えない瞳の奥に、昏く光る鬼の本性を見たのである。
加恋は身の危険を感じ、急いで山道を戻るように駆け出した。変だ、母もこの人たちもおかしい。
捕まえろという声が響き、大人の男たちが追いかけてくる。大人の体力に適うほどの脚力を持っているだろうか。どちらにしても捕まれば酷いことになる。その予感が加恋を必死に駆けさせた。
ああ、母さん…結局私の気持ちは届かなかったね。もしくは島へ売られてきたときに母さんの心は壊れてしまっていたのかもしれない。
後ろまで迫る男たちの息遣いが聞こえる。二人ほどだろうか。筋骨隆々の男たちに腕の一つでも摑まれたなら、そこで彼女の全てが終わる気がする。
自分が吐き出す息と心臓の音、追いかけてくる男たちが大地を蹴る音が加恋の神経を蝕んでいく。
音の洪水の中から大きなエンジン音が鳴ると、アクセルをふかした軽ワゴンが加恋の行き先を遮った。有村加恋は抵抗むなしく車の中に押し込まれた。
島田義一は有村宅で仕事を済ませると、若い衆の帰りを待っていた。そこに島田岳斗は息を切らせて現れた。
そして父親の姿を見つけて荒い息のまま近づいてきた。義一は息子の追跡に気づき小さく舌打ちした。
「いったいどういうつもりなんだよ。」
岳斗は吠えるように言った。
「あんた、人を買ってるんだろ。わかってんのか。俺のクラスメイトなんだぞ。」
「岳斗、おちつけ、おまえの勘違いだ。な、落ち着いて考えてみろ。」
義一は白々しい口調で答えた。
「前田に聞いたんだ。あんた有村の母親とつるんで娘を成金に売ったんだろ。もうこれ以上嘘なんていわないでくれ。」
しまった。あいつがこれほどお喋りな奴とは思わなかった。義一は部下の無能さに頭を押さえた。
「どうなんだ。本当のことを言って――。」
「勘違いだって言ってんだろ――!!。」
開き直った怒鳴り声が岳斗の耳朶に響いた。岳斗は父親の怒声を聞くと、ふいに涙が出て足がすくみ動けなくなるのだった。
「なあ、岳斗。俺は確かに女を買った。でも酷いことなんてしねぇよ。ちょっと借りただけだ。な、父親を信じてくれよ。」
岳斗の父親はナメクジのように這いより、岳斗の心を操作する。これが島田親子の主従関係を保つ術だった。
岳斗は体を硬直させて冷汗を垂らすことしかできなかった。
島田岳斗は大人になりたかった。それは父親に支配されたままの情けない子供のままだったからだ。
父親は岳斗の性格をいつも掌握し、飴と鞭を使って支配した。
ときには心の隙間に忍び込み、言葉巧みに父親としての信頼を得ようとする。岳斗も愛情に飢えているのだ。
もう悪いことはしない、信じてくれが口癖だった。その後は暴力で体を本能から屈服させる。
殴った次の日は優しい顔で謝ってくる。そのとき、岳斗の心は安心に満たされるのだった。
父親の酒癖も、岳斗の心を苦しめる暴力も、いずれ機嫌を直すからと我慢できるようになった。
こうして岳斗は父親に歯向かうことのできない少年に育ったのであった。
「次は櫻井の家だ。」
戻ってきた軽ワゴンの運転席に冷徹な命令が響いた。
「岳斗、おまえも連れて行ってやるよ。もしかしたら女のおこぼれに与れるかもしれないぜ。」
現役のころの調子を取り戻していく義一に対して、少年には歯向かう意志が残っていなかった。
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