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第十六章 鼓動の記憶
第51話 中編1
しおりを挟む「痛…っ」
ポタリと落ちる鮮血。濡れたまな板の上に円く赤が広がっていく。
「……やっちゃった」
傷付いた指先に唇を当て、包丁を置いた。
救急箱を開けながら部屋の隅に視線を投げる。そこに立て掛けられたボードを見て、小さく溜息をついた。
――ひと月ほど前から、手の関節が言うことを聞かなくなってきていた。思うように指が動かず、仕事も捗らない。ここ数日で著しく悪化してしまったそれの所為で、直人の手は鉛筆を握るのも困難な状態だった。
壁際のボード――それは、昼前やっとの思いで仕上げた作品。期日までにと手を騙し騙し描いて、なんとか明日の締め切りに間に合わせることが出来た。
出版社に持っていくのは明日でも構わなかったが、この手ではもう次の仕事を請けることは不可能だ。中学卒業からずっと続けてきた絵の仕事を、とうとうやめる時が来てしまった。そういうことはなるべく早く伝えた方がいいと考え、直人は今日の夕方作品を納めに行こうと決めたのだ。
だが、晶との約束がある。夕食を用意して少し早めに病院へ行こうと、晶の弁当を作り始めたところで怪我をした。ぎこちない指の所為で手元が狂い、握った包丁で左手の人差し指を傷付けてしまったのだった。
絆創膏を貼ると、まだじわりと赤いものが滲む。
「お弁当も、もう無理かな……」
残された時間は確実に短くなっていた。自分が動けるうちに、次の行動を起こさなければならない。
直人は壁のカレンダーに目を遣って、怪我した指をぎゅっと握り締めた――。
「――さてと。電話で言ってた、話したいことって何だい?」
九月も早や下旬を迎えた、外の空気が多少ひんやりと感じる日曜の朝。
温かい紅茶の注がれたティーカップをローテーブルに置き、リビングのソファに腰掛けた秀一が訊く。向かい側に座った直人は、俯いていた顔を上げて真っ直ぐに秀一を見た。その眼差しは真剣そのもの。普段、絶えず浮かんでいた穏やかな微笑が、今は無い。
「…それをお話しする前に、一つだけ確かめておきたいことがあるんです。……晶は――あとどれくらいなんですか…?」
先刻まで自分が考えていたことを見透かされたような質問に、秀一の眉が僅かに上がる。交わしていた視線を逸らし、憂える眼を半分伏せて開口した。
「……持って四ヶ月というところだよ。来年の一月を乗り切れるかどうか――」
言ってから深く嘆息する。もはやそうとしか答えられないことが歯痒くて堪らない。
認めざるを得ない現実、襲い掛かる無力感――。
秀一は、ソファに頭と背を預けて天井を仰ぐと瞑目した。
「…結局…、私には何も出来なかった…。父のような病に苦しむ人を少しでも減らしたくて…、もう大切な人を誰一人失いたくなくて、この道に進んだ筈だったのに……。晶君の病気には、私がこれまで培ってきた知識や技術では到底太刀打ち出来なかったんだ。…情けないね…」
「そんなことありません。秀一先生が晶の為にどれほど力を尽くしてこられたか、俺も少しは分かってるつもりです。どんなにお礼を言っても足りないくらい、感謝してるんですから」
自分を責めたりしないで欲しいと言う直人の気持ちの温かさに、思わず目頭が熱くなるのを懸命に堪えた。
「ありがとう、直人君。――でも…これ以上どうしようもない……」
目を閉じたまま、フッと己への嘲笑を漏らす。
「こんなことを願うなんて医者失格だけど……、本当にもう…奇跡でも起きないことには――」
「……その『奇跡』がここにあるとしたら…、どうしますか?」
「…え…?」
一瞬の、間。
直人が口にした言葉の意味が分からず、秀一は顔を起こして怪訝そうに彼を見た。脇に置いていたカバンから数枚の書類を取り出した直人は、それを静かに差し出す。
「これを見て頂きたいんです」
身を乗り出して受け取った書類に目を落とす秀一。それは、直人のある臓器に関する検査結果の報告書だった。並んでいるのは自分もよく見知った項目ばかり。
「…心臓の検査を…?」
「はい。他の病院で受けました」
何故わざわざそんなことを、と問い掛けようとした秀一の目が、各項目の横に列記された数値を捉えて動きを止めた。この数の並びは、何かに酷似している。――そうだ。これまでずっと向き合ってきた、あるものの値と。
それに思い当たった瞬間、身体から血の気が引いた。
「…ま、まさか…」
秀一は突然立ち上がってリビングを出ると、書斎に駆け込む。デスクに放っておいた晶のカルテファイルを手に、急いで戻ってきた。ソファに座るのももどかしく、ファイルから最新の検査報告書を外して直人のものと見比べる。
「やっぱり……」
見間違いではないのかと思うほどの一致。心臓の大きさや許容血量、その他種々の型もほとんど大差が無い。
問題視していた血液型。血縁関係の無い全くの他人で、これほど身近に同型のマイナス因子を持つ人間がいるなど、確率的にほぼ有り得なかった。
「…間違いないみたいですね」
呆然となった脳内に直人の声が届く。ハッとして目線を上げれば、そこには安堵の息をつく彼の顔があった。
「……直人君、君は……」
その思惑を察して、秀一は絶句する。
幾ら愛する者の為とは言え、この青年は何ということを考えるのか。晶を救う為躍起になって道を模索した自分ではあるが、医者として――いや、人としてそんなことを認めるわけにはいかなかった。
「…晶君を助けたいという君の気持ちは分かる…。でも、その考えには賛同出来ない。移植可能な心臓を持っているからって、そう簡単に人の命を犠牲に出来ると思うのかい…?」
諭すように紡いだ言葉に、直人は薄く笑みを零す。再びカバンを開けると、小さな封筒を出して秀一に渡した。
「…これは?」
「扉を開ける鍵です」
意味深なセリフ。秀一は首を傾げながら中身を取り出す。
入っていたのはやはり書類が数枚。だが、こちらは綺麗に折り畳まれていた。開いてみて、それがとても見慣れたものであることに気付く。
(どうしてこんなものを直人君が…?)
それは、特定疾患罹病者が年に一度都道府県に提出する認定申請用紙。患者の元に送られてくるその書類に、秀一も多くの人の主治医として詳細を書き込んできた。健常者がこの書類を手にすることなど、全くと言っていいほど無い筈だ。
訝りつつも紙面の文字を追った秀一の身体が、次の瞬間硬直する。
「な…んだって…?」
そこに書かれていた病名は、未だ治療法が確立されていない内分泌系の難病だった。そして罹病者名の欄に記入された名は――
「何故…君が……」
すぐには信じることが出来ない。目を泳がせるように上げると、直人は変わらず静かに笑んでいた。
――紛れも無い直人自身の申請書。つまりそれは、彼がこの不治の大患に冒されている事を意味する。
「春頃主治医に書いて貰ったものを、そのまま提出せずに残しておいたんです。どうせ申請したってもう長くないのは分かってましたし、こんな日が来た時、秀一先生に見て頂こうと思って…。その時点でのカルテも添付されてます。参考になればいいんですが――」
それを聴いた秀一は慌てて下に重なっていたカルテのコピーを見る。そこに記されていた事実は、あまりにも残酷だった。
10歳で発症し、一年間の入院生活。検査に明け暮れる毎日の中で、何の治療法も見出せぬまま、ただただ薬で進行を抑えるしか術は無かった。それこそが命を縮めるのだと分かっていて、だが他にどうすることも出来なかったのだ。
『ホルモン系薬剤 STR錠』
成人でも、一定量を呑み続ければふた回りと持たないほどの強力な薬物。まだ幼い直人の細胞に浸潤したその劇薬は、通常の倍近い速度で身体を蝕んでいった。
――服用開始から十年以内――
20歳そこそこで終わりを告げる命。所見には、今年の冬まで持たないだろうことがはっきりと書かれていた。
★★★次回予告★★★
驚愕する秀一の前で語る直人の本音とは――。
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