上 下
33 / 42
堅物王太子の奮闘

家族が出来ました

しおりを挟む


 イリセは二人の護衛にぶら下げられるように連れ出され、エルクラスト城は一気に静かになった。そして人々は持ち場に戻り、シャファルアリーンベルドは一人にして欲しいとレイに言い残し書斎に入った。

 どれくらいぼんやりしていただろう?慌ただしいノックの音と上ずったルイザの呼び声が聞こえふと我に返る。気付けばもう夕方になっていた。

 「ロジーナ様が池からお戻りになられていないのです」

 震えるルイザの声にシャファルアリーンベルドがドアに駆け寄り荒々しくノブを引いた。

 「まだ帰らない?ローズは一人でアヒルを迎えに行ったのか?」
 「えぇ、今日は一人でも大丈夫だからと仰って。ですが帰ってきたのはアヒルだけでいつまでたってもロジーナ様がお戻りにならないのです。レイが池まで行ってみたのですが……」

 そこまで言うとルイザは真っ青な顔を左右に振った。

 シャファルアリーンベルドは弾かれたように部屋を飛び出しホールにいたレイの姿を認めると掛け寄って腕を掴んだ。

 「空き地は見たか?青い花の咲く空き地だ!」
 「勿論行きも帰りも覗きました。でもロジーナ様は何処にも居ないんです。アヒルだけが帰って来て小屋を開けろってがぁがぁ鳴いていたんですよ」

 窓に目をやればもう日が傾きはじめている。急がなければ森は直ぐに暗闇に包まれてしまうだろう。何て事だと思わず舌打ちをし、足早に池に向かって走り出した。

 庭園を抜け農園を走り牧場を見回してもロジーナの姿はない。小屋では戻ってきたアヒルたちだけががぁがぁと騒がしく羽繕いをしながら寝支度を始めていた。

 シャファルアリーンベルドは再び走り出して森を進む。空き地のアオマルヤネは強い雨足と強風のせいで無惨になぎ倒されてほんの半日前とは別の場所のようになっていた。

 ざわ付く気持ちを堪えながら小道を急ぎたどり着いた池はまだまだ水嵩が高く水際が何時もより手前に来ている。この回りは砂利なので足跡は残っていない。一つ大きく息を吸い顔を上げて見回すがロジーナは何処にもいなかった。小道はここで途切れているが池に沿って進むと一面背の高い草が生い茂り水の中まで葦やガマなどの草に覆われている。こんな所をわざわざ歩くはずがないと思いながらそれでもシャファルアリーンベルドは草むらを進んだ。

 池を半周したがロジーナはいない。この先には池から流れ出る小川があるが水嵩が増している今は跳び越えられる幅では無いだろう。そうする間にもジリジリと暗さが増して行くのを感じ、いてもたってもいられずにシャファルアリーンベルドは思わず『ローズ!』と名前を呼んだ。

 「……はい!」
 「……えっ?!……ローズ?」
 「はい」
 
 今返事が聞こえた気がするが……?

 いやいや、こんな場所にいるはずがない。探しに来ておいて何だが、衝動的にここまで来てみただけでここに居る訳がないじゃないかと胸の内では散々自問自答していたのだ。

 これはあれか?ニンフとかウィリーとかいう深入りしては危険な奴らではないのか?

 それでもシャファルアリーンベルドはもう一度だけ呼び掛けてみることにした。

 「ローズ?」
 「はい、シャーリー様!」

 その返事に条件反射のように駆け寄りガサガサと草を掻き分けるとロジーナは直ぐに見つかった。背の高い草が繁る中にしゃがんでいたから完全に隠れてしまっていたのだろう。心底ほっとした途端力が抜けたシャファルアリーンベルドはフラフラとその場に崩れ落ち両手を付いてがっくりと項垂れた。

 「どうして一人で……どれ程心配したと思っているんだ!!」

 必死に怒りを抑えようとする声に気付き、ロジーナはごしごしと目元を擦って『ごめんなさい』と呟いた。

 「お部屋で考え事をされているみたいだと伺ったのでお邪魔したくなくて」

 すくっと立ち上がったロジーナは白っぽい何かを腕に抱えている。何だろうと目をやればそれはもうぐったりと動かなくなったまだ若い小柄なアヒルだった。

 「一羽足りなくて探していたら草に絡まっていて……。きっと身体が小さいので流されてしまったのでしょうね」
 
 そう言うと俯いて愛しそうにアヒルを抱きしめた。

 「ダメですね。アヒルは食肉にし羽毛を得るために飼育しているのについつい情が湧いてしまって。どんなに怖かったか、苦しかったかと思うと可愛そうで……」

 ロジーナの頬を伝った涙がポトリとアヒルの羽に落ちた。アヒルを拾い上げる為に水辺まで行ったのだろう。ロジーナのブーツやスカートは泥だらけだった。両腕には草に当たったせいで切り傷から血が滲んでいる。

 しかしそれよりも痛々しいのはロジーナの表情だった。それはまるで無理に忘れようとし押し込めていた悲しさが堪えきれずに溢れ、その重さに押し潰されそうになって苦しんでいるかのようだった。

 これでは小言と言えないな、とシャファルアリーンベルドは強張って鋭くなっていた表情を和らげた。それに、戻ったらきっとルイザのお説教が待っているだろう。『わたしはただ甘やかせば良い』と表情同様和らいだ声をロジーナに掛けた。

 「さぁ、日が暮れないうちに早く帰ろう。まだ戻らないとルイザが青くなっているんだ」

 ロジーナはこくりと頷きシャファルアリーンベルドの後を歩き出した。



 「何もお聞きにならないの?」

 池を後にしていつもの小道に差し掛かったところでロジーナに話し掛けられ、シャファルアリーンベルドはゆっくりと振り向いた。

 「ローズは……あの時話そうとしていただろう?」

 足を止めたロジーナはシャファルアリーンベルドを見つめ、それから視線を下に彷徨わせた。

 「レイが話を打ち切ったのを反省していた。本当は伝えたい事があったのだろうと。わたしたちは誰もローズが隠し事をしていたとは思っていないし責めるつもりもない」
 「けれども結局今まで黙っていたのは私です。ですから私が……」
 「ローズ……」

 ロジーナは咎めるようにそっと名前を呼んだシャファルアリーンベルドを黙って見つめ、首をゆるゆると左右に振った。

 「父は何もしていません。何もしなかったんです。あれは父が私のバイオリンを窓から投げ捨てた日でした。私は庭でバイオリンを拾い裏口から入り自分の部屋に戻ろうと階段の側にいました。だから母は私が居たことに気がついていなかったのだと思います。父と二人きりだと……誰も見ていないと信じていたから、だから母は……」

 躊躇うこと無く冷静に話していたロジーナが、急に言葉を詰まらせ黙り込み苦し気に顔を歪ませる。だが肩を大きく上下させ背筋を伸ばすと一語一語を噛み締めるようにゆっくりと言った。

 「母は、故意に階段から足を踏み外したのです」

 シャファルアリーンベルドは全く予想もしなかった言葉に目を見張った。ロジーナの母の死は殺されたのか事故だったのか、その二つに一つだと思い込んでいたのだ。

 その慟哭をひしひしと感じつつ、ロジーナは元の夕凪のような少しも揺れ動くことない淡々とした言葉を紡いでいった。

 「恐らく母の狙いは父を犯罪者にする事だったのでしょう。だから落ちる瞬間に私と目があった時、あんなにも絶望したような表情をしたのだと思います。全てを見ていた私が何一つ隠すことなく証言をすると解っていた、それは父の無実を証明する事に他ならないと悟ったから。命懸けの復讐を私に邪魔されたのです。きっとそれまで以上に私を憎んだことでしょうね」

 ロジーナは冷たいアヒルを抱きしめ頬を寄せた。

 「階段を転げ落ちた母は私の目の前に倒れていました。脚がおかしな方に曲がり頭からは湧き出すように血が流れ、私は声もあげられず立ち尽くしていました。これは恐ろしい夢を見ているのではないかと。気が付くと父に抱き上げられていて……後にも先にも父に抱かれたことなどあれ一度でしたが、父は母の様子を見ることもなく私に聞いたのです。『全部見ていたんだな?』って」
 「血だらけの……妻を放って……?」

 ロジーナはゆっくりと俯き、腕に抱いたアヒルのがっくりと落ちた首をそっと自分の胸に持たせ掛けた。

 「父はどんどん血が流れ出るピクリとも動かなくなった母を見ることもなく、必ず見たままを証言するように繰り返し繰り返し私に言い聞かせました。お前の話一つでわたしは犯罪者にされてしまうかもしれない。そうなればお前は行くところがなくなって野垂れ死だ、そんな目に会いたくないならお母様は自分で足を踏み外したのだとしっかり証言をしなさいと。震えを押さえるためだったのか、力を込めて抱き締めてきた腕が……私は恐ろしくてたまりませんでした。まるで私の魂が絞め殺されてしまいそうだった……」

 死んだアヒルを抱えてとぼとぼと歩き出したロジーナはまるで壊れたバイオリンを胸に途方に暮れている頼りなげな9歳の少女のようだった。その小さなロジーナは初めて父に抱き締められながら、喜びではなく恐ろしさを感じていたのだ。何という残酷な仕打ちだったのだろうとシャファルアリーンベルドは唇を噛んだ。

 真っ直ぐ前を見据えて歩いていくロジーナにシャファルアリーンベルドは尋ねた。

 「祖父母と疎遠になったのはそれが原因だったのか?」
 「そうですね」

 ロジーナは足を止めることもなくまるで誰か別人の話でもするかのように話を続けた。

 「祖父母は父が突き落として母を殺したに違いないと訴えたんです。でも私が話した事と状況に矛盾がないことから父は直ぐに釈放されました。祖父母は大層怒ってもう金輪際お前を孫とは思わない、二度と顔を見せるなと言ってそれきりです。まぁ、母は成り行きで産んでしまった私を会わせるのは気まずかったのか、それまでも数回しか会ったことはなきったのですけれども」
 
 ふっと寂しそうにロジーナが笑う。

 --本当に、わたしは本当に何一つローズの事を、ローズが抱えていた寂しさも苦しさも辛さも理解したつもりで居ただけで何もわかってなどいなかったのだ

 シャファルアリーンベルドは平手打ちをされたかのような衝撃を感じていた。だからこそロジーナは自分が置かれた異常でしかない環境も仕打ちも黙って受け入れて来たのだろう。僅か九つの少女が胸に抱いた大きな大きな罪の意識のその罰として。

 「私はそれ以来母の絶望を浮かべた目を、そして目の前で倒れ血溜まりになっていくのを毎晩夢に見るようになりました。うなされて泣きながら目を覚まし、その後は恐ろしさと罪悪感でなかなか寝付けません。だから朝までぐっすり眠ったことなんてなかった。でもエルクラストに来たらぱったりと夢を見なくなっていたんです。私は母を絶望させた薄情な娘なのだから一生悪夢に苦しむのがせめてもの贖罪だったのでしょうに」

 シャファルアリーンベルドはせめてこれ以上傷付ける事が無いようにとできる限りの優しさを込めた声で言った。

 「でも、今を生きているローズの苦しみは取り去りたいとわたしは願っている。もう自由になっても良いのではないか?ローズの喜びは、ローズの笑顔はエルクラストの者達を幸せにするんだ。そしてわたしもローズの笑顔が好きだ」

 ちゃっかりと告白を紛れ込ませてみたりしたが、ロジーナの微弱なセンサーでは捉えきれなかったらしくじっくりと考え込むように少しだけ首を傾げて黙っている。シャファルアリーンベルドの行き場のない想いだけがうろうろと行ったり来たりしているようだ。

 二人は無言のまま農場を抜け生け垣のアーチをくぐり庭園に入った。もうすっかり日が暮れていたが、そこは一面暖かな柔らかい光に包まれていた。エルクラストの人々が手に手にランプを携えてロジーナとシャファルアリーンベルドを出迎えていたのだ。

 彼らはロジーナの姿を認めると一斉に歓声を上げながら駆け寄り取り囲んだ。男達はにこにこと笑い女達は良かったと涙を流している。ジェニーとアンは肩を抱き合ってわんわん泣いていた。そしてルイザはブンブンと腕を振りながら近寄るなり

 「お嬢ちゃまっ!こんな時間まで何をなさっていたんです?みんなにどれだけ心配を掛けたかお分かりですか?!」

 と目をつり上げて怒鳴り付けた。

 「……??」

 ルイザ以外の全員がきょとんとしポカンと口を開けた。怒鳴られた当のロジーナも恐縮するのも忘れ目をパチクリとしている。

 「……お、嬢……ちゃま?!」

 シャファルアリーンベルドが絞り出すように小声で聞き返すと『あらやだ、わたくしったら……』とルイザは身を捩らせながら照れた。

 「ホッとしたらついついついねぇ……だって、大事な可愛いロジーナ様がご無事だったんですもの……」
 「本当にごめんなさい。アヒルが一羽足りなくて探していたの」

 頭を下げるロジーナの腕に抱かれた亡骸に目を留め、ルイザは悟ったように目を細めた。それからすっと右手を伸ばしロジーナの頬に付いていた泥を拭う。

 ロジーナは大人しくされるがままになりながら心地よさそうに表情を緩めた。

 「ねぇルイザさん。私の家族は居なくなったし元々居ないようなものだったのかも知れません。でもね、ルイザさんをお母様みたいに感じているの」

 ロジーナは微笑みながらそこにいる人々を見回した。

 「レイさんは口煩いお兄様だし、アドルフさんは優しいお父様。ジェニーは友達みたいに仲良しの双子のお姉さんで、アンは可愛い妹」

 瞳を輝かせるアンの顔からは『きゅるん』と音が聞こえてきそうだ。

 「そしていつも温かく見守ってくれている叔父様や叔母様、仲良しの従兄弟達。私はエルクラストで沢山の家族に恵まれ沢山の愛情を注がれています。だからきっと私は強くなれると思うの」

 恥ずかしそうに俯くロジーナの頭をルイザはするりと撫でた。

 「お強くなっていらっしゃいますよ。あの小娘からわたくし達を守ろうとして下さったじゃありませんか!」
 「怖かったのよ、だってイリセさんはカマキリみたいに殴りかかって来るんだもの。でも私、言いなりになっちゃいけない、なりたくないってそう思ったの。みんなが、私の家族がそう思わせてくれたのね。だから頑張れたわ」

 クスッと笑ったロジーナをルイザは宝物のように大事に大事に抱き締めた。

 
しおりを挟む

処理中です...