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第3部

第七章 兎と羊は拳を振るう➄

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「お~い、月子ちゃあんよお……」

 びちゃり、びちゃりと。
 足を水で鳴らして、上半身裸の男が廊下を進む。
 右側の顔を負傷したビアンだ。

「かくれんぼかぁい?」

 水の大蛇を背後に従えて、近くの部屋のドアを破壊していく。
 部屋を覗き込むが、そこに少女の姿はない。

「それはつまんねえよォ。それよりも運動しようぜえ」

 ビアンは下卑た笑みを見せた。

「激しい運動をさあ。月子ちゃんもいい気持ちになれる運動をさあ」

 そう嘯き、水の大蛇から無数の槍を生み出した。
 それらは直角に曲がり、一斉に各部屋のドアを破壊する。
 しかし、どの部屋にも月子の姿はなかった。

(……どこに逃げた?)

 ビアンは眉をひそめた。
 この上階と下階は、水の防壁で囲っている。
 そこまで強力な防壁でもないので、その気になれば、強引に突破することも可能だろう。しかし、トラウマを抱えるあの娘にはまず不可能だ。

 あの娘は、この階にいる。
 それは間違いない。

(部屋の隅に隠れてんのか? 面倒だな)

 と、思った時だった。
 ビアンは足を止めた。

「……おいおい」

 思わず、口角を崩した。
 廊下の奥。そこに目的の少女の姿を見つけたからだ。
 隠れようともせず。
 勇ましいことに、少女は拳を握りしめて、ビアンを待ち構えていた。

「意外とお転婆みてえだな。月子ちゃん」

 くつくつと笑う。

「ますます俺好みだ」

 言って、片手を上げた。

「そういう女を調教すんのが、引導師の醍醐味でもあるしな」

 上げた手を振り下ろす。
 途端、水の大蛇が幾つかの水弾を撃ち出した。
 大きさはバレーボールほどの水弾だ。直撃すれば引導師でも骨折ぐらいはする。
 まずは足の一つでもへし折って、心も折るつもりだった。
 月子を隷者ドナーにするためには《魂結びの儀ソウルスナッチ・マッチ》をする必要がある。
 あの娘を一度敗北させておくことも必須だ。ベッドの上で優しく心を折ってやろうと思っていたが、暴力でねじ伏せられる方が好みだというのならば、それもいいだろう。

「まあ、俺の調合したお薬物クスリは、沈痛の効果もあるから心配すんな」

 下卑た笑みを浮かべてビアンは言う。
 だが、次の瞬間、ビアンは目を剥いた。
 すっと月子が、虚空に中段突き――崩拳を繰り出したのだ。
 奇しくもビアンの祖国の技。
 なかなか型が様になっているが、ただの突きだ。

 だというのに――。

「……あン?」

 眉をしかめる。
 彼女が拳を突き出した途端、すべての水弾が止まったのだ。
 いや、止まったというのも正しい表現ではない。
 水弾はゆっくりと進んでいる。何かに押し留められているような印象だ。

(……何かの防御壁か?)

 ビアンがそう考えて、第二弾の水弾を撃ち出そうとした瞬間。
 ――ズドンッッ!
 いきなり押し留められていた水弾が弾き返されたのである。
 それも打ち出した時の数倍の速度でだ。

「うおッ!?」

 流石に顔色を変えるビアン
 運よくビアン自身には直撃しなかったが、水弾は壁や天井、または水の大蛇にぶつかった。

「な、何だ! こりゃあ!」

 一瞬の動揺。そのわずかな隙に月子は動いた。
 疾走する兎のごとく、数歩で間合いを詰めて拳を固めた。
 そして――。

『行くっス! 月子ちゃん!』

「――はい!」

 再び、崩拳を繰り出した。
 ビアンに叩きつけた訳ではない。これも虚空に撃ち出した。
 ――が、ビアンへの影響は劇的だった。

「――ッ!?」

 ピアス男は目を剥いた。
 いきなり全身の前面に強力な圧力を感じたのだ。
 いや、圧力とは少し違う。
 全身に、柔らかで分厚い毛布でも押し付けられたような感じがしたのである。
 ビアンへの全身が不可視の毛布に埋もれていく。頬がゆっくりと押しのけられていった。
 そして次の瞬間、
 ――ドンッ!
 ビアンの全身は、遥か後方へと弾き飛ばされた。まるで砲弾のような勢いだ。
 ビアンの体は水の大蛇も貫いた。それでも勢いは止まらず、廊下の奥にまで吹き飛ばされて、壁に叩きつけられる。
 ビシリッと壁に人型の亀裂が奔り、「ガハッ!」とビアンは息を吐いた。

『やったっス! 月子ちゃん!』

 金羊が叫ぶ。

『名付けて《反羊拳コットン・ナックル》! 月子ちゃんの必殺技っス!』

 意気揚々と技名まで付ける金羊。
 月子は、まじまじと自分の拳を覆う手袋グローブを見つめていた。
 これこそが『反羊はんようたん』の特性だった。
 相手の攻撃を柔らかに受け止めて弾き返す。ただそれだけの特性だ。
 しかし、それは、注ぎ込む魂力の量によって大きく変化する。
 月子は系譜術クリフォトを持っていない。魂力オドは、すべて体術に注がれていた。
 その結果がこの威力である。今や、月子の小さな拳は、圧縮拡大、さらには弾力さえも自由自在のバランスボールのようなものだった。

(……燦ちゃん)

 月子は、笑みを零した。
 これならば、自分も戦うことが出来る。
 親友に、心から感謝した。

「――月子おおおおおおッ!」

 しかし、流石に一撃必殺とはいかないようだ。
 ビアンは、悪鬼の形相で駆け出していた。
 対する月子は静かだった。
 静かに、大きく足を踏みだして、
 ――ドンッ!
 ただ一歩で、ビアンとの間合いを詰めた。
 中国武術において『箭疾せんしつ』と呼ばれる歩法だ。
 一足で遠い間合いを詰める技。
 またしても、祖国の技を目の当たりにしてビアンはギョッとした。

『月子ちゃん!』

「――はい!」

 月子は強く震脚を撃ち抜き、右手の掌底を打ち上げた。
 その掌底は、やはりビアンには触れない。
 ピアス男のあごを撃ち抜くこともない。
 けれど、数瞬遅れてビアンの顔は大きく歪んだ。
 今度は、小さく圧縮された《反羊拳コットン・ナックル》が炸裂したのだ。
 そして弾き飛ばされる。
 今度は上にだ。天井を撃ち抜き、ビアンの姿は上階へと消えていった。
 崩れた天井からは、大量の水が落ちてきた。
 月子は「ひやっ!?」と息を呑み、脱兎のごとくその場から逃げ出した。水はしばらく零れ落ちたが、月子の足元まで来ることはなかった。

『……流石は300超えっスね』

 天井に目をやり、金羊が感嘆の声を零した。

『えげつないぐらいの威力っス』

「だ、大丈夫かな? あの人?」

 月子自身も、自分の拳の威力に驚いていた。
 優しい少女は、こんな状況でも相手のことを気遣っていた。
 金羊は苦笑を浮かべた。

『あのクズのことは気遣う必要はないっス。けど……』

 そこで声色を真剣なモノへと変えた。

『きっと、これだけじゃ終わらないっス。油断したらダメっスよ。月子ちゃん』
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