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第2部

第七章 対談④

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 唇に紅を引く。
 口紅ではない。指で引く。
 まるで血のように赤い唇に目を細めた。
 沈黙する。
 ……どうして、こんなことになったのか。
 和装の少女。天堂院七奈は、鏡を前にして思った。
 ここは、天堂院家の本邸にある彼女の自室。
 一応は本邸の敷地内にはあるが、森に覆われた、半ば別邸となっている屋敷だ。
 この二週間半、ずっとこの屋敷に引き籠っていたのだが、父の命により、今日、彼女はここから出ることになった。父より本邸の留守居を命じられたのだ。

(……私はどうして)

 眉を、キュッと寄せる。
 七奈は兄弟姉妹の中で、最も不出来な存在だった。
 系譜術クリフォトも、独界オリジンも発現しない。
 魂力は平均よりも高いといっても、八人の中では最も低い。完全な失敗作だ。
 自分が実験体と理解していたからこそ、七奈はいつも怯えていた。
 いつ処分されてもおかしくなかったからだ。

 しかし、父は、七奈を処分しようとは考えなかった。
 実験である以上、失敗も当然ある。
 むしろ、失敗作をどう生かすかを考えた。

『ふむ。とりあえず封宮師にするか。封宮は独界の入り口でもある。それが切っ掛けで独界に至れるかもしれんしな』

 父はそう呟くと、当時十三歳だった七奈に《魂結び》を行えと命じた。
 もちろん、第二段階までを前提にした指示だ。
 七奈には、断ることなど出来なかった。
 断れば、父の気が変わって処分……ということも考えられたからだ。

 そうして迎えた儀式。
 七奈の初めての隷者は二十歳の青年だった。天堂院家の分家の青年だ。
 あの日から常に七奈の傍にいる、今の隷者筆頭でもある。
 彼は、今も部屋の外で待機してくれている。

 彼は優しい人だった。
 いや、彼だけではない。
 七奈の隷者たちは、みな優しい人ばかりだった。
 いっそ、この屋敷から逃げだそう。そう言ってくれた人もいた。
 けれど、七奈はこの二週間半、心配してくれる彼らと言葉も交わしていない。
 それどころか、今となっては、もう彼らの顔を見ることも出来なかった。

「……ごめん、なさい」

 グッと自分の胸元を強く掴む。
 ……どうして、こうなってしまったのか。
 言い訳ならできる。
 は――圧倒的な暴威だったからだ。
 七奈とは違う、限りなく完成体に近いと呼ばれている少年。
 気紛れだろうが、彼に狙われた以上、出来損ないの七奈に抵抗する術はなかった。
 しかも、同世代と比べても貧相である自分の体のどこが気に入ったのか、毎夜のように七奈の元に訪れる。

 もう逃げることも出来ない。
 七奈は、このまま心を閉ざすつもりだった。

 ……そのつもりだった。

『七奈ちゃん! 七奈ちゃん!』

 あの少年は、いつも笑顔を見せてくれた。
 歪な少年だと思っていた。
 けれど、夜を越えるたびに、少しずつ理解できた。
 彼は歪というよりも、どうしようもなく『素直』なのだと。
 常識がない。気遣いもなく、優しさもない。
 ただ、純粋に。
 素直に、七奈のすべてを求めていた。
 体はすでに奪われていた。彼が触れていない部位などない。
 八夜は、彼女の心さえも求めたのだ。
 七奈を気遣う彼女の隷者たちは、そこまで求めることはなかった。

「……八夜くんの馬鹿」

 七奈が表情を変えるだけで、彼は大喜びしてくれた。
 そんな彼を、いつしか可愛いと感じていた。
 そうして一度そう感じてしまうと、もうダメだった。
 心を閉ざすことも、彼を強く拒絶することも、七奈には出来なくなっていた。

 そして前日のこと。

『七奈ちゃん! ボクと結婚しよう!』

 彼は、七奈の部屋にやって来るなり、そんなことを言い放った。
 七奈にしてみれば、完全に寝耳に水だ。
 八夜から詳しく話を聞いて、複雑な想いを抱いた。

 ――異母弟の妻。
 自分でも歪な人生だと思う。

 どうして自分は、ここまで運命に弄ばれるのかとも思った。
 けれど、素直に喜ぶ彼の姿に、七奈は「……はい」と自然と頷いていた。
 彼は、大喜びして、彼女を抱きしめてきた。
 その場に偶然立ち会った隷者たちは、唖然とするばかりだった。
 彼らにしてみれば、訳の分からない事態だろう。

 本当に申し訳ない気分になった。
 自分は、彼らの信頼を裏切ったに等しい選択をしたのだ。

「……だけど」

 鏡の前で、七奈は一つの髪飾りを手にした。
 八夜から贈られた、雪華の髪飾りだ。
 七奈はそれをじっと見つめてから、髪に差す。

「……私は決めたの。彼と歩むって」

 散々な運命ではあるが、これだけは自分で決めたことだ。
 まずは、留守居をきちんと務めあげる。
 その後、彼の妻となって、彼をちゃんとする。
 彼はロクに教育を受けなかったせいで、あそこまで不純物がない状態になったのだ。
 怯えて、流されるだけの人生はここまでだ。
 彼の妻になる覚悟を決めた以上、彼をしっかりと教育し直す。
 彼を、怪物から、人へと変えてみせる。
 これは、そのための第一歩だった。
 七奈は、立ち上がった。
 そして自らの意志で襖を開ける。
 視界に広がる森に覆われた庭園と、長い渡り廊下。そこには膝を突く隷者筆頭がいた。
 いずれ解任になる予定と知ってなお、彼は七奈に忠誠を誓ってくれていた。
 七奈は申し訳ない気分を抱きつつも、彼を従えた。

「……参ります」

「……は」

 七奈は文字通り、新たな第一歩を踏み出した、その時だった。

「――七奈さま!」

 突如、渡り廊下の端から一人の男性が駆け寄ってきたのだ。
 天堂院家に仕える従者の一人だ。
 七奈は眉根を寄せた。
 彼は、七奈の足元で膝を突いた。

「どうしたのです?」

「大変です! 七奈さま!」

 男は、息も絶え絶えに報告する。

「八夜さまがッ! 八夜さまがッ!」

「八夜くん? 彼がまた何かをしたのですか?」

 七奈がそう尋ねると、

「ら、来客が……想定外の娘を連れていたので、まずは七奈さまにお伺いしようと屋敷に通したのですが、途中で八夜さまが……」

「想定外の娘? 一体誰が……」

「そ、それは……あッ!」

 その時、男は目を剥いた。
 彼の視線は森の木々の隙間。その先へと向けられていた。
 七奈も、隷者筆頭の青年もそちらに目を向ける。
 そしてギョッとした。

「………え」

 遥か遠く。数キロは先か。
 そこに途轍もなく巨大で広大な――壁が生み出されていたのだ。
 蒼い壁。恐らくは氷壁だ。

「は、八夜くん?」

 七奈は、ただ唖然と呟いた。
 あんな真似が出来るのは、八夜しかいない。
 しかし、あそこは天堂院家の敷地内だ。一体何があったのか――。

 天堂院七奈の第一歩。
 それは、いきなり波乱に満ちていた。

「な、何をしているの? 彼は」

 今はただ、茫然と呟くしかなかった。
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