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アンネリーゼ

父の言葉

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 「どういうことだ!」

 荒々しい足音を立てて入ってくるなり殿下は俺の胸ぐらを掴んで揺すった。

 「池に落ちて溺れた?あの池はリセの背の立つ深さだろう、そんなバカな事があるか!何の為にお前を側に付けることを許したと思っている!」
 「だったらリセを一人にしなければ良かったのですよ。聖堂に一人残してご自分だけ戻られたそうではないですか」
「それは……」

 言葉を詰まらせた殿下は手を離してぐったりと横たわるリセを見下ろした。

 「大丈夫です。防御魔法で魂が切り離されるのは防げました。ですがそうでなければ今頃は……」
 「……リセ……」

 殿下は崩れるように跪き眠っているリセの頬を指で撫で、俺はそれを拳を握りしめながら黙って見ていた。どうしてだ?どうしてお前はそんな目でリセを見ながらリセを苦しませる?

 「魂は……間違いなく繋がっているんだな?」
 「はい。ただし今はここにはいません。戻るきっかけを探しに行きましたのでね。ですが頬の赤みが増してきましたからそろそろ戻って来るでしょう」
 
 もう一度リセの頬を撫で確かにある温もりを指先に感じたのだろう。殿下は納得したように頷いて立ち上がった。

 「後は……後は任せる。リセを頼む」

 それだけ言って殿下は一目振り返ることすらせずに部屋を出て行った。

 「やっぱり……アイツが欲しいのは……」

 俺はリセの頬に手を伸ばし上書きするかのようにそっと撫でた。頬に残った殿下の指の感触が全て消えるようにと願いながら。

 「こんなことになるなんて……」

 脳裏に浮かぶのは15歳だった学院の卒業式での父の言葉だった。


 ∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗


 ユリウスを見つけたリセが駆けていく。その弾むような後ろ姿を目で追いながら父が呟いた。

 「どうやらあの娘は『燕』だな……」
 「『燕』?何ですか、それは?」
 「プロイデンの血筋には時折現れるんだよ。燕のように渡りをする魂の持ち主がね」

 そして父からプロイデンの『燕』について聞いた俺だがリセがその『燕』だとは半信半疑だった。父が言うには『燕』が持つ特別な魂は輝きを放ち魔力を持つ者にはその光が見える。だが俺にはリセも他の子どもとなんら変わらない普通のおちびさんにしか見えなかったのだ。

 「お前もまだまだと言うことだが気にすることはない。あの娘が覚醒するのは相当先で今はチラチラとした弱い光を放つだけなんだから。むしろあの幼さで輝き始める方が特異なんだ。燕の中でも格別に強い魂の持ち主だと言える。あの娘は……間違いなく王太子妃になるだろう」
 「リセが王太子妃に?まさかそんな、とんでもない引っ込み思案ですよ!」
 
 初めて会った六歳のリセは辛うじて挨拶だけはしたものの乳母の後ろに隠れたきり出てこないような内気な子どもだった。次もその次も何度顔を合わせてもその調子で、どうにか仲良くなりたくてあれこれと悪戯を仕掛けると、思ったよりも数倍頭が切れたこのおちびさんは巧妙に仕返しをしてくるようになった。そんな風にしてようやくユリウスと同じとまでにはいかないが、それなりに懐いてくれるようになったのに。

 その内気な性格は十歳になった今も変わっていないのに。

 「王家は以前から特別な技術や知識を持つ『燕』を欲しがっていたのだよ。しかし『燕』が覚醒するのは大抵大人になる頃だから、気が付いた頃にはもう遅いと言うわけさ。だがもう光を放ち初めているあの娘が王家の目に留まるのにそう時間は掛からないだろう。王族もまた魔力を有しているからね。アンネリーゼ嬢は十歳と言ったかな?」
 「えぇ、僕らの五つ下ですから」
 「四年後……には成婚だな」
 「バカな!あのおちびさんが?」

 父はユリウスのアカデミックドレスを物珍しげに触っているリセを目尻を下げて見つめた。

 「王族の婚姻は早い。ジークフリード王子は12歳、十歳のアンネリーゼ嬢とは年齢の釣り合いも理想的だ。現国王陛下も先の陛下もさらにその先も今のお前くらいの年齢で王太子妃を娶っている。これまでの相手は他国の王族や有力な貴族だったという事情はあるが、あの娘はそれを逆手に取って慣例に従ってと言われるだろう。それ程までに確実に手に入れたい存在、それがプロイデンの『燕』だ」
 「でも、あのおちびさんには迷惑でしかないと思います。どうやら自分の容姿が人目を引くのに感づいているらしいが、それを喜ぶどころか嫌がるような子ですからね。渋々連れて行かれた茶会でも物陰に隠れて終わるのを待っているそうですよ」
 「確かに、あのお嬢さんなら今にフェリシアの華と言われるに違いないだろうね。あの魂は美しさの為に傷ついた記憶を持っているようだ。それなのにまたあんな容姿を持ってしまったのだから人目につくことに怯え恐れている。でもそれも時が解決するだろう」

 俺の視線の先ではユリウスの四角い帽子を被らされたリセが無邪気にくるくると回っていた。俺だって貴族の跡取り息子だから結婚がどんな物かは理解も覚悟もしている。後ろ楯のない伯爵家の娘であるリセにとって本来ならばこれは喜ばしい話なのだろう。だが俺はただひたすらリセが可哀想でたまらなかった。

 「お前がハルメサンとして認められる頃には……」

 肩に乗せた手にぐっと力を込めて父は言葉を区切った。

 「王太子妃になったアンネリーゼ嬢をお守りすることになるだろう。あの魂の輝きを護るためにしっかりと研鑽を積みなさい。わかったね」

 返事はしたものの俺には到底信じられなかった。いや、信じたくはないと心のどこかで拒んでいたのかも知れない。

 けれども、それはある日突然現実に変わった。

 
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