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第11部
第五章 焔魔堂①
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それは、アロン大陸に伝わる古い昔話の一つだった。
深い。とても深い森の奥。
そのさらなる深奥に潜んだ一族の話である。
今となっては、知る者もほとんどいないような言い伝えだった。
――曰く、彼らは『人』ではない。
彼らの祖は、異形の怪物であったと聞く。
赤い魔眼に、浅黒い肌。頭部には三本の角。二セージル半を超す巨体。
刀身が黒く、幅の広い巨大すぎる直刀を持った怪物。
――焔魔の鬼人。
後に、焔魔さまと呼ばれる存在である。
異界より迷い込んだという彼は、強靭な肉体と、不可解な術を身に着けていた。
彼は、その力を以て山村を襲い、家畜などを喰らっていた。
また、焔魔さまには、十八人の妻がいた。
後にお側女役と呼ばれる女たちである。
彼女たちは、全員が武芸や知に優れていたという。
元は、焔魔の鬼人の噂を聞き、討伐に来た者たちだったらしい。
だが、その結果は返り討ち。
強者を好む焔魔さまは、打ち負かした彼女たちを殺すことはせず、七日七晩に渡って精を注ぎ続け、自らの妻とし、子を孕ませたという。それが十八家の祖たちである。
十八家の祖たちは『人』の姿をしていたが、全員が等しく額に角が生えていたと伝えられている。それは真実であると、一族の者たちは身を以て知っている。
焔魔さまは、妻と子たちと共に、山奥へと姿を消した。
一族の総称を『焔魔堂』と名付け、彼らは山奥にて居を築いた。
それが、始まりの焔魔堂だ。
焔魔堂は戦を生業とし、戦場で猛威を振るった。
当時の焔魔堂の鬼人たちは、戦場の鬼として謳われていたそうだ。
しかし、その名声も、セラ大陸から鎧機兵が流れてきたことで終わりを迎えた。
正面からでは、さしもの焔魔堂の鬼人たちも、鋼の巨人には敵わない。
異形の集団である焔魔堂は、鋼の巨人によって駆逐されることを懸念し、拠点をセラ大陸へと移り変えた。新たなるその地では、あえて大きな戦場に立つことはなかった。諜報活動や魔獣の討伐などは受けつつも、ひっそりと隠れ里で暮らすようになったのだ。
その後、焔魔堂を率いる焔魔さまは二百年に渡って生きたそうだが、流石に生物である限界だったのか、焔魔堂の創設から二百三十二年目にして、天寿を全うした。
恐ろしいことに、それまでに迎えた妻は、百五十人にも及ぶという。
やはり、全員が武芸に優れていたということだ。
焔魔さまは徹頭徹尾、強き女を好んでいた。
自分に挑む勇敢な女のみを妻にしたのだ。強き女を抱くことで、その力を我がモノにしていたという伝承もあるが、その真偽は不明だ。
いずれにせよ、焔魔堂の始祖たる鬼人は、遂に死を迎えたのである。
ただ、死の間際、焔魔さまはこう告げたそうだ。
『我は、滅びぬ。狭間の牢獄に囚われし、我が王を解き放つため。そして、我が王の御子の牙となるために。我は還ってくる』
さらに、焔魔さまはこうも続ける。
『我が刀を御子に。我が力と魂はその刀へと……。嗚呼、星々さえも打ち砕く、勇猛なる我が王よ。そして未だ見ぬ王の御子よ。我がすべては御方々のために……』
そう呟き、焔魔さまは息を引き取った。
――我が王とは……?
――王の御子とは一体……?
その言葉の真意は分からないが、焔魔さまは、自分は還ってくると宣言したのだ。
一族は、始祖の言葉を信じた。
始祖が残した巨大な黒き直刀を本殿の深部に奉じ、今代にまで継承した。
そして同時にもう一つ生まれた習わしがある。
それが今のお側女役なのである。
――いつか還ってくる焔魔さまの寵愛を受けるための娘。
お側女役に選ばれた娘は、その生涯を焔魔堂に縛られることになる。
焔魔さまに捧げるために純潔は守り続け、ただ力と技だけを磨き続ける。
――そう。すべては、焔魔さまのために。
それが、お側女役の生き方だった。
すでに七代に渡ってお側女役は空虚となった始祖のために、力だけを求めて生き、そして生涯を終えている――。
(……無意味、なのです)
森の奥。静かな湖面の前にて。
アロンにおいて和装と呼ばれる服を着たアヤメが、ズンと金棒を地面に突き刺した。
彼女の身長よりもある巨大な黒い金棒だ。
彼女は、直前まで、それを片手だけで振り回していたのである。
ふう、と息を吐く。
修練のため、額には玉のような汗をかいている。
だが、それ以外にも目を引くものがあった。
アヤメの額には大きな二本の角が生えているのである。しかも瞳は赤く輝いている。
これらは、彼女が焔魔堂の一族である証であった。
「……暑い、のです」
時節は冬。日も雲に隠れる天候だが、修練後では関係ない。
アヤメは今、紫色の和装の下に何も身に着けていない。
しかし、周囲に気遣うこともなく、複の胸元をパタパタと揺らした。
つうっと汗が伝う、彼女のふっくらとした双丘がちらちらと顔を出す。と、
「やめなさい。アヤメ」
不意に、注意された。
「さっきから見えているわよ」
そう告げるのは、大きなお腹を両手で支えた一本角の少女だった。
腰まである長い黒髪と赤い瞳。小柄で温和な顔立ちの少女。戦闘用のアヤメの服とは別物の、着物と呼ばれる平時用の和装を纏った少女である。まだ子供のような肢体のアヤメと違って、お腹こそ大きいが、抜群のスタイルも持っていた。
彼女の名は、フウカ。アヤメの三つ上の従姉妹だった。
幼い頃、二人とも同時に両親を亡くし、共に手を取り合って生きてきた少女だ。
アヤメにとっては、姉同然の人である。
「……別に構わない、のです」
アヤメは、ぶっきらぼうに答えた。
「誰も見ていない。そもそも焔魔堂の里に、私に手を出す男もいないのです」
「そういう問題じゃないわ」
フウカは、かぶりを振った。
「あなたは焔魔さまの八代目のお側女役。確かに先代までは、焔魔さまがお姿を現すことはなかったわ。けど、あなたの代は……」
「……くだらない伝承、なのです」
アヤメは、姉を冷めた瞳で一瞥した。
「焔魔さまが現世に蘇る時代。それは七代目の時にも言われていたのです」
それは、今から四代前の長老が残した予言だった。
アヤメの《心意眼》とはまた違う異能。四代前の長は断片的にだが、未来を見通す眼を持っていたそうだ。
その長老が、焔魔さまの復活の時期を予言したのである。
しかし、その予言は断片的であるがゆえに、とても曖昧なものであり、捉え方次第では時期のずれが八十年以上も出る内容だった。
「姉さまも、くだらない伝承だって昔は言っていたのです」
「……そうね」
フウカは遠い目をした。
「……昔はそう思ってたわ。けど、今の私はあの人を信じているから……」
「……姉さまは」
アヤメは、姉の大きなお腹に目をやった。
「……納得している、のですか?」
「……お師匠さまに嫁いだこと?」
フウカは、目を細めて笑う。
今、フウカのお腹にいるのは彼女たちの師の子だった。
今から三年前。フウカが十五の時。
長老衆の命により、フウカは師の子を身籠ることになった。
うら若い十五の娘が、父親のような世代であり、また、父親のように思っていた師の子を産めと命じられたのだ。
「確かに最初は驚いたわ。私も相手は同世代だと思ってたから。まさか、お師匠さまだとは思っていなかった。けど、『心角の試し』は確かだったから」
「……それも信じられない、のです」
アヤメは、自分の二本角の内の一本に、片手で触れた。
焔魔堂の一族の証。意志によって出し入れが可能な硬質的な角だ。
名前は心角。ここには何の感覚もない。
しかし、焔魔堂の女は、自分の主人となる男が心角に触れた場合のみ、運命を知るように全身に衝撃が奔るそうだ。それを心角の試しと呼ぶ。
けれど、アヤメは、今までそんな感覚は一度も覚えたこともない。
それも当然である。
そもそも、この角には神経が通っていないのだから。
(馬鹿馬鹿しい、のです)
アヤメは、不快そうに眉をしかめた。
心角の試しとは、主に長老衆の前で行われる慣習だと聞く。
恐らくだが、何かしらの術か、もしくは薬を用いた小細工なのだろう。『花嫁』を命じられた娘を諦めさせるための詐術ではないかと疑っていた。
一方、フウカは、自分のお腹を撫でて微笑む。
「もう、凄くビビビッて来るのよ。まあ、信じる信じないはあなたの自由だけど。けど、心角の試しのおかげで、私に葛藤がほとんどなかったのは事実よ。少なくとも、他の娘たちに比べればね」
彼女は視線を森の奥へと向けた。その奥には、焔魔堂の隠れ里がある。
「昨日、ベルニカ=アーニャも受け入れたそうよ。今から禊の儀。七日七晩の儀は今夜から行うそうよ。相手はサカヅキ家の跡取りのヒョウマさんだって」
「…………」
アヤメは何も答えない。フウカは小さく嘆息した。
「武門の名家の娘だけあって彼女は頑張ったわ。サカヅキ家のお屋敷でもかなり暴れたみたいだけど、焔魔堂の男の本気に女が抗うのは難しいから……」
姉の呟きに、アヤメは不快そうに眉をしかめた。
ベルニカ=アーニャとは、三週間前に里に連れられてきた娘の名だ。
歳は、アヤメより二つ上だった。フウカと同い年だ。
とある王国の、武門で知られた一族の娘。
幼い頃より、ひたすら剣術に打ち込んできた意志の強い娘だと聞いていた。
そんな彼女も焔魔堂にとっては……。
「……滅んでしまえばいいのです」
思わずそう呟く。
焔魔堂の一族には、大きな問題があった。
それが、後継者問題だった。
現在、この隠れ里で暮らす人間は、およそ千七百人。
その内、心角を持つ一族の者は、千百人ほどいた。しかし、焔魔堂の血を引く女性となると、アヤメとフウカを含めても五十八人しかいないのだ。
男児は多く産まれるのだが、どうしてか、女児は極端に産まれないのである。
加え、さらに問題があった。
焔魔堂の男も女も、生涯、ただ一度しか子を設けられないのである。
どれほど精を注ごうとも、注がれようともだ。
血の強さゆえか、産まれた子には、等しく焔魔堂の特徴――心角は受け継がれる。中にはアヤメのように独自の異能を持って産まれる者さえもいる。
だがしかし、双子、三つ子はあり得ても、第二子だけは決して産まれない。
複数の子を成したのは始祖だけなのだ。
本来ならば、すでに滅んでいてもおかしくない種族だった。
しかし、焔魔堂はその危機を、強引な手段で回避したのである。
それが、外部から女性を招くことだった。
――はっきり言ってしまえば、拉致してくるのである。
健康的で若く、強者の血を劣化させないために、武に優れた女性を攫ってくる。
そして一族の子を産ませるのだ。それが、焔魔堂の延命手段であった。
ベルニカ=アーニャは、その犠牲となった一人なのである。
「……最低、なのです」
アヤメが吐き捨てる。と、
「……そんなこと言わないで」
フウカが、悲しそうに目を伏せた。
「あなたは知らないの。焔魔堂の男たちにとって女とはどういうものなのかを……」
と、言いかけたその時だった。
「……ここに居たのか」
一人の男性がそこに現れた。
歳の頃は四十代前半ほど。肩まで伸ばした灰色の髪。
整った顔立ちに、洗練された精悍さ。袴と呼ばれる和装を纏う男性だ。
双眸は赤く、前髪を上げた額にはやはり一本角が生えており、体格はかなり大柄だ。焔魔堂の男は大柄な者が多く、女は小柄な者が多い。
ライガ=ムラサメ。
焔魔堂十八家の一つ。ムラサメ家の現当主。
アヤメの師であり、フウカの……フウカ=ムラサメの夫だった。
同時に、最年少の長老でもある人物だ。
ライガは、フウカを一瞥した。
「……屋敷に居ろと命じていたはずだが?」
「……ごめんなさい。あなた」
フウカは頭を下げた。その様子に、アヤメが不快感を覚える。
感情を見せない顔で師を見据えた。
すると、ライガは、アヤメを見やり、
「……アヤメ。任務だ」
そう告げた。
「……任務なのです?」アヤメは微かに眉をひそめた。「お側女役の私が?」
「そうだ」
ライガは頷く。
「お前は歴代の中でも特別なお側女役だ。ゆえにあえて慣例にはとらわれず、焔魔さまのために様々な経験を積ませておきたい。それが十八家長老衆の総意だ」
「……………」
アヤメは無言だった。
ライガは構わず言葉を続ける。
「すでに潜伏先も確保している。小さな男爵家だ。俺のための『顔』も奪ってある。お前は俺の補佐をするのだ」
「……どんな任務なのです。義兄さま」
皮肉も込めて、あえて義兄と呼ぶ。
しかし、その程度では師の鉄面皮は崩せないようだ。
師は、淡々と告げた。
アヤメが、最も嫌悪するその任務を――。
「皇国に行く。目的は『花嫁』の選別と奪取だ」
深い。とても深い森の奥。
そのさらなる深奥に潜んだ一族の話である。
今となっては、知る者もほとんどいないような言い伝えだった。
――曰く、彼らは『人』ではない。
彼らの祖は、異形の怪物であったと聞く。
赤い魔眼に、浅黒い肌。頭部には三本の角。二セージル半を超す巨体。
刀身が黒く、幅の広い巨大すぎる直刀を持った怪物。
――焔魔の鬼人。
後に、焔魔さまと呼ばれる存在である。
異界より迷い込んだという彼は、強靭な肉体と、不可解な術を身に着けていた。
彼は、その力を以て山村を襲い、家畜などを喰らっていた。
また、焔魔さまには、十八人の妻がいた。
後にお側女役と呼ばれる女たちである。
彼女たちは、全員が武芸や知に優れていたという。
元は、焔魔の鬼人の噂を聞き、討伐に来た者たちだったらしい。
だが、その結果は返り討ち。
強者を好む焔魔さまは、打ち負かした彼女たちを殺すことはせず、七日七晩に渡って精を注ぎ続け、自らの妻とし、子を孕ませたという。それが十八家の祖たちである。
十八家の祖たちは『人』の姿をしていたが、全員が等しく額に角が生えていたと伝えられている。それは真実であると、一族の者たちは身を以て知っている。
焔魔さまは、妻と子たちと共に、山奥へと姿を消した。
一族の総称を『焔魔堂』と名付け、彼らは山奥にて居を築いた。
それが、始まりの焔魔堂だ。
焔魔堂は戦を生業とし、戦場で猛威を振るった。
当時の焔魔堂の鬼人たちは、戦場の鬼として謳われていたそうだ。
しかし、その名声も、セラ大陸から鎧機兵が流れてきたことで終わりを迎えた。
正面からでは、さしもの焔魔堂の鬼人たちも、鋼の巨人には敵わない。
異形の集団である焔魔堂は、鋼の巨人によって駆逐されることを懸念し、拠点をセラ大陸へと移り変えた。新たなるその地では、あえて大きな戦場に立つことはなかった。諜報活動や魔獣の討伐などは受けつつも、ひっそりと隠れ里で暮らすようになったのだ。
その後、焔魔堂を率いる焔魔さまは二百年に渡って生きたそうだが、流石に生物である限界だったのか、焔魔堂の創設から二百三十二年目にして、天寿を全うした。
恐ろしいことに、それまでに迎えた妻は、百五十人にも及ぶという。
やはり、全員が武芸に優れていたということだ。
焔魔さまは徹頭徹尾、強き女を好んでいた。
自分に挑む勇敢な女のみを妻にしたのだ。強き女を抱くことで、その力を我がモノにしていたという伝承もあるが、その真偽は不明だ。
いずれにせよ、焔魔堂の始祖たる鬼人は、遂に死を迎えたのである。
ただ、死の間際、焔魔さまはこう告げたそうだ。
『我は、滅びぬ。狭間の牢獄に囚われし、我が王を解き放つため。そして、我が王の御子の牙となるために。我は還ってくる』
さらに、焔魔さまはこうも続ける。
『我が刀を御子に。我が力と魂はその刀へと……。嗚呼、星々さえも打ち砕く、勇猛なる我が王よ。そして未だ見ぬ王の御子よ。我がすべては御方々のために……』
そう呟き、焔魔さまは息を引き取った。
――我が王とは……?
――王の御子とは一体……?
その言葉の真意は分からないが、焔魔さまは、自分は還ってくると宣言したのだ。
一族は、始祖の言葉を信じた。
始祖が残した巨大な黒き直刀を本殿の深部に奉じ、今代にまで継承した。
そして同時にもう一つ生まれた習わしがある。
それが今のお側女役なのである。
――いつか還ってくる焔魔さまの寵愛を受けるための娘。
お側女役に選ばれた娘は、その生涯を焔魔堂に縛られることになる。
焔魔さまに捧げるために純潔は守り続け、ただ力と技だけを磨き続ける。
――そう。すべては、焔魔さまのために。
それが、お側女役の生き方だった。
すでに七代に渡ってお側女役は空虚となった始祖のために、力だけを求めて生き、そして生涯を終えている――。
(……無意味、なのです)
森の奥。静かな湖面の前にて。
アロンにおいて和装と呼ばれる服を着たアヤメが、ズンと金棒を地面に突き刺した。
彼女の身長よりもある巨大な黒い金棒だ。
彼女は、直前まで、それを片手だけで振り回していたのである。
ふう、と息を吐く。
修練のため、額には玉のような汗をかいている。
だが、それ以外にも目を引くものがあった。
アヤメの額には大きな二本の角が生えているのである。しかも瞳は赤く輝いている。
これらは、彼女が焔魔堂の一族である証であった。
「……暑い、のです」
時節は冬。日も雲に隠れる天候だが、修練後では関係ない。
アヤメは今、紫色の和装の下に何も身に着けていない。
しかし、周囲に気遣うこともなく、複の胸元をパタパタと揺らした。
つうっと汗が伝う、彼女のふっくらとした双丘がちらちらと顔を出す。と、
「やめなさい。アヤメ」
不意に、注意された。
「さっきから見えているわよ」
そう告げるのは、大きなお腹を両手で支えた一本角の少女だった。
腰まである長い黒髪と赤い瞳。小柄で温和な顔立ちの少女。戦闘用のアヤメの服とは別物の、着物と呼ばれる平時用の和装を纏った少女である。まだ子供のような肢体のアヤメと違って、お腹こそ大きいが、抜群のスタイルも持っていた。
彼女の名は、フウカ。アヤメの三つ上の従姉妹だった。
幼い頃、二人とも同時に両親を亡くし、共に手を取り合って生きてきた少女だ。
アヤメにとっては、姉同然の人である。
「……別に構わない、のです」
アヤメは、ぶっきらぼうに答えた。
「誰も見ていない。そもそも焔魔堂の里に、私に手を出す男もいないのです」
「そういう問題じゃないわ」
フウカは、かぶりを振った。
「あなたは焔魔さまの八代目のお側女役。確かに先代までは、焔魔さまがお姿を現すことはなかったわ。けど、あなたの代は……」
「……くだらない伝承、なのです」
アヤメは、姉を冷めた瞳で一瞥した。
「焔魔さまが現世に蘇る時代。それは七代目の時にも言われていたのです」
それは、今から四代前の長老が残した予言だった。
アヤメの《心意眼》とはまた違う異能。四代前の長は断片的にだが、未来を見通す眼を持っていたそうだ。
その長老が、焔魔さまの復活の時期を予言したのである。
しかし、その予言は断片的であるがゆえに、とても曖昧なものであり、捉え方次第では時期のずれが八十年以上も出る内容だった。
「姉さまも、くだらない伝承だって昔は言っていたのです」
「……そうね」
フウカは遠い目をした。
「……昔はそう思ってたわ。けど、今の私はあの人を信じているから……」
「……姉さまは」
アヤメは、姉の大きなお腹に目をやった。
「……納得している、のですか?」
「……お師匠さまに嫁いだこと?」
フウカは、目を細めて笑う。
今、フウカのお腹にいるのは彼女たちの師の子だった。
今から三年前。フウカが十五の時。
長老衆の命により、フウカは師の子を身籠ることになった。
うら若い十五の娘が、父親のような世代であり、また、父親のように思っていた師の子を産めと命じられたのだ。
「確かに最初は驚いたわ。私も相手は同世代だと思ってたから。まさか、お師匠さまだとは思っていなかった。けど、『心角の試し』は確かだったから」
「……それも信じられない、のです」
アヤメは、自分の二本角の内の一本に、片手で触れた。
焔魔堂の一族の証。意志によって出し入れが可能な硬質的な角だ。
名前は心角。ここには何の感覚もない。
しかし、焔魔堂の女は、自分の主人となる男が心角に触れた場合のみ、運命を知るように全身に衝撃が奔るそうだ。それを心角の試しと呼ぶ。
けれど、アヤメは、今までそんな感覚は一度も覚えたこともない。
それも当然である。
そもそも、この角には神経が通っていないのだから。
(馬鹿馬鹿しい、のです)
アヤメは、不快そうに眉をしかめた。
心角の試しとは、主に長老衆の前で行われる慣習だと聞く。
恐らくだが、何かしらの術か、もしくは薬を用いた小細工なのだろう。『花嫁』を命じられた娘を諦めさせるための詐術ではないかと疑っていた。
一方、フウカは、自分のお腹を撫でて微笑む。
「もう、凄くビビビッて来るのよ。まあ、信じる信じないはあなたの自由だけど。けど、心角の試しのおかげで、私に葛藤がほとんどなかったのは事実よ。少なくとも、他の娘たちに比べればね」
彼女は視線を森の奥へと向けた。その奥には、焔魔堂の隠れ里がある。
「昨日、ベルニカ=アーニャも受け入れたそうよ。今から禊の儀。七日七晩の儀は今夜から行うそうよ。相手はサカヅキ家の跡取りのヒョウマさんだって」
「…………」
アヤメは何も答えない。フウカは小さく嘆息した。
「武門の名家の娘だけあって彼女は頑張ったわ。サカヅキ家のお屋敷でもかなり暴れたみたいだけど、焔魔堂の男の本気に女が抗うのは難しいから……」
姉の呟きに、アヤメは不快そうに眉をしかめた。
ベルニカ=アーニャとは、三週間前に里に連れられてきた娘の名だ。
歳は、アヤメより二つ上だった。フウカと同い年だ。
とある王国の、武門で知られた一族の娘。
幼い頃より、ひたすら剣術に打ち込んできた意志の強い娘だと聞いていた。
そんな彼女も焔魔堂にとっては……。
「……滅んでしまえばいいのです」
思わずそう呟く。
焔魔堂の一族には、大きな問題があった。
それが、後継者問題だった。
現在、この隠れ里で暮らす人間は、およそ千七百人。
その内、心角を持つ一族の者は、千百人ほどいた。しかし、焔魔堂の血を引く女性となると、アヤメとフウカを含めても五十八人しかいないのだ。
男児は多く産まれるのだが、どうしてか、女児は極端に産まれないのである。
加え、さらに問題があった。
焔魔堂の男も女も、生涯、ただ一度しか子を設けられないのである。
どれほど精を注ごうとも、注がれようともだ。
血の強さゆえか、産まれた子には、等しく焔魔堂の特徴――心角は受け継がれる。中にはアヤメのように独自の異能を持って産まれる者さえもいる。
だがしかし、双子、三つ子はあり得ても、第二子だけは決して産まれない。
複数の子を成したのは始祖だけなのだ。
本来ならば、すでに滅んでいてもおかしくない種族だった。
しかし、焔魔堂はその危機を、強引な手段で回避したのである。
それが、外部から女性を招くことだった。
――はっきり言ってしまえば、拉致してくるのである。
健康的で若く、強者の血を劣化させないために、武に優れた女性を攫ってくる。
そして一族の子を産ませるのだ。それが、焔魔堂の延命手段であった。
ベルニカ=アーニャは、その犠牲となった一人なのである。
「……最低、なのです」
アヤメが吐き捨てる。と、
「……そんなこと言わないで」
フウカが、悲しそうに目を伏せた。
「あなたは知らないの。焔魔堂の男たちにとって女とはどういうものなのかを……」
と、言いかけたその時だった。
「……ここに居たのか」
一人の男性がそこに現れた。
歳の頃は四十代前半ほど。肩まで伸ばした灰色の髪。
整った顔立ちに、洗練された精悍さ。袴と呼ばれる和装を纏う男性だ。
双眸は赤く、前髪を上げた額にはやはり一本角が生えており、体格はかなり大柄だ。焔魔堂の男は大柄な者が多く、女は小柄な者が多い。
ライガ=ムラサメ。
焔魔堂十八家の一つ。ムラサメ家の現当主。
アヤメの師であり、フウカの……フウカ=ムラサメの夫だった。
同時に、最年少の長老でもある人物だ。
ライガは、フウカを一瞥した。
「……屋敷に居ろと命じていたはずだが?」
「……ごめんなさい。あなた」
フウカは頭を下げた。その様子に、アヤメが不快感を覚える。
感情を見せない顔で師を見据えた。
すると、ライガは、アヤメを見やり、
「……アヤメ。任務だ」
そう告げた。
「……任務なのです?」アヤメは微かに眉をひそめた。「お側女役の私が?」
「そうだ」
ライガは頷く。
「お前は歴代の中でも特別なお側女役だ。ゆえにあえて慣例にはとらわれず、焔魔さまのために様々な経験を積ませておきたい。それが十八家長老衆の総意だ」
「……………」
アヤメは無言だった。
ライガは構わず言葉を続ける。
「すでに潜伏先も確保している。小さな男爵家だ。俺のための『顔』も奪ってある。お前は俺の補佐をするのだ」
「……どんな任務なのです。義兄さま」
皮肉も込めて、あえて義兄と呼ぶ。
しかし、その程度では師の鉄面皮は崩せないようだ。
師は、淡々と告げた。
アヤメが、最も嫌悪するその任務を――。
「皇国に行く。目的は『花嫁』の選別と奪取だ」
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