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炎編/夜は始まる
6.逃避行の果てに
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思わぬトラブルに巻き込まれたおかげで、観月を送り届けるのに随分時間を食ってしまった。夕食時になり腹も空いてきたけれど、今夜はまだやらなくてはならない仕事が残っている。
マンションと呼ぶには年季の入った、昔ながらの二階建てアパートはどこか懐かしい佇まいだ。観月の部屋は一階の端。俺は建物の周囲を回り、木刀を宙にくるりと回して従者の侵入を防ぐ結界を張った。
「また明日来る。夜は外出すんなよ」
「あ、待って。飲み物くらい出すよ」
アパートの外で立ち去ろうとした俺は、そう言って観月に引き留められた。
もう暗いというのに、一人暮らしの女の部屋に上がるのは気が引ける。断ろうとしたものの、彼女の方は家に男を招き入れるのがどんな意味を持つかなんて分かっていない。こちらから説明するのも虚しいし、少し休憩したい気持ちはあったので、お言葉に甘えることにした。
「じゃ、ちょっとだけな。遅くならないうちに帰るよ」
「門限でもあるの?」
「門限つーか……」
観月がドアの鍵を開けている後ろで、俺はスマホを取り出しリダイヤルボタンを押す。いつも通り、コール二回で来は電話口に出た。
木刀を脇に挟み、スマホを耳に当てながら「お邪魔します」と中へ入る俺を見て、観月はくすくす笑う。
『お邪魔します? 何のことだ』
「てめーに言ったんじゃねえよ。詳しいことは後で話す」
電話の向こうで来の訝しげな声が響くが、報告は後回し。俺はアパートに着いた旨だけ伝え、さっさと通話を切り、電源をオフにしてスマホを上着のポケットに突っ込んだ。わざわざ言わなくても、この後児童公園へ直行することは社長様も了承済のはず。
六畳一間の彼女の部屋は、広くはなくともきちんと片付けられていて、手狭な感じはしない。淡い色のカーテンが引かれ、シンプルな家具や可愛いクッションに女性らしさが窺える。
部屋を見回して落ち着かない気持ちで畏まる俺に、観月はホットミルクを入れて持ってきてくれた。マグカップからは少し変わった甘い香りがする。
「もしかして、ハチミツ入れた?」
「うん。嫌いだった?」
「いや……、ありがと」
先程ここへ来る途中、俺はホットミルクが好きだという話をした。それで作ってくれたのだろうと思うとなんだか嬉しかった。
ハチミツの柔らかな甘みが体全体に染み渡り、事務所で飲むものよりずっと温まる。美味い、と思わず漏らせば、観月は花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「観月はバイトだろ。生活大丈夫なんか?」
「そこそこね。正社員の口を探してるんだけど、なかなか見つからないんだ」
彼女の両親は早くに亡くなり、高校卒業後に親戚の家を出て一人暮らしを始めたらしい。不景気なご時世、一応職にありついている俺は幸運というべきか。
「視矢くんは、来さんと同居してるんだよね。家族の人は都内に住んでるの?」
問われて、一瞬言葉に詰まる。久しく触れられなかった話題なので、咄嗟に上手い返しが思い付かなかった。
「家族全員、三十年前クトゥルフに殺されたよ」
俺はホットミルクを飲みながら淡々と答えた。家族を失ったのは遥か昔。過去は意識的に思い出の中に沈めているため、当時ほど悲嘆に暮れたりはしない。だがクトゥルフに対する憎悪の念は、強まるばかりで決して消えない。だからこそ、今もこうして邪神に関わる仕事を続けている。
「え、と。三十年前って……?」
「あ、三十年前って言った? 間違い、三年前!」
遠慮がちに聞き直され、口を滑らせたことに気付いて慌てて訂正する。我ながら下手すぎる誤魔化しだと自分の頭を殴りたくなった。
「俺行くわ。ありがとな」
これ以上余計なことを言わないうちに退散しようと、俺は腰を上げた。空になったマグカップをテーブルの上に置き、木刀を手に取る。
日付が変わるまで四時間余り。夜更けとともに従者が動き出す。
「よかったら、ご飯食べてく?」
「いやいやいや、そこまではいい! それに、これからお仕事」
彼女にしてみれば、無償で護衛してもらうのだからという思いがあっての申し出だろう。もちろん悪い気はしないけれど、ここで長居したら来が怒るのは目に見えている。
気を付けて、と見送ってくれる観月に、体だけでなく心まで温まったように感じた。
アパートを出ると、途端にひんやりした空気が肌を刺す。季節が巡り、冬が到来する。一年があっという間だ。
従者の潜む児童公園は、彼女がコンビニへ行くのにいつも通り抜けるくらいアパートから程近い。公園の入口には立ち入り禁止のテープが張り巡らされているだけで、物理的に越えようと思えば誰でも越えられる。
越えられないのは、テープではなく結界の方。従者のいる空間は切り離され、公園内に足を踏み入れても従者を目にすることはなく、従者もこちら側へ出て来られない。なのに観月だけは、結界を超えて従者と遭遇してしまった。
「さて、待たせたな」
黄色いテープをくぐり、砂場付近まで歩いて行くと、ざわりとした不快感があった。胸が悪くなりそうな悪臭が漂い、ぶよぶよした黒い腐肉の生き物が地面から浮き出てくる。
「なんだ、来ねえのか?」
昨夜と違い、なぜか従者は体を揺らすだけで襲って来ない。漂う気も不安定で心許なく、どうにも様子がおかしい。しかし人間を焼く炎の瘴気は、既に一人の子供の命を奪っている。無益な同情は禁物だと己に言い聞かせた。
従者が結界を破って外へ出たら最後、観月が襲われる。木刀が異界の冷たい気を纏うにつれ、俺の心から次第に感情が消え、臨戦態勢に入っていく。
『タ、ス、ケ、テ』
切っ先を従者に向けた時、声にならない叫びが頭に飛び込んできた。ナイがよく使う、テレパシーに似たもので、思考の塊が脳を直撃する。
「つっ……!」
頭痛を覚えて驚いて腕を下ろせば、木刀の周囲に集まりつつあった異界の気は霧散してしまう。その隙に従者の姿は闇の中へ掻き消えた。
しばらく呆然とした後、公園内を探し回ってみたが、既に従者の気配は感じられない。瘴気ごとすべてが消え失せていた。結界内にいるのは確かでも、気を発していないため居場所が特定できない。
(どういうことだ……)
救いを求める言葉は紛れもなくあの異形の叫びだった。記憶も理性も持たないはずの従者が、どうして言葉で訴えてきたのか。
俺は訳が分からず、足元の砂を蹴った。今回の仕事は色々な意味でやりづらい。
マンションと呼ぶには年季の入った、昔ながらの二階建てアパートはどこか懐かしい佇まいだ。観月の部屋は一階の端。俺は建物の周囲を回り、木刀を宙にくるりと回して従者の侵入を防ぐ結界を張った。
「また明日来る。夜は外出すんなよ」
「あ、待って。飲み物くらい出すよ」
アパートの外で立ち去ろうとした俺は、そう言って観月に引き留められた。
もう暗いというのに、一人暮らしの女の部屋に上がるのは気が引ける。断ろうとしたものの、彼女の方は家に男を招き入れるのがどんな意味を持つかなんて分かっていない。こちらから説明するのも虚しいし、少し休憩したい気持ちはあったので、お言葉に甘えることにした。
「じゃ、ちょっとだけな。遅くならないうちに帰るよ」
「門限でもあるの?」
「門限つーか……」
観月がドアの鍵を開けている後ろで、俺はスマホを取り出しリダイヤルボタンを押す。いつも通り、コール二回で来は電話口に出た。
木刀を脇に挟み、スマホを耳に当てながら「お邪魔します」と中へ入る俺を見て、観月はくすくす笑う。
『お邪魔します? 何のことだ』
「てめーに言ったんじゃねえよ。詳しいことは後で話す」
電話の向こうで来の訝しげな声が響くが、報告は後回し。俺はアパートに着いた旨だけ伝え、さっさと通話を切り、電源をオフにしてスマホを上着のポケットに突っ込んだ。わざわざ言わなくても、この後児童公園へ直行することは社長様も了承済のはず。
六畳一間の彼女の部屋は、広くはなくともきちんと片付けられていて、手狭な感じはしない。淡い色のカーテンが引かれ、シンプルな家具や可愛いクッションに女性らしさが窺える。
部屋を見回して落ち着かない気持ちで畏まる俺に、観月はホットミルクを入れて持ってきてくれた。マグカップからは少し変わった甘い香りがする。
「もしかして、ハチミツ入れた?」
「うん。嫌いだった?」
「いや……、ありがと」
先程ここへ来る途中、俺はホットミルクが好きだという話をした。それで作ってくれたのだろうと思うとなんだか嬉しかった。
ハチミツの柔らかな甘みが体全体に染み渡り、事務所で飲むものよりずっと温まる。美味い、と思わず漏らせば、観月は花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「観月はバイトだろ。生活大丈夫なんか?」
「そこそこね。正社員の口を探してるんだけど、なかなか見つからないんだ」
彼女の両親は早くに亡くなり、高校卒業後に親戚の家を出て一人暮らしを始めたらしい。不景気なご時世、一応職にありついている俺は幸運というべきか。
「視矢くんは、来さんと同居してるんだよね。家族の人は都内に住んでるの?」
問われて、一瞬言葉に詰まる。久しく触れられなかった話題なので、咄嗟に上手い返しが思い付かなかった。
「家族全員、三十年前クトゥルフに殺されたよ」
俺はホットミルクを飲みながら淡々と答えた。家族を失ったのは遥か昔。過去は意識的に思い出の中に沈めているため、当時ほど悲嘆に暮れたりはしない。だがクトゥルフに対する憎悪の念は、強まるばかりで決して消えない。だからこそ、今もこうして邪神に関わる仕事を続けている。
「え、と。三十年前って……?」
「あ、三十年前って言った? 間違い、三年前!」
遠慮がちに聞き直され、口を滑らせたことに気付いて慌てて訂正する。我ながら下手すぎる誤魔化しだと自分の頭を殴りたくなった。
「俺行くわ。ありがとな」
これ以上余計なことを言わないうちに退散しようと、俺は腰を上げた。空になったマグカップをテーブルの上に置き、木刀を手に取る。
日付が変わるまで四時間余り。夜更けとともに従者が動き出す。
「よかったら、ご飯食べてく?」
「いやいやいや、そこまではいい! それに、これからお仕事」
彼女にしてみれば、無償で護衛してもらうのだからという思いがあっての申し出だろう。もちろん悪い気はしないけれど、ここで長居したら来が怒るのは目に見えている。
気を付けて、と見送ってくれる観月に、体だけでなく心まで温まったように感じた。
アパートを出ると、途端にひんやりした空気が肌を刺す。季節が巡り、冬が到来する。一年があっという間だ。
従者の潜む児童公園は、彼女がコンビニへ行くのにいつも通り抜けるくらいアパートから程近い。公園の入口には立ち入り禁止のテープが張り巡らされているだけで、物理的に越えようと思えば誰でも越えられる。
越えられないのは、テープではなく結界の方。従者のいる空間は切り離され、公園内に足を踏み入れても従者を目にすることはなく、従者もこちら側へ出て来られない。なのに観月だけは、結界を超えて従者と遭遇してしまった。
「さて、待たせたな」
黄色いテープをくぐり、砂場付近まで歩いて行くと、ざわりとした不快感があった。胸が悪くなりそうな悪臭が漂い、ぶよぶよした黒い腐肉の生き物が地面から浮き出てくる。
「なんだ、来ねえのか?」
昨夜と違い、なぜか従者は体を揺らすだけで襲って来ない。漂う気も不安定で心許なく、どうにも様子がおかしい。しかし人間を焼く炎の瘴気は、既に一人の子供の命を奪っている。無益な同情は禁物だと己に言い聞かせた。
従者が結界を破って外へ出たら最後、観月が襲われる。木刀が異界の冷たい気を纏うにつれ、俺の心から次第に感情が消え、臨戦態勢に入っていく。
『タ、ス、ケ、テ』
切っ先を従者に向けた時、声にならない叫びが頭に飛び込んできた。ナイがよく使う、テレパシーに似たもので、思考の塊が脳を直撃する。
「つっ……!」
頭痛を覚えて驚いて腕を下ろせば、木刀の周囲に集まりつつあった異界の気は霧散してしまう。その隙に従者の姿は闇の中へ掻き消えた。
しばらく呆然とした後、公園内を探し回ってみたが、既に従者の気配は感じられない。瘴気ごとすべてが消え失せていた。結界内にいるのは確かでも、気を発していないため居場所が特定できない。
(どういうことだ……)
救いを求める言葉は紛れもなくあの異形の叫びだった。記憶も理性も持たないはずの従者が、どうして言葉で訴えてきたのか。
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