Heart ~比翼の鳥~

いっぺい

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第三章 微動

第7話 後編

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 買い物を終えて家路に就く。
 ――画材店を出てからコーヒーショップで昼食を摂った二人。あとは書店とショッピングセンターの地下へ行くだけだった筈が、結局何だかんだと見て回っているうちに時間は過ぎ、バスを降りた頃にはもう日が傾いていた。


 正面に夕日を浴びながら、肩を並べて直人のアパートへの道を辿る。辺りは橙色の光の波に包まれていた。

「まだ明るいけど、もうすぐ7時だ。遅くなっちゃったね」

「いいさ。モールでデートってのも、結構楽しかったしな」

 直人は自分が持つ荷物の中から画材店の袋を探すと、そこから何か小さい物を取り出した。

「晶、これ見て」

 呼ばれて目を向けたそれは、一本のアクリルガッシュ。その色は――

「バーント・シェンナー(赤茶色)。晶の髪の色に似てるだろ?」

 そう言われればそうか、と晶はまじまじとそのチューブを見詰める。

「仕事ではあまり使わない色なんだけど、店で見掛けて思わず買っちゃった。『あ、晶の色だ』って思ってね」

「俺の色ねぇ…。別にこだわりがあるわけじゃねぇけど。ただこの色が好きなだけでさ」

 少し首を傾げてみせる晶に、直人は綺麗な笑みを零した。それは、暮れ行く赤に彩られて煌めくように晶の瞳の中に広がる。

「俺も好きだよ。晶に凄く良く似合ってると思う。こうして夕日が当たると、まるで太陽の紅炎プロミネンスみたいで――」

 ふわりと吹く夕暮れの風が二人の周囲を舞った。
 派手な色の割に、晶はムースやワックスを使わない。風のままに踊る髪が、まさに噴き上がる紅炎を思わせる。

「俺の頭ん中はお日様だってか?」

「そんな意味じゃないよ」

 お互い小さく笑う。


 遠く遠山の頂に掛かる眩しさの向こうに、目指す建物が漸く姿を現した。



 直人の部屋は、きちんと掃除が行き届いていた。
 ありふれた1Rの室内。一方の壁際にシングルベッドと小さなテレビがあり、その反対側に置かれた大型の棚には、沢山の道具が綺麗に並べられている。隅の方には折り畳んだイーゼルと、白い画布カンバスが丸めて立て掛けてあった。

「へぇ、部屋もキレイにしてんじゃん。俺とは大違いだな」

 小さなローテーブルの前にあぐらをかいて、部屋の中をキョロキョロ見回しながら晶が言う。直人は買ってきた食材をシンクの横に置くと、エプロンを着けた。あのカバンと同じ若草色のエプロンがとても良く似合っている。

「一つ仕事上げたらちゃんと掃除しておかないと、次の本描きの時に作品汚しちゃうからね。――さてと、すぐ作るから待ってて」

 そう言ってシンクに向かう。沢山の食材達は実に手際良くその姿を変えていった。部屋中に、鍋から噴き上がる美味しそうな匂いが漂う。

 自分に背を向けて包丁を使う直人を見ながら、晶はテーブルに頬杖を突いた。トントンと野菜を刻む軽快な音が耳に心地好く響く。

「なぁ。やっぱお前ってそういうの似合い過ぎ」

「えー? そうかなぁ?」

 向こうを向いたまま答える直人に、晶は自分の思ったことをストレートに伝える。

「主婦やってる方が向いてそうだよな」

「主婦って…、あのねぇ」

「んで、旦那役は俺」

 包丁を持つ手を止めて振り返る直人。晶の姿を捉えたその瞳が、微かに大きくなっていた。が、すぐに細められる。

「また…ふざけてるだろ」

「かもな」

 その返答に小さく微笑んで、直人は再び手を動かした。


 テーブルに並べられた料理に晶は目を瞠った。
 椎茸と素麺の澄まし汁、鶏胸肉の揚げ物、厚揚げとひじきの炒煮、法蓮草のお浸し、そして今が旬のイサキの焼物。小さなテーブルは二人分の皿や小鉢で溢れそうになっている。こんな、家庭料理の見本のような料理の数々に、暫し呆然としていた。
 帰ってきてからまだ三十分強しか経っていない。目の前の光景が信じられずに、横でご飯をよそう直人に訊いてみた。

「これ…本当に今作ったのか?」

「そうだけど…?」

「全部?」

「勿論」

 それを聴いて、晶は半分呆れたように溜息をつく。

「すげぇな。どこをどうやったら三十分くらいでこんなに山ほど出来んだよ」

「魚はお腹出してあったし、そんなに時間が掛かる物はないよ。でも、結構慌てて作ったから味は保証出来ないな。口に合うといいんだけど」

 はいと渡されたご飯茶碗を左手に、箸を掴む。

「んじゃ、いただきますっ」

 直人が向かい側に座るのを待たずに、勢いよく皿に箸を伸ばした。炒煮を口の中に放り込む。醤油と胡麻油の柔らかな香ばしさが口いっぱいに広がった。

「美味ぇっ!」

「本当に?」

「ああ、マジ美味ぇよ。梶原の小母さんも料理上手だけど、それ以上だな。こんな飯なら毎日だって食いてぇよ」

 次々と箸を進める晶に、直人は嬉しそうに微笑んで安堵の息を漏らす。

「良かった。不味いって言われたらどうしようと思ってたんだ」

「これが不味いなんて言う奴は、何にも食えねぇだろ」

 直人も座って食べ始める。二人は談笑しながら、楽しい夕餉ゆうげの時間を過ごした。



 午後9時半――。
 後片付けを済ませた直人と一緒にテレビを見ていた晶は、時計に目を遣って立ち上がった。

「さーて、そろそろ帰るか」

 棚の端に掛けておいたベストを肩に引っ掛けて玄関へ行くと、靴を履く。直人が見送りに立った。

「今日はありがとう。ごめんね、散々引っ張り回した上に荷物持ちまでさせちゃって」

「気にすんなって。それに礼を言うのはこっちの方だ。飯、美味かったぜ。ごっそーさん」

 また頼むな、と言いながら、ドアを開けようとノブを掴んだ晶の手が止まる。怪訝そうに声を掛けようとした直人の顔を、クルリと振り向いて伸ばされた二つの掌が包んだ。

「あき……」

 目の前にいる相手の名を紡ぎ掛けた唇が、晶のそれで塞がれる。――一秒…。たったそれだけの間押し付けられていた温もりは、滑るように直人から離れていった。

「じゃぁな、おやすみ」

 ガチャンと大きな金属音を立ててドアが閉まる。遠退いていく足音を聴きながら、直人はその場に立ち尽くしていた。

 晶の唇が触れたそこに、そっと指を当ててみる。いつもと変わらぬ軽い口付けだった筈なのに、そこは僅かに熱を帯びていた。
 ――帰り際、何も言わずに晶が残していった本日二度目のキス。それは、何故だか少し寂しさを含んでいたように感じる。今までに何度も奪われ、重ねてきた唇。晶のそれが、一瞬だけ小さく震えたような気がしたのだ。

「晶……」

 閉じたドアの前で、直人は見えない相手を見送り続けた――。




「…やべぇよな…」

 月明かりの歩道を歩きながら、晶は独り言ちる。今日の自分は何処か変だった。バスの中でも、直人の部屋でも――。
 立ち止まって目を閉じると、直人の綺麗な笑顔が浮かぶ。それを払おうと頭を振った。
 今朝の秀一の言葉が脳裏に蘇る。

『気を付けるんだよ』

「ああ、分かってる」

 一群の雲に、月光が遮られる。


 ――こだわらず、軽く――


「…だな」


 己に言い聞かせるかのような呟きは生温い風に乗って、夜の闇の中へと消えていった。



 ★★★次回予告★★★

第四章前編は、いよいよ初H! …の前哨部分です(汗)。中編で回想が入るので、やむなく本番は先延ばしになりました。前編1と前編2に分かれております。
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