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Heart 三年詩 ―MITOSEUTA―
第11話 第三章 武井&秀一 (後編)
しおりを挟むキッチンで食器を洗う武井。
自分で片付けようとして、「ここはいいからゆっくりしてろ」と彼に制された秀一は、リビングのソファに腰掛けていた。
「眠いなら、先に休んでいいぞ」
「いや、今のところ眠気はないから。――いつもすまないな。何もかもお前にばかり面倒掛けて……」
ダイニングを挟んで会話する。流水音の中でもよく通る声で武井が言った。
「時間の取れる方がやりゃぁいいことだし、俺は体力も有り余ってるからな。何より、好きでやってんだから構いやしねぇよ。――ところで、明日はやっぱ奈美さん来ねぇのか?」
「ああ。何度か誘ったんだけど、自分はいいからって。帰り掛けに読んだ返信メールにも、『行ってらっしゃい』って書いてあったよ」
初めて一堂に会する自分達四人の邪魔をしたくないのだろう。気遣ってくれる母の愛情がありがたかった。
「――晶もあのまま順調みてぇだが、特に体調には変化ないんだろ?」
少ない洗い物を終え、武井は手を拭きながら尋ねる。首を後ろへ振り向けて微笑する秀一。
「四年経ってますます元気になってるよ。この前の生検も問題なかったし、機能不全の徴候もない」
――クリーンルームにいた間こそ多量に投与したものの、まるで初めからそこにあったかのように晶の体内に馴染んだ心臓は、有ろう事かその後の免疫抑制剤を必要としなかった。目を瞠る経過の良好さにペースの上がった減量にも、眠ったままの彼の身体は何の異常を示すこともなく。
ICUを出た時点で一切の投与を中止して支障無かった奇跡の快復と健かな生命の容相に、秀一は唖然となったものだった――。
彼は現在も薬を服用している。しかしそれは臓器の働きを安定させる最小限のものであって、悪化の抑止や治療を目的とする強い薬剤では決して無い。生涯に亘り定期的な通院と検査を続けていくことにはなるが、今の晶は強健な人々と比べてもなんら遜色の無い健康体なのだ。
運命に導かれるように出会い、激しく惹き合って現今の『生』を得た晶と直人。元々一人の人間だったと錯覚しそうなほどに障り無く統べられた身体は、この先もそのバランスを失うことは無いのだろう。
直人に似た絵を描くようになったと聞いた時には驚いたものの、その心身の形様を思えば、それは今の彼にとって当たり前――と言うより、なくてはならない『生きること』の一部だと、素直に納得することが出来た。
リビングの天井を仰ぐ秀一。照明の縁廻りに見える僅かな影に目を遣って、明日会うもう一人の若者に思いを馳せた。
――晶が退院する二週間ほど前、彼に頼まれて連絡を取ったアッシュグレーの髪の青年。文字通り永遠の『恋敵』である男からの伝言に、受話器向こうの和彦からは少なからぬ躊躇いの気色を感じた。
自身の目の前で壊れ掛けたあの日の彼。直人の手紙を読み途方に暮れたその表情。そして、病室を訪ねること無く自分にカトレアを託して帰っていった日の、深創の瞳が思い起こされる。
いずれの時も多分な翳りを宿していた心身は、暗中の苦しみに喘いでいるように見えて。不用意な言葉より、有るがまま、思ったままを己の声に載せた。全てを終え見届けた自分が、彼の為に出来ることはそれしか無かったから――。
負った傷は、月単位程度の時の流れで癒されるほど浅いものでは絶対に無い。こんなに早い段階で晶と接触を持つことは、彼にとって身を切るような痛みを伴うおそれすらあった筈だ。
不安を抱えつつ、それでも道を探ろうと返事を返した和彦。今もまだ明確な答えを得ていないのだろう彼の心は、これからも様々に揺れ、迷いながら、きっとその時間さえも己の強さに変えていくに違いないのだ――。
法要で顔を合わせて以降も、折に触れ電話で近況を知らせてくれる彼。そんな和彦や晶の何気ない日常に救われているのは、自分の方なのかも知れない。
「――時々、思うんだ……」
ぽつりと落とされた呟きに、ソファの背面に歩み寄っていた武井は片眉を上げる。次いで聞こえた憂声が彼の動きを止めた。
「このまま…私だけ雅也に甘えていていいのかって――」
「秀一……」
ソファに深く沈み込み、目を伏せた秀一が嘆息する。
「晶君も和彦君も、一人で頑張っているのに……」
抱えたものの大きさに、自身さえ持て余したかつての自分。ともすれば陥りそうになる深みは今も至る所にその口を開いている。
惰弱な己が日々を歩んでいけるのは、力強く引き上げてくれる存在があるからだ。しかし――
ふっと頭上に感じる彼の気配。瞼を開くと、背凭れ越しに見下ろしてくる武井の相貌があった。
「…一人じゃねぇだろ」
「……?」
上向いたまま、返されたひと言に少しばかり首を傾げる。髪に触れた長い指がゆったりと細糸を梳いた。
「直人も含めて――『皆で』、だろ?」
眸子を細め、秀一は微苦笑を漏らしながらコクリと頷く。武井は昔色の瞳を穏やかに見返した。
大学時代、その視線に時折感じた微かな揺らぎ。期待したくなる己を律して気の所為だと言い聞かせた。
気付かない振りをしているのだとしたら、尚更自分は拒まれているのではないか。この気持ちが相手を苦しめることになるならと、彼に対してだけはらしくないほど行動を起こせなかった自身。
熱い想いに身を焼きながら一方ならぬ葛藤を抱えていた和彦もまた、晶とは違う意味で何処か自分に似ているのかも知れなかった。
「――秀一。お前、結構しんどいんじゃねぇのか…?」
降ってきた低い声音を耳にして、秀一の目が見開かれる。
「去年までは、やっぱりこの時期が相当つらそうだったよな。今年はだいぶマシになったかと思ってたが、無理して散らそうとはしてねぇか…?」
――あの夜、傷付いたガラス細工のような脆さを見せた想い人。
崩れ掛かったその姿に、もう抑えは利かず。自分のマンションに連れ帰り、セミダブルのベッドの中で背後からきつく抱き締めたまま夜を明かした。
幾筋もの雫をこぼした瞳を閉じて、やっと安らいだ寝息を立ててくれた秀一。十年以上想い続けたその人の髪に顔を埋めて、くれた応えの大きさを思う。この心身に浸潤していく温もりの愛しさを噛み締めた――。
刹那に燃えた晶と直人に彼がしてやれたこと――それ自体にきっと後悔は無いのだ。
身の内にあるのは己の至らなさへの慙愧と、辿った行為そのものに対する戦慄。去ることの無いそれらを、秀一は一生背負っていくのだろう。
ならば自分は、その重みを少しでも軽くし支え続ける柱でありたい――。
静かな問い掛け。瞠目していた彼の表情が、一拍置いてからふわりと和む。
「――大丈夫だよ。確かに、忙しさである程度気が紛れてるのは否めないけど、今沈んでるように見えるのは、本当にここ数日バタバタだったから――」
こちらの面に注がれる眼差しは、口にした言葉が偽りで無いことを語っていた。ふうと大きく息をつく武井。
「それならいいが――。体は多少無理が利いても、心はそうはいかねぇんだ。…我慢はするな……」
左手の親指で己が胸をトントンと示す。その手を背凭れの上に置くと、右手で秀一の前髪を掻き上げた。身を屈め彼の額に口付けを落とす。逆さまに向き合った眼前のセピアが、薄く潤んで見えた。
ソファを離れ、武井がキッチンの方へ戻っていく。顔を起こした秀一は、額に残る優しい温みを思い返していた。
『とにかく休め。何も考えずに――』
――あの日以来、いつでも傍らに彼がいた。その手が触れるだけで――いや、声を聞くだけで、その温かさが自分に安らぎを与えてくれる。
さりげない言葉や仕種に感じる深い情愛。それに劣らぬほど、自分も彼が他の誰より愛おしい。
髪際から全身へと広がっていく武井の微温を胸に抱く。
揺蕩うような心地好さが秀一を包み込んだ――。
温かい飲み物でもとシンク横で用意し掛けて、ふと思い付いた武井はダイニングの隅にあるサイドボードへ向かう。扉を開いて中を確認しながら、秀一に声を掛けた。
「まだ眠れないんなら、少し飲むか? ウイスキーがあるからホットにしてやってもいいが――」
多量のアルコールは眠りを浅くするし、第一明日にも差し支える。が、早く寝付いて身体を休ませるには、少量摂らせるのも一手だ。
しかし、投げ掛けた問いに返る筈の返事が無い。テレビを消したリビングはしんと静まり返っている。
「? ……秀一?」
武井は怪訝顔で再びソファに近付く。上から覗いた彼の目が丸くなった。
――背凭れに上体を埋めるようにして、秀一が眠っていた。カックリと首を垂れたその口元からは、すうすうと小さな寝息が聞こえている。伏せられた睫毛が目縁に淡い影を落としていた。
正面に回り、その白面をじっと見詰める。腕を組んでほんの束の間思案した。
自身が仕掛けた『狸寝入り』に対する仕返しを狙って――なんていうわけは…無い。秀一はそんな器用なことの出来る男では無いと、何より自分が知っている。
――秀兄ぃの場合マジ寝に決まってんじゃん――
――秀一先生、疲れてるんだよ――
笑う赤髪の貌と共に、何処からかそんな声も聞こえてきそうだ。
リビングに作り付けのオーディオラック。その上に飾られたフォトスタンドには、自分達にとってもはや心の一部とも言える二人――晶と直人の写真が収められている。梶原家で誕生会を開く少し前、彼等が本気の交際をスタートさせて間もない頃に撮った、温かな笑顔の写真だ。
「――だよな」
フォトスタンドに目を向けた武井は、微かに苦笑しながら軽く頭を振った。
そっと頬を撫でてみる。すっかり寝入っているらしい彼が目を覚ます様子は無かった。
「……ったく、しょうがねぇな――」
寝室からハーフサイズのブランケットを取ってくる。パジャマ姿の秀一の首元まで着せ掛けると、自分もその隣に腰を下ろした。
このまま抱きかかえてベッドへ運んでもいいのだが、折角の寝入り端に動かして、起こしてしまうのは気が引ける。彼の寝顔が芯から寛いだ表情を浮かべているから尚更だった。
傾いだ頭をゆっくりと己の胸に凭せ掛ける。洗髪後の柔らかな香りに双眼を細めつつ、小さく上下するその肩を抱いた。
約束の時間は明朝10時。既に短針が『3』に差し掛かっている時計の文字盤を見遣り、胸元の髪に頬を擦り寄せる。
もう暫くはここで寝かせてやろうと笑みながら目を閉じるその横顔に、ラック上の写真が優しく微笑み掛けていた。
fin.
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