逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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炎編/夜は始まる

11.逃げて追われて

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「あのな、言っとくと……」

 俺はわざとらしく咳払いして切り出した。あの女のおかげで、セレナの話が途中でうやむやになってくれたのは有難い。それはそれとして、観月に変な誤解をされては堪らないので、話せる範囲できちんと事実を伝えておきたかった。

「さっきの女は、普通じゃねえよ。邪神の信者だ、アレ」

 言葉にした途端、不意に風が強まり凍るような逆風が吹きつける。汗をかいた体から一気に体温が奪われ、冷たさに身震いした。風邪を引く心配はなくとも、冬の寒さはあまり得意ではない。上着の前を引っ張り合わせ、俺は話を続けた。

「邪神信仰の人間ってのは、あちこちにいんだよ。従者とつながってる連中」
「でも、人間なんでしょ」
「……そう」

 観月はよく分からないといった顔をしている。この国において信仰は自由。邪神を崇めるだけなら他の宗教と大差ない。しかし、邪神の信者は良からぬ行動を起こすカルト集団だ。
 従者は大抵かつて信者だった者であり、信者との違いは邪神と血の契約を結んだか否かだけ。どちらも危険な存在に変わりなく、他の人間と紛れて社会の中で暮らす信者は邪神の復活を目論んでスパイまがいに暗躍する。

「信者には関わらない方が身のためだ」

 人間である以上、法を犯さない限り信者を処分できない。あちらさんもそれが分かっているから、違法にならないギリギリのところで動いている。

「じゃあ、もしあの人が……」
「え?」
「……ううん。なんでもない」

 言い掛けて観月は首を横に振った。小さく溜息を吐いて夜空を仰ぐ彼女を俺は横目で窺う。
 先程の女が邪神の信者だったことで、何か思い悩んでいるのだろうか。好き好んで邪神を崇拝する人間の心理は、観月には理解し難いかもしれない。
 俺が初めてクトゥルフやハスターとまみえたのはもう思い出せない程昔。邪神は根源的な恐怖そのものに違いないが、同時に圧倒的な力の象徴でもある。

「ハンカチ、借りとくな。洗って返すよ」
「別にいいのに。律儀だね」
「律儀じゃねえよ、礼儀」

 冗談めかして肩を竦めると、観月は可笑しそうに笑った。礼儀かどうかはともかく、俺にはハンカチをそのまま返せない理由がある。並んで歩く彼女は手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、とても遠い世界にいた。

 他愛ない話をしているうちに、やがて馴染んだニ階建てアパートが目に入る。結界はオールクリア。従者の侵入を防ぐための護りの結界は、児童公園に張ったものより強固でなければならない。
 今日も観月は部屋へ寄って行くよう言ってくれたけれど、俺は誘いを断り、アパートから離れた場所で彼女と別れた。

「また明日、迎えに行くから」
「うん……、ありがとう」

 観月に護衛を続ける旨を告げれば、はにかんだ笑顔を見せる。結局俺も明日の約束を交わせることが嬉しいわけで、ナイに偉そうなことは言えない。

 彼女の姿が建物の中に消えるのを見届けて、くるりと後ろを振り向く。先程から付いてくる人影はまだ立ち去る気配がなく、ずっとこちらの様子を窺っている。俺は木刀を握り直し、街灯の明かりに照らされた人物の元に大股で近寄った。

「ストーカー行為は犯罪って知ってんだろ、お嬢さん」
九流くりゅう弥生やよいよ」

 後を付けてきたのは、数十分前に声を掛けてきた女だ。清楚なイメージは消え失せ、艶やかな赤い唇が名前を明かす。

「あんた、信者か。まあ、俺の周りの奴に手ぇ出さない限りは別に構わねえけど」
「ええ、承知してる」

 観月に手を出すな、と言外に牽制しても、九流と名乗った女は少しも動じず微笑を浮かべた。女の気は児童公園の従者と同じ炎の属性。そして、俺が普通の人間でないと知った上でこうして接触してくる。

「あなたの敵に回るつもりはないわ」
「ちょっと待て。なんだよ、この手は」

 いつの間にか身体に九流の腕が絡みついていた。昼間であれば人目を気にするような行為も、夜は闇の帳が覆い隠す。いくら押し返して拒否を示そうが、向こうは抱きつく腕を緩めない。香水の甘い香りがふわりと漂い、眩暈がしそうになった。

 逃げるように後ずさった俺の脚はガードレールに当たって止まってしまう。もう後がない。
 仮にも女を突き飛ばすわけにもいかず、力を加減して腕を払い退けていたものの、女の手の動きはどんどんエスカレートする。初めは背中に回されていた片方の掌が前へ来て、明確な意図を持って下腹部をさわさわと撫で始めた。
 さすがにされるがままではいられなくなり、俺は木刀を横にしてガードし密着した身体を突き放す。

「……いい加減にしろ! 何考えてんだ、あんた」
「意外と、お堅いのね」

 九流はくすりと笑ってやっと身を離した。ちろりと舌を出し赤い唇を舐める仕草は、貞淑なお嬢様風の外見から想像できない程淫らだった。

「色仕掛けに堕ちるほど青かねえよ。他、当たってくれ」
「悪いけど、そう簡単に諦めてあげない。分かるでしょ?」
「後悔すんぞ。俺は責任取れねえ」

 媚びるような視線から目を逸らし、すぐさま背を向けた。普通の男なら、容易に陥落するであろう妖艶な瞳。妖しさと色香の魔性のブレンドが男を惑わす。
 この女の本性を知って尚誘いに乗るなら相当自虐的だ。俺は無視を決め込み、その場を立ち去るべく踵を返した。幸いにもこれ以上追うつもりはなさそうだったが、背後から冷水にも似た甘い声が浴びせられる。

「またね、高神さん」

 また一つ厄介事を増やしてしまったことに俺はげんなりと肩を落とし、重い足取りで事務所へ戻って行った。
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