逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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水編/訪問者は午後に

39.蠢く水

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 食事の後片付けを終えて来さんとマンションを出ると、冷えた夜の大気が肌を刺す。
 寒いと思えば、白いものが上空をちらちら舞い始めていた。初雪だ。出掛けに用意していた傘を広げ、来さんは私たちの頭上に差し掛けた。並んで夜道を歩きながら、私は自分の両掌に息を吹き掛ける。

「今夜のクリームシチュー、美味しかった。ありがとう」
「ほんと? よかった」

 柔らかく微笑む来さんを見て、暗い気持ちが少し晴れた。実際に食べたのはナイでも、シチューの味は共有できたらしい。
 今日来さんが表に出られなかった原因の半分は、私にある。私が視矢くんと訓練施設の話をしたいと言ったから、ナイが出ずっぱりだった。身は一つなので、どちらかが身体を支配している間、もう片方の人格は意識下でじっとしているしかない。

 記憶や感覚に関して、どれを共有し、どれを隠すかはナイの判断次第。図書館でソウさんと会った事自体は打ち明けたが、そこでどんなやり取りがあったのか、直接的な内容は来さんに知られないようナイがフィルターを掛けていた。

「ナイは何か企んでいるのかもしれない」

 顎に手をやり、来さんはわずかに眉を寄せた。よもや事務所を裏切る真似はしないと信じているとはいえ、隠し事をされた状況では不穏になる。

「ナイは、ソウさんに共感できるって言ってた」
「ソウは他人を道具として使う。私は共感できない」

 やはりソウさんに対する来さんの評価は手厳しい。もしかすると、ナイは来さんが知らないソウさんの一面を知っているんじゃないだろうか。

 雪はますます激しくなり、視界を白で覆っていく。ふと見れば、来さんの反対側の肩に雪が降り積もっていた。ほぼ私の方にだけ傾けているため、こちら側しか傘の役目を果たしていない。
 傘を押し戻そうとする私に、来さんは首を横に振った。
 
「これじゃ、来さんが濡れちゃうよ」
「構わない。私よりあなたが濡れる方が困る」

 上着だけでなく、髪にも雪が落ち、吐く息は白い。言葉と違わず、来さんは自分が疲れても寒くても無頓着で、苦と思わない。それがなんだか悲しかった。





 夜半に一旦止んだ雪は、翌朝にみぞれとなって落ちてきた。雨とも雪ともつかない水の滴が幾筋も窓ガラスを流れ、朝日を遮断して分厚い雨雲が空を覆っている。
 水が苦手な視矢くんにとって、外回りは苦行だろう。平時なら、雨の日は事務所に待機しているのに、今は従者の警戒を休むわけにはいかない。疲労も溜まっている中、大丈夫かなと心配になる。

 出勤しようと玄関を出ると、アパートの軒下に大きな水溜まりができていた。それを飛び越えた瞬間、車が横を通った時のようにバシャリと勢いよく水が跳ねた。驚いた私は開いていた傘で咄嗟にガードする。
 初めはただの水飛沫かと思った。水を遮った傘の布地が真一文字に切られているのを見て、背筋がぞっとする。

(……従者!?)

 以前にも覚えのある、独特のおぞましい瘴気。腐臭が辺りに立ち込め、全身の肌が粟立つ。
 従者の行動時間は本来夜のはずでも、力が増した水属性のものは昼夜の区別なく出没する。息を殺して目を凝らせば、水溜まりの中にぶよぶよした黒いクラゲ状の塊がぽかりと浮かんでいた。

 黒いクラゲは身体を震わせ、立て続けに水の刃を投げ付ける。ひゃっ、と声を上げ、私は破れた傘を盾にして数歩後ずさった。運悪く、雨で足が滑り体勢を崩したところに、また水飛沫が飛んできた。
 ビヤを呼ぼうとしたが、間に合わない。本能的に目をつぶった私の身体を誰かがぐいと引き寄せた。

「傘で応戦とは、勇ましいな」

 耳元で聞こえた声に、びくりとして顔を上げる。同時に、瘴気を含んだ鋭利な水が顔のすぐ傍を掠めていく。声の主が誰か把握する暇もなく、後頭部に手が回され、私はその人の胸に押し付けられていた。抱き締められた体勢になり、視界にはジャケットと彼の肩に掛かる白い髪だけが映る。

「よそ見は命取り」
「……ソウさん!?」

 細かい水の刃が、ソウさんの服の袖を幾筋も切り裂いていた。ソウさんは私を後ろへ退け、従者に向けて左腕を伸ばす。

「じっとしてろ」

 空気が動く振動と共に斬撃が轟いた。彼の体に遮られ、何が起こっているのか分からない。肉を切り裂く音が惨状を伝えてきて、思わず両手で耳を塞ぐ。それもほんの一瞬で、私が横から顔を覗かせた時には、従者はおろか痕跡さえも残っていなかった。

「従者は……」
「殺した」

 感情の籠らない事務的な声に、私は俯いて拳を握り締めた。TFCでは当たり前のことなのだろう。
 従者を目にしたが最後、殺さなければ殺される。躊躇も同情も、魔に堕ちた者には通用しない。頭で十分理解していても、従者が元は人間だと知った今では、やるせない気持ちになる。

 ソウさんは一体いつから外にいたのか、服はもちろん、白い髪の毛先からポタポタと水が滴っていた。
 ちょっと待って、と言い置いて、部屋へ戻った私はタオルとビニール傘を引っ掴んで再び外へ駆け出す。こんな寒い日に、濡れたままでは風邪を引いてしまう。

「これ、使って。早く帰って着替えた方がいいよ」
「ご親切にどうも」

 形式的な礼とともに、渡そうとしたタオルと傘は私の手ごと押し退けられた。触れた指先は、まったく体温が感じられず、氷みたいに冷たい。
 受け取ってくれないため、傘を差し掛け頭にタオルをかぶせると、ソウさんの口から低い呻きが漏れた。右手で左腕を支えるように押さえ、きつく眉を寄せている。

「腕、怪我したの?」
「……いや、持病みたいなもの。じき治まるから……、構うな」
「ちょっと頭下げててね」
「おい! いいから……」

 頑なに拒絶する言葉を無視し、頭を押さえて強引にタオルで拭いた。怪我はしていないと言い張るので、髪だけでも拭かせてもらう。
 しばらくしてソウさんは幾分痛みが落ち着いたらしく、表情を和らげて私の手からタオルを奪った。

「ありがとう、もういい。観月も結構濡れてる」

 自分を拭くのを止めて、タオルを私の頭にぽんと置く。慌てて離れようとする私の頭を逃さず、ソウさんは優しく手を動かした。
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