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第三章 微動
第5話 前編
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洗面所から聞こえるドライヤーの音に、たった今起き出して寝室から出てきたばかりの彼は、欠伸をしながらそちらを見遣る。大きな収納付きのシャンプードレッサーの前で、晶が自分の髪を撫で付けていた。
「出掛けるの?」
キッチンの浄水器からコップに注いだ水を、喉に流し込みながら訊く。洗面所から出てきた晶は短く「ああ」と返して、慌ただしく靴下を履いた。
ふと食卓の上に置かれた腕時計に気付いて、放ってやる。
「忘れ物だよ」
それを右手でキャッチして素早く左手首に巻き付けた晶が、漸く笑顔を向けた。
「サンキュー、秀兄ぃ」
彼の名は梶原秀一、国立総合病院の医師だ。晶は今この梶原家に厄介になっている。
たまの休みで、久々に朝寝した秀一の髪には寝癖が二ヶ所も付いていた。晶はそれを指差し声を立てて笑う。
「寝癖、付いてるぜ。派手に」
「そうかい?」
寝癖部分の髪をワシワシと掻いて、秀一は辺りを見回した。淡いベージュの家具で統一された温かい感じのするLDKには、晶と自分の他は誰もいない。晶が財布の中身を確認しながら言った。
「あ。小母さん、もうサークルに出掛けてったぜ。朝飯冷蔵庫に入れてあるから、温めて食えよ」
「…ああ。今日は陶芸サークルの日だったな」
小母さんとは秀一の母親のことだ。この広い家に、今は母親と秀一と晶の三人で住んでいる。
時間を見るともう午前11時近い。朝食というより昼食だなと思いながら、椅子に腰掛けて晶を見る。彼は玄関脇のクローゼットから薄手のベストを引っ張り出していた。心持ちその顔が浮き立っているように見える。
「晶君。最近随分と楽しそうだね。表情も明るくなったし……。何かいいことでもあった?」
その声に晶は秀一の方を振り向く。
「あっ、そうか。秀兄ぃにはまだ言ってなかったっけ。――俺さ、今付き合ってる奴がいんだよ」
「…恋人?」
「んー。まぁ、そんなとこ。すっげぇ美人だぜ。今日もそいつと買い物に行くんだ。もうすぐ来る筈なんだけど…」
晶と直人の家は思ったより近かった。徒歩で二十分程度。まだ直にお互いの家を訪ねたことは無かったが、住所を教え合い、晶の家の方がバス停に近かった為直人が歩いて来ることになったのだ。約束は午前11時。
腕時計に目を落とす晶に、秀一は小さな溜息をついた。その眉間には、微かに皺が刻まれている。
「…晶君」
「何?」
秀一の横に立つ晶。
「相手は…その…、知ってるのかい…? 話した?」
その問いに、晶は鼻で笑って大袈裟なほど首をブンブンと横に振る。
「話すわけねぇじゃん。あいつは何にも知らねぇよ」
「でも…」
続けて何か言おうとした秀一の言葉を遮って、晶はいつものように唇の片端を上げて笑う。
「心配すんなよ、秀兄ぃ。軽く、だろ?」
――ピンポーン――
晶のセリフが終わると同時に、玄関のチャイムが鳴る。
「おっ、来たな」
玄関ホールに飛び出す晶の後を、秀一は椅子から立ち上がってゆっくりと追った。
――ホールに出た秀一は、玄関ドアの向こうに立つ少年を見て絶句した。こんな人間がこの世にいるのかと思うほどの、しかし穏やかな美しさを湛えるその人は、晶に清麗な微笑みを向けている。もはや性別のことなど秀一の頭には無い。見る者の心の穢れを洗い流すような清しさを与えるその顔に、何故か秀一は僅かだが見覚えがあるような気がした。
「――秀兄ぃ。こいつ、和泉直人ってんだ」
その声にハッと我を取り戻すと、直人がペコリと頭を下げる。
「直人、こっちは梶原秀一。まぁ、今は俺の兄貴みたいなもんだ」
紹介しながら秀一の方に目を遣った晶は、頭を掻いてハァーっとわざとらしく息を吐く。
「あーもう。何だよ、そのカッコ。みっともねぇなぁ。ちゃんと着替えとけよ」
「起きたばかりなんだ。仕様がないだろう」
スカイブルーの半袖パジャマに寝癖髪。何処をどう見ても客に見せられる姿では無いだろうが、いきなりだったのだから仕方が無い。
二人の遣り取りを見て小さく笑う直人に、秀一は手を差し出した。
「梶原です。直人君…だったよね。かなりの我が儘者だけど、相手するのは大変じゃない?」
チラリと晶を横目で見て言うと、『余計な世話焼いてんじゃねぇよ』と言いたげな視線が突き刺さる。
「いいえ。俺も楽しんでますから」
はっきりと答える直人に笑みを返して、握手を交わした。と、その手を晶が引き離す。
「はいはいはい、そこまで。いくら直人が綺麗だからって、手ぇ出すなよ」
「…君と一緒にしないでくれ」
苦笑する秀一を背に、晶はベストを羽織る。秀一は直人が先に玄関を出たのを見定めて、靴を履き掛けた晶に小声で囁いた。
「気を付けるんだよ。君は昔から、思い込んだら一直線のところがあるからね」
「分かってるって。あんまし人の心配ばっかしてるとハゲるぜ、秀兄ぃ」
晩飯いらねぇから、と言い残して晶は出掛けていった。バタンと閉められたドアを見詰めて秀一は嘆息する。
「…つらいな…、本当に……」
★★★次回予告★★★
買い物に出掛ける二人。そこでも晶は相変わらずのお気楽ぶりを発揮してくれます。
「出掛けるの?」
キッチンの浄水器からコップに注いだ水を、喉に流し込みながら訊く。洗面所から出てきた晶は短く「ああ」と返して、慌ただしく靴下を履いた。
ふと食卓の上に置かれた腕時計に気付いて、放ってやる。
「忘れ物だよ」
それを右手でキャッチして素早く左手首に巻き付けた晶が、漸く笑顔を向けた。
「サンキュー、秀兄ぃ」
彼の名は梶原秀一、国立総合病院の医師だ。晶は今この梶原家に厄介になっている。
たまの休みで、久々に朝寝した秀一の髪には寝癖が二ヶ所も付いていた。晶はそれを指差し声を立てて笑う。
「寝癖、付いてるぜ。派手に」
「そうかい?」
寝癖部分の髪をワシワシと掻いて、秀一は辺りを見回した。淡いベージュの家具で統一された温かい感じのするLDKには、晶と自分の他は誰もいない。晶が財布の中身を確認しながら言った。
「あ。小母さん、もうサークルに出掛けてったぜ。朝飯冷蔵庫に入れてあるから、温めて食えよ」
「…ああ。今日は陶芸サークルの日だったな」
小母さんとは秀一の母親のことだ。この広い家に、今は母親と秀一と晶の三人で住んでいる。
時間を見るともう午前11時近い。朝食というより昼食だなと思いながら、椅子に腰掛けて晶を見る。彼は玄関脇のクローゼットから薄手のベストを引っ張り出していた。心持ちその顔が浮き立っているように見える。
「晶君。最近随分と楽しそうだね。表情も明るくなったし……。何かいいことでもあった?」
その声に晶は秀一の方を振り向く。
「あっ、そうか。秀兄ぃにはまだ言ってなかったっけ。――俺さ、今付き合ってる奴がいんだよ」
「…恋人?」
「んー。まぁ、そんなとこ。すっげぇ美人だぜ。今日もそいつと買い物に行くんだ。もうすぐ来る筈なんだけど…」
晶と直人の家は思ったより近かった。徒歩で二十分程度。まだ直にお互いの家を訪ねたことは無かったが、住所を教え合い、晶の家の方がバス停に近かった為直人が歩いて来ることになったのだ。約束は午前11時。
腕時計に目を落とす晶に、秀一は小さな溜息をついた。その眉間には、微かに皺が刻まれている。
「…晶君」
「何?」
秀一の横に立つ晶。
「相手は…その…、知ってるのかい…? 話した?」
その問いに、晶は鼻で笑って大袈裟なほど首をブンブンと横に振る。
「話すわけねぇじゃん。あいつは何にも知らねぇよ」
「でも…」
続けて何か言おうとした秀一の言葉を遮って、晶はいつものように唇の片端を上げて笑う。
「心配すんなよ、秀兄ぃ。軽く、だろ?」
――ピンポーン――
晶のセリフが終わると同時に、玄関のチャイムが鳴る。
「おっ、来たな」
玄関ホールに飛び出す晶の後を、秀一は椅子から立ち上がってゆっくりと追った。
――ホールに出た秀一は、玄関ドアの向こうに立つ少年を見て絶句した。こんな人間がこの世にいるのかと思うほどの、しかし穏やかな美しさを湛えるその人は、晶に清麗な微笑みを向けている。もはや性別のことなど秀一の頭には無い。見る者の心の穢れを洗い流すような清しさを与えるその顔に、何故か秀一は僅かだが見覚えがあるような気がした。
「――秀兄ぃ。こいつ、和泉直人ってんだ」
その声にハッと我を取り戻すと、直人がペコリと頭を下げる。
「直人、こっちは梶原秀一。まぁ、今は俺の兄貴みたいなもんだ」
紹介しながら秀一の方に目を遣った晶は、頭を掻いてハァーっとわざとらしく息を吐く。
「あーもう。何だよ、そのカッコ。みっともねぇなぁ。ちゃんと着替えとけよ」
「起きたばかりなんだ。仕様がないだろう」
スカイブルーの半袖パジャマに寝癖髪。何処をどう見ても客に見せられる姿では無いだろうが、いきなりだったのだから仕方が無い。
二人の遣り取りを見て小さく笑う直人に、秀一は手を差し出した。
「梶原です。直人君…だったよね。かなりの我が儘者だけど、相手するのは大変じゃない?」
チラリと晶を横目で見て言うと、『余計な世話焼いてんじゃねぇよ』と言いたげな視線が突き刺さる。
「いいえ。俺も楽しんでますから」
はっきりと答える直人に笑みを返して、握手を交わした。と、その手を晶が引き離す。
「はいはいはい、そこまで。いくら直人が綺麗だからって、手ぇ出すなよ」
「…君と一緒にしないでくれ」
苦笑する秀一を背に、晶はベストを羽織る。秀一は直人が先に玄関を出たのを見定めて、靴を履き掛けた晶に小声で囁いた。
「気を付けるんだよ。君は昔から、思い込んだら一直線のところがあるからね」
「分かってるって。あんまし人の心配ばっかしてるとハゲるぜ、秀兄ぃ」
晩飯いらねぇから、と言い残して晶は出掛けていった。バタンと閉められたドアを見詰めて秀一は嘆息する。
「…つらいな…、本当に……」
★★★次回予告★★★
買い物に出掛ける二人。そこでも晶は相変わらずのお気楽ぶりを発揮してくれます。
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