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第十二章 溢れる想い
第37話 中編
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その日、直人はいつものように病院を訪れた。時刻は午後2時過ぎ。
午前中は外来患者でごった返すロビーも、この時間帯にもなると人影は疎らになる。閑散としたロビーに並ぶ長椅子の横を抜けて職員用エレベーターに向かい掛けた直人は、突然後ろから呼び掛けられて振り向いた。
「直人」
ロビーの柱に凭れていたその人がゆっくりと近付いてくる。服装こそ涼やかなものに替わっているが、その綺麗なアッシュグレーの髪と優しい笑顔はあのクリスマスの朝と全く変わらない。
すぐ傍まで来た彼の方に向き直って、直人は少し驚きを含んだ笑みを浮かべた。
「和彦、何してるの? こんな所で。休みじゃないよね、大学」
「ああ。養父の親戚が危篤になってさ。三日前に呼ばれて急遽帰ってきたんだけど、なんかそのジイさん、妙に持ち直しちまって。今ここに入院してるんだ。……つっても、それは口実なんだけどな――」
「……?」
怪訝そうに見上げる直人。ひと呼吸置いた和彦が、呟くように言う。
「――お前に…会いたくて……」
「和彦…」
優しい笑顔がスッと潜まる。代わりに浮かんだ真剣な表情に言葉を失い、直人は自分を見詰める瞳を見返した。
「時間あるか? 少し話がしたい…」
「あ…、うん……」
手を引かれ連れ出されたのは、瑞瑞しい新緑が薫る木立に囲まれた中庭だった。美しく整えられた前庭とは趣が異なり、自然味を残したその風情は見る者の心を和ませる。
真上を少し過ぎた太陽の暖かさが広がるその庭には誰もいず、二人は隅の藤棚の前に置かれたベンチに並んで腰を下ろした。
「…話って、何…?」
直人の問いに、和彦は目の前の藤棚を見遣る。淡紫色の長い花穂が、白い棚から幾つも垂れて揺れていた。
「…香月…。あいつも入ってるんだってな、ここに…」
予想もしていなかった言葉。直人は目を瞠って和彦を凝視した。
「ちょっと調べたんだ…。心臓悪くて、そう長くは生きられないってことも知ってる」
藤の花から外した視線を直人の顔に据える。
「…選りにも選って、なんで…。つらいことだらけじゃないか。どうしてお前は、いつも自分が苦しむ方に寄って行くんだ? もう充分だろ」
直人の瞳が翳る。綺麗な灰色が、降雨直前の雨雲のように暗く曇った。
「…その気持ちは何なんだ? …本当はただの、なか――」
「違うっ」
全てを言わせまいと、直人は大きく首を振って否定する。
「…本当に好きなんだよ。病気のことを知るずっと前から惹かれてたって、和彦だって知ってるじゃないか。…俺は、晶を愛してる…」
その言葉に、ピクリと肩を揺らした和彦が目を閉じる。左の掌で伏せた瞼を覆うと、その肘を右手で支えた。
「やっぱ…応えるな、直に言われると…。分かってた筈なのに……」
小さくついた溜息が切ない色を帯びる。それに気付いて、眉根を寄せる直人。
「あ…、ごめん。……一番つらかったのは和彦だよね。聞きたくもないこと相談されて…。もっと早く君の気持ちに気付いてたら、そんな軽はずみなことしなかったのに……」
自分を傷付けてしまったと心を痛める幼馴染の眼差しに耐えられず、和彦は立ち上がって藤棚の下へ行く。
――口にしてはならないと、言ってもどうしようもないことなのだと理解していながら、溢れてくる想いとそれに伴う苛立ちに焼かれた精神が、とうとう己に禁じていた言葉を紡ぎ出してしまった。
「なんで…俺じゃ駄目なんだ…?」
半眼になっていた灰色が見開かれる。
「…和彦…」
「俺は…、ずっとお前を想ってきた。たとえ届かなくても、傍で見守っていられればそれでいいと思っていたんだ。――なのに、それを知らないお前は、俺にあいつのことを相談してきて…。俺がどんなに惨めな気分になったか分かるか? 好きなのに、大切にしたくて距離を置いていたことが却って仇になった。いきなり現れた、あんな何も知らないお天気野郎にお前を奪われるなんて…っ」
力の籠った語尾が荒くなる。
自分の軽率さに責任を感じて、なんとか謝ろうと背後に歩み寄った直人の身体を、和彦は振り向き様に思い切り抱き締めた。
「あっ。か、和彦…」
熱い眼差しで見詰められる。濡れたように艶やかな唇。綺麗に反った長い睫毛。そしてそれに縁取られた黒い瞳の深さに、思わず吸い込まれそうになってしまう。
これほど端整な容貌を持つ彼ならば他に幾らでも相応しい人がいるだろうに、何故応えることの出来ぬ自分などに想いを寄せてしまったのか。それを考えると、直人は胸が締め付けられるような気がした。
和彦の手が直人の髪に触れる。横から指を入れ襟足まで梳いたその手が、白い首筋に残る微かな跡を見付けて動きを失った。
「…直人。…お前、まさか…」
声と同様に震える指で、その痕跡を撫でる。仄かにピンク色を滲ませるそれは――
「体まで…許してるのか…!? あいつに抱かれてるのかよ!」
前日の夜に晶が付けた赤い跡。シャツの襟で隠していたつもりだったが、長身の彼の目を誤魔化すことは出来なかったらしい。直人は慌てて首を押さえた。
恐る恐る見上げると、真っ青な顔をした和彦の唇がワナワナと震えている。
「…んな、信じ…らんねぇ…。なんで…そんなに…っ」
今にも息が止まってしまうのではないかと思うほどの苦しげな呟き。
「俺…なら…俺だったら、絶対…っっ。お前を大切に思う気持ちは誰にも負けないのにっ。…どうしてお前は…。そんなに…あいつが好きなのか…?」
喉の奥から絞り出すような問い掛けに、直人は黙って頷くことしか出来なかった。
俯いたまま、無言で過ぎること数秒――。何かの温もりが近付く気配を感じて顔を起こすと、目の前に和彦の潤んだ瞳があった。
「かず…ぅん…っ!」
名を呼ぶ間も与えられずに口を塞がれる。押し付けられたそれが直人の唇を優しく包み込むと同時に、驚きで半開きになった隙間から熱い舌が滑り込んできた。
「…うくっ、ふ…っ」
なんとか拒もうと和彦の胸を押すが、肩と頭をしっかりと抱えられていて全く動けない。焦る心を余所に、絡め取られた舌は蕩けそうな愛撫を受けて甘く痺れ始めていた。
――強く吸い上げ、名残惜しげに顔を離す和彦。息の上がった直人からそっと離れると、くるりと背を向ける。呼吸を抑えつつ声を掛けようと直人が口を開いた途端、弾かれたように走り出しあっと言う間に木立の向こうへ消えていった。
一人取り残された直人は、既に見えなくなったその後ろ姿をいつまでも目で追う。
「和彦…、ごめん……」
火照った頬を、初夏の風が緩やかに撫でていった――。
★★★次回予告★★★
急いで病室に行った直人。
でも、晶の態度が何処となくおかしくて――。
午前中は外来患者でごった返すロビーも、この時間帯にもなると人影は疎らになる。閑散としたロビーに並ぶ長椅子の横を抜けて職員用エレベーターに向かい掛けた直人は、突然後ろから呼び掛けられて振り向いた。
「直人」
ロビーの柱に凭れていたその人がゆっくりと近付いてくる。服装こそ涼やかなものに替わっているが、その綺麗なアッシュグレーの髪と優しい笑顔はあのクリスマスの朝と全く変わらない。
すぐ傍まで来た彼の方に向き直って、直人は少し驚きを含んだ笑みを浮かべた。
「和彦、何してるの? こんな所で。休みじゃないよね、大学」
「ああ。養父の親戚が危篤になってさ。三日前に呼ばれて急遽帰ってきたんだけど、なんかそのジイさん、妙に持ち直しちまって。今ここに入院してるんだ。……つっても、それは口実なんだけどな――」
「……?」
怪訝そうに見上げる直人。ひと呼吸置いた和彦が、呟くように言う。
「――お前に…会いたくて……」
「和彦…」
優しい笑顔がスッと潜まる。代わりに浮かんだ真剣な表情に言葉を失い、直人は自分を見詰める瞳を見返した。
「時間あるか? 少し話がしたい…」
「あ…、うん……」
手を引かれ連れ出されたのは、瑞瑞しい新緑が薫る木立に囲まれた中庭だった。美しく整えられた前庭とは趣が異なり、自然味を残したその風情は見る者の心を和ませる。
真上を少し過ぎた太陽の暖かさが広がるその庭には誰もいず、二人は隅の藤棚の前に置かれたベンチに並んで腰を下ろした。
「…話って、何…?」
直人の問いに、和彦は目の前の藤棚を見遣る。淡紫色の長い花穂が、白い棚から幾つも垂れて揺れていた。
「…香月…。あいつも入ってるんだってな、ここに…」
予想もしていなかった言葉。直人は目を瞠って和彦を凝視した。
「ちょっと調べたんだ…。心臓悪くて、そう長くは生きられないってことも知ってる」
藤の花から外した視線を直人の顔に据える。
「…選りにも選って、なんで…。つらいことだらけじゃないか。どうしてお前は、いつも自分が苦しむ方に寄って行くんだ? もう充分だろ」
直人の瞳が翳る。綺麗な灰色が、降雨直前の雨雲のように暗く曇った。
「…その気持ちは何なんだ? …本当はただの、なか――」
「違うっ」
全てを言わせまいと、直人は大きく首を振って否定する。
「…本当に好きなんだよ。病気のことを知るずっと前から惹かれてたって、和彦だって知ってるじゃないか。…俺は、晶を愛してる…」
その言葉に、ピクリと肩を揺らした和彦が目を閉じる。左の掌で伏せた瞼を覆うと、その肘を右手で支えた。
「やっぱ…応えるな、直に言われると…。分かってた筈なのに……」
小さくついた溜息が切ない色を帯びる。それに気付いて、眉根を寄せる直人。
「あ…、ごめん。……一番つらかったのは和彦だよね。聞きたくもないこと相談されて…。もっと早く君の気持ちに気付いてたら、そんな軽はずみなことしなかったのに……」
自分を傷付けてしまったと心を痛める幼馴染の眼差しに耐えられず、和彦は立ち上がって藤棚の下へ行く。
――口にしてはならないと、言ってもどうしようもないことなのだと理解していながら、溢れてくる想いとそれに伴う苛立ちに焼かれた精神が、とうとう己に禁じていた言葉を紡ぎ出してしまった。
「なんで…俺じゃ駄目なんだ…?」
半眼になっていた灰色が見開かれる。
「…和彦…」
「俺は…、ずっとお前を想ってきた。たとえ届かなくても、傍で見守っていられればそれでいいと思っていたんだ。――なのに、それを知らないお前は、俺にあいつのことを相談してきて…。俺がどんなに惨めな気分になったか分かるか? 好きなのに、大切にしたくて距離を置いていたことが却って仇になった。いきなり現れた、あんな何も知らないお天気野郎にお前を奪われるなんて…っ」
力の籠った語尾が荒くなる。
自分の軽率さに責任を感じて、なんとか謝ろうと背後に歩み寄った直人の身体を、和彦は振り向き様に思い切り抱き締めた。
「あっ。か、和彦…」
熱い眼差しで見詰められる。濡れたように艶やかな唇。綺麗に反った長い睫毛。そしてそれに縁取られた黒い瞳の深さに、思わず吸い込まれそうになってしまう。
これほど端整な容貌を持つ彼ならば他に幾らでも相応しい人がいるだろうに、何故応えることの出来ぬ自分などに想いを寄せてしまったのか。それを考えると、直人は胸が締め付けられるような気がした。
和彦の手が直人の髪に触れる。横から指を入れ襟足まで梳いたその手が、白い首筋に残る微かな跡を見付けて動きを失った。
「…直人。…お前、まさか…」
声と同様に震える指で、その痕跡を撫でる。仄かにピンク色を滲ませるそれは――
「体まで…許してるのか…!? あいつに抱かれてるのかよ!」
前日の夜に晶が付けた赤い跡。シャツの襟で隠していたつもりだったが、長身の彼の目を誤魔化すことは出来なかったらしい。直人は慌てて首を押さえた。
恐る恐る見上げると、真っ青な顔をした和彦の唇がワナワナと震えている。
「…んな、信じ…らんねぇ…。なんで…そんなに…っ」
今にも息が止まってしまうのではないかと思うほどの苦しげな呟き。
「俺…なら…俺だったら、絶対…っっ。お前を大切に思う気持ちは誰にも負けないのにっ。…どうしてお前は…。そんなに…あいつが好きなのか…?」
喉の奥から絞り出すような問い掛けに、直人は黙って頷くことしか出来なかった。
俯いたまま、無言で過ぎること数秒――。何かの温もりが近付く気配を感じて顔を起こすと、目の前に和彦の潤んだ瞳があった。
「かず…ぅん…っ!」
名を呼ぶ間も与えられずに口を塞がれる。押し付けられたそれが直人の唇を優しく包み込むと同時に、驚きで半開きになった隙間から熱い舌が滑り込んできた。
「…うくっ、ふ…っ」
なんとか拒もうと和彦の胸を押すが、肩と頭をしっかりと抱えられていて全く動けない。焦る心を余所に、絡め取られた舌は蕩けそうな愛撫を受けて甘く痺れ始めていた。
――強く吸い上げ、名残惜しげに顔を離す和彦。息の上がった直人からそっと離れると、くるりと背を向ける。呼吸を抑えつつ声を掛けようと直人が口を開いた途端、弾かれたように走り出しあっと言う間に木立の向こうへ消えていった。
一人取り残された直人は、既に見えなくなったその後ろ姿をいつまでも目で追う。
「和彦…、ごめん……」
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