逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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水編/水に沈む過去

56.明日へつなぐ希望

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 ノルウェーへは、TFCがパスポートや航空券を手配し、一般の空港を使った正規のルートで渡航する。
 ナイは遠隔移動できるし、視矢くんにもビヤがいるので、本当は面倒な手順を踏まなくても目的地へ行ける。とはいえ、違法な手段で出入国されては困るというのが、政府機関であるTFCの建前だ。

 今回も視矢くんの怪我は驚く程回復が早く、二人は慌ただしく準備をして、ノルウェーへ出発した。
 日曜日には帰国予定で、私はこれまで通り事務所で留守番。あれから話はうやむやになっていて、視矢くんとちゃんと向き合う時間は取れずに今に至る。

 デスクに座り、パソコンのキーボードを叩く傍ら窓の外を見れば、小雨がぱらついていた。こちらはあいにくの天気。ノルウェーは晴れているだろうか。
 二人にもらった写真立ては、アパートの部屋に大切に飾ってある。一人ぼっちの誕生日はやはり寂しく、誰もいないのをいいことに、私は何度目かの盛大な溜息を吐いた。

「誰もいないからって、溜息多過ぎ」

 まるで心に返事をするかのように、ドアの近くから声がした。
 この人の唐突な登場にだいぶ免疫ができた私は、慌てず対応する。

「入る前にドアホン押してください、お客様」
「これでいい?」

 白髪の彼は、手でドアを開けた状態でチャイムを鳴らした。既に室内に入ってからでは、意味はないのだけど。

「ノルウェー、ソウさんは行かなくてよかったの?」
「お偉方が用があるのは、司門たちだ。俺も後で知らされた」

 ソウさんは客用のソファの前まで行き、当たり前のように腰を下ろす。一応事務所の担当サマなので、お茶を出して私も向かい側に座った。

 今回の出張は、本部の上層の人たちに呼ばれたかららしい。事務所の担当として、てっきり一緒に行ったと思っていたが、同行したのはソウさんの上司である主任一人。
 私が初めてTFCへ行った時、主任が入館証を渡してくれた。五十代半ばの優しそうな方だったのを覚えている。

「とうとう本部も動き出した。シャドウの件もあったし、まあ、想定内」

 お茶を啜って、ソウさんは苦々しく笑った。
 ソウさんがクトゥルフの従者のハンターとして自ら名乗りを上げたのは、シャドウをTFCから匿うため。ノルウェー本部が干渉してきたら、ソウさんの立場では困った状況になる。

 TFCにとって、来さんと視矢くんもシャドウと何ら変わらない脅威。それゆえ、目の届くところに置いて飼い殺しにしている。TFCに協力することで、二人はターゲットにされずに済んでいるというだけ。

 漆戸良公園の鬼門はなんとか閉じたものの、今後また同じことが起こる危険は十分あり、そんな状況で、ノルウェー本部が二人を好意的にもてなしてくれるとは考え難かった。

「もしかして、高神の体質の件を知ったのか」
「え。な、なんで」
「色恋事に悩んでる顔だから」

 いつもながら、どうして易々とこちらの気持ちを見透かされるのか。頬に熱が集まるのを感じつつ、ソウさんを上目遣いで睨む。

「……ソウさん、心を読んだ?」
「俺にその能力はないな」

 冗談めかして肩を竦めるその人が、本当はナイと同じ能力を持っていると告げられたとしても、絶対に驚かない。ソウさんの力はナイに匹敵するほど強い。

「今日はきみのご機嫌伺い。誕生日の予定がパアになったんだろ。俺のマンションへ来る?」

 さらりと誘い文句を口にされ、一瞬どきりとした。が、すぐに思い直す。この人の場合、一人で寂しくないように、という気遣いにすぎず、深い意味はないだろう。
 もっとも、こちらがどぎまぎするのを承知した上でそういう言い方をしたに違いなく、ニヤニヤした笑みがそれを物語っている。

「また、からかって楽しんでる」
「そういうことにしてもいいけど。それで、どうするんだ。事務所を辞めるのか」

 ソウさんはあっさり話を変えた。
 今後どうするか。ナイに記憶を消してもらって、普通の生活に戻ることもできる。事務所でのことも、邪神のこともすべて忘れて。

「……辞めない。辞めたくない」

 私は首を横に振る。一人になってから考えた末の結論だった。大切な思い出を白紙にするくらいなら、たとえ危険が伴ったとしても視矢くんたちの傍にいたい。
 視矢くんが帰ってきた後、仕事を続けると伝えるつもりでいた。普通の人間であろうとなかろうと、構わない。

「なんだ、残念」

 言葉と裏腹に、ソウさんは優し気に微笑した。ほっとしたようにも見える。

「さて、そろそろ行く。あまり時間が取れないんだ」

 腕時計に視線を落とし、冷めてしまったお茶を飲み干して腰を上げる。
 邪神や従者の存在が世間に知れ渡らないよう、隠蔽工作をするのは、TFCの欠かせない重要な任務。漆戸良公園の後始末に忙しい最中、仕事の合間を縫って、わざわざ様子を見に来てくれた。

「有難う。来てくれて」
「どういたしまして。じゃ、来週からきみのトレーニングを再開する。いい?」

 玄関先で振り返り、人差し指をこちらへ向ける。私は反射的に、「お願いします」と頭を下げた。
 これで終わったわけじゃない。従者はあちこちで生まれ、邪神の復活が囁かれている。次こそ破魔の力を自分でコントロールできるようになって、しっかり役に立ちたい。

「言い忘れてたが、破魔の力を伸ばせば、高神を元の人間に戻せるんじゃないか」
「え?」
「ハッピーバースデー、観月」

 思わせぶりな台詞を残してドアが閉まった。突然の言葉に思考が止まり、私は玄関先に佇んだまま。靴音はすぐに遠ざかり、問い返すことができなかった。

(視矢くんを、元の人間に戻せる……?)

 言われた内容を心の内で反芻する。
 視矢くんは邪神ハスターと契約し、力を得る代償に人としての生を捨てた。セレナが持っていた強い神力なら、邪神との契約という鎖を断ち切れる。ソウさんがほのめかしたのは、そういう意味だろうか。

 示された明るい未来の可能性が胸に広がり、気持ちを奮い立たせてぎゅっと拳を握る。
 ソウさんのくれた希望は、嬉しい誕生日プレゼントそのものになった。
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