Heart ~比翼の鳥~

いっぺい

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第十六章 鼓動の記憶

第52話 中編2

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「…こんな……嘘だろう…?」

 信じたくなかった。
 何故自分の身近にいる若者は、こんな重い運命を背負った者ばかりなのか。のうのうと生き長らえる不甲斐ない己が、何か許され難い罪を犯しているようで居た堪れない。



 申請書の右隅には、国立総合病院の証印が押されていた。まさか直人まで同じ病院だったとは――。

「君も…国立だったのか……」

「はい。以前は三週に一度、今は隔週で通っています」


 秀一はそれで思い当たる。初めて直人に会った時、その綺麗な容貌に見覚えがあるような気がしたのはその為だったのだ。通院してくる彼を、病院内で見掛けていたのだろう。何故あの時すぐ気付かなかったのか、今はそのことが悔やまれる。


「――これで問題はなくなった筈です。扉は開かれた――。全身ボロボロのこの体だけど、心臓だけはまだ異常が出ていない。だから今なら間に合うんです。晶が手術に耐えられるだけの体力を残しているうちに、俺の心臓を彼に移植して下さい。お願いします、先生」

「…直人君…。私に本気で考えさせたくて…わざわざ、これを……」


 患者個人のカルテは、たとえ本人でも直接手にすることは出来ない。転院か、若しくはこうして申請用に添付されるくらいでしか、院外に出ることは無いのだ。
 他科とは言え、同じ院内なのだから秀一が調べようと思えば出来た筈だが、恐らく少しでも迷惑を掛けたくなかったのだろう。心臓の検査を他院で受けたのも、その為だと思われた。


「自分に出来ることくらいはやらなきゃって――」


 あと僅かの命しか残されていないというのに、いや、それ以前に自らの心臓を取り出して欲しいなどという話をしているというのに、何という落ち着いた目の色をしているのだろうか。まるで、あの白い部屋で独りの時間を過ごしたかのように。
 だが、直人はあの部屋には入っていない。五年前に設置された部屋の存在を、そのずっと前に退院していた直人が知らないのは当然だった。もしも入院が最近のことであったなら、間違いなく彼も白い空間に身を置いていた筈だ。内分泌内科の患者も例外ではないのだから。


 ――と、そこで秀一はふとあることに気付く。

(内分泌内科…? まさか――)

 急いで紙面に目を走らせる。果たして目的の欄にあったのは、秀一の予想通りの名であった。


『担当医:武井雅也まさや


 ――せめて命くらいは救ってやりてぇのにな――


 居酒屋で悩みを語り合った時の、彼の言葉を思い出す。それが直人のことを指していたとは、よもや考えてもみなかった。

「主治医は、武井先生…?」

 直人はコクリと頷く。

「お知り合い…というか、よくご存じみたいですね」

「…大学時代からの友人なんだ。――で、彼には心臓のことは?」

 今度は首を横に振る。

「いいえ。晶のことも、何にも話してないんです。……前任の先生と替わってから七年間、とても良くして下さった人だから、なるべく巻き込みたくなくて……」

 直人の顔に浮かんでいた微笑が消える。真摯な眼差しが秀一に注がれた。

「秀一先生だってそうです。出来ることなら――。…先生は凄く優しいから、俺がこんな相談をしたらきっと苦しむだろうって分かってました。無理なお願いだってことも、迷惑を掛けてしまうことも自覚してます。でも――それでもお願いしたいんです。秀一先生しか、晶と俺を救える人はいないから……」

「……君は、一体いつからこんなことを……」

 秀一の問い掛けに、直人は一度大きく息を吐いてテーブルの上の書類に目線を落とした。過ぎた過去を顧みるように、ゆっくりと話し出す。

「考え始めたのは、晶に病気のことを打ち明けられた直後です。長くないと聞かされた時、自分で収拾がつけられないほど動転してしまって――。おかしいですよね。俺だって似たようなものなのに、晶が死んでしまうのはどうしても許せなかった。太陽みたいに温かくて、情熱的で……そんな彼があと少ししか生きられないなんて、認めたくなかったんです。…でも、同時にあることを思い付いて――」

「…移植の可能性だね…?」

「そうです。だから、あの後すぐ秀一先生の所に伺ってお話を…。一体何が問題なのか確かめる為に……」

 直人はそこで初めてティーカップに手を伸ばす。冷めてしまった紅茶を少しだけ飲んで、再び口を開いた。

「最大の引っ掛かりが血液型だって聞いた時は、信じられない気持ちでした。そうであってくれればと願っていたことが現実になるかも知れない。そう考えると何となく緊張してきて。嬉しいのに、どこか複雑な心境とでも言うのか……。でも、それからなんです。本気で『生きたい』と思うようになったのは――」


 それまでは全てを諦めていた。どんなに望んでも、晶の傍にはいられない。『死』で何もかも奪われてしまうのだと。
 だが、それを覆せる可能性が出てきたのだ。上手くいけば、晶の命そのものになってずっと一緒に生きることが出来る。直人はそれに懸けた。

 年明けすぐに細かな検査を受け、結果が出たのは春先のこと。随分と待たされたが、検査報告書に並んだ数値は焦れていた彼を喜ばせるに充分なものだった。
 己の思考をそれのみに向け、誰にも知られぬよう少しずつ準備を進める。途中、何度となく体調を崩して寝込みながらも身辺等を整理し、今日漸く秀一に相談するところまで辿り着いたのだ。


「――ちょっと待ってくれ。何故君は晶君の心臓のデータを知っていたんだ? それが分からなければ、一致しているかどうか判断出来ない筈だ」

 当然の疑問を口にされて、話を止めた直人が顔を伏せる。

「……ごめんなさい。検査を受けた頃、こちらへお邪魔した時に…俺、黙って秀一先生の書斎に入り込んだんです。晶のカルテを持ってらっしゃることは知っていたので、勝手に探して検査数値を手帳に書き写しました。――泥棒みたいなことをしてしまって…。でも、どうしても知りたかったんです。先生にも、まだ話す覚悟が出来ていなかったし。…本当に、すみません……」

 心から申し訳なさそうに呟かれた謝罪に、秀一は小さく息を漏らした。

「そうだったのか…。いや、いいんだよ、そんなに謝らなくても。君の気持ちは分かるから……。それで、最終的な確認の為に私に見て欲しかったんだね?」

「はい。……そして、是非協力して頂きたくて……」

 伏せられていた面がゆっくりと上がり、その目が秀一を捉える。美しい灰色の瞳は、薄く潤んで銀の光を放っていた。

「――しかし、こればかりは……。息を引き取ってからならまだしも、君はまだ生きている…。仮にも私は医者なんだ。たとえ僅かでも生きる時間が残されている人に、命を絶つ為のメスを向ける事は出来ない」

 直人の純粋な願いを感情では理解していながら、思考の大部分を掌握する理性がそれを受け付けない。眉間に深い皺を刻んで苦患くげんの相を呈する秀一。直人は緩やかに首を振ってその言葉を否定した。


「命を絶つ為じゃありません、秀一先生。生きる為なんです。さっきも言ったでしょう? 俺達を救えるのは貴方だけだって」


 肩を落として己の膝に肘を突いた秀一の、組まれた両手にそっと白い手が添えられる。強い眼差しに射抜かれるように、秀一はその目を見返した。

「晶には俺が、俺には晶が必要なんです。傍にいて、尚且つ共に『生』を得る方法は、二人が一つになること。そしてそれが出来るのは、秀一先生しかいない。――すぐに実行して欲しいと望むのが、先生にとって凄く酷なことだって分かってます。貴方につらい思いをさせなくても、どうせ俺は死ぬ。だけどそれまで待っていたら、晶の体が手術に耐えられなくなってしまう。ほんのひと握り残された希望が…俺のすべてが晶の傍から消えてしまうんです。…そんなの嫌だ。天命を全うするまでの短い時間を、外面の生に囚われて惜しみながら生きるより……俺は、今すぐ体を捨ててでも、晶の一部として生きていきたい……」


 自殺しようかとも考えた。秀一の苦悩を、負担を、多少なりとも軽くする為に。
 けれども、結局は同じことなのだ。幾ら自分で幕を下ろそうと、死後心臓に影響が出ないうちに摘出するには、どうしても秀一に近くにいて貰う必要があった。しかも、あらかじめ『自殺』する事を知った上で。それは恐らく、自らが手を下すよりも彼の心を深く抉る事になる筈――。そう気付いた時、やはり全てを秀一に託すしか無いのだと心を決めたのである。


「そんなにまで…晶君と……」

 小さく首を縦に振って、直人は秀一の手を離す。前方に掛けていた重心を後ろに倒しソファに凭れ込んだ。心なしか、その白面おもてや吐息に淡く疲労の色が見える。


「――秀一先生。『死後の世界』って…信じますか…?」

「え?」


 背凭れに頭を預け緩く瞼を閉じた直人の唐突な問いに、秀一は眉をひそめる。答えを返さない彼に構わず、まるで独り言のような言葉が紡がれた。

「俺は…絶対にない、とは思いません。…このまま何もしなければ、俺も晶もきっと前後するように死んでいく。『死の世界』でなら、永遠に寄り添うことが出来る。――だけど……。『生まれ変わり』にしてもそうです。もし本当に二人とも生まれ変わって、また晶に出会えるならそれもいい。新しい人生を一緒に歩んでいくのも。……でもね、俺って結構我が儘なんです。確実性のないものに望みを託して死ぬよりも、俺は今を選びたい。晶と出会って、惹かれて、愛された、この今世を大切にしたい……」

 目を開き宙を見詰める彼の瞳は微かに笑んでいた。秀一は、続けられる呟きに耳を傾ける。

「……正直に言うと、俺も昔は自分の運命を呪ってました。どうして俺がこんな目に遭わなきゃならないんだろう、やっぱり神様なんかいないんだって、幼稚なこと考えたりして…。でも――今は違います。最後の最後で、神様は俺に手を差し伸べてくれた。奇跡を起こしてくれた。俺が晶の傍にいる為に必要な条件を、全部揃えてくれたんだもの」


 ――話し始めてすぐの時にも直人が言ったように、まさしく他に言い換えようの無い超事。惹き合う二人の為だけに用意された静かなる奇跡は、晶を想う直人の壮美なまでの愛情が無ければ、誰に気付かれることも無かった。
 全てを素直に受け止め、己の想いに従う直人。そう。彼は今、短い人生の中で最大の作品を描こうとしているのだ。晶と自分の未来という、大きな大きな作品を。それを邪魔することは誰にも出来ない。
 そして、その仕上げをしてやれるのは梶原秀一じぶんしかいないのである。しかし――


「…すまない、直人君。少しだけ…待ってくれないか…?」

 なんとか喉から絞り出した声。
 残された猶予はあと僅か。時間が無いことは分かっている。分かってはいるのだが――。

「勿論です。突然こんな話を聞かされて、そう簡単に結論を出せるわけないですよね。無茶なことをお願いして先生まで巻き込んでしまって……本当にごめんなさい」

 姿勢を正して深く頭を下げる直人。慌ててその肩に手を掛け、顔を上げさせる。

「いや。巻き込んだなんて考えないでくれ。確かに混乱してるけど、君がこれほど思い詰めていたことを気付けなかった私がいけないんだ。体調だって良くない筈なのに、こんなに無理をして…。一人でつらかったろうに……すまなかったね、直人君」

「秀一先生……」


 本気で相手を気遣う案じの言葉を聴き、直人は嬉しそうに微笑みながら静かに立ち上がった。

「俺、晶を好きになって良かった。こうして秀一先生にも会えたし。――先生。今度のこと、俺は晶の誕生日くらいがリミットじゃないかと思うんです。あと一ヶ月弱しかないけれど……。また、来月初めのお休みに電話します。それまでに考えておいて頂けますか…?」

 秀一の強い頷きを確認すると、再度頭を下げてから玄関ホールへのドアノブに手を掛ける。家まで送ろうと腰を浮かした秀一を「大丈夫ですから」と制して、彼は扉の向こうに消えていった。




 玄関ドアの閉まる音がする。
 一人になった途端、再び湧き起こる驚愕と真実というものの恐ろしさに、背筋が寒くなった。精神的な胸苦しさに襲われつつ、直人の呟きを思い出す。彼が口にした『神様』という単語を。

 ――もし本当に神様がいるとしたら、貴方は一体…慈悲深いのか酷なのか……。何という道をあの子達に与えるのかと思わずにはいられない。…そして、私にも――

 想いが胸中に木霊する。不安定な心を捕らえるように、震える手で己の身体を抱き締めた。


「私は…どうすれば……」



 ★★★次回予告★★★

事件の前後を流れに沿って。
当日病院に向かう直人の心中や、事件直後の様子などが語られます。
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