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第3部
第五章 笑う男③
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「オトッ!」
アッシュが叫ぶ。
「ユーリィは俺が守る! サーシャをッ!」
「――分かった!」
オトハは即座に了承すると、ユーリィから離れ、勢いよく駆け出した。
そこそこ人がいるラウンジを豹のような身軽さで走り抜ける。そしてホテルから飛び出すなり、サーシャ達が向かったという雑木林へと消えていった。
(くそッ!)
アッシュはにこにこと笑うボルドを前に、ギリと歯を軋ませる。
迂闊だった。カテリーナの姿がここにないことに疑念を抱くべきだった。
すでに時間が経ち過ぎている。果たして間に合うか――。
「……アッシュ」
ユーリィが不安そうに、アッシュに近付いてきた。
「大丈夫だ。ユーリィ」
内心の苛立ちは面に出さず、アッシュはユーリィに告げる。
今はそうとしか言えない。
「ふふふ、それはどうですかねえ。なにせ、うちのカテリーナさんはとても優秀なんですよ。驚くほど仕事が早い子ですから」
ボルドがまるで娘を自慢する父のように語る。
アッシュは舌打ちし、未だ手に持ったままだったコーヒーをテーブルの上に置いた。
正直なところ、事態はかなり深刻だった。ユーリィの安全については警戒していたのだが、まさか、この男がサーシャの方に目をつけようとは――。
(……サーシャ)
愛弟子の安否を気遣う。彼女もまたアッシュにとって大切な守るべき者だ。
オトハが間に合うかどうかは、恐らくかなり厳しいだろう。ボルドの言う通り、カテリーナは優秀だ。アッシュは彼女の強さも見たことがある。
サーシャ達の今の実力では抵抗さえも難しい。そんな女だ。
(これはまずったか……)
アッシュは眉間に深いしわを刻む。
動揺のあまり選択を見誤ったかもしれない。
(すでにサーシャは捕えられていると割り切るべきだったか……)
自分とオトハの二人がかりで、この男を確実に捕える。
改めて考えると、それが最善に思える。
認めるのは業腹ではあるが、このボルド=グレッグという男は《黒陽社》の中ではまだ穏健派に当たる。サーシャ、もしくはアリシア達も捕えられていたとしても、不必要に傷つけるような真似はしないだろう。
ならばこの男を捕え、人質交換という手段もあった。
アッシュは再び歯を軋ませる。
(くそったれ。焦りすぎたか……)
この男の笑みと言葉に惑わされたか。やはりどこまでも喰えない狸親父だ。
しかし、後悔しても何も始まらない。
ユーリィを守りつつ、どうにか一人でこの男を捕えなければ……。
(……いつ仕掛ける……)
アッシュの手が徐々にベストの裏側に伸びていく。と、
「ああ、やめて下さいよ。相変わらず怖い人ですねえ、クラインさんは」
流石は海千山千の男。あっさりとアッシュの所作に気付いたようだ。
続けて、ボルドはポリポリと頬をかき、
「まあ、私もこんな職に就いていますので荒事にはそこそこ自信もありますが、いい加減歳ですし、あまり激しい運動はしたくないんですよ」
「そんなん知るか。運動したくねえなら部屋の中にでも籠もってりゃあいいんだよ。そして一生出てくんな」
と、吐き捨てるアッシュ。ユーリもコクコクと頷いて同意していた。
そんな二人に対し、ボルドはやれやれと肩をすくめた。
「本当に私は嫌われているようですね。残念ですが、仕方がありません。嫌われ者はそろそろ退散することにしますよ」
堂々と逃走を宣言するボルドに、アッシュは険しい眼光を向ける。
「……そんな簡単に逃がすとでも思ってんのか」
殺気さえ宿した声でアッシュは呟く。すでに彼の右手はベストの裏にある小太刀の柄に触れていた。いつでも抜刀できる姿勢だ。
対し、ボルドは笑みを崩さず、
「いえいえ。流石にクラインさんから逃げるのはしんどそうですので……」
そこで、ポンと柏手を打つ。
「少しばかりドキッとしてもらうことにしました」
「なんだと……?」
言葉の意味を図りかねアッシュが眉をしかめた――その瞬間だった。
プシュウウウウ――
アッシュはギョッとして目を見開く。
突如、テーブルの端に寄せてあった「菓子折り」から白煙が噴き出したのだ。
「う、うわッ!? 何だこりゃあ!?」
「まさか火事なのか!?」
「きゃああああああ――ッ!?」
驚いたのは、たまたま居合わせた一般客も同じだ。
ラウンジのあちこちから動揺の声が広がる。
(しまった! 催涙ガスの類か!)
そんな中、瞬時に冷静さを取り戻したアッシュは、すぐさま行動に移った。
ボルドの動向は気になるが、まず優先すべきはユーリィの安全だ。
アッシュは息を止めると、呆然とするユーリィを抱き上げ、白煙がラウンジを完全に覆う前に走り出す。目指す場所は出入り口。ホテルの外だ。
「う、うわあああああ――ッ!?」
「だ、誰か助けてくれ!」
「お、お客様! 落ち着いて下さい! 出口は――」
と、困惑する宿泊客や店員の間をすり向け、アッシュは駆ける。
どうにかしてやりたいとは思うが、ユーリィが最優先だ。
(――間に合えッ!)
騒乱としたラウンジを白煙が覆い尽くしたのは、アッシュがユーリィを抱えてホテルのドアから飛び出したのと同時だった。
ズザザッと両足で地面を削り、アッシュは姿勢を整える。
「ユーリィ! 無事か!」
「う、うん。大丈夫」
腕の中の愛娘がしっかりした返事をしてホッとする。
そしてホテル内に充満する白煙を見据えた。窓まで真っ白に染まった室内は、まるで雲に呑み込まれたかのような光景であった。
(有毒ガスじゃなきゃあ、いいんだが……)
と、アッシュが懸念したその時、不意に白煙の中から声が聞こえてきた。
「くそ! 前が全然見えないぞ!」
「助けて! 何なのよこれ!」
「ゲホ、お、お客様! 煙を吸わないように外へ――」
アッシュはこれにもホッとする。
彼らの声の様子からすると、どうやらこれはただの煙幕だったようだ。
「あの野郎……何が『菓子折り』だ」
「……最初から逃走するための道具だったの?」
首にしがみつくユーリィが、眉をしかめてそう呟く。
恐らく彼女の推測は正しいのだろう。
ボルドは最初から逃走用にあの「菓子折り」を準備していたのだ。
「くそ、結局俺が受け取ろうが、関係なかったってことか」
アッシュは舌打ちする。
確かにあの男の謳い文句通り、本当にドキッとするような「菓子折り」だった。
ただし、受け取る側のことを一切考えてない品でもあったが。
「どこまで狸なんだよ。あの野郎は……」
「アッシュ……」
険しい表情を浮かべるアッシュに、ユーリィがギュッとしがみついてくる。
少女の身体は微かに震えていた。昔を思い出しているのかもしれない。
「ユーリィ……」
アッシュはユーリィを強く抱きしめ、ポンポンと彼女の頭を叩く。
すると、彼女の震えは少しずつではあるが治まってきた。
それから少女をゆっくりと地面に降ろして、
「もう大丈夫か。ユーリィ」
「……うん。もう大丈夫」
ユーリィはこくんと頷き、そう答えた。アッシュはユーリィの頭を撫でる。
そして再度、未だ消える気配のない白煙を見据えた。
(やってくれたな。ボルド=グレッグ)
グッと拳を握りしめる。すでに、あの中にボルドの姿はないだろう。
忌わしいことに、完膚なきにまで翻弄されてしまった。
(……サーシャ)
アッシュはユーリィの頭に手を置いたまま、雑木林に視線を移す。
こうなってしまった以上、もはやオトハの方に期待するしかない。
しかし――。
「……オト。どうにか間に合ってくれよ」
言って、唇を強くかむ。
それが淡い希望であることは分かっている。
しかし、それでもアッシュは、そう祈らずにはいられなかった。
アッシュが叫ぶ。
「ユーリィは俺が守る! サーシャをッ!」
「――分かった!」
オトハは即座に了承すると、ユーリィから離れ、勢いよく駆け出した。
そこそこ人がいるラウンジを豹のような身軽さで走り抜ける。そしてホテルから飛び出すなり、サーシャ達が向かったという雑木林へと消えていった。
(くそッ!)
アッシュはにこにこと笑うボルドを前に、ギリと歯を軋ませる。
迂闊だった。カテリーナの姿がここにないことに疑念を抱くべきだった。
すでに時間が経ち過ぎている。果たして間に合うか――。
「……アッシュ」
ユーリィが不安そうに、アッシュに近付いてきた。
「大丈夫だ。ユーリィ」
内心の苛立ちは面に出さず、アッシュはユーリィに告げる。
今はそうとしか言えない。
「ふふふ、それはどうですかねえ。なにせ、うちのカテリーナさんはとても優秀なんですよ。驚くほど仕事が早い子ですから」
ボルドがまるで娘を自慢する父のように語る。
アッシュは舌打ちし、未だ手に持ったままだったコーヒーをテーブルの上に置いた。
正直なところ、事態はかなり深刻だった。ユーリィの安全については警戒していたのだが、まさか、この男がサーシャの方に目をつけようとは――。
(……サーシャ)
愛弟子の安否を気遣う。彼女もまたアッシュにとって大切な守るべき者だ。
オトハが間に合うかどうかは、恐らくかなり厳しいだろう。ボルドの言う通り、カテリーナは優秀だ。アッシュは彼女の強さも見たことがある。
サーシャ達の今の実力では抵抗さえも難しい。そんな女だ。
(これはまずったか……)
アッシュは眉間に深いしわを刻む。
動揺のあまり選択を見誤ったかもしれない。
(すでにサーシャは捕えられていると割り切るべきだったか……)
自分とオトハの二人がかりで、この男を確実に捕える。
改めて考えると、それが最善に思える。
認めるのは業腹ではあるが、このボルド=グレッグという男は《黒陽社》の中ではまだ穏健派に当たる。サーシャ、もしくはアリシア達も捕えられていたとしても、不必要に傷つけるような真似はしないだろう。
ならばこの男を捕え、人質交換という手段もあった。
アッシュは再び歯を軋ませる。
(くそったれ。焦りすぎたか……)
この男の笑みと言葉に惑わされたか。やはりどこまでも喰えない狸親父だ。
しかし、後悔しても何も始まらない。
ユーリィを守りつつ、どうにか一人でこの男を捕えなければ……。
(……いつ仕掛ける……)
アッシュの手が徐々にベストの裏側に伸びていく。と、
「ああ、やめて下さいよ。相変わらず怖い人ですねえ、クラインさんは」
流石は海千山千の男。あっさりとアッシュの所作に気付いたようだ。
続けて、ボルドはポリポリと頬をかき、
「まあ、私もこんな職に就いていますので荒事にはそこそこ自信もありますが、いい加減歳ですし、あまり激しい運動はしたくないんですよ」
「そんなん知るか。運動したくねえなら部屋の中にでも籠もってりゃあいいんだよ。そして一生出てくんな」
と、吐き捨てるアッシュ。ユーリもコクコクと頷いて同意していた。
そんな二人に対し、ボルドはやれやれと肩をすくめた。
「本当に私は嫌われているようですね。残念ですが、仕方がありません。嫌われ者はそろそろ退散することにしますよ」
堂々と逃走を宣言するボルドに、アッシュは険しい眼光を向ける。
「……そんな簡単に逃がすとでも思ってんのか」
殺気さえ宿した声でアッシュは呟く。すでに彼の右手はベストの裏にある小太刀の柄に触れていた。いつでも抜刀できる姿勢だ。
対し、ボルドは笑みを崩さず、
「いえいえ。流石にクラインさんから逃げるのはしんどそうですので……」
そこで、ポンと柏手を打つ。
「少しばかりドキッとしてもらうことにしました」
「なんだと……?」
言葉の意味を図りかねアッシュが眉をしかめた――その瞬間だった。
プシュウウウウ――
アッシュはギョッとして目を見開く。
突如、テーブルの端に寄せてあった「菓子折り」から白煙が噴き出したのだ。
「う、うわッ!? 何だこりゃあ!?」
「まさか火事なのか!?」
「きゃああああああ――ッ!?」
驚いたのは、たまたま居合わせた一般客も同じだ。
ラウンジのあちこちから動揺の声が広がる。
(しまった! 催涙ガスの類か!)
そんな中、瞬時に冷静さを取り戻したアッシュは、すぐさま行動に移った。
ボルドの動向は気になるが、まず優先すべきはユーリィの安全だ。
アッシュは息を止めると、呆然とするユーリィを抱き上げ、白煙がラウンジを完全に覆う前に走り出す。目指す場所は出入り口。ホテルの外だ。
「う、うわあああああ――ッ!?」
「だ、誰か助けてくれ!」
「お、お客様! 落ち着いて下さい! 出口は――」
と、困惑する宿泊客や店員の間をすり向け、アッシュは駆ける。
どうにかしてやりたいとは思うが、ユーリィが最優先だ。
(――間に合えッ!)
騒乱としたラウンジを白煙が覆い尽くしたのは、アッシュがユーリィを抱えてホテルのドアから飛び出したのと同時だった。
ズザザッと両足で地面を削り、アッシュは姿勢を整える。
「ユーリィ! 無事か!」
「う、うん。大丈夫」
腕の中の愛娘がしっかりした返事をしてホッとする。
そしてホテル内に充満する白煙を見据えた。窓まで真っ白に染まった室内は、まるで雲に呑み込まれたかのような光景であった。
(有毒ガスじゃなきゃあ、いいんだが……)
と、アッシュが懸念したその時、不意に白煙の中から声が聞こえてきた。
「くそ! 前が全然見えないぞ!」
「助けて! 何なのよこれ!」
「ゲホ、お、お客様! 煙を吸わないように外へ――」
アッシュはこれにもホッとする。
彼らの声の様子からすると、どうやらこれはただの煙幕だったようだ。
「あの野郎……何が『菓子折り』だ」
「……最初から逃走するための道具だったの?」
首にしがみつくユーリィが、眉をしかめてそう呟く。
恐らく彼女の推測は正しいのだろう。
ボルドは最初から逃走用にあの「菓子折り」を準備していたのだ。
「くそ、結局俺が受け取ろうが、関係なかったってことか」
アッシュは舌打ちする。
確かにあの男の謳い文句通り、本当にドキッとするような「菓子折り」だった。
ただし、受け取る側のことを一切考えてない品でもあったが。
「どこまで狸なんだよ。あの野郎は……」
「アッシュ……」
険しい表情を浮かべるアッシュに、ユーリィがギュッとしがみついてくる。
少女の身体は微かに震えていた。昔を思い出しているのかもしれない。
「ユーリィ……」
アッシュはユーリィを強く抱きしめ、ポンポンと彼女の頭を叩く。
すると、彼女の震えは少しずつではあるが治まってきた。
それから少女をゆっくりと地面に降ろして、
「もう大丈夫か。ユーリィ」
「……うん。もう大丈夫」
ユーリィはこくんと頷き、そう答えた。アッシュはユーリィの頭を撫でる。
そして再度、未だ消える気配のない白煙を見据えた。
(やってくれたな。ボルド=グレッグ)
グッと拳を握りしめる。すでに、あの中にボルドの姿はないだろう。
忌わしいことに、完膚なきにまで翻弄されてしまった。
(……サーシャ)
アッシュはユーリィの頭に手を置いたまま、雑木林に視線を移す。
こうなってしまった以上、もはやオトハの方に期待するしかない。
しかし――。
「……オト。どうにか間に合ってくれよ」
言って、唇を強くかむ。
それが淡い希望であることは分かっている。
しかし、それでもアッシュは、そう祈らずにはいられなかった。
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