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第10部(外伝)

第三章 彼女は一体誰のモノ?④

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(ようやく止まってくれたか)


 アッシュは小さく溜息をついた。
 次いで、目の前のメイド姿の女性を一瞥する。
 年齢は二十代前半。自分よりも三、四歳ほど年上か。
 やはり綺麗な女性だった。上質のメイド服も合わさって貴人に仕える者の趣がある。淑女という言葉がよく似合う女性だった。
 まあ、だからこそ、刃物まで持って暴れ出した時には心底驚いたのだが。
 しかも、傭兵団に目を付けられるだけあって結構強かった。どうにか誰も怪我をすることもなく取り押さえられたのは幸いだった。


(やれやれだな)


 再び溜息をつくアッシュ。


(やっぱおっかねえ姉ちゃんだったか)


 と、内心では思うが、察するに彼女は目覚めたばかりで混乱していたのだろう。
 ユーリィに頼んで寝ている間に短剣だけでも取り上げておくべきだったと今さらながら思うが、まあ、とりあえず暴走は止めたので問題は無い。
 後は冷静になって話し合うだけ……なのだが、


「え?」


 そこでギョッとした。
 いきなりメイドさんがボロボロと涙を零して始めたからだ。


「ど、どうした? メイドさん?」


 アッシュは動揺しつつも声を掛ける。すると彼女はいやいやと頭を振り、


「い、いやです! 私は、初めては愛する人に捧げると決めているんです! だから純潔だけは――」


 そう叫んでアッシュから離れようとする。


「………………は?」


 一拍おいて、アッシュは目を丸くした。


「え? いやちょっと待て!? メイドさん!? 何の話だ!?」

「い、いや! は、離して!」


 彼女の形相は必死だ。しかし幾ら身を捻ってもアッシュの拘束が緩むことはなく、どんどん青ざめていく。だが、アッシュにはどうにもしてやれなかった。下手に手を離すと返って危ないからだ。ちなみに彼女の抵抗は、豊かな胸を少し離しては再び押しつけるといった行為を繰り返しているだけなので完全に逆効果だったりする。


「――私はッ!」


 彼女はギリと歯を軋ませた。
 そして怨敵を見るような眼差しでアッシュを睨み据える。


「私は屈しません! あんな男に穢されるぐらいなら――」


 彼女の台詞にアッシュはハッとした。
 蒼色の双眸が語っている。これから何をするのかを。
 そうして彼女はゆっくりと唇を開き……。


(――ヤバいッ!)


 アッシュは咄嗟に右手の人差し指、親指を彼女の口の中に突っ込ませた。歯の間からはみ出そうとしていた舌を強引に押し戻す。が、その代わりに――。

 ――ガリッ!


「……グッ!」


 曲げた人差し指と親指に強く歯が食い込む。
 正直言ってかなり痛い。彼女が本気だった事が窺える力強さだ。
 思わぬ妨害に彼女は目を剥いていたが、すぐにアッシュを睨み付けてきた。


(……こいつはまずいな)


 この目はすでに覚悟を決めている者の眼差しだった。
 恐らく手を離せば彼女は即座に自害する。貞操を守るために。
 しかし、言うまでもなくそれはただの誤解なのだ。
 流石にそんな勘違いで自殺する行為は見過ごせなかった。
 とは言え、果たして彼女は自分の言葉を聞いてくれるのか――。


(多分無理だろうなぁ)


 これもまた、目を見れば分かる。
 彼女は完全に視野狭窄に陥っているようだ。敵だと認識している男の言葉など一切信じないだろう。本当にどうすればいいのか……。
 アッシュはしばし考えた。

 そうして――。


(くそ、マジで仕方がねえか)


 恐らくこれしか方法がない。やむを得ず苦渋の選択をする。
 そして早速実行することにした。
 アッシュは彼女のうなじに力を込めると、強引に自分に近付けさせた。


「ふ、ぐッ!」


 怒りで柳眉を上げる彼女。
 そんな彼女にアッシュは告げる。


「もうジタバタするな」


 彼女は硬直した。


「お前は俺に負けたんだ。自害する権利なんてねえんだよ。いいか、よく聞け」


 顔をさらに近付け、アッシュは続ける。


。今さら足掻くな。黙って受け入れろ」


 彼女は双眸を愕然と見開いた。
 が、すぐにキッと眼差しを鋭くしてアッシュを睨み付けるが、


「俺に勝てないことはよく分かっただろう。抵抗は無駄だ」


 アッシュはそれ以上の眼力を込めて睨み返す。
 彼女はしばしアッシュを凝視していたが、緊張していた全身は徐々に脱力していた。同時にアッシュの指を嚙む力も明らかに弱まってくる。


(どうやら効果がありそうだな)


 そう判断しつつ、アッシュは内心では渋い顔を浮かべていた。
 この行き詰まった状況。これを打開できる手段は一つしか無い。

 ――この睨み付けてくるメイドさんをこの場で屈服させる。
 それしか思いつかなかったのだ。

 無論こんな強引な手段はアッシュの主義ではない。婚約者であった少女に対してもこんな真似をしたことはなかった。
 しかし、幸いと呼んでいいのかは疑問だが、以前所属していた傭兵団の先輩からこういった口説き方のコツを教えてもらったことがあるのだ。


『これって気の強い女ほどよく効くんだぜ。傲慢なぐらい強気に押すのがコツだ。とにかく自分の方が格上だって見せつけるんだよ。そうやって俺は三人も落としたぜ。坊主も今度お嬢相手に試してみろよ』


 と言うのが、ろくでなしで名を知られた先輩の弁。
 その時はうんざりした気持ちでただ聞き流していたのだが、まさか自分で実践する日がこようとは夢にも思わなかった。


(ああっくそ! やってみるしかねえのかよ)


 運命とは本当にくそったれだ。
 しかし他の手段が思いつかないのが実状である。もうやり遂げるほかなかった。
 アッシュはゆっくりと指を彼女の口元から引き抜いた。
 彼女は少し困惑しつつもいきなり舌を嚙むような真似はしない。


「お前の名はなんて言う? 答えろ」


 有無を言わせない圧を宿すアッシュの命令に、


「……シャルロット、です……」


 彼女は渋々答える。
 うん。よし。いい感じだ。少なくとも話が通じるようになってきている。
 まあ、まだまだ攻撃色が強いのは仕方がないか。
 シャルロットはアッシュを睨み付けて告げる。


「私はあなたには屈しません」

「このザマでか?」


 一方、アッシュはそう言ってシャルロットの腰を抱き寄せた。
 シャルロットは「あ」と呟くが、それ以上は何も言わない。実力の差が歴然なのは嫌になるぐらい理解しているからだ。


「お前はもう負けたんだよ」


 アッシュはさらに追い打ちを掛ける。


「百度戦ってもお前は俺には勝てない。だからお前は俺の腕の中にいる」

「……………ッ」


 シャルロットは屈辱で顔を歪める。
 確かに自分は彼の腕の中にいた。この腕を振り解くことは彼女には無理だった。
 すべては彼女が敗北した結果だった。


「だが安心しな」


 その時、アッシュは少し声を優しくして語りかけた。
 雰囲気の変わった声色に、シャルロットが軽く目を剥いた。
 時には優しさも見せること。これもまたろくでなし先輩の教えだった。


「別にお前は俺の奴隷になる訳じゃねえ。俺の女になるだけだ。そう身構えるな。綺麗な顔が台無しだぞ」


 言って、彼女のあごから頬へと手を添える。
 シャルロットの表情は険しい。だが、ほんの少しだけ戸惑いもあった。
 危うい状況に緊張してはいるが、否応なしに少しずつ頬が赤くなり始めている。形は歪でも求愛されていることを改めて自覚し始めたのだ。
 正直に言えばアッシュの方も赤面しそうなのだが、そこは必死に堪える。


「俺はお前よりも強い。お前のことを大切にもする。それでも俺の女は嫌か?」 

「そ、それは……」


 答えるのを躊躇するシャルロット。
 しばしの沈黙。その後、いきなり彼女はくしゃくしゃと表情を崩した。


(お、おい、今度は何だ?)


 アッシュは内心でかなり慌てふためくが、どうにか顔には出さず、


「どうした? シャルロット」


 極力冷静さを留めた声で尋ねる。すると彼女は、


「あ、あなたのことは多分そこまで嫌じゃありません。だけど傭兵団なんて……。あなたに純潔を奪われるだけじゃない。きっと私は他の人の相手もさせられて……」

「……………」


 アッシュは沈黙する。
 それでは、ただの山賊どもか盗賊団である。
 一体彼女は傭兵団にどんなイメージを持っているのだろうか……?
 しかし、それこそが一番の不安因子のようだ。
 なら、彼女を安心させることはそう難しくない。


(……よし。やってみるか)

「馬鹿馬鹿しいな」


 アッシュはあえて吐き捨てるような感じで言い放つと、心臓の音が届くぐらい近くに彼女を抱き寄せた。
 そして目を見開くシャルロットに告げる。


「お前のことを大切にすると言ったばかりじゃねえか。お前は俺の女なんだぞ。他の野郎なんぞに抱かせるはずもねえだろ」

「……ぁ……」


 小さな声を零すシャルロット。
 アッシュは腰をがっしりと抑え、完全に彼女を腕の中に収めた。シャルロットはビクッと震えたが、ここが攻め時だ。逃す訳にはいかない。
 アッシュはシャルロットが視線を逸らさないように再びうなじに手を添えて彼女の瞳を見据える。彼女の頬がますます紅潮した。


「それとも他の野郎どもに抱かれる方がいいのか?」


 良心が痛むのを必死に堪えて、あえて酷な選択肢を示す。シャルロットは青ざめて、フルフルと頭を振った。アッシュがうなじから彼女の頬に手を添え直すと、彼女は少しだけ安らいだ表情を見せた。
 そうしてアッシュは最後の問いかけをする。


「なら言ってみろ。シャルロット。お前自身が言うんだ。お前は誰の女だ?」

「わ、私は……」


 シャルロットはなお抵抗した。蒼い瞳に涙が溜まる。
 しばしの沈黙。
 決着は恐らく十数秒後だ。シャルロットに拒み続けるだけの気力はもう無い。いずれ心も折れて、彼女はこの状況を受け入れるはずだ。
今なお続く沈黙は、誇りに支えられた最後の足掻きに過ぎなかった。

 だがしかし――。


(……くそ)


 意外なことに、先に心が折れたのはアッシュの方であった。
 後は彼女が受け入れるのを待つだけだというのに、最後の最後でやり遂げる意志が揺らいでしまったのである。


(さっきからなんて顔をしてんだよ……)


 激しく後悔する。
泣き出しそうな顔をするシャルロットを見て、自分の非情さを思い知ったのだ。
 今も彼女は、気丈さが欠片もない不安だらけの表情を見せていた。
 ――それは本当に悩み、心から怯えている顔だった。
 そして、彼女にこんな顔をさせたのは他ならぬアッシュだった。


(ああ、なんつうクズだ俺は! 最低じゃねえか!)


 アッシュはギリと歯を軋ませた。
 思い返せば本当に最低な行為の数々だ。自己嫌悪で自分をぶん殴りたくなる。
 だが、今はそれよりも優先すべきことがある。
 こんなにも追い詰めてしまった彼女の心を早く救わなければならない。


「……悪りい。シャルロット」

「……………え」


 だからここからは芝居ではない。本当の思いだった。


「調子に乗りすぎた。さっきの馬鹿な問いかけは無視してくれていい」


 言って、彼女をぎこちない様子で抱きしめる。
 シャルロットは「え?」と呟き、涙を零して目を見開いた。


「他の野郎どもに抱かせるなんてあり得ねえよ。君を追い込むためのただの嘘だ。本当にすまねえ、シャルロット。俺はただ君に落ち着いて欲しかっただけなんだよ。だからそんなに泣かないでくれ」


 優しい声が心に届く。シャルロットは全身から力が抜ける気がした。
 不安に包まれていた心が、どんどん穏やかになっていく。


「今さらだがシャルロット。俺を信じてくれ。俺が君を傷つけることはねえ」


 決して強くない抱擁。先程までの威圧感や傲慢さなどどこにもない。


(………あ)


 ゆっくりと、彼の優しさが心の中に溶け込んでいく。
 シャルロットは徐々に赤面していった。


(こ、この人……な、なんてことをするの……)


 否応なく心臓が早鐘を打ち始める。
 シャルロットは耳まで真っ赤にして激しく動揺していた。
 ――ダメだ。ダメだダメだ! 何故ここでそんな優しさを見せるのか!
 こんなの不意打ちすぎる。全く抗えない。


(ダ、ダメ、ダメです。私はレイハート家のメイドなのだから。早く、早くこの人の手を振り払わないと……)


 最後の矜恃に縋り付き、必死の思いで腕を動かす。しかし、やったことと言えばただ彼の腰にそっと触れただけだった。振り払う行為にはほど遠い。
 むしろ、それを怯えと捉えたのか、


「……? シャルロット? どうした? やっぱまだ怖いのか? 大丈夫だ。もう怯えなくていいから」


 ダメ押しのように穏やかな声が耳元に届く。


(あ、ああぁ……)


 シャルロットの胸の奥がきゅうっと鳴った。
 ギュッと瞳を瞑る。拒むつもりで伸ばした指先は、今となっては離れたくないと意思表示するように彼の服の裾をしっかりと掴んでいた。
 流石に理解してしまう。これはもうダメなんだ、と。


(お、お嬢さま……申し訳ありません。わ、私はもう……)


 だから、せめて心の中で主人に謝罪した。
 そして――。


「………はい」


 優しい抱擁の中で、シャルロットの瞳がゆっくりと開かれる。
 唇は自然と動いていた。


「分かりました。あなたを信じます。だから、どうか私を他の人に渡さないで。私はあなたの……女なのですから」


 ――一拍おいて。


(……へ?)


 アッシュはキョトンとした。
 彼女の台詞が理解できなかったのだ。
 が、数瞬ほど経って、


(え? な、なんでだ? もしかして成功したのか?)


 ようやく状況を把握するも、酷く困惑する。
 ろくでなし先輩曰く、この台詞を相手に言わせさえすれば『勝ち』だそうだ。
 聞き違いではない。彼女は間違いなく宣誓した。


(けど、本当になんでだ?)


 最後の最後で嘘だったとぶちまけたつもりなのに、何故だか成功したらしい。
 まあ、当初の目的を果たすことは良いことかも知れないが……。
 と、そこで少し冷静になって。


(いや、でもこれって本当に成功しても良かったのか?)


 何やらとんでもなく致命的なことをやらかしてしまった気がする。
 それに追い詰めてしまったシャルロット当人と、行方不明中の幼馴染。そしてどうしてか師匠である少女に対してまで強い罪悪感を抱くが……。


(ま、まあ、何にせよ、これで自殺だけは食い止められたから良しとしとくか)


 と一人納得する。
 アッシュは抱きしめたままのシャルロットの頭をポンポンと叩いた。
 とりあえず今は、もう少し彼女が落ち着くまでこのままでいることにしよう。それから詳しい事情を話せばいい。――と、呑気に構えていた時だった。


(いや……待て。待てよ!)


 ハッとしてようやく思い出す。
 ――そう言えば、この場にいるのは自分達だけではなかった。
 偶然同行することになった少年と、愛娘がいたのだ。
 アッシュは愕然とした表情で傍観者達の様子を窺った。すると、ライク少年は「凄え。凄えよ兄ちゃん。あんなに凜々しかった姉ちゃんを完全に落としちまった……」と羨望の眼差しを向けていた。

 が、一方、ユーリィと言えば――。


「ユ、ユーリィ……?」


 アッシュは恐る恐る愛娘に声をかけた。
 しかし、ユーリィは何も答えない。
 ただただ冷たい眼差しをアッシュに向けていた。ギルドで見せた時以上の冷たさだ。もはや冷酷を通り越して永久凍土の眼差しである。
 当然ながらアッシュは頬を強張らせる。
 ――いや違うんだ。これは非常事態だったから。普段ならこんな真似はしない。
 そんな弁解が脳裏に浮かぶが、シャルロットを抱きしめたままでは説得力も無い。


「いやユーリィ!? これは違うからな!? ちゃんと説明するからな!?」


 それでもなお言い訳しようとするのだが、


「……いきなり何をしているの?」


 ユーリィは無下もない。その声もとても冷たかった。


「あなたの頭カラッポなの? 本当に何を考えているの? 天罰いる?」

「痛てっ、ユーリィ! 真顔でスネを蹴らないでくれ! それとお父さんをそんな目で見ないでくれ!?」


 アッシュの悲痛な訴えも届かない。ユーリィは不機嫌そのものだった。
 拙いながらも本気の蹴りが何度も何度もアッシュのスネを直撃する。
 するとその一方で、


「あ、あの……」


 腕の中のシャルロットが少し不安そうな眼差しでアッシュを見上げた。


「も、もしかして、私はこのまま初めてを迎えるのでしょうか? で、出来ればシャワーぐらいは……」

「――メイドさん!? いやそれも違うからな!? メイドさんも話を聞いてくれ!?」


 と懇願するが、シャルロットは潤んだ瞳を向けるだけだった。
 アッシュの顔色がどんどん青ざめていく。


「マジで少し痛いって! やめてくれユーリィ! それとうわ、うわッ! 今になって無茶苦茶恥ずかしくなってきたぞ!? サクにもオトにも言ったことのねえ台詞のオンパレードだ! ハズッ! うわわあ、はっズウゥゥ!?」


 いっそ殺せという思いが溢れるぐらいに籠った叫び。
 本当に色々と苦労する少年の絶叫は、虚しく部屋に響くのであった。
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