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第四章 其は神威を略奪せしモノ⑤

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 彼はまどろみに包まれていた。
 そこは、かつて東京都庁と呼ばれた建物の屋上。彼のお気に入りの寝床の一つだ。ここならば《神域》を広く見渡せるからである。

『ふわあああぁ……』

 八メートルを超す黒い巨体を身震いさせ、彼は大きな欠伸をする。
 すると、アギトから吐き出された息が、近くにいたゴブリンを吹き飛ばしてしまった。

『ッ! おお、これはすまんな。怪我はないか』

 と、気遣って声をかけるが、ゴブリンは悲鳴を上げて逃げ出すだけだった。

『……やれやれ、念話以外では話も通じんとは寂しいことだな』

「仕方がありませんよ、オーロ殿。彼は私達とは違いますから」

 不意に聞こえてきた声に、彼は鎌首を動かして振り向く。

『……ガランか。どうした? こんな場所に』

 そこにいたのは金眼の紳士。わざわざ魔術まで使って人化する酔狂な男だ。

「いえいえ、少しばかり戦友の顔を見に来ただけですよ。リンドブルムのオーロ殿」

『ふん。お前がそんなことのためにここに来るものか。さっさと要件を言え』

 単刀直入に訊いてくる巨竜に、ガランは肩をすくめて苦笑する。

「ふふ、オーロ殿には敵いませんね。では遠慮なく。実は相談事があって来ました」

『……お前が相談事だと?』

「ええ、オーロ殿。……あなたは《銀の魔女》の噂をご存知ですか?」

 オーロは軽く目を瞠った。

『一応知ってはいるが……、あれは斥候隊のただの噂話だろう?』

 訝しげにそう訊き返すと、ガランは気まずげに頬をかき、

「いえ実は私、どうしても気になって数体のワーウルフを偵察に送ったんですよ」

『ッ! なんだと……。では、まさか――』

「……ええ、本音を言うとダメ元で偵察してもらったのですが、幸か不幸か、彼らを通じて私も《観》ることが出来ました。確かに《魔女》は実在しています」

 まあ、随分と懐かしい顔も一緒にいましたが、とガランは小声で付け加える。

『……何ということだ。――おのれ、害悪種どもめ! この聖戦まで汚す気か!』

 怒りで咆哮を上げるオーロ。ビリビリと大気が震えた。
 そんな巨竜の様子を、ガランは神妙な瞳で見据えて、

「……オーロ殿、気持ちは私も同じです。だからこその相談なのですよ」

『……どういう意味だ?』

「《銀の魔女》は許しがたい存在――それは同じ認識でいいですよね?」

『無論だ』

 巨竜の即答に、金眼の紳士は笑みを浮かべる。

「私もあの《魔女》は許せません。今すぐくびり殺したいところですが、かの《魔女》はどうやらPGCの神奈川支部に匿われているようなんです」

『……シブ? ああ、あの人間どもの砦のことか』

「ええ。そうです。あの支部――砦に籠られては、我々でも手を出すのは得策ではありません。負けはせずとも手傷程度は負うでしょうね」

 と言って、自然な仕草で自らの喉元をさするガラン。

『……では、どうする気だ?』

 巨竜が問う。すると、金眼の紳士は不敵な笑みを浮かべて、

「いえ、簡単な話ですよ。砦に籠るというのなら、誘き出せばいいだけです」

『誘き出す、だと……?』

「はい。私に策があります。ですから、オーロ殿――」

 金眼の紳士は、にこやかな笑みで巨竜に請う。

「どうか、私にお力を貸して頂けませんかね」


       ◆


「――……以上が、三年前の東京本部で起きた出来事だ」

 そして、重悟は三年前の悪夢を語り終えた。

「そ、そんな、アイリーンさんが……」

 雪姫は青ざめた顔で呻き、冬馬も動揺を隠せなかった。
 サチエはずっと俯いている。

「……今でも思うよ。何故、私は共に行けなかったのだろう、と」

 両手で顔を隠すように覆い、重悟はそう呟いた。
 あの《首都血戦》の日――。
 アイリーンはたった一冊の物語を手に、千二百年前の世界へと跳んだ。その一冊は彼女が製作した物語のごく一部。成功する可能性は極めて低い。
 だが、それでも、もう二度と戻れないことを覚悟の上で彼女は跳んだのだ。
 痛々しいほどの静寂が場を包む。――が、

「……でも、メルザリオ博士のおかげで計画は実行されたんですよね」

 冬馬の無情の声が、その静寂を破った。

「―――冬馬!」

 雪姫の叱責。彼女の言いたいことは分かる。場を察しろということだろう。

(すまない、雪姫。だけど、今の俺には相手を思いやる余裕なんてないんだ)

 自分がひどく焦っていることを冬馬は自覚していた。なにせ、ずっと見つからなかった答えが、もう目の前にあるのだ。焦るなと言う方が無理だろう。

(もうすぐなんだ……。もうすぐ俺はあの男から雪姫を守れる力を手に出来る!)

 そのためならば、相手の心情など知ったことか!

「教えて下さい! 新たな神話は生まれたんですか! それとも――」

「……生まれたよ。三年前、アイリーンの生家から一つの石碑が見つかった」

「ッ! それは!」

「……しかし、神話を記したその石碑には、二つの致命的な欠陥があったのだ」

「ち、致命的な、欠陥だって……?」

 愕然として冬馬は目を瞠った。結局、失敗したということなのだろうか。

(――いや、だとしたら、あのフィオナって子のことが説明できない!)

 恐らく、まだ何か秘密があるはず――。

「二つの欠陥とは何なんですか!」

 苛立ちながら冬馬は重悟に問う。
 また喧嘩腰になりつつある少年を、雪姫は眉をしかめて窘めた。

「――冬馬! 焦りすぎよ! 高崎支部長と、服部さんに失礼だわ!」

「だけど、雪姫……」

「だけどじゃないわ。どうしてそんなに焦っているの?」 

 流石に「お前を守りたいからだよ」とは、恥かしくて言えない少年だった。
 そのため何も答えられず、ぐむむっと唸っていると、

「いや構わないさ。柄森君。ここまで話したんだ。結末が気になるのは当然だろう」

 重悟本人がフォローを入れてくれた。冬馬はホッと胸を撫で下ろす。

「さて、二つの欠陥だったね。まず一つ。それは石碑の破損がひどく、《銃》の記載があること以外、内容が分からなかったことだ」

「神話は物語やからな。ストーリーが分からんのは致命的やろ」

 重悟の告げる事実を、サチエが分かりやすく補足する。

「そう。まさに服部君の言う通りだ。そしてもう一つ。この神話はメルザリオ家に伝わるものなのだが、メルザリオ一族は今やフィオ一人だけ。要するにだね――」

 力なく視線を落とし、重悟は言う。

「信者が一人もいないんだ。誰も知らない無名の神話なのだよ。この《メルザリオ神話》は……」

「……それは、神話の三要素の内、《物語》と《信仰》が欠けているということですか」

 頬に手を当てながら、雪姫が情報を整理する。

「……うむ。そういうことだよ」

 重悟の声は重い。
 婚約者の命がけの計画が不完全に終わっては当然のことだろう。
 肩を落とす上司を気遣い、続きはサチエがしゃべり始めた。

「けどな、うちらは諦めた訳やない。欠陥を補う方法を考えたんや」

 彼女はピンッと右手の人差し指を立てて、

「まず、欠けた《物語》について。これはアイリーンが物語製作中に作った資料――《原本》に頼ることにしたんや」

「《原本》、ですか?」

 と呟いて、首を傾げる冬馬。サチエはこくんと頷き、

「あの頃、アイリーンは足立区に住んどってな。《神域帰化》した足立区に侵入して、あいつの家にあった膨大な資料を根こそぎ回収したんや」

「それは……また、随分と無茶なことを」

「そんだけ重要やったんやよ。で、続きやけど、うちらはこう考えたんや。計画を何も知らん信心深い団員に《原本》を見せて、信者に仕立てようって」

「……それって、まるで詐欺師じゃないっすか」

 流石にこれには呆れた。
 確かに石碑を新たに発掘された神話と偽り、その上で《原本》を要約した資料だとかとごまかせば、素直な人間なら信じるかもしれないが……。

(けど、それで信者にまでなるのかなぁ……)

 う~んと冬馬が首を捻っていると、その疑問を察してか、サチエが教えてくれた。

「あの時は信者になれるかなんて心配してへんかったよ。真実さえバレへんかったら、まず大丈夫や。それにそんなん言うとったら、新興宗教なんて成り立たへんし」

「……ああ、確かにそうかも知れないっすね」

 新興宗教には歴史がなくとも信者はいる。そう考えると、発掘された歴史ある神話ならばもっと信じやすいだろう。信者が生まれる可能性も低くはない。

「まあ、それにうちらとして欲しいのは、たった一人の信者やったんや。それだけで《メルザリオ神話》に《信仰》が生まれ、ホンモンの神話に一歩近付くしな」

「なるほど……。でしたら、すでに信者の方がいらっしゃるんですか?」

 雪姫が問う――と、何故か、重悟とサチエは眉を曇らせた。

「……? どうかされましたか?」

 首を傾げる雪姫。冬馬も眉根を寄せた。
 しばし流れる沈黙。その間、ずっと俯いていた重悟だったが、不意に顔を上げ、

「……信者がいるかどうかという話だったね」

「え、ええ」

 少し困惑する雪姫に、重悟は重々しく口を開く。

「結論から言うと、信者はいる」

「ほ、本当ですかッ!」

 その言葉に、威勢よく立ち上がったのは冬馬だ。

「……落ちつきたまえ。冬馬君。今から詳細を話そう」

 焦る冬馬を右手で制し、重悟は語る。

「アイリーンの残した《原本》は、今は神奈川支部の最深部――《黒庫》と呼ばれる場所に保管してある。……しかしだね」

「……何か問題が?」

「まあ、今は聞いてくれ冬馬君。その《黒庫》なのだが、実は四部屋に分かれていてね。三部屋は《L》《C》《A》の三種の《原本》の部屋。そして残る一部屋は滞在用なんだ」

 冬馬と雪姫が首を傾げる。滞在用とはどういうことなのだろうか。
 二人の仕草から、彼らの疑問を察した重悟は補足した。

「《黒庫》にある《原本》は相当な量なんだ。全部目を通すには、ぶっ通しでも二ヶ月近くはかかる。滞在用とは《黒庫》に籠るための衣食住を完備した部屋のことなのだよ」

 冬馬達は「なるほど」と首肯する。

「話を戻すよ。我々は、その《黒庫》に厳選した団員達を送りこんだ。だが、その結果は……あまりにも無残なものだった」

「……無残、ですか」

 その物騒な単語に冬馬が顔をしかめると、重悟は力なく肩を落とした。

「そう――無残だ。なにせ早い者で三日。長くても二週間半で全員が挫折リタイアしたのだからな」

「「なッ!」」

 驚愕の声を上げる冬馬達。重悟の苦悩の言葉はなお続く。

「ある者は悲鳴を、ある者は怒号を、さらには狂笑さえ上げた者もいる」

「な、なんですか、それ! 《原本》って一体何なんすか!」

 声を荒げて問う冬馬に、右手で額を覆いながら重悟は呟いた。

「《原本》とはあまりにも膨大かつ難解なものだったんだ。なにせ《PKT》や《ホール》を開発したアイリーンが手がけたものだ。我々常人とは発想がまるで違う……」

 そこで大きくかぶりを振り、

「私も服部君も《黒庫》に入ったのだが、二人とも一週間が限界だったよ。しかもあまりの疲労感に三日間以上も寝込むことになった……」

「そ、そこまで難解なんですか……」

 かすれた声で雪姫が呟く。冬馬の方は完全に言葉を失っていた。
 状況の過酷さに困惑する少年と少女。――すると、

「だが、たった一人だけ、すべての《原本》を読破した者がいるのだ」

 唐突に、重悟がとんでもないことを言い出した。
 その内容に、冬馬はハッと目を見開く。

「ッ! そうかッ! それが彼女――フィオナ=メルザリオなんですね!」

 無言で頷く重悟。

「ある日のことだった。あの子が、姉の残したものを見たいと私に言ってきたんだ」

「……うちも、高崎隊長も猛反対したんやよ。けど、フィー坊は頑固でな……」

 震える肩を押さえながら、サチエが呟く。

「結局、押し切られる形であの子を《黒庫》へ入れることになった。辛くなったら、すぐに出てくることを条件にだ。――だが、信じがたいことにあの子は……」

 重悟はふうと息を吐き、

「やり遂げたのだ。あの子が出て来たのは五十七日後だったよ……」

 言葉もない冬馬と雪姫。
 特にあの少女の可憐な容姿を知る、冬馬の驚きは大きかった。

(……まさか、あんな儚げで、か弱そうな子が……)

 銀髪の少女に対し、心からの賞賛を抱きつつも、

「そして、あの子は《メルザリオ神話》の信者になったんですね……」

 冬馬は話の中核を尋ねた。
 それに対し、複雑な表情を浮かべながらも重悟は頷く。

「確かにあの子は信者と言える。だが、それは、アイリーンに対する信者だ」

「? どういう意味です?」

「……一部でも《原本》を見れば分かるが、普通の人間はあれを神話とは到底思えない。だが、あの子は母親代わりだったアイリーンを心から信じているんだ」

 そして、重悟は誇らしげに言う。

「あの子が胸に抱くのは、決して神話への信仰だけではない。あの子を支えるもの。それは、姉に対する揺るぎない愛なのだよ」




(……信仰にも匹敵する愛、か)

 冬馬は感慨深く言葉をかみ締めた。
 雪姫、そしてサチエも穏やかに微笑んでいる。
 しばし続く心地良い沈黙。
 が、そんな中、重悟がいよいよといった真剣な面持ちをして口を開いた。

「……さて、冬馬君。私の話はこれで終わりだ。なのでこれから、今までの話と、さらに君が銃を使うことも踏まえた上で、最も重要な質問をさせて欲しい」

 緊迫を孕んだ重低音の声――。必然的に冬馬の表情が引き締まる。

「……何でしょうか、高崎支部長」

「……君は《黒庫》の中へと入る気はあるかね」

「「――えッ!」」

 同時に声を上げたのは、冬馬と――雪姫だった。

「ちょ、ちょっと待って下さい! どうして冬馬が、そんな危険そうな場所に入らないといけないんですか!」

 まるで悲鳴のような声で雪姫が叫ぶ。
 そんな少女に、重悟はすまなさそうに眉を寄せ、

「これはフィオたっての願いなのだよ。どうもあの子は冬馬君と出会って、何か感じるものがあったらしい」

「俺に、ですか……?」

 重悟は「そうらしい」と答えた後、

「少し現状をまとめよう。――まず当初の計画では《メルザリオ神話》は、新たな神話として世に定着し、幻想種相手に誰でも《銃》が使えるようになるはずだった」

 全員の視線が重悟に集まる。

「しかし、結果的に生まれたのは、《物語》と《信仰》のない不完全な《神話》だった」

「……《歴史》だけの《神話》ですよね」

 冬馬の言葉に、重悟はうむと頷き、

「しかしながら現在、フィオのおかげで《メルザリオ神話》は《歴史》に加え、《信仰》を得ることに成功した。――が、《物語》は依然欠けたままだ」

 一拍置いて、

「だが、我々には《原本》がある。これを読破出来れば、仮初ではあるが《物語》を補完できる。フィオの実例から考えても、すべての《原本》を読破した者ならば、《銃》を使える可能性がまだ残っているということなのだよ」

「…………」

 重苦しい沈黙の中、一瞬だけ冬馬は瞳を閉じる。

(……遂に手に入るのか……あの男と戦える力が……)

 ――ならば、答えは一つしかない。
 少年はグッと拳を握りしめた。

「高崎支部長、俺は――」

「ま、待って! やめてふゆ君! 何人もの人がリタイアしたようなことなんだよ!」
 
 冬馬の返答を先読みし、慌てて雪姫が止めに入る。――が、少年の意志は固い。
 必死な瞳で見つめてくる雪姫に対し、冬馬は優しい声で告げる。

「雪姫。心配してくれるのは嬉しい。けど、これは俺にとってまたとないチャンスなんだ」

「……けど」

「分かってくれ、雪姫。これは俺がずっと望んでいたことなんだよ」

 冬馬の切実な願いに、雪姫は何も言えなくなった。
 黙ったまま俯く少女に冬馬は微笑みかけ、安心させるようにポンと肩に手を置いた。
 そして、重悟へと振り向き、

「高崎支部長。むしろこちらからお願いします。俺を《黒庫》に入れて下さい」

 深々と頭を下げ嘆願する。
 少年の真摯な姿勢に、重悟もまた誠意を以て応えた。

「願ってもないよ冬馬君。――では、君をPGC神奈川支部に招待しようではないか!」
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