逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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致死的幻想【水編/side ソウ】

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 あちらが知りたいのはTFCが握っている邪神の情報だと予想した。ところがシャドウは目を眇め、俺の後ろにいる小夜を顎をしゃくって示す。

「なんで、分身を作ったのさ」
「は?」

 俺の方も先程のシャドウと同様に、つい間抜けた声を出してしまった。こんなことがあいつの質問なのか。

「偶然の産物だ。意図したわけじゃない」
「そいつのこと、好きなの?」
「それは別の質問になるな」

 冷めた言葉を口にする俺を小夜はじっと見つめている。物言いたげな視線に敢えて振り向くことはせず、目の前の相手に集中した。水の従者の拗ねた顔つきに、思い出の中の弟の姿が重なる。
 
「なら、いなくなってもいいよね」

 一体何を考えているのか、シャドウはぞっとする宣告をし、残酷な笑みを口元に湛えた。
 合図と共に林の奥の大気が揺らぎ、カエルに似た風貌の二足歩行の生き物たちが五体、木々の間からのそりと現れた。それらは深きものどもと呼ばれる、クトゥルフの眷属。

 瘴気が充満する公園内では、昼であろうと魔物は動く。眷属である深きものどもの方が格が上のはずなのに、シャドウの召喚に応じるとは、高神とビヤの関係と同じだ。

 細い針状の水の刃が矢継ぎ早に襲い掛かり、小夜が小さく悲鳴を上げる。俺は刃が背後へすり抜ける寸前、腕で叩き落とした。落とし損ねた刃は己の体で受け止める。
 深きものどもの狙いは、小夜だった。物理的な攻撃は無意味でも、眷属の刃であれば幽体を殺せる。

「何、庇ってんのさ。そいつ、実体じゃないんだろ」

 シャドウが呆れ顔で嘲笑う。正論だと心の中で同意しつつ、小夜を背にして刃の雨を弾き続けた。上着は無残に切り裂かれたが、血の染みはわずかも付かない。

「小夜、目を閉じてろ」

 俺は掌を水の眷属に向け、同じように真空の刀を放った。風の唸りに混じって、肉を断つ鈍い音が響く。

(一撃じゃ無理か)

 鋭いかまいたちも幾らか傷を与えただけで、動きを止めるまでには至らなかった。
 水の眷属は斬り口から粘ついた体液を撒き散らし、獣じみた咆哮を上げた。そのうち一体が後ろへ回り込み、水かきのある手を小夜へと伸ばす。

「触るな!」

 咄嗟に彼女をガードし、不届きな手首ごと真空の刃で切り裂いた。夥しい粘液が周囲に飛び散り、異臭が漂う。瘴気をたっぷり含んだそれをまともに浴びれば、普通の人間なら失神では済むまい。

「第一の門を抜けて来たれ」

 俺は左腕を高く掲げ、低い声で呼び掛ける。眷属相手ではアジフの力を使わざるを得なかった。
 異界の門から滑り落ちるようにこちら側へと這い出て来るおぞましい虹色。光を放っているせいで、人の目には玉虫色の塊が深きものどもを包み込むように見えただろう。
 光の内側で、悪食の虹色がばりばりと獲物を貪り食っているなど夢にも思わずに。

 小夜は俺の言いつけを守り、固く目を閉じていた。跡形もなく食事を終えた虹色は、満腹とばかりに門の内側へ戻って行く。
 目を開けていい、と小夜に告げた途端、激痛が左腕に走った。駆け寄る小夜の前で、耐え切れず俺は地に膝を付く。

「あっさりだったね」

 眷属がやられたというのに愉快そうに両手を叩くシャドウを、睨み付けることすらできなかった。
 重い左腕がじくじくと腐食を強め、疑似的な神経に強烈な痛覚を与えてくる。吐き気を覚える程の痛みに、腕が限界を迎えたことを悟った。

「ソウさん!」

 小夜の声が聞こえるものの、答えられない。苦痛に上げそうになる声を抑えるのがやっとで、息が上がり、額に玉の汗が吹き出す。力を使う度、付いて回る責め苦は、生きている限り逃れられない戒めだ。

「ちょっとそこで見ててよ」
「……よ、せ」

 シャドウの意図に気づいた俺は、かろうじて上体を起こした。
 水の従者の腕に黒い靄が集まり出す。高神が作り出すものと同様、魂を異次元の深淵へ送る扉。その暗黒の闇は死への扉に等しい。
 暗く冷えた靄は小夜を飲み込もうと膨れ上がっていく。怯えからか諦めからか、小夜は微動だにしなかった。

 幽体の小夜を消したところで、観月の精神や身体にダメージはない。ドッペルゲンガーなどいない方が健全だと認識している。
 しかしその時の俺は、きっと激痛ゆえに正常な状態ではなかった。

「てっ、痛いってば! 放せよ!」
「扉を……、閉じろ」

 無意識に、俺の右腕がシャドウの手首を掴んでいた。骨が軋む音がし、顔をしかめた従者が呻き声を上げる。獣のように口から洩れる荒々しい呼吸は、果たして自分のものなのか。

「あんたが、そこまでする必要ないだろ!?」
「腹に、穴でも、開けて欲しいか……」

 左指の第ニ関節を曲げて拳を腹部に押し当てると、シャドウは驚愕した面持ちで後ずさった。これで聞かないと言うならば、脅しだけに留めるつもりはない。

「馬鹿じゃない。分身相手に」

 赤く跡が付いた手首をさすり、毒づきながら忽然と空気の中に溶ける。気配がなくなり、次いで黒い霧も消滅した。
 シャドウが退いたと分かり、俺は詰めていた息を吐き出す。同時に全身の力が抜け、冷たい地面に倒れ込んだ。

 傍らで小夜が何度も俺の名を呼んでいる。こんなところで気を失うわけにいかないというのに、体が自由にならず、やがて意識は完全に暗闇に飲まれ、外界とつながるすべての感覚が遮断された。





 目を開けた時、自宅のベッドに寝ている自分に気付き、ぼんやりと周囲を見回した。過去と現在が頭の中で混濁している。
 窓から差し込む日差しと枕元の時計から、今が朝だと知る。土曜の朝八時。漆戸良公園でシャドウと対峙したのは金曜日の午後だった。つまり、俺は半日以上寝ていたことになる。

(どうやって、帰った?)

 ようやくまともな思考が戻って来れば、最重要なのはその点だ。いつものように、自力でマンションへ辿り着いたとは考えにくい。しかもあんなにも強かった痛みが、今はすっかり消えている。
 力を使った翌日は決まって酷い有様のはずが、今朝は不思議と体調が良かった。

「……ソウさん! 目、覚めたんだね」

 ベッドに身を乗り出す勢いで、小夜が顔を覗き込んでくる。朝から一緒にいる状況にも慣れたといえど、寝室にまで入ってくるのは勘弁して欲しい。

「誰が、俺をここへ運んだんだ?」

 俺は起き上がると、髪をかき上げながらキッチンへ向かった。わざわざ促すまでもなく、小夜は俺に付いて寝室を後にする。

「TFCの人。ソウさんの意識が戻ったら、メンテナンスに来るよう伝えてくれ、って加我主任さんが」
「……加我と会ったのか」

 危惧した通りの答えを聞き、俺は溜息を吐いた。漆戸良公園にはTFCの連中が常駐している。無様に倒れた俺はTFCに運ばれた挙句、小夜を加我と会わせてしまった。小夜が実体ではないと、加我に見抜かれたに違いない。

「主任さん、ソウさんの事、よく知ってるんだね」
「不本意ながら」

 どのみち加我にはメンテをしてもらわねばならず、事情を説明する羽目になる。
 既にスクラップになった左腕はまだ動かすことができ、痛みも疲労も残っていない。本人は無意識に力を使ったとしても、驚異的な回復は小夜が傍にいたおかげだ。魔を駆逐し浄化する力は、瘴気に侵された心身を癒す。

 ぼろぼろに破れたジャケット以外、俺はそのままの格好でベッドに入っていた。着替えさせられていたら、生身と程遠い体が露呈するので、小夜に驚かれるよりその方が有難い。
 たとえ汚れた服のせいで、シーツを洗う余分な手間が増えたとしても。

 厚切りのパンで簡単にバタートーストを作り、かじりながら身支度を整える。車のキーを探そうとして、テーブルの上にバイクのキーが置かれているのに気付き、つい苦笑が漏れた。公園に乗り付けた俺のオートバイはきっちり戻ってきている。TFCの後始末は良くも悪くも抜かりない。

「TFCへ行くの?」
「いや。トッピングの材料を買いに行く。昼までに作っておかないと」
「トッピング……?」
「ケーキさ。観月の誕生日プレゼント」

 今日の十四時に、観月と会う約束をしている。大幅に予定が狂ってしまったものの、急げばまだ下地を作る時間はある。

「メンテナンスは?」
「週明けでいい。どうせ主任は土日は休み」

 そう言ってドアへ向かうと、小夜は遠慮がちに視線を寄越した。シャドウの件があったからか、一緒に外出することに躊躇しているらしい。

「シャドウは当分大人しくしてるだろ。付いて来ないのか?」
「行く!」

 珍しく俺から尋ねれば、幽体は嬉々として頷いた。
 こんな些細な日々は、後数日で消えてしまう幻想。だとしても、きっとこの時間は、俺の最期の瞬間に思い出す記憶の一つになるだろう。
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