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第四章 其は神威を略奪せしモノ⑤
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彼はまどろみに包まれていた。
そこは、かつて東京都庁と呼ばれた建物の屋上。彼のお気に入りの寝床の一つだ。ここならば《神域》を広く見渡せるからである。
『ふわあああぁ……』
八メートルを超す黒い巨体を身震いさせ、彼は大きな欠伸をする。
すると、アギトから吐き出された息が、近くにいたゴブリンを吹き飛ばしてしまった。
『ッ! おお、これはすまんな。怪我はないか』
と、気遣って声をかけるが、ゴブリンは悲鳴を上げて逃げ出すだけだった。
『……やれやれ、念話以外では話も通じんとは寂しいことだな』
「仕方がありませんよ、オーロ殿。彼は私達とは違いますから」
不意に聞こえてきた声に、彼は鎌首を動かして振り向く。
『……ガランか。どうした? こんな場所に』
そこにいたのは金眼の紳士。わざわざ魔術まで使って人化する酔狂な男だ。
「いえいえ、少しばかり戦友の顔を見に来ただけですよ。リンドブルムのオーロ殿」
『ふん。お前がそんなことのためにここに来るものか。さっさと要件を言え』
単刀直入に訊いてくる巨竜に、ガランは肩をすくめて苦笑する。
「ふふ、オーロ殿には敵いませんね。では遠慮なく。実は相談事があって来ました」
『……お前が相談事だと?』
「ええ、オーロ殿。……あなたは《銀の魔女》の噂をご存知ですか?」
オーロは軽く目を瞠った。
『一応知ってはいるが……、あれは斥候隊のただの噂話だろう?』
訝しげにそう訊き返すと、ガランは気まずげに頬をかき、
「いえ実は私、どうしても気になって数体のワーウルフを偵察に送ったんですよ」
『ッ! なんだと……。では、まさか――』
「……ええ、本音を言うとダメ元で偵察してもらったのですが、幸か不幸か、彼らを通じて私も《観》ることが出来ました。確かに《魔女》は実在しています」
まあ、随分と懐かしい顔も一緒にいましたが、とガランは小声で付け加える。
『……何ということだ。――おのれ、害悪種どもめ! この聖戦まで汚す気か!』
怒りで咆哮を上げるオーロ。ビリビリと大気が震えた。
そんな巨竜の様子を、ガランは神妙な瞳で見据えて、
「……オーロ殿、気持ちは私も同じです。だからこその相談なのですよ」
『……どういう意味だ?』
「《銀の魔女》は許しがたい存在――それは同じ認識でいいですよね?」
『無論だ』
巨竜の即答に、金眼の紳士は笑みを浮かべる。
「私もあの《魔女》は許せません。今すぐくびり殺したいところですが、かの《魔女》はどうやらPGCの神奈川支部に匿われているようなんです」
『……シブ? ああ、あの人間どもの砦のことか』
「ええ。そうです。あの支部――砦に籠られては、我々でも手を出すのは得策ではありません。負けはせずとも手傷程度は負うでしょうね」
と言って、自然な仕草で自らの喉元をさするガラン。
『……では、どうする気だ?』
巨竜が問う。すると、金眼の紳士は不敵な笑みを浮かべて、
「いえ、簡単な話ですよ。砦に籠るというのなら、誘き出せばいいだけです」
『誘き出す、だと……?』
「はい。私に策があります。ですから、オーロ殿――」
金眼の紳士は、にこやかな笑みで巨竜に請う。
「どうか、私にお力を貸して頂けませんかね」
◆
「――……以上が、三年前の東京本部で起きた出来事だ」
そして、重悟は三年前の悪夢を語り終えた。
「そ、そんな、アイリーンさんが……」
雪姫は青ざめた顔で呻き、冬馬も動揺を隠せなかった。
サチエはずっと俯いている。
「……今でも思うよ。何故、私は共に行けなかったのだろう、と」
両手で顔を隠すように覆い、重悟はそう呟いた。
あの《首都血戦》の日――。
アイリーンはたった一冊の物語を手に、千二百年前の世界へと跳んだ。その一冊は彼女が製作した物語のごく一部。成功する可能性は極めて低い。
だが、それでも、もう二度と戻れないことを覚悟の上で彼女は跳んだのだ。
痛々しいほどの静寂が場を包む。――が、
「……でも、メルザリオ博士のおかげで計画は実行されたんですよね」
冬馬の無情の声が、その静寂を破った。
「―――冬馬!」
雪姫の叱責。彼女の言いたいことは分かる。場を察しろということだろう。
(すまない、雪姫。だけど、今の俺には相手を思いやる余裕なんてないんだ)
自分がひどく焦っていることを冬馬は自覚していた。なにせ、ずっと見つからなかった答えが、もう目の前にあるのだ。焦るなと言う方が無理だろう。
(もうすぐなんだ……。もうすぐ俺はあの男から雪姫を守れる力を手に出来る!)
そのためならば、相手の心情など知ったことか!
「教えて下さい! 新たな神話は生まれたんですか! それとも――」
「……生まれたよ。三年前、アイリーンの生家から一つの石碑が見つかった」
「ッ! それは!」
「……しかし、神話を記したその石碑には、二つの致命的な欠陥があったのだ」
「ち、致命的な、欠陥だって……?」
愕然として冬馬は目を瞠った。結局、失敗したということなのだろうか。
(――いや、だとしたら、あのフィオナって子のことが説明できない!)
恐らく、まだ何か秘密があるはず――。
「二つの欠陥とは何なんですか!」
苛立ちながら冬馬は重悟に問う。
また喧嘩腰になりつつある少年を、雪姫は眉をしかめて窘めた。
「――冬馬! 焦りすぎよ! 高崎支部長と、服部さんに失礼だわ!」
「だけど、雪姫……」
「だけどじゃないわ。どうしてそんなに焦っているの?」
流石に「お前を守りたいからだよ」とは、恥かしくて言えない少年だった。
そのため何も答えられず、ぐむむっと唸っていると、
「いや構わないさ。柄森君。ここまで話したんだ。結末が気になるのは当然だろう」
重悟本人がフォローを入れてくれた。冬馬はホッと胸を撫で下ろす。
「さて、二つの欠陥だったね。まず一つ。それは石碑の破損がひどく、《銃》の記載があること以外、内容が分からなかったことだ」
「神話は物語やからな。ストーリーが分からんのは致命的やろ」
重悟の告げる事実を、サチエが分かりやすく補足する。
「そう。まさに服部君の言う通りだ。そしてもう一つ。この神話はメルザリオ家に伝わるものなのだが、メルザリオ一族は今やフィオ一人だけ。要するにだね――」
力なく視線を落とし、重悟は言う。
「信者が一人もいないんだ。誰も知らない無名の神話なのだよ。この《メルザリオ神話》は……」
「……それは、神話の三要素の内、《物語》と《信仰》が欠けているということですか」
頬に手を当てながら、雪姫が情報を整理する。
「……うむ。そういうことだよ」
重悟の声は重い。
婚約者の命がけの計画が不完全に終わっては当然のことだろう。
肩を落とす上司を気遣い、続きはサチエがしゃべり始めた。
「けどな、うちらは諦めた訳やない。欠陥を補う方法を考えたんや」
彼女はピンッと右手の人差し指を立てて、
「まず、欠けた《物語》について。これはアイリーンが物語製作中に作った資料――《原本》に頼ることにしたんや」
「《原本》、ですか?」
と呟いて、首を傾げる冬馬。サチエはこくんと頷き、
「あの頃、アイリーンは足立区に住んどってな。《神域帰化》した足立区に侵入して、あいつの家にあった膨大な資料を根こそぎ回収したんや」
「それは……また、随分と無茶なことを」
「そんだけ重要やったんやよ。で、続きやけど、うちらはこう考えたんや。計画を何も知らん信心深い団員に《原本》を見せて、信者に仕立てようって」
「……それって、まるで詐欺師じゃないっすか」
流石にこれには呆れた。
確かに石碑を新たに発掘された神話と偽り、その上で《原本》を要約した資料だとかとごまかせば、素直な人間なら信じるかもしれないが……。
(けど、それで信者にまでなるのかなぁ……)
う~んと冬馬が首を捻っていると、その疑問を察してか、サチエが教えてくれた。
「あの時は信者になれるかなんて心配してへんかったよ。真実さえバレへんかったら、まず大丈夫や。それにそんなん言うとったら、新興宗教なんて成り立たへんし」
「……ああ、確かにそうかも知れないっすね」
新興宗教には歴史がなくとも信者はいる。そう考えると、発掘された歴史ある神話ならばもっと信じやすいだろう。信者が生まれる可能性も低くはない。
「まあ、それにうちらとして欲しいのは、たった一人の信者やったんや。それだけで《メルザリオ神話》に《信仰》が生まれ、ホンモンの神話に一歩近付くしな」
「なるほど……。でしたら、すでに信者の方がいらっしゃるんですか?」
雪姫が問う――と、何故か、重悟とサチエは眉を曇らせた。
「……? どうかされましたか?」
首を傾げる雪姫。冬馬も眉根を寄せた。
しばし流れる沈黙。その間、ずっと俯いていた重悟だったが、不意に顔を上げ、
「……信者がいるかどうかという話だったね」
「え、ええ」
少し困惑する雪姫に、重悟は重々しく口を開く。
「結論から言うと、信者はいる」
「ほ、本当ですかッ!」
その言葉に、威勢よく立ち上がったのは冬馬だ。
「……落ちつきたまえ。冬馬君。今から詳細を話そう」
焦る冬馬を右手で制し、重悟は語る。
「アイリーンの残した《原本》は、今は神奈川支部の最深部――《黒庫》と呼ばれる場所に保管してある。……しかしだね」
「……何か問題が?」
「まあ、今は聞いてくれ冬馬君。その《黒庫》なのだが、実は四部屋に分かれていてね。三部屋は《L》《C》《A》の三種の《原本》の部屋。そして残る一部屋は滞在用なんだ」
冬馬と雪姫が首を傾げる。滞在用とはどういうことなのだろうか。
二人の仕草から、彼らの疑問を察した重悟は補足した。
「《黒庫》にある《原本》は相当な量なんだ。全部目を通すには、ぶっ通しでも二ヶ月近くはかかる。滞在用とは《黒庫》に籠るための衣食住を完備した部屋のことなのだよ」
冬馬達は「なるほど」と首肯する。
「話を戻すよ。我々は、その《黒庫》に厳選した団員達を送りこんだ。だが、その結果は……あまりにも無残なものだった」
「……無残、ですか」
その物騒な単語に冬馬が顔をしかめると、重悟は力なく肩を落とした。
「そう――無残だ。なにせ早い者で三日。長くても二週間半で全員が挫折したのだからな」
「「なッ!」」
驚愕の声を上げる冬馬達。重悟の苦悩の言葉はなお続く。
「ある者は悲鳴を、ある者は怒号を、さらには狂笑さえ上げた者もいる」
「な、なんですか、それ! 《原本》って一体何なんすか!」
声を荒げて問う冬馬に、右手で額を覆いながら重悟は呟いた。
「《原本》とはあまりにも膨大かつ難解なものだったんだ。なにせ《PKT》や《ホール》を開発したアイリーンが手がけたものだ。我々常人とは発想がまるで違う……」
そこで大きくかぶりを振り、
「私も服部君も《黒庫》に入ったのだが、二人とも一週間が限界だったよ。しかもあまりの疲労感に三日間以上も寝込むことになった……」
「そ、そこまで難解なんですか……」
かすれた声で雪姫が呟く。冬馬の方は完全に言葉を失っていた。
状況の過酷さに困惑する少年と少女。――すると、
「だが、たった一人だけ、すべての《原本》を読破した者がいるのだ」
唐突に、重悟がとんでもないことを言い出した。
その内容に、冬馬はハッと目を見開く。
「ッ! そうかッ! それが彼女――フィオナ=メルザリオなんですね!」
無言で頷く重悟。
「ある日のことだった。あの子が、姉の残したものを見たいと私に言ってきたんだ」
「……うちも、高崎隊長も猛反対したんやよ。けど、フィー坊は頑固でな……」
震える肩を押さえながら、サチエが呟く。
「結局、押し切られる形であの子を《黒庫》へ入れることになった。辛くなったら、すぐに出てくることを条件にだ。――だが、信じがたいことにあの子は……」
重悟はふうと息を吐き、
「やり遂げたのだ。あの子が出て来たのは五十七日後だったよ……」
言葉もない冬馬と雪姫。
特にあの少女の可憐な容姿を知る、冬馬の驚きは大きかった。
(……まさか、あんな儚げで、か弱そうな子が……)
銀髪の少女に対し、心からの賞賛を抱きつつも、
「そして、あの子は《メルザリオ神話》の信者になったんですね……」
冬馬は話の中核を尋ねた。
それに対し、複雑な表情を浮かべながらも重悟は頷く。
「確かにあの子は信者と言える。だが、それは、アイリーンに対する信者だ」
「? どういう意味です?」
「……一部でも《原本》を見れば分かるが、普通の人間はあれを神話とは到底思えない。だが、あの子は母親代わりだったアイリーンを心から信じているんだ」
そして、重悟は誇らしげに言う。
「あの子が胸に抱くのは、決して神話への信仰だけではない。あの子を支えるもの。それは、姉に対する揺るぎない愛なのだよ」
(……信仰にも匹敵する愛、か)
冬馬は感慨深く言葉をかみ締めた。
雪姫、そしてサチエも穏やかに微笑んでいる。
しばし続く心地良い沈黙。
が、そんな中、重悟がいよいよといった真剣な面持ちをして口を開いた。
「……さて、冬馬君。私の話はこれで終わりだ。なのでこれから、今までの話と、さらに君が銃を使うことも踏まえた上で、最も重要な質問をさせて欲しい」
緊迫を孕んだ重低音の声――。必然的に冬馬の表情が引き締まる。
「……何でしょうか、高崎支部長」
「……君は《黒庫》の中へと入る気はあるかね」
「「――えッ!」」
同時に声を上げたのは、冬馬と――雪姫だった。
「ちょ、ちょっと待って下さい! どうして冬馬が、そんな危険そうな場所に入らないといけないんですか!」
まるで悲鳴のような声で雪姫が叫ぶ。
そんな少女に、重悟はすまなさそうに眉を寄せ、
「これはフィオたっての願いなのだよ。どうもあの子は冬馬君と出会って、何か感じるものがあったらしい」
「俺に、ですか……?」
重悟は「そうらしい」と答えた後、
「少し現状をまとめよう。――まず当初の計画では《メルザリオ神話》は、新たな神話として世に定着し、幻想種相手に誰でも《銃》が使えるようになるはずだった」
全員の視線が重悟に集まる。
「しかし、結果的に生まれたのは、《物語》と《信仰》のない不完全な《神話》だった」
「……《歴史》だけの《神話》ですよね」
冬馬の言葉に、重悟はうむと頷き、
「しかしながら現在、フィオのおかげで《メルザリオ神話》は《歴史》に加え、《信仰》を得ることに成功した。――が、《物語》は依然欠けたままだ」
一拍置いて、
「だが、我々には《原本》がある。これを読破出来れば、仮初ではあるが《物語》を補完できる。フィオの実例から考えても、すべての《原本》を読破した者ならば、《銃》を使える可能性がまだ残っているということなのだよ」
「…………」
重苦しい沈黙の中、一瞬だけ冬馬は瞳を閉じる。
(……遂に手に入るのか……あの男と戦える力が……)
――ならば、答えは一つしかない。
少年はグッと拳を握りしめた。
「高崎支部長、俺は――」
「ま、待って! やめてふゆ君! 何人もの人がリタイアしたようなことなんだよ!」
冬馬の返答を先読みし、慌てて雪姫が止めに入る。――が、少年の意志は固い。
必死な瞳で見つめてくる雪姫に対し、冬馬は優しい声で告げる。
「雪姫。心配してくれるのは嬉しい。けど、これは俺にとってまたとないチャンスなんだ」
「……けど」
「分かってくれ、雪姫。これは俺がずっと望んでいたことなんだよ」
冬馬の切実な願いに、雪姫は何も言えなくなった。
黙ったまま俯く少女に冬馬は微笑みかけ、安心させるようにポンと肩に手を置いた。
そして、重悟へと振り向き、
「高崎支部長。むしろこちらからお願いします。俺を《黒庫》に入れて下さい」
深々と頭を下げ嘆願する。
少年の真摯な姿勢に、重悟もまた誠意を以て応えた。
「願ってもないよ冬馬君。――では、君をPGC神奈川支部に招待しようではないか!」
そこは、かつて東京都庁と呼ばれた建物の屋上。彼のお気に入りの寝床の一つだ。ここならば《神域》を広く見渡せるからである。
『ふわあああぁ……』
八メートルを超す黒い巨体を身震いさせ、彼は大きな欠伸をする。
すると、アギトから吐き出された息が、近くにいたゴブリンを吹き飛ばしてしまった。
『ッ! おお、これはすまんな。怪我はないか』
と、気遣って声をかけるが、ゴブリンは悲鳴を上げて逃げ出すだけだった。
『……やれやれ、念話以外では話も通じんとは寂しいことだな』
「仕方がありませんよ、オーロ殿。彼は私達とは違いますから」
不意に聞こえてきた声に、彼は鎌首を動かして振り向く。
『……ガランか。どうした? こんな場所に』
そこにいたのは金眼の紳士。わざわざ魔術まで使って人化する酔狂な男だ。
「いえいえ、少しばかり戦友の顔を見に来ただけですよ。リンドブルムのオーロ殿」
『ふん。お前がそんなことのためにここに来るものか。さっさと要件を言え』
単刀直入に訊いてくる巨竜に、ガランは肩をすくめて苦笑する。
「ふふ、オーロ殿には敵いませんね。では遠慮なく。実は相談事があって来ました」
『……お前が相談事だと?』
「ええ、オーロ殿。……あなたは《銀の魔女》の噂をご存知ですか?」
オーロは軽く目を瞠った。
『一応知ってはいるが……、あれは斥候隊のただの噂話だろう?』
訝しげにそう訊き返すと、ガランは気まずげに頬をかき、
「いえ実は私、どうしても気になって数体のワーウルフを偵察に送ったんですよ」
『ッ! なんだと……。では、まさか――』
「……ええ、本音を言うとダメ元で偵察してもらったのですが、幸か不幸か、彼らを通じて私も《観》ることが出来ました。確かに《魔女》は実在しています」
まあ、随分と懐かしい顔も一緒にいましたが、とガランは小声で付け加える。
『……何ということだ。――おのれ、害悪種どもめ! この聖戦まで汚す気か!』
怒りで咆哮を上げるオーロ。ビリビリと大気が震えた。
そんな巨竜の様子を、ガランは神妙な瞳で見据えて、
「……オーロ殿、気持ちは私も同じです。だからこその相談なのですよ」
『……どういう意味だ?』
「《銀の魔女》は許しがたい存在――それは同じ認識でいいですよね?」
『無論だ』
巨竜の即答に、金眼の紳士は笑みを浮かべる。
「私もあの《魔女》は許せません。今すぐくびり殺したいところですが、かの《魔女》はどうやらPGCの神奈川支部に匿われているようなんです」
『……シブ? ああ、あの人間どもの砦のことか』
「ええ。そうです。あの支部――砦に籠られては、我々でも手を出すのは得策ではありません。負けはせずとも手傷程度は負うでしょうね」
と言って、自然な仕草で自らの喉元をさするガラン。
『……では、どうする気だ?』
巨竜が問う。すると、金眼の紳士は不敵な笑みを浮かべて、
「いえ、簡単な話ですよ。砦に籠るというのなら、誘き出せばいいだけです」
『誘き出す、だと……?』
「はい。私に策があります。ですから、オーロ殿――」
金眼の紳士は、にこやかな笑みで巨竜に請う。
「どうか、私にお力を貸して頂けませんかね」
◆
「――……以上が、三年前の東京本部で起きた出来事だ」
そして、重悟は三年前の悪夢を語り終えた。
「そ、そんな、アイリーンさんが……」
雪姫は青ざめた顔で呻き、冬馬も動揺を隠せなかった。
サチエはずっと俯いている。
「……今でも思うよ。何故、私は共に行けなかったのだろう、と」
両手で顔を隠すように覆い、重悟はそう呟いた。
あの《首都血戦》の日――。
アイリーンはたった一冊の物語を手に、千二百年前の世界へと跳んだ。その一冊は彼女が製作した物語のごく一部。成功する可能性は極めて低い。
だが、それでも、もう二度と戻れないことを覚悟の上で彼女は跳んだのだ。
痛々しいほどの静寂が場を包む。――が、
「……でも、メルザリオ博士のおかげで計画は実行されたんですよね」
冬馬の無情の声が、その静寂を破った。
「―――冬馬!」
雪姫の叱責。彼女の言いたいことは分かる。場を察しろということだろう。
(すまない、雪姫。だけど、今の俺には相手を思いやる余裕なんてないんだ)
自分がひどく焦っていることを冬馬は自覚していた。なにせ、ずっと見つからなかった答えが、もう目の前にあるのだ。焦るなと言う方が無理だろう。
(もうすぐなんだ……。もうすぐ俺はあの男から雪姫を守れる力を手に出来る!)
そのためならば、相手の心情など知ったことか!
「教えて下さい! 新たな神話は生まれたんですか! それとも――」
「……生まれたよ。三年前、アイリーンの生家から一つの石碑が見つかった」
「ッ! それは!」
「……しかし、神話を記したその石碑には、二つの致命的な欠陥があったのだ」
「ち、致命的な、欠陥だって……?」
愕然として冬馬は目を瞠った。結局、失敗したということなのだろうか。
(――いや、だとしたら、あのフィオナって子のことが説明できない!)
恐らく、まだ何か秘密があるはず――。
「二つの欠陥とは何なんですか!」
苛立ちながら冬馬は重悟に問う。
また喧嘩腰になりつつある少年を、雪姫は眉をしかめて窘めた。
「――冬馬! 焦りすぎよ! 高崎支部長と、服部さんに失礼だわ!」
「だけど、雪姫……」
「だけどじゃないわ。どうしてそんなに焦っているの?」
流石に「お前を守りたいからだよ」とは、恥かしくて言えない少年だった。
そのため何も答えられず、ぐむむっと唸っていると、
「いや構わないさ。柄森君。ここまで話したんだ。結末が気になるのは当然だろう」
重悟本人がフォローを入れてくれた。冬馬はホッと胸を撫で下ろす。
「さて、二つの欠陥だったね。まず一つ。それは石碑の破損がひどく、《銃》の記載があること以外、内容が分からなかったことだ」
「神話は物語やからな。ストーリーが分からんのは致命的やろ」
重悟の告げる事実を、サチエが分かりやすく補足する。
「そう。まさに服部君の言う通りだ。そしてもう一つ。この神話はメルザリオ家に伝わるものなのだが、メルザリオ一族は今やフィオ一人だけ。要するにだね――」
力なく視線を落とし、重悟は言う。
「信者が一人もいないんだ。誰も知らない無名の神話なのだよ。この《メルザリオ神話》は……」
「……それは、神話の三要素の内、《物語》と《信仰》が欠けているということですか」
頬に手を当てながら、雪姫が情報を整理する。
「……うむ。そういうことだよ」
重悟の声は重い。
婚約者の命がけの計画が不完全に終わっては当然のことだろう。
肩を落とす上司を気遣い、続きはサチエがしゃべり始めた。
「けどな、うちらは諦めた訳やない。欠陥を補う方法を考えたんや」
彼女はピンッと右手の人差し指を立てて、
「まず、欠けた《物語》について。これはアイリーンが物語製作中に作った資料――《原本》に頼ることにしたんや」
「《原本》、ですか?」
と呟いて、首を傾げる冬馬。サチエはこくんと頷き、
「あの頃、アイリーンは足立区に住んどってな。《神域帰化》した足立区に侵入して、あいつの家にあった膨大な資料を根こそぎ回収したんや」
「それは……また、随分と無茶なことを」
「そんだけ重要やったんやよ。で、続きやけど、うちらはこう考えたんや。計画を何も知らん信心深い団員に《原本》を見せて、信者に仕立てようって」
「……それって、まるで詐欺師じゃないっすか」
流石にこれには呆れた。
確かに石碑を新たに発掘された神話と偽り、その上で《原本》を要約した資料だとかとごまかせば、素直な人間なら信じるかもしれないが……。
(けど、それで信者にまでなるのかなぁ……)
う~んと冬馬が首を捻っていると、その疑問を察してか、サチエが教えてくれた。
「あの時は信者になれるかなんて心配してへんかったよ。真実さえバレへんかったら、まず大丈夫や。それにそんなん言うとったら、新興宗教なんて成り立たへんし」
「……ああ、確かにそうかも知れないっすね」
新興宗教には歴史がなくとも信者はいる。そう考えると、発掘された歴史ある神話ならばもっと信じやすいだろう。信者が生まれる可能性も低くはない。
「まあ、それにうちらとして欲しいのは、たった一人の信者やったんや。それだけで《メルザリオ神話》に《信仰》が生まれ、ホンモンの神話に一歩近付くしな」
「なるほど……。でしたら、すでに信者の方がいらっしゃるんですか?」
雪姫が問う――と、何故か、重悟とサチエは眉を曇らせた。
「……? どうかされましたか?」
首を傾げる雪姫。冬馬も眉根を寄せた。
しばし流れる沈黙。その間、ずっと俯いていた重悟だったが、不意に顔を上げ、
「……信者がいるかどうかという話だったね」
「え、ええ」
少し困惑する雪姫に、重悟は重々しく口を開く。
「結論から言うと、信者はいる」
「ほ、本当ですかッ!」
その言葉に、威勢よく立ち上がったのは冬馬だ。
「……落ちつきたまえ。冬馬君。今から詳細を話そう」
焦る冬馬を右手で制し、重悟は語る。
「アイリーンの残した《原本》は、今は神奈川支部の最深部――《黒庫》と呼ばれる場所に保管してある。……しかしだね」
「……何か問題が?」
「まあ、今は聞いてくれ冬馬君。その《黒庫》なのだが、実は四部屋に分かれていてね。三部屋は《L》《C》《A》の三種の《原本》の部屋。そして残る一部屋は滞在用なんだ」
冬馬と雪姫が首を傾げる。滞在用とはどういうことなのだろうか。
二人の仕草から、彼らの疑問を察した重悟は補足した。
「《黒庫》にある《原本》は相当な量なんだ。全部目を通すには、ぶっ通しでも二ヶ月近くはかかる。滞在用とは《黒庫》に籠るための衣食住を完備した部屋のことなのだよ」
冬馬達は「なるほど」と首肯する。
「話を戻すよ。我々は、その《黒庫》に厳選した団員達を送りこんだ。だが、その結果は……あまりにも無残なものだった」
「……無残、ですか」
その物騒な単語に冬馬が顔をしかめると、重悟は力なく肩を落とした。
「そう――無残だ。なにせ早い者で三日。長くても二週間半で全員が挫折したのだからな」
「「なッ!」」
驚愕の声を上げる冬馬達。重悟の苦悩の言葉はなお続く。
「ある者は悲鳴を、ある者は怒号を、さらには狂笑さえ上げた者もいる」
「な、なんですか、それ! 《原本》って一体何なんすか!」
声を荒げて問う冬馬に、右手で額を覆いながら重悟は呟いた。
「《原本》とはあまりにも膨大かつ難解なものだったんだ。なにせ《PKT》や《ホール》を開発したアイリーンが手がけたものだ。我々常人とは発想がまるで違う……」
そこで大きくかぶりを振り、
「私も服部君も《黒庫》に入ったのだが、二人とも一週間が限界だったよ。しかもあまりの疲労感に三日間以上も寝込むことになった……」
「そ、そこまで難解なんですか……」
かすれた声で雪姫が呟く。冬馬の方は完全に言葉を失っていた。
状況の過酷さに困惑する少年と少女。――すると、
「だが、たった一人だけ、すべての《原本》を読破した者がいるのだ」
唐突に、重悟がとんでもないことを言い出した。
その内容に、冬馬はハッと目を見開く。
「ッ! そうかッ! それが彼女――フィオナ=メルザリオなんですね!」
無言で頷く重悟。
「ある日のことだった。あの子が、姉の残したものを見たいと私に言ってきたんだ」
「……うちも、高崎隊長も猛反対したんやよ。けど、フィー坊は頑固でな……」
震える肩を押さえながら、サチエが呟く。
「結局、押し切られる形であの子を《黒庫》へ入れることになった。辛くなったら、すぐに出てくることを条件にだ。――だが、信じがたいことにあの子は……」
重悟はふうと息を吐き、
「やり遂げたのだ。あの子が出て来たのは五十七日後だったよ……」
言葉もない冬馬と雪姫。
特にあの少女の可憐な容姿を知る、冬馬の驚きは大きかった。
(……まさか、あんな儚げで、か弱そうな子が……)
銀髪の少女に対し、心からの賞賛を抱きつつも、
「そして、あの子は《メルザリオ神話》の信者になったんですね……」
冬馬は話の中核を尋ねた。
それに対し、複雑な表情を浮かべながらも重悟は頷く。
「確かにあの子は信者と言える。だが、それは、アイリーンに対する信者だ」
「? どういう意味です?」
「……一部でも《原本》を見れば分かるが、普通の人間はあれを神話とは到底思えない。だが、あの子は母親代わりだったアイリーンを心から信じているんだ」
そして、重悟は誇らしげに言う。
「あの子が胸に抱くのは、決して神話への信仰だけではない。あの子を支えるもの。それは、姉に対する揺るぎない愛なのだよ」
(……信仰にも匹敵する愛、か)
冬馬は感慨深く言葉をかみ締めた。
雪姫、そしてサチエも穏やかに微笑んでいる。
しばし続く心地良い沈黙。
が、そんな中、重悟がいよいよといった真剣な面持ちをして口を開いた。
「……さて、冬馬君。私の話はこれで終わりだ。なのでこれから、今までの話と、さらに君が銃を使うことも踏まえた上で、最も重要な質問をさせて欲しい」
緊迫を孕んだ重低音の声――。必然的に冬馬の表情が引き締まる。
「……何でしょうか、高崎支部長」
「……君は《黒庫》の中へと入る気はあるかね」
「「――えッ!」」
同時に声を上げたのは、冬馬と――雪姫だった。
「ちょ、ちょっと待って下さい! どうして冬馬が、そんな危険そうな場所に入らないといけないんですか!」
まるで悲鳴のような声で雪姫が叫ぶ。
そんな少女に、重悟はすまなさそうに眉を寄せ、
「これはフィオたっての願いなのだよ。どうもあの子は冬馬君と出会って、何か感じるものがあったらしい」
「俺に、ですか……?」
重悟は「そうらしい」と答えた後、
「少し現状をまとめよう。――まず当初の計画では《メルザリオ神話》は、新たな神話として世に定着し、幻想種相手に誰でも《銃》が使えるようになるはずだった」
全員の視線が重悟に集まる。
「しかし、結果的に生まれたのは、《物語》と《信仰》のない不完全な《神話》だった」
「……《歴史》だけの《神話》ですよね」
冬馬の言葉に、重悟はうむと頷き、
「しかしながら現在、フィオのおかげで《メルザリオ神話》は《歴史》に加え、《信仰》を得ることに成功した。――が、《物語》は依然欠けたままだ」
一拍置いて、
「だが、我々には《原本》がある。これを読破出来れば、仮初ではあるが《物語》を補完できる。フィオの実例から考えても、すべての《原本》を読破した者ならば、《銃》を使える可能性がまだ残っているということなのだよ」
「…………」
重苦しい沈黙の中、一瞬だけ冬馬は瞳を閉じる。
(……遂に手に入るのか……あの男と戦える力が……)
――ならば、答えは一つしかない。
少年はグッと拳を握りしめた。
「高崎支部長、俺は――」
「ま、待って! やめてふゆ君! 何人もの人がリタイアしたようなことなんだよ!」
冬馬の返答を先読みし、慌てて雪姫が止めに入る。――が、少年の意志は固い。
必死な瞳で見つめてくる雪姫に対し、冬馬は優しい声で告げる。
「雪姫。心配してくれるのは嬉しい。けど、これは俺にとってまたとないチャンスなんだ」
「……けど」
「分かってくれ、雪姫。これは俺がずっと望んでいたことなんだよ」
冬馬の切実な願いに、雪姫は何も言えなくなった。
黙ったまま俯く少女に冬馬は微笑みかけ、安心させるようにポンと肩に手を置いた。
そして、重悟へと振り向き、
「高崎支部長。むしろこちらからお願いします。俺を《黒庫》に入れて下さい」
深々と頭を下げ嘆願する。
少年の真摯な姿勢に、重悟もまた誠意を以て応えた。
「願ってもないよ冬馬君。――では、君をPGC神奈川支部に招待しようではないか!」
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