逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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炎編/夜は始まる

8.ラナウェイ・フロム…

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 観月をバイト先へ迎えに行ったところ、彼女は今日は早上がりだという。行き違ったことを知り、急いで事務所に戻ってみれば、観月はなぜかナイと一緒にいる。打ち解けた雰囲気の二人を目にして、俺は驚いたなんてものじゃなかった。

「ナイ、お前……、なんで……」
「なんでって。仲間はずれにすることないでしょ。ボクだって、小夜と話したいよ」

 先に来ててごめん、と俺に謝る観月の隣にちゃっかり座っているナイの口振りは、こちらが悪いと言っているようなものだ。観月の件に関して、今まで呼び掛けを無視していたのはナイの方だという事実は完全に棚上げ。

「ナイから聞いたよ、セレナのこと。どうして教えてくれなかったの?」
「や、その、何つーか」

 ナイに絆されたらしく、観月の矛先が俺に向く。
 俺も来も、観月にセレナの話をするつもりはなかった。前世がどうのと伝えて無意味に混乱させなくなかったし、そもそも言うに言えない事情がある。
 俺にとって、セレナはトラウマ。来にとっては、セレナは覚えのない女性なので、話しようがない。きっとナイだけが、観月の内にあるセレナの面影を追っているのだろう。

「ナイのことだって隠してたでしょ」
「隠してたわけじゃねえけど……」

 観月に立て続けに追及され、俺はしどろもどろで言葉を濁した。何食わぬ顔でソファに背を預けているナイに色々文句はあるにせよ、出て来てくれたなら都合がいい。ナイについて説明する手間が省けたと思えば、許容範囲。
 チャンスとばかりに、俺は観月の記憶を消して欲しいとナイに頼んだ。

「ナイはお強い元邪神サマなんだから。観月の記憶ぐらい消せるよな?」

 多少持ち上げながら、確認を取る。児童公園の従者が今すぐ行動を起こさないとしても、この先観月が従者に狙われ続けると、ナイも無論分かっている。記憶を消すことが一番安全だということも。

「……元邪神て、何?」
「え?」

 訝し気に問い返す観月を見て、俺の背筋をさっと冷たいものが走った。
 前世の話を聞いたのなら、ナイがナイアーラトテップだったのも、てっきり知っていると思っていたから。

「あーあ、言っちゃった。小夜を怖がらせちゃダメじゃない」

 空とぼけるナイに、俺はまんまとハメられたことを悟った。ナイは自分がセレナを殺した他ならぬ邪神だという事を観月に告げていない。重要な核心部分を隠したまま、シモンとセレナの関係をざっくり話し、肝心要の話し難いところを全部俺に押し付けようと目論んでいたに違いない。

(ナイの野郎……!)

 恨みがましくナイを睨み付ける間も、観月が「説明して」と鬼気迫る視線を送ってくる。
 途中まで教えてしまえば、一連の事情を話さないわけにはいかなくなる。うっかり口を滑らせてしまった俺をナイはにやにやと眺めている。
 どこからどう切り出せばいいのか、俺は頭の中で必死に考えを巡らせた。

「最初に言っとく。ナイは元邪神だが、今は危険な奴じゃねえ。多分」

 とりあえずそう前置きする。ナイを庇うというより、まずは観月の警戒を解かねばならない。
 かつてセレナがいた時代、ナイはナイアーラトテップという邪神だった。性格は最悪で、時折残忍な一面を覗かせるけれど、今のナイは邪神ではない。多分、と言ったのはささやかな仕返し。

「セレナがシモンの恋人だったのは聞いたんだろ」
「……うん」

 躊躇いがちに観月はこくりと頷いた。シモンのことを伝えるのは、本当は気が進まない。なぜよりにもよって俺が過去の話をしなければならないのか。すべてはナイのせいだ、と因果を呪いたくなる。

「セレナはナイアーラトテップに殺された。シモンはセレナが死んだ後、自分から消滅したんだよ」
「……死んだの?」
「死ねたら、まだ救われた」

 俺はそこで一区切りして息を吐く。ナイアーラトテップに関しては、ナイもあまり話したがらないので、残された資料から読み解くしかなかった。実際、邪神の本当の姿は誰も目にしてはいないのだから。

 無貌の神と称されるナイアーラトテップは、幾つもの化身を取り、同時に同じ場所に顕現する。
 シモンは人を守る祭司であると同時に、人を害する邪神でもあった。二十年余り人間として暮らしてきて、シモンが自身の正体に気付いたのは、皮肉にもセレナを食い殺した後。恋人がナイアーラトテップと同一だと知ったセレナは、彼に殺される道を選んだ。

 自分が邪神の化身だと、シモンは夢にも思わなかったろう。セレナと共に人間のまま一生を終えられればよかったのに、運命は残酷だ。
 セレナの死で、シモンは自我が保てなくなり自らを消滅させた。消滅といっても、ナイアーラトテップは不死の神。あくまでもシモンという一つの化身が死んだにすぎず、邪神そのものは生き続ける。

「ナイアーラトテップは別の姿で再生した。それが――」

 言いながらナイの方に目をやると、ふいと視線を外された。観月はこちらを凝視して続く言葉を待っている。

「シモンの記憶と邪神の力を受け継いだ、我が事務所の社長サマってわけ」

 最後まで告げてから、俺は向かいに座る男を指し示した。厳密に生まれ変わりというには語弊があるが、似たようなものだ。

「じゃあ、来さんとナイは……」
「人格は別々でも、どっちもナイアーラトテップの化身に変わりはねえよ」

 もちろん来も邪神の力は使える。しかしナイアーラトテップの力はナイの側に偏っている上、来には過去の記憶が一切ない。シモンは大切な人を手に掛けた己が許せず、自身の記憶を封印した。

 悲惨な前世の話を観月が受け入れられるのか。やや不安はあったものの、彼女の表情に嫌悪や恐怖の念はなく、思いの外しっかり耳を傾けていた。そのことにほっとしたのは、俺よりもナイの方だったかもしれない。
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