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第15部

第八章 二人の未来⑨

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 ――はァ、はァ、はァ……。
 ゴクリ、と喉が鳴る。
 映る世界が、ずっとぼやけていた。
 シェーラ=フォクスは、選手控室の長椅子の上で横になっていた。
 操手衣の胸元は、再び大きく開いている。しかし、一向に熱が冷める様子はない。
 白い肌には、異様なほどに汗が浮かび上がっていた。

「……あァ……」

 喉が酷く乾く。
 試合終了直後は、周りに――特にサーシャに心配をかけさせないため、どうにか平然を装っていたが、選手控室までが限界だった。
 力尽きるように、長椅子の上に倒れ込んだのである。
 もう、自力で立ち上がることも困難だった。

(……み、水……)

 歪み、ぼやける視界で長椅子の端に置いてあるボトルに目をやった。
 あれには水が入っているはずだ。

「……はァ、はァ」

 シェーラは体を反転させて、這いずるようにボトルに手を伸ばす。
 しかし、手が届かない。

「……うぐ」

 さらに手を伸ばす――が、
 ――ボトン、と。
 指先が掠ったボトルは、大きく揺れて長椅子から落ちてしまった。
 まるで最後の希望を絶たれたように、シェーラの意識は消えそうになった。
 ――と、その時だった。

 ――シェーラッ!

 どこか遠くで名前を呼ばれた気がした。

 ――くそッ! やはりこうなってたか!

 力強い腕で、自分の体が抱き上げられる気がした。

 ――シェーラ! しっかり……うお、凄い恰好だな……い、いや、すまん。

 遠い声が、かなり近くから聞こえてきた。

 ――シェーラッ! シェーラッ!

 何度も、自分の名前を呼ばれた。
 シェーラは、うっすらと目を開けた。
 ぼんやりと人影が見える。彼女は喉を鳴らして告げた。

「……み、水……」

 ――水だな!

 その人影は、シャーラを抱いたまま移動した。
 落ちたボトルを手に取ったのだろう。人影はシェーラの口にボトルを付けた。
 しかし、彼女には、それを呑むほどの力が残っていなかった。

 ――くそ。すまん。許してくれ。シェーラ。

 人影はそう告げた。
 そうして、ややあってから、シェーラは唇に柔らかい感触を感じだ。
 彼女の唇や歯が、何か力強いものにこじ開けられる。次いで、冷たい液体らしきものが口内に流し込まれた。

(……あ)

 水だ。シェーラは喉を動かした。
 少しだけ体に活力が戻る。続けて二度目。シェーラは「……ん」と小さく呻いて、喉を鳴らした。それが何度か繰り返された。

 ――どうだ? まだ足りないか?

 尋ねてくる人影に、シェーラは、こくんと頷いた。
 あごを少しあげると、また唇に感触が伝わった。冷たい水が喉を通る。
 彼女は震える両手を、未だぼんやりとした人影の首に回した。
 それから、唇を重ねたまま、ぎゅうっと強く抱き着いた、
 人影は、そんな彼女の体を強く支えてくれた。
 そして、唇が離れる。

 ――もう大丈夫だ。俺が傍にいる。

 ぼんやりとした人影が、大きな手で彼女の額を撫でてそう告げてくれた。
 その声に、とても深く安堵して、シェーラの意識は途切れた。
 次に目覚めた時、彼女の体は少し揺れていた。
 シェーラは、ぼんやりと目を見開いた。
 目の前にあるのは、誰かの後頭部だった。
 男性の後姿だ。どうやら自分は背負われているらしい。

「……ここ、は?」

 ポツリと呟くと、

「お。気が付いたか?」

 男性が告げてきた。その声に、シェーラの意識は一気に覚醒した。

「――お、叔父さまっ!?」

 彼女を背負っていたのは、アランだった。
 シェーラは困惑した。

「ど、どうして叔父さまが……え? なんで?」

 キョロキョロと周囲を見渡す。煉瓦造りの通路。闘技場内の道だ。
 ますます状況が分からない。混乱したシェーラは、とにかく、アランの背中から降りようとするが、

「……あ」

 くたあっと。
 まるで力が入らず、逆に彼の背中にもたれかかる結果になった。

「こら。無理をするな」

 アランは苦笑を浮かべて、彼女の体を抱え直した。

「……叔父さま」シェーラは尋ねる。「どうしてここに?」

「お前が心配だったからに決まってるだろう」

 アランは、呆れるように告げた。
 それから顔を横にして半眼になる。

「シェーラ。お前、《焦熱》を使っただろ」

「え」

 シェーラは目を見開いた。

「ど、どうしてそれを……」

「色々あってな。俺はそれにちょっと詳しいんだ。すぐに気付いたよ」

 アランは少し険しい顔を見せた。

「まったく。なんて馬鹿な真似をするんだ」

「ご、ごめんなさい」

 シェーラは、しゅんと表情を暗くした。

「今回の大会、どうしても、勝ちたくて……」

「お前がどうしてそこまで勝ちにこだわったのかは分からんが……」

 そこで、アランは心から安堵した顔で告げる。

「本当に心配したんだからな。お前の体より大事なことなんてないんだぞ」

「……叔父さま」

 シェーラは、アランの肩を掴んで恐る恐る聞いた。

「叔父さまは、シェーラのことが大切……でありますか?」

「そんなの当り前だろ」

 アランは即答した。

「決勝戦なんて息が止まるかと思ったぞ。ある意味、サーシャ以上にハラハラしたな」

「……ご息女よりも、でありますか?」

 シェーラは目を瞬かせる。

「サーシャには内緒だぞ。少しだけお前の方を応援してしまった」

 そう告げるアランに、シェーラの顔がボッと赤くなる。
 まさか、彼が自分の愛娘よりも、自分の方を応援してくれるとは……。

「けど、それは全部、お前が無茶をしたせいだぞ。まったく。頼むから、二度とこんな無茶はしないでくれ」

 そう告げて、アランはシェーラを運び続ける。
 そこで、廊下の一角が目に入った。行き先を示すプレートである。どうやら、アランはシェーラを背負って、医務室に向かっているようだ。
 アランは、しばし無言で足を進めていた。
 コツコツと足音だけが廊下に響く。
 シェーラはおもむろに、あごを彼の肩に預けた。

「ごめんなさい。叔父さま」

 小さな声で告げる。
 そして、頬を染めて、彼女は微笑むのだった。

(大好きであります。アランの叔父さま)


       ◆


 その頃。
 アッシュは一人、闘技場の廊下を歩いていた。
 レナとは、すでに別れていた。

『と、とりあえずさ!』

 別れ際、レナは、こんなことを言っていた。

『オ、オレは後でいいから! 今回勝ったのはサーシャだし!』

 レナは、胸の前で両の拳を固めて、こうも告げた。

『よくよく考えれば……うん! やっぱ、まずはサーシャからだよな! うん! サーシャからだ! 今回、オレは副賞みたいなものだし! 敗者だし! け、けど、その、覚悟はしとくから! 今の内に、覚悟だけはしておくから!』

 真っ赤な顔でそう叫ぶなり、『じゃ、じゃあまたな!』と、ブンブンと手を振って、レナは走り去っていった。
 アッシュとしては、サーシャからという言葉の意味がよく分からず首を傾げていたが、とりあえず、いつも通り元気なレナの姿に安堵しつつ、サーシャが戻っているはずの選手控室に行くことにした。
 色々とトラブルはあったが、今はあの子を褒めてあげたいと思ったからだ。

 アッシュは、廊下を進んでいく。
 と、そうこうしている内に、選手控室に到着した。

 アッシュは、コンコンとノックした。
 すると、室内から『はい。開いてますよ』というサーシャの声が返ってきた。

「おう。入るぜ」

 アッシュはそう告げて、室内に入った。
 そこにいたのは、白い操手衣を着たままのサーシャだった。
 他には人もいない。ここはサーシャ専用の部屋だった。

「――先生っ!」

 サーシャはアッシュの姿を確認すると、満面の笑みを見せて、駆け寄ってきた。
 そして「撫でて、撫でて」といった眼差しでアッシュを見つめてくる。
 アッシュは苦笑しつつも、サーシャの頭を撫でてやった。
 サーシャは嬉しそうに目を細めた。
 数秒ほど、撫でてから、

「よく頑張ったな。サーシャ」

 アッシュは笑う。サーシャは「はい」と頷いた。

「よくやったぞ。最後なんて構築系まで使っただろ?」

「は、はい。自分でも驚きました」

 サーシャが、気恥ずかしそうに言う。
 咄嗟に使った構築系の闘技。手甲に生み出した《十盾裂破》。
 創り出せたのは一枚の盾だけだが、最後の一撃を凌ぐことは出来た。
 それが勝利へと繋がったのだ。
 だが、それも、最後の最後までサーシャが諦めなかった結果だ。
 彼女の想いの力が、勝利を引き寄せたのである。

「……本当に、よく頑張ったぞ」

 心から誇りに思って、再び頭を撫でた。
 サーシャもまた目を細めた。しばらく嬉しそうだったが、ややあって、

「……あ、あの、先生……」

 上目遣いの眼差しで、サーシャが唇を開いた。

「ん? 何だ?」

「あ、あの、ですね……」

 サーシャは、少し恥ずかしそうに告げる。

「そ、その、約束していた、優勝のご褒美なんですけど……」

「ああ、そうだったな」

 アッシュは、ニカっと笑う。

「何だ? 何が欲しいんだ? それとも何をして欲しい?」

「あ、は、はい」

 サーシャは、コクコクと頷いた。

「じゃ、じゃあ……」

 くるくると指先で自分の髪を巻き、視線を逸らして彼女は言う。

「色々と考えてるんですけど、けど、その前に……少し目を瞑ってくれませんか?」

「ん? 目か?」

 アッシュは一瞬、キョトンとするが、

「何だよ。サプライズか?」

 ふっと笑い、目を瞑った。
 当然ながら、視界が閉じられる。と、サーシャの声がした。

「……はい。多分、アッシュにとっては、とても驚くサプライズになると思います」

「おっ、そうなのか?」

 目を瞑ったまま、アッシュは気楽にそう呟いた。
 そうして数秒の静寂。
 謎の沈黙に、アッシュが不思議に思った時。

 ――すうっ、と。
 自分の首に、細い両腕が回される感触を覚えた。

(――ッ!)

 アッシュは、目を見開く。
 そこには、瞳を閉じるサーシャの顔があった。
 そして、彼女の唇は、自分の唇に強く重ねられていた。
 あまりのことに、アッシュは硬直した。
 口付けは、十数秒間も続いた。
 ややあって、サーシャは瞳を開くと、ゆっくりと唇を離した。

「……サーシャ、お前……」

 アッシュは、未だ唖然としていた。
 言葉もなく、愛弟子を凝視する。
 彼女は、片手で自分の唇を押さえて、赤い顔で視線を逸らしていた。

「……これが……」

 か細い声で、サーシャが呟く。

「私の気持ちなんです。アッシュ……」

 彼女は、胸元に両手を置いて、遂にはっきりと告げた。

「私は、貴方のことが好きなんです」

「……サーシャ……」

 アッシュは茫然と呟き、愛弟子を見つめた。
 彼女は、ずっと頬を赤く染めていた。

「ずっと、ずっと貴方のことが好きでした。私は貴方と結ばれたい」

 そう告げるサーシャに、アッシュは神妙な顔をした。
 まさか、サーシャに、そんな想いを抱かれていたとは……。

(……俺は、どこまで鈍感なんだよ)

 思わず頭を抱えたくなる。
 サーシャを女性としてどう思っているか。
 それは、今さら見つめ直すまでもない。
 かつて友人ザインに語ったように、とても魅力的に思っている。
 そんな彼女に好きだと告げられれば、当然ながら嬉しく感じる。

 ――しかし、だ。

「……すまん。サーシャ」

 アッシュは真剣な表情で、サーシャの顔を見据えた。
 真剣な想いには、真摯な態度で応じるべきだった。
 この純真な少女に語るには、恥ずべき話ではあるが、ここは、オトハとサクヤ。そしてシャルロットのことを告げるべきだろう。

 自分は最低な人間だ。
 師としても、男としても、幻滅されるに違いない。

 だが、それでも、しっかりと伝えるべきだと思った。

「……お前の気持ちは嬉しい。とても嬉しく思う。けど、俺にはすでに恋人がいるんだ。それも一人じゃなくて――」

「あ、知ってます。オトハさんと、サクヤさんですよね」

「――なんでお前まで知ってんだよ!?」

 真剣な雰囲気から一変、アッシュは愕然とした。

「サクとオトはどこまでしゃべってんだ!? つうか、お前、それを知った上で俺に告白してんのか!? どういうつもりなんだよ!? サーシャ!?」

 シャルロットもそうだったが、これは一体どういう状況なのか。
 アッシュが激しく動揺していると、サーシャは「ふふ……」と微笑んだ、

「その点は、もう覚悟もしていますから。私も。みんなも。それに、他にも知っているんです。そう。私は全部・・知っているんです」

 サーシャは両手を、アッシュの頬にそっと添えた。


「……トウヤ・・・


「……え」

 一部の人間しか知らないはずのその名で呼ばれて、アッシュは目を剥いた。
 サーシャは微笑みながら、言葉を続ける。

「貴方が真面目な人なのは知っています。誠実だから、複数の人を愛して、強いジレンマを抱いていることも。だけど、それ以上に貴方が凄く臆病なことを知っています」

 一拍おいて、

「大切な人は絶対に離したくない。サクヤさんを失った日から、貴方は大切な人を――愛する人を失うことに、酷く怯えている。サクヤさんを取り戻した今でも、それだけは変わらない。私はそれを知っています」

 そこで、琥珀色の瞳を少し細めて、ペロッと舌を出した。

「だから、私は確信犯なんですよ。貴方が、私のことも、大切に想ってくれていることはもう知っているから。そうですね。ジラールを思い浮かべてください」

「……いや、ジラールって……」

 唐突な名前に、アッシュは困惑した。

「俺は、そいつとは一度も遭ったことがねえんだが……」

「なら、どこかのおじさんでもいいです。四十代ぐらいの。太った人」

「……誰だ、そいつは?」

 アッシュが眉をひそめると、サーシャはクスリと笑った。

「誰でもいいです。けど、その人に、私が抱かれてしまうところを想像してください。状況は政略結婚でも、借金の肩代わりとかでもいいです。その人が、私のことを力尽くで組み伏せて、乱暴なことをするんです」

「……おい。それは……」

 アッシュは、表情を険しくした。
 サーシャは、アッシュの首に手を回して告げる。

「……嫌ですよね?」

「当り前だろ。そんなの」

 即答してくれるアッシュに、サーシャは嬉しそうに微笑む。

「だったら、他の男の人だったらどうですか? 今度は、私がその人のことを好きになるようなケースでもいいです。どう思いますか?」

「……それは……」

 アッシュは渋面を浮かべた。
 他の男がサーシャを抱く。それを考えると、胸の奥がざわついた。

 頑張り屋の愛弟子。
 死ぬ運命だったユーリィの命を助けてくれた女の子。
 あの夜、自暴自棄になった自分を引き戻してくれた少女。

 自分でも分かっている。
 サーシャが、自分にとってかけがえのない存在であるということは。

「ね? やっぱり、私は確信犯でしょう?」

 サーシャは、悪戯っぽく微笑んだ。

「私は知っています。私が、どれほど貴方に大切に想われているのかを。私は知っているんです。私が本気の想いを伝えた今、どんなジレンマを抱いたとしても、私のことを大切に想ってくれている貴方が、私を離せるはずがないって……」

「……サーシャ」

 アッシュは、とても困惑していた。

「……むむむ。これでも、まだ押しが足りないみたいですね」

 サーシャは、頬を膨らませた。

「なら、さらに押しこみますよォ。今回のご褒美の話です」

「ご褒美って……それって、さっきの……優勝したらってやつの話か?」

「はい。そうです」彼女はニコッと笑った。

「私の望みは、アッシュとの小旅行です。三泊四日ぐらいの」

「……は?」

 アッシュは目を丸くした。
 サーシャは、大きな胸を反らして「ふふん」と鼻を鳴らした。

「お金は優勝賞金から出します。ラッセルでホテルを取るつもりです。ラッセルで一番高いホテルのスイートルーム。室内にお風呂まであるっていう話の部屋です」

 サーシャは顔を少し赤くしつつ、コホンと喉を鳴らした。

「その部屋を三日間、二人きりで借りるつもりです」

「お、おい! サーシャ!」

 アッシュが顔色を変えるが、サーシャは攻め手を緩める気はない。
 自分の首元に指先を当てた。プシュッ、と軽く空気が抜ける音がして、操手衣の前面が大きく裂ける。ぶるんっと彼女の豊かな胸が露になった。

「うひゃあっ!?」

 流石に零れ落ちたりはしなかったが、自分でも想定してなかった弾み具合に、サーシャの顔が真っ赤になった。思わずへの字口になって、プルプルと震えた。

「……サ、サーシャ?」

 アッシュが恐る恐る声を掛けると、

「だ、大丈夫ですよ! これぐらい! だって、今の私は、ただのメットさんではありませんから! 優勝を果たして最強進化した究極無敵アルティメットサーシャちゃんなのです!」

「い、いや、アルティメットのメットは、メットじゃあ……」

「や、やあっ!」

 ツッコみも遮って、サーシャはアッシュに抱き着いた。
 大きな双丘が、アッシュの胸板で押し潰される。
 わざわざ操手衣を解放したのは、これを十全に発揮するためという訳だ。
 ただ、それを実行したサーシャ自身の顔は、もう凄まじいぐらいに真っ赤だったが。

 アッシュとしては、茫然とするばかりだった。
 すると、

「ふ、二人きりの、三日間……」

 サーシャは、少し涙が滲んだ眼差しでアッシュを見つめた。

「も、もっと、もっと攻めちゃいますからね! 一緒に……そ、その、お風呂とかもお願いしたりしちゃいますから! これは優勝者の権利ですから! アッシュに拒否権はないですから! わ、私のことが大切で、離したくないアッシュは、その、男の人として、が、我慢できますかっ!」

 まるで小動物のようにプルプル震えながら、そんなことを言ってくる。

「……サーシャ。お前な……」

 アッシュは嘆息した。
 しかし、同時に愛らしすぎる彼女に、強い愛情が込み上げてくる。

(……やれやれだな)

 アッシュは一度瞑目してから瞳を開けると、サーシャの腰に腕を回し、彼女の体を軽く抱き上げた。サーシャは目を見開いた。

「え、ア、アッシュ……?」

 動揺した声を上げる。
 そんな彼女を、アッシュは、より強く抱き寄せた。

「……お前の勝ちだよ。サーシャ」

「か、勝ち?」

「ああ」アッシュは頷く。

「見事な戦術だった。的確に弱点を突いてくれたよ。全部お前の言う通りだ」

 くしゃり、と彼女の頭を撫でる。

「お前の言う通り、俺にとって、お前は本当に大切なんだ。ここでグダグダと言い訳してお前を失うぐらいなら、俺のジレンマなんて些細なことだ」

 一拍おいて、

「本当に思い知らされたよ、サーシャ。サクや、オト。シャルと同じように、俺はお前のことを、こんなにも離したくなかったんだな」

「え? シャルロットさんって」

 サーシャは、目をパチパチと瞬かせた。

「凄い。シャルロットさん、いつの間に……」

「……いや、凄いって……やっぱ全然驚かねえんだな。まあ、それでも、流石にシャルのことまではまだ知らなかったか」

 シャルロットを、この腕に抱くと決意したのは今朝のことだ。
 そのことは、まだサクヤにもオトハにも伝えていない。知らなくても当然だ。
 それにしても、わずか半日の間で、まさかこうなるとは……。
 アッシュは、自分が選んだ道に、小さく嘆息した。
 だが、

「小旅行の件もOKだ。予定の方も都合をつけるよ。けどな」

 アッシュは、腕の中のサーシャの息遣いや、その温もり、柔らかさを堪能するように抱き直してから、耳元で囁いた。

「言っとくが、その三日間はマジで覚悟しとけよな。もちろん、サーシャのことは大切にするつもりだが、流石にもう優しいだけの先生って訳にもいかねえからな」

「…………え」

 アッシュの台詞に、サーシャは大きく目を見開いて、
 ――カアアアアっと。
 顔からうなじ、胸元から腹部に至るまで。
 露出した全身の肌を赤くした。

 一方、アッシュは「ははっ」と笑う。

「けど、何の心配もいらねえか。なにせ、今のサーシャは、最強に進化した究極無敵アルティメットサーシャちゃんなんだしな」

「~~~~~っっ」

 サーシャは何も言えず、口をパクパクと動かした。
 アッシュは、双眸を細めると、サーシャの白い首筋に強く口付けをした。
 この女は自分のモノであると刻むように。

「…………あ」

 本能的にそれを察したのか、サーシャが全身を硬直させる。
 否応なく心音が高鳴り、体温が上がっていく。

「……う、あ……」

 サーシャがギュッと目を瞑り、声を零す。
 数秒ほど経って、

「……サーシャ」

 ようやく口を離して、アッシュはサーシャの名を呼んだ。

「は、はい……」

 と、サーシャは、どこか焦点の合っていない眼差しでアッシュを見つめた。
 そこで、アッシュは少しだけ意地悪な笑みを見せた。
 彼女のうなじに手を添えると、コツンと額同士を当てて、

「ここまで男を挑発したんだ。もうなかったことになんて出来ねえからな」

「…………あ」

 サーシャが琥珀色の瞳を見開き、ビクッと肩を震わせた。忙しく視線が動く。が、ややあって、緊張で目尻に涙を溜めつつも「はい……」と答えた。

「……わ、分かっています。け、けど、私は、まだ初めてだから……その」

 サーシャは、消え入りそうな声で告げた。

「……ご、ご指導、ご鞭撻のほどを……」

「いや……ははっ」

 アッシュは口元を綻ばせて、彼女のうなじをぐいっと引き寄せた。
 ……本当に。
 自分の人生は、本当に波乱万丈だ。

(これまで本当に散々な人生だったが、まあ、こればかりは自分で選んだんだ。もう運命のせいなんかにも出来ねえよな)

 愛しい女サーシャの唇を奪って。
 強い覚悟と共に、心の底から、そう思うアッシュであった。
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