逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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水編/訪問者は午後に

45.フィジカル・レッスン

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 電車に乗っていたらまだ駅にも着いていないところを、ほぼ直線距離に道路を走ったおかげで、予定よりずっと早く目的地に到着した。
 ソウさんのオートバイが停まったのは、四階建てのビルの前。地図で確認した通り、NPO法人の表札が出ているだけで周囲の建物と比べても地味な外観だった。

 もっともセキュリティは厳重で、建物の入り口には警備員が立っているし、指紋認証がなければ通してもらえない。私の入館手続きはあらかじめソウさんが手配しておいてくれたので、持ち物チェックを受けてから問題なく中へ入れた。
 今後必要になる入館証は、TFCの主任だという方が警備室まで下りて来てくださり、挨拶と一緒にじきじきに手渡してくれた。なぜか、ソウさんは渋い顔をしていたけれど。

 すれ違うTFCの人たちは皆ソウさんに会釈していくものの、ラフな服装をしている人は一人もいない。オフィスカジュアルどころか、誰もが政府職員らしくきちんとしたスーツを着ている。
 社風が自由というわけではなく、ソウさん一人が異彩を放っていた。

「道着は持ってきた?」

 ソウさんがくるりと振り返り、後ろを歩く私に尋ねる。

「はい。言われた通り」

 リュックをぽんと叩いて示すと、ソウさんは満足そうな笑みを浮かべた。
 破魔の力の訓練は、心と体を鍛えること。道着はそのために必要になる。
 建物内部はNPOの部署とTFCで階が分かれていて、TFCは二階から上。二階は自由に歩いて構わないと言われ、トレーニングルームや休憩室はいつでも使っていいらしい。

「あれ、ソウさん。女性連れなんて、どうしたんです?」

 休憩室の前で、不意に短髪の男の人が声を掛けてきた。真面目で爽やかな印象の、二十代前半の男性。やはり彼も、スーツ姿できっちりネクタイを締めている。

「司門の事務所の新入社員だ。トレーニングに来てもらった」
「ああ、例の……」
「観月。彼は、シン。高神と組んで従者の警戒をしてる」

 よろしく、とシンさんは朗らかに笑う。不意に出された視矢くんの名前に一瞬どきりとしたものの、気さくな雰囲気に助けられ、こちらこそ、と私も笑顔で挨拶を返した。
 この人となら、視矢くんもギスギスせず仲良くやれそうな気がする。

「瘴気はどうなってる、シン?」
「変わらずですね。高神が頑張ってくれて、なんとか抑えてますけど」

 自販機で買った缶コーヒーを片手に持ち、シンさんは表情を曇らせた。被害の拡大に伴い、TFCの大半が従者の後始末に奔走している。
 シンさんもこれからまた現場に戻らないといけないとのことで、慌ただしくコーヒーを飲み干した。階段を駆け下りる後姿が、なんとなく視矢くんと重なる。

「心配しなくても、シンがちゃんと高神をフォローしてる」
「別にっ、私は……」

 ソウさんは私の方を向いて、揶揄するように言う。引きつった顔で精一杯の否定を示してみても、私の気持ちなんてソウさんには筒抜けだ。

 シンさんを含め、ここの人たちはノルウェーで戦闘訓練を受けた後、日本に配属になった精鋭。一般人の私がいるのは、明らかに場違い。それでも臆してはいられない。私は気持ちを奮い立ててトレーニングルームへ向かった。

 その部屋は道場を思わせ、広さは二十畳程。スポーツジムとは違ってトレーニング用の器具はなく、隅にパイプ椅子が数脚置かれていた。
 場所がどこであれ、道着に着替えると萎縮していた身が引き締まる。部屋の中央に出て行くと、ソウさんの方は普段着のまま、上着だけ脱いでパイプ椅子の背に掛けた。

「軽くストレッチして、手合せと行こう。きみはマーシャルアーツ有段者だろ。実力の程が見たい」
「え? でも破魔の力のトレーニングなんじゃ……」
「口答えしない。『心技体』。まずは体の鍛錬から」

 軽い口調で命じられ、仕方なく私はストレッチを始めた。ソウさんは腕を組んで壁に寄り掛かり、まるでコーチみたいにこちらに視線を注いでいる。じっと見られるのは居心地悪いけど、それも仕方ない。

「体は温まった?」

 筋肉が適度にほぐれた頃、ソウさんがつっと私の前に立った。あちらは柔軟もせず、道着も着ていない。要するに、私では相手にならないという意味だろう。
 私も武道家の端くれなので、相手の力量は分かる。従者を倒したことは別にして、確実にソウさんは強い。

「じゃあ、本気で行くからね」
「いつでもどうぞ」

 ソウさんは口の端を上げ、掛かって来い、と指で合図する。強い相手と対峙する時は、自然と武者震いしてしまう。こんな高揚感は久しぶり。
 私が構えを取っても、ソウさんは両腕を体の横に垂らしていた。ゆったりした姿勢なのに、どこにも攻め入る隙がなく、繰り出した突きは簡単にかわされた。こちらの動きを完全に読まれている。

 最初から全力で挑むしかないと悟り、私は間髪入れず回し蹴りを放つ。ひゅっと風が鳴り、難なくかわしたソウさんの長めの襟足が風圧になびいた。続けざま放った渾身の蹴りも突きもまったく入らない。

(かすりもしないなんて)

 攻撃はすべて見切られ、ソウさんはその一手先を行く。余裕たっぷりな様子は、向かってくる子供を大人が遊んでやっているようなものだ。

 しばらくの間、避けるばかりで仕掛けて来なかったのは、機を見ていたに違いない。私の息が上がって来たところで、いきなりソウさんが反撃に転じた。
 こちらの破れかぶれの蹴りを腕でブロックし、片足が浮いている途中を狙って、ソウさんのローキックが来た。

 横へ跳んで辛うじて避けたが、体勢が悪い。飛んでくるジャブをかわそうとして、横転しながら床に倒れ込んだ。
 ソウさんは無駄な動きを一切せず、次にどう仕掛けるか予測させない。洗練された実戦体術だ。

「ギブアップする?」
「しない!」

 息が上がり激しく肩を上下させる私に、ソウさんが問い掛ける。呼吸すら乱していない姿を前にして、実力差を思い知らされた。

 一発も入れられないのはさすがに悔しい。私は起き上がると一か八かで間合いを詰め、ジャブで牽制し正拳突きを打った。ソウさんは紙一重で体を後ろへ倒し、そのまま宙返りする。
 隙を与えず私は再度突きを入れるべく懐に飛び込んだ。と、待ち構えていたかのようなハイキックが目前に迫る。

(速……!)

 今度は避けられない。ガードが間に合わず、衝撃を覚悟していると、私の頭の真横で彼の脚はぴたりと止まった。
 蹴りを直前で止めた状態で、先程と同じ問いを投げ掛けられる。

「ギブアップする?」
「……はい」

 私は項垂れて負けを認めた。練習試合で男性と手合わせしたことは何度かある。負けももちろん経験しているとはいえ、ここまで手も足も出なかったのは初めてのこと。

(完敗だ……)

 上着に腕を通すソウさんを横目で眺めながら、私は溜息を吐いた。
 こちらは汗だくだというのに、体を動かした直後とは思えない程、彼はまったく汗をかいていない。

「思ったより、やるな。並の男なら、きみに勝てないんじゃないか」
「でも、ソウさんには全然敵わない」
「俺と比べるのは無意味」

 TFCに所属している以上、一般の男性より武術ができて当たり前。そういった意味だと思う。でも、その口調はどこかしら自らを卑下しているように感じられた。

「着替えたら休憩。プルーンは好き?」
「え……、うん。プルーンて、果物のプルーン?」
「他のプルーンがあるのか」

 唐突に出て来た単語に、私は唖然とする。なぜ今プルーンなんだろう。

「プルーンのコンポート入りマフィンを作って来た。紅茶を用意しておくから、着替えたら休憩室へ来て」

 それだけ言って、ソウさんは先にトレーニングルームを出て行った。
 正直手作りマフィンと紅茶と聞けば嬉しくないわけはないけど、小休憩というか、むしろこれはティータイム。破魔の力の訓練に来たはずなのに、こんなのんびりしていていいんだろうか。
 つくづくソウさんという人が分からなくなってしまった。
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