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【其の壱「性感按摩と莫連女と用心棒」】⠀
天誅殺師 鴉ノ記
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「この世に生まれて来るべきではなかった命など、ひとつもない」
どこのどいつがそんな戯言抜かしやがった?
ーー生きるに値しない人間は、ごまんといるさ。
浅草聖天町は待乳山近くにある、粗末な一軒家。しかし、ここはただの一軒家ではない。
玄関横には縦二尺、横一尺の杉の板が打ちつけられ、板には墨痕淋漓とした筆跡で、
《杉山流 待乳山麓(ふもと)按摩診療所》
と銘打たれている。
そう、ここは按摩の診療所。しかしこの診療所の主たる按摩は一般的な肩腰背中、腕足の揉みほぐしだけではなく、一風変わった施術を施す、知る人ぞ知る秘密の穴場でもあった。
『あった』と言うのは既に過去形で、今やそちらの施術目当ての患者の方が大半を占めていると言っても差し支えない。
その施術とはーー。
「ぁあ.......ん.......ぁん、んふ.......」
古畳が縦に敷かれた二畳間。
仮に屋根を取り払って上から見ると、そこは玄関と土間の左隣の間だ。
上から見て右にある「下の間」には左側の古畳とほぼ同じ幅と長さの白い敷き布団が敷かれ、何故かその下半分には、使い古しの色褪せた夏掛けが、二、三枚重ねて敷かれている。 患者の枕元の脇から、ふたつ並んだ畳のへりを隔てて右側の畳の上に置かれた、按摩がこの施術のために使う品々を収納した、年季の入った楢材の三段四杯の小抽斗。
わずか二畳の小部屋は、左右と患者を寝かせる布団の後ろ一面、さらに入り口の左側も漆喰で塗り固めた壁にし、そこから、紙は表も裏も茶色く煤けきって、あちこち削れ、ひびの入った襖の縁に、鍵代わりのつっかい棒がかけてある。
つっかい棒をかけた壁と左側の壁に垂直に置かれた粗末な衣紋掛けには、着物から帯に襦袢に腰巻きまで、女が身につけていたものすべてが掛けられていた。
今、按摩の両足がわずかに開いた両足の太ももをまたぎ、自身の両ひざを布団の上に置いて施術している客の女は、齢四十二。
背中から尻まで夏掛けをかけてはいるが、布団の上にうつ伏せになった女は、全裸である。
二の腕がたるみ、背中も腰も年相応に崩れ贅肉が付き、あちこちに薄茶色の染みが点在する肌は、十代二十代前半の若い女の、細く均整の取れた瑞々しい裸体からすれば、確かに見栄えは劣る。
だが、少し前に軽く浸かって貰った、家の外の小屋にある風呂のぬるま湯にゆっくり温められ、まだ湿り気を帯びた勝山結いの髪から両足の爪先まで、風呂上がりに全身に焚きしめた香ーー白檀の微香と相まって、女の裸体からは、さながら熟し切って少し傷んだ果実から放たれる、甘ったるい色香が漂ようようだ。
「お常さん、湯に浸かって肌は上気してやすのに、肩も腰も体の芯からずいぶん凝ってなすってやしたねぇ」
女ーーお常の首から背中と腰を一通り揉みほぐし終えた診療所の主たる按摩、滅黯(めつあん)が、お常の【腎愈】を、左右の指先十本に五尺五寸のやや細身の体躯の体重をかけて、前後に押し始めた。
腰にあり、身体の前面からするとへその裏にあるここは、腰下の性欲を高めるツボに該当する。
先ほどの喘ぎ声は、この施術のせいだった。
「毎日毎日、朝から晩まで中腰で洗濯、物干し、井戸の水汲みに雑巾がけ、竈の火吹きでこき使われてちゃあ、そりゃあ肩も腰も凝るさ。ね、ねぇ、黯さん.......」
「こんなときに何でさぁ、お常さん」
「んんっ、あ、あんた.......何で、いつも目隠しなんかしてんの、さ.......」
「へぇ、急にそんなこと聞きなさるたぁ、いってぇどうなすった?」
喘ぎ喘ぎ、お常が問い続ける。
「気になるじゃあないか。黯さん、アンタただでさえ按摩らしくない見てくれで、おまけにまだ十八だろ? そんな若い男が、枯れかけの年増の女の股を濡らして、気をやって悦ばせる按摩が出来るんだ。アタシらの間じゃもっぱらの噂だよ、目隠し取ったら、役者か若衆かって驚くほどのイイ男なんじゃあないかってね」
はははっ、と、滅黯が快活に笑った。
お常はさる武家屋敷で、通いの女中をしている。
アタシら、というのはこの診療所の常連であり、同じ武家屋敷の女中仲間達のことだ。
確かにこの滅黯という按摩は、何故かいつも両眼の部分を青海波の手ぬぐいで覆っている。
さらに頭も丸めず、髪は髷も結わない立髪で、そして常に浅葱色の甚平を着、何故か一本歯の下駄を履いている。
お常の指摘通り、 確かに世間一般の按摩の姿からは明らかにかけ離れていた。
「いってえどこのどなたがいいなすったんでさぁ、そんな嘘八百。何、あっしはこれこの通り、按摩で生まれつきの盲。まぶたは開いておりやすが、眼が死んだ魚みてぇに白く濁っておりやして。特に女子供に不気味がられることが多ござんしてねぇ、これじゃ客が寄りつかねぇかもってんで、こうして目隠しするようになった次第でござんすよ」
「おや、そういうことだったのかい。なんだい、悪いこと聞いちまったねぇ」
謝りながらも、お常の口調はあくまでもさばさばしている。
「んなこたぁ、お気になさらねぇで。それより後で、皆さんにその噂は真っ赤な嘘だって伝えといてくだせぇよ?」
滅黯は口に笑みを浮かべて、小抽斗の二段目の金具を引いた。中には、木栓をした縦二寸、横一寸、胴まわり四寸ほどの白磁の小瓶が、隙間なく並んでいる。
そこから滅黯は手探りで一本の小瓶を取り出し、木栓も抜かずに鼻を鳴らすと、木栓を開けた。
滅黯は小瓶を傾け、左掌にやや重みのありそうな中身の液体を垂らすと、右手で小瓶に木栓をし直してから抽斗の中に戻し、左右の掌を擦り合わせた。瓶の中身は香油ーーイランイラン。【花の中の花】という名で、和名は「月下香」催淫性のある香油である。 和名がありながらも、亜熱帯地域原産のこの香油の原料となる樹木は、耐寒性が低いため、四季のある日本の風土では生育が難しく、生育は難しい。ちなみに滅黯が常用しているイランイランはバタビア(現在のインドネシア)から輸入されたものである。
しかしどのような経路で滅黯の手元に届いているのかは、わからない。
「はぁっ、あぁんっ」
お常の左右のふくらはぎに、ぬらついた滅黯の掌が同時に触れ、丹念に揉みほぐしながら、太もも、尻へと這い上がって行く。
垂れ下がった双丘を両掌で餅のようにこねくりまわしながら、右の【環跳】を親指の腹で強く押し、尾てい骨にある【腰愈】に、左右の親指をぐっと押し込んだ。
ーーもうすでにお常の陰部は濡れそぼり、布団の上に重ねて敷かれた夏掛けには、濡れ染みが広がっているだろう。
頬を薄紅色に上気させ、 艶を含んだ息を小刻み吐くお常の両腕に自分の二の腕を通して、滅黯はお常の上半身を起こす。
それと同時に、香油にまみれた滅黯の両掌が、お常の両腋を数回素早く擦り上げると、ほどよく垂れたお常の乳房を左右から鳩尾を隠すようにぎゅっと寄せ上げ、左右の人差し指の先で、やや大きめの乳輪を、乳首に触れないよう円を描くように撫でまわす。
お常が一際高い、喘ぎを上げた。滅黯には触らなくてもわかる、お常の乳首が硬く勃っているのをが。
その体勢のまま、滅黯はお常の陰部に両掌を潜り込ませた。お常は自ら両足を開き、滅黯の胸にもたれかかる。
「相変わらず、お常さんの観音様は土砂降り雨降りでござんすねぇ、では、仕上げと行きやすよ」 細く見えながらも節くれだった男の指先が、紅く尖った小さな女根の包皮を剥き、ほんの数回擦り上げただけで、お常は絶頂に達した。
上下に激しく痙攣するお常の裸体を背後から抱きすくめ、両足をお常の腰にがっちりと交差させて、滅黯はしばしの間、寄せては返すお常の絶頂の余韻が完全に引くまで、そのままでいるーーつもりだった、いつものように。
「はいっ、こっちの勝ちィ!」
襖の向こうから聞こえてきた、場違いな若い女の声の後に、歓声と喚き声が湧き上がった。
滅黯は眉をひそめ、頭をかいてからお常を丁重に布団の上に寝かせてからつっかい棒を外し、襖を開けた。
「あーあー、やっぱり姐(あね)さんですかぃ」
下の間の一枚襖の向こうーー診療所の待合室になっている囲炉裏のある茶の間では、下半身の施術待ちの患者達が、あろうことか丁半博打に興じていた。
今しがた勝敗が決まったばかりらしく、頭を抱えて唸りながら板の間に座り込んでいる者達、互いに手を組み、笑顔で飛び跳ねながら喜びあっている者と、実にわかりやすく二手に分かれている。
即興の賭場で、盆台も盆蓙もなく、板の間に壺代わりの湯呑み茶碗と賽子がふたつ転がっている。
声の主は、壺振り役を勤めていた若い女だ。
その女の背後で手を組み合ってはしゃいでいるのは、ともに二十歳の茶汲女で、しのびすぎに髪を結っているのがおきみ、島田髷がおさよ。
対して、頭を抱えているのは本両替屋の主、喜左衛門と、銭両替屋の主、與之助。
こちらはともに、太鼓腹の五十路男である。
同業者同士の男と女が、男側は丁、女側は壺振り方の半に分かれての賭けだったのは、一目瞭然だ。
「はぁ? 固いこと言うんじゃないよ、黯。あんたが患者を待たせっぱなしにしてるから、あたしが暇潰しに皆の相手してやったんじゃないか」
板敷の茶の間で胡座をかき、左手を後ろについた恰好で煙管から紫煙を吐き出す、見るからに莫連でございという見た目の女が、悪びれもせずうそぶいた。
この女、名を戀夏(れんげ)という。齢二十六、下谷数寄屋町にある、本来は屋号を「日の出湯」というのだが、土地柄、仕事上がりの芸者や芸妓が多く通うことから、板の間に白粉の残り香が染みついてしまったことから、通称「しろい湯」と呼ばれるようなった銭湯の、ふたつ鳴りも構わぬ女三助だ。
滅黯の身なりも風変わりだが、この女のそれは滅黯以上である。
髪の色はところどころ金の筋が入った茶色。薄桃色に花柄の派手な着物の裾を尻端折にし、帯は肩ばさみ。
膝上までの黒い股引を履き、真冬だろうが大雪の日であろうが、一年中生足を晒している。
さらに金と茶色の髪は右側に高く括り上げ、蝶結びにした縮緬の端切れで飾っている。
「勘弁してくだせぇよ、ここは賭場じゃねぇんですぜ。ほれ、おきみさんもおさよさんも、はしゃいでねぇでおとなしく座った座った」
滅黯がふたりの女に向かって両手を上下に振る仕草を見せると、思いのほか、おきみもおさよも素直に従い、床の前に斜め座りに腰を下ろした。
「それからねぇ、この丁半博打。持ちかけたのは喜左さんに與之さん、おめぇさん方でやしょ?」
ふたりの肥えた五十路男は一瞬ぎょっとして、それからすぐに口をつぐんだ。
滅黯の問いには答えないが、その態度が肯定している。
「あっしゃ盲だが、その分鼻も耳も、お目の見える方より利くんでさぁ。全部聞こえてやしたよ、『おぉう、丁度いいとこに来ておくれだよお戀ちゃん、アタシら暇でしょうがなくて困ってるから、ちょいと壺振りの真似事しておくんな』ってねぇ」
その瞬間、戀夏を除く四人が同時に目を見開いた。
喜左衛門の口振りを真似た滅黯の声が、喜左衛門の声そのものだったからである。
ただ口調が良く似ているというのではない、声帯模写の文字通り、いやそれ以上に、喜左衛門の喉がそっくりそのまま滅黯の喉とすげ替わったかのようだった。
何故か戀夏がわすかに顔を曇らせ、ふたたび煙管をふかす。
ところで、喜左衛門も與之助も、身分で言えば按摩で町人の滅黯よりも上の『商人』である。
與之助もれっきとした店の主で、さらに喜左衛門に至っては金銀のみを取り扱い、大名家や大店との取り引きの専門を生業とする、本両替の主だ。
歳も身分もずっと上の相手を喜左さん、與之さんと呼び、こんな軽口が叩けるとは、滅黯と彼らの間には、よほどの信頼関係があるようだ。
そして下の間から四つん這いで出て来た滅黯がふたりを手招きし、そっと耳打ちする。
(おふたりとも消渇の気でお忍びに近いお越しなんでやすから、下手に騒いだらいけやせんぜ。人の口に戸は立てられねぇ、って昔っから言いやすからねぇ)
ふたりは揃って顔を赤くし、ひどく照れたような笑みを浮かべた。
ーー消渇の気で云々とは、早い話が『糖尿病由来の不能気味の下半身の治療』のことだ。
「けっ、固くていいのは男の股ぐらだけにしとけってんだ。そんじゃあたし、貰ってくよ。十二文!」
「えぇっ!? たったそれっぽっちでいいのかい、お戀さん!三百文もあるんだよ!?」
「あたしァただ壺振りの真似事してただけ、賭けに勝ったのはあんたらだろ。あたしの取り分は団子二束八文と、茶ァ二杯の八文だけで十分さ」
それだけ言って囲炉裏端で煙管の先をかつん、と叩き、颯爽とした足取りで茶の間を出、台所を通って、土間に脱ぎ捨てていた黒いぽっくりの薄桃色の鼻緒に足の親指と人差し指を押し込むと、
「残りの二百八十四文、ふたりで鰻一枚食って、玉子焼きに白魚、鮪の刺し身に小鰭と穴子の握りの二組食ってもお釣りが来るさ。おい黯、また来てやっからなーー!!」
戀夏は玄関から出てすぐに顔だけ出して大声で言うと、十二文を右掌に握り締め、どこかへ向かって脱兎の如く駆け出した。
「.......もう来ねぇでようござんすよ、姐さん」
滅黯はそう独りごちると、下の間に這って戻り、恍惚とした表情で布団の上に仰向けになったまま身動ぎもしない、イランイランの香油にまみれ、股を愛液でしとどに濡らしたお常の全身を拭き清めるため、衣紋掛けの裏に立てかけていた白杖を手繰り寄せ、台所の竈で弱火で刻をかけてゆっくり焚いていた熱い湯を、あらかじめ流しに用意していた桶に汲み、水瓶の上に常時十枚重ねに置いてある洗濯したての手拭い二枚を下の間に持ち込むべく、白杖をついて左掌について立ち上がった。
ーーところ変わって、同時刻。
上野広小路町は絵草紙屋兼貸本屋、『於多福屋』では、ちょっとした厄介事が発生しようとしていた。
年の頃は十三、十四ほどの少年ふたりが、あたりをきょろきょろと伺っている。
昼は未の刻八ツを少し過ぎたばかり、客は彼ら以外誰もいない。
その瞬間、ともに袖も裾も寸詰まりに近い、柿渋色の生地に、色あせた濃茶色の縞模様の苧の着物の甲太。
泥であちこちまばらに茶色く染まった白の井桁模様の、麻の藍色の着物の乙吉。
ふたりは、目を合わせてうなずき合った。
甲太は絵双紙を二冊、乙吉は貸本一冊を袂に放り込み、そのまま、土埃と乾いた泥が染み込んだ草鞋を履いた足で店内から外に走り出すべく、踵を返そうとするより早く、ふたりの右手首に衝撃が走った。
「「痛ってぇぇ!!!」」
ふたりは同音異口に叫び、反射的に右手首を左掌で握り締め、その場で足止めをくらった。
「.......さっきっからこつこつと、なーんばしちょん、わいら」
聞き慣れない言葉が、頭上から降り注いだ。
しかも強い怒気を含んだ、ドスの効いた低音で。
恐る恐る振り返ると、そこには雲突くようなーーとまでは行かないが、優に身の丈六尺はある、それも灰地に白の雲竜柄の生地に、白雲を突き抜ける二匹の昇り竜の柄が入った着流しを纏った大柄な男が、腕組みしてふたりを見下ろしていた。
甲太も乙吉もまったく気づいていないが、先ほど彼らの右手首に手刀を食らわせたのは、この男である。
男は身をかがめ、足元に落ちた貸本一冊と絵双紙二冊を拾うと、それぞれ一冊ずつ、表と裏の表紙に息を吹きかけ、手で払った。
ーー自分達のそれより軽くふたまわりは大きく、全体に節くれ立って骨太なごつい掌に思わず嘆息したが、それも束の間。
盗まれかけた貸本と絵双紙を元あった場所に戻した男の大きな右手が固く握られるや否や、寸分の間も置かず、それが立て続けに甲太と乙吉のつむじに、拳骨となって振り落とされた。
「こん、おーどかもん!」
先ほどの手刀などとは比べものにならない衝撃と激痛に、声も出せない。代わりに、涙が滲んだ。
涙に滲む目で、男は月代は伸び放題だが髷を結っていること、さらに二本差しであることに気づき、血の気が引いた。
露骨なまでに落ちぶれた食い詰め浪人にしか見えなくとも、相手はれっきとした武士なのだ。
「あん婆さんが居らんと、おいが一人ではんどかぶりしようときに万引きばしよるとは、そげんしょうとることすんな!」
「あ、あぁ、あの.......」
甲太が涙目で、ようよう声を絞り出した。
乙吉は彼の片腕にしがみつき、既にしゃくり上げながら、まだ鼻水を垂らしている。
「どがんしたと?」
「あ、あのさ、さ、さっきから、その.......あんたの言ってること、ひとつも意味が.......わからなくて.......」
その一言に、男ははっとした表情になり、顔に左掌を当てて天を仰いだ。
「いっちょんもわからん? あー、まーたおいとしたことがいかんばいかんばい、こっぺの悪か」
そう言いつつも、男の謎の口調は変わらなかった。
「わいら、さっき何しょっとかわかっとっとか?」
「へ? は.......?」
「『お前ら、さっき自分が何しようとしたかわかってるのか』って聞いとるば.......聞いてんだよ」
この男、姓を新谷(あらや)と言い、感情が昂るとお国言葉でまくし立てる癖がある。
絵双紙屋兼貸本屋の女主にして、雇い主であるお福すら下の名前は知らず教えられず、新谷本人から聞かされているのは、
長崎の武家の生まれで名字帯刀は許されているが、下級武士ゆえ、祖父の代から食いつめ浪人の家系。
貧しい町人ばかりが住む貧乏長屋に生まれ育ち、足が悪いために傘貼りの内職でしか生計を立てられない父を早くに亡くし、十八の歳に生来病弱な町人出の母、歳の離れた妹と弟が同時に亡くなり、天涯孤独の身になったことだけである。
ーーこの絵双紙兼貸本屋『於多福屋』は、かつては夫婦で営まれていたが、店主にしてお福の夫である、大の酒好きの三吾が泥酔の果てに顔の判断もつかないほどの土左衛門となって大川で溺死して以来、お福が女手一つで営んで来た。
しかしお福が歳を重ねるに連れ足腰が悪くなると同時に、絵双紙や貸本を万引きするのにうってつけとの悪い噂が悪ガキやチンピラ達の間で広まってしまい、一時期は閉店寸前にまで追い込まれた。
が、それは奇しくも、新谷が人宿ーー俗に口入屋と呼ばれるーーを介し、長崎から江戸に移住して間もなくの頃だった。
加齢のため、足腰の曲がりや不自由さはどうにもならないが、腰痛とひざの痛みが嘘のように和らぐため通っていた、
《杉山流 待乳山麓診療所》
この診療所の主たる若き按摩、滅黯から、
『信頼出来る知人の紹介』として雇うことになったのが、この新谷なのだ。
人宿からでも新谷からでもなく、滅黯とお福が話し合って出した、用心棒として雇う条件として、
【店の二階の一部屋を彼の住居とする】
【用心棒の他、新刊の絵双紙の絵双紙問屋からの店への仕入れと貸本の陳列と整頓】
【店と店周りの掃除、どぶ攫いやその他のあらゆる汚れ、力仕事を含む雑用全般】
【月払いの固定給は五匁四分】
【万引きした者は未遂を含み、捕捉した場合、一人に付き百文の歩合制とする】
【朝晩の食事代は固定給から毎月一匁二分を引く、それ以外の食事代は自腹】
ーーという、こと細かな労働条件と引き換えに、しかし決して互いに何ら理不尽な部分はない契約のもとに、雇い、雇われた次第である。
「ちょ、ちょっとだろ」
「は? どこさん『ちょっと』? ーーやなか、どこが『ちょっと』だ? あ? 」
新谷がドスの利いた低い地声で訊ねると、彼が自筆で半紙に太筆で大きく書いた、店内のあちこちに貼りつけた、見料ーー現代でいうところのレンタル料金一覧の一枚を、左手の裏拳で叩いた。
新谷が腰を屈めて身を乗り出し、甲太と乙吉の顔に、ずいっ、と顔を近づけた。
「ふん、おめぇらそんな口が叩けるってこたぁ、必要最低限の学問は受けてやがるな。なら声に出して言ってみろ。見料は幾らだ?」
「い、一冊で、ぎ、ぎ、銀二分(=百六十円)」
「次。四、五冊は?」
「ぎ、ぎぎ、銀、三分から四分(=二百四十円~三百二十円)」
「十冊以上はいくらで、貸し出し期限はいつまでだ?」
「ぎ、銀一匁(=八百円)で、ひと月から半年!」
「わかってんじゃねぇか」
その一言に、甲太と乙吉はひとまず安堵した。しかし未遂とはいえ、したことは悪事に代わりない。
「おめえらの家、どこだ。親はいるか? いないか? いるなら親に突き出して、代わりに一冊分の見料払って貰う。いねぇんなら今から明日の今時分まで丸一日、『俺達は万引きしようとしました』って書いた木札ァ首から下げて、店先に筵しいて荒縄で首括りつけてよ、正座で両足でふん縛って晒し者にしたらぁ」
甲太と乙吉の顔が、真っ青になった。
「あ、お、おっ母には言わねぇでくれよ!おっ母は朝から晩まで働いてて、胃が悪りぃんだ! しかも今は病をこじらせて寝ついてて……俺がこんなことしたって知った上に銀二分払えなんて言われたら、俺は食うや食わずになって、おっ母は死んじまうよ!」
「お、おお、俺もだよ.......お父っつぁんに知られたら、お、俺、腹斬らされちまう.......かも.......」
乙吉の顔は、青を通り越して紙のようになっている。
「腹ァ斬らされる? 何だ、てめぇの父っつぁま、浪人か?」
こくん、と乙吉がうなずいた。
「なら話は早ぇ。俺の死んだ親父殿も、浪人だったからな。それにほれ、俺も見た通りの浪人よ。てめえの息子の仕出かした不始末についちゃあ、よくわかってくれんだろ」
ひぃっ、と声にならない声を上げて、乙吉は震え上がった。
「家は?」
ふたりは答えない。寒くもないのに歯をがたがた鳴らして、瘧のように全身を震わせている。
「わいら、『答えん』とか? 『答えきらん』とか? 』」
新谷の口から発せられたこの奇妙な言葉に、ふたりはますます声が出せなくなった。
家ーーと言っても貧乏長屋だがーーなど教えたくない、父と母に知られるのも弁償させるのも、その後の母の心労や父から命じられるやも知れない銀二分と命と引き換えの償いと罰を受けるのも、絶対に嫌だ。
だからと言って、晒し者にされるのも嫌だ。
『答えんとか?』は、
「自分の意志で答えないのか?」であり、
『答えんきらんとか?』は、
「答えることが出来ないのか?」の意で、
どちらも、正にふたりの心境そのものであった。
「はー、どっちも嫌っさね? やぜらしかが、しょうんなか」
新谷が髪を掻きむしって溜息混じりに発せられた言葉に、甲太と乙吉は自分達を見逃してくれるのかと思ったが、そうは問屋が下ろさなかった。
ほっと胸を撫で下ろす間もなく身体がふっと宙に浮いたかと思うや否や、甲太は新谷の右肩に、乙吉は新谷の左肩に軽々と担ぎ上げられていた。
「口ばきかんとならしょうんなか、屋根から落っちゃかしたるったい」
さして苦もなく、新谷は一階の店内から二階へ繋がる階段を上がり、襖を開けていた四畳半の自室へ入った。
「わいらみたいなおーどか坊主に、借りた本ば一年経っても返さんまんまのおーどもんがやっちゃおるけん、おい達ゃ商売上がったりになるったい。こんがん、ぞーだんやなかばい!」
行儀悪く、爪先で町並みが見渡せる一枚だけの襖の左側を開け放ち、両足をばたつかせて無駄な抵抗を繰り返すふたりをものともせず、新谷は屋根瓦の上に降りる。
屋根の大棟に腰を下ろし、あぐらをかくと同時に、両肩に担いでいた甲太と乙吉を左右に立たせた。
ジャリ、という耳障りな音が、硬直する甲太と乙吉の耳に聞こえた。
震えの止まらない身で金縛りに合っているような、矛盾した状態の甲太と乙吉が、それぞれ新谷の傍ら側の目を彼に向けると、新谷は腰の二本差しのうち、大刀を抜こうとしている最中だった。
しかし、その大刀の刀身は赤茶色に錆きって、刃こぼれしまくっている。
「研がねぇでなまくらになった包丁ほど、手や指を切ったときほど傷が治りにくいし、痛てぇんだって、婆さんが言ってたな」
錆ついた刀身は、鞘から中々抜けない。
それでもジャリジャリ、ジョリジョリと生理的に嫌な音を立てながら、じわじわと抜かれて行く。
甲太と乙吉の全身はすでに肌だけでなく、着物全体まで脂汗にまみれ、汗で変色している。
その直後、立て続けに甲太の左袖と乙吉の右袖が肩口から袂ごと一閃に切り落とされ、帯に縦の切れ目が入った。
それぞれ右半身、左半身が裸で褌一丁というぶざまな姿になったことに気づくより先に、甲太と乙吉は同時に背中を強く押され、そのまま屋根の平部を勝手に駆け下りて行った。
「「ひゃ、うひょ、あひゃ、うわゎわをひょひゃっっ」」
「へぇ、錆びた刀でも力まかせに振りゃあ、意外によく斬れるもんだな」
甲太と乙吉が、ひどく間の抜けた声を上げながら今にも二階の屋根から転落しようとする寸前、新谷は懐から取り出した鉤縄を二本取り出し、それをふたりの背中に向かって投げつけた。
鉤は上手い具合に甲太の右の袂に、乙吉の左肩に食い込んだ。
後方にぐいっと縄を引かれ、屋根瓦の上に仰向けに倒れたふたりは、そのまま大棟の上に立った新谷の手によって、ずるずると引き上げられた。
ーー息も絶え絶えの甲太と乙吉の両頬に、平手打ちを食らわせては詰問を繰り返し、何とか家の場所を聞き出した新谷は『於多福屋』の裏にまわり、本来は新刊の絵双紙を問屋から積んで店に運ぶための商売道具である大八車の荷台に、褌一丁にしたふたりを左右仰向けに並べて、荒縄で括りつけた。
甲太と乙吉はまだ意識が朦朧としているが、そう遠くないうちに、はっきり意識を取り戻すはずだ。
引き手となる者が入る荷台の前の枠に立ち、大八車の荷台を両腕で起こす。
その瞬間、何故か荷台の後方にごくわずかな負荷が加わった。
「面白そうなことしてんじゃん、新谷。あたしもついてく」
振り向くと、荷台の後ろに顔見知りの女がひとり、後ろ向きに腰かけていた。
女は新谷に顔を向け、右手に持った煙管を、人差し指と中指で器用にまわす。
ーー戀夏だ。
「あ、姐さん!? 」
先ほどの按摩ーー滅黯と同じく、新谷もまた彼女を姐さんと呼んだ。
自分を目にしたその顔に、一瞬、朱の線が走ったのを、戀夏はわざと気づかない振りをした。
盲の按摩。
貸本屋兼、絵双紙屋の住み込みの用心棒の浪人。
ふたつ鳴りもかまわない、莫連の女三助。
生業も見た目も齢もまるで異なるこの三人の男女は、知り合いであった。
「こりゃ遊びやなかけん、仕事ですたい。ダメっすよ」
「やだですけん、あたしも行くですたい」
戀夏が子どものように新谷の言葉を真似てそういうと、新谷は、はぁ、と軽く溜息をついて大八車を轢き始めた。
実は新谷には、この女に弱みがある。
ーー俗に言う『惚れた弱み』だ。
荷台には、荒縄で括りつけられた褌一丁の少年ふたり。
その後方には、金の筋が何本も入った茶色の髪のに、花柄の着物を尻端折にして股引を履いた、生足をぶらぶらさせながら煙管をふかす女。
そんな取り合わせの三人を荷台に乗せた大八車をえっちらおっちら引く、六尺はある二本差しの大男。
嫌でも目立つ異様な光景のはずだが、大通りを道行く人々はちらちら視線を向ける程度で、さほど気にする風でもない。
何故なら、
【あぁ、また『於多福屋』で、不届き者がとっ捕まったか】
程度のもので、町の人々にとっては、既に見慣れ切った光景だからだ。
当初は、老若男女を問わず大勢の野次馬が後追いしながら市中引き回しの罪人を見物するが如き人だかりがついてまわって辟易したものだが、事情が人づてに知れ渡るにつれ、それはすぐに日常の風景のひとつに変わっていた。
「新谷ァ、あの歌、出だしどんなんだっけ? あれだよあれェ、でんでん虫みたいな」
「ーー『でんでらりゅうば』?」
「そっ、それそれ」
ふぅっ、と煙管から紫煙を吐き出すと、戀夏は機嫌よく歌い出した。
「♪でんでらりゅうば~でてくるばってん、でんでられんけん、でてこん.......でてこん.......でて.......」
「『ででこんけん』」
「♪でてこんけん、こんこられんけん、こられらけんけん、こーんこん、こーんこんっ」
ふたりの不届き者とひとりの陽気な厄介者を乗せて、大八車を引く新谷の足が、下谷山崎町の長屋へと向かう。
一年を通して素足で、履き潰すことを前提に、安物の草鞋しか履かない、六尺の身の丈に合った、角張った幅広の足の十指。
左右のかかとはひび割れ、土と泥が皮膚の内側まで染み込んで、分厚く硬質化している。
それは彼が歩んで来た、これまでの人生と暮らしぶりを物語っていた。
どこのどいつがそんな戯言抜かしやがった?
ーー生きるに値しない人間は、ごまんといるさ。
浅草聖天町は待乳山近くにある、粗末な一軒家。しかし、ここはただの一軒家ではない。
玄関横には縦二尺、横一尺の杉の板が打ちつけられ、板には墨痕淋漓とした筆跡で、
《杉山流 待乳山麓(ふもと)按摩診療所》
と銘打たれている。
そう、ここは按摩の診療所。しかしこの診療所の主たる按摩は一般的な肩腰背中、腕足の揉みほぐしだけではなく、一風変わった施術を施す、知る人ぞ知る秘密の穴場でもあった。
『あった』と言うのは既に過去形で、今やそちらの施術目当ての患者の方が大半を占めていると言っても差し支えない。
その施術とはーー。
「ぁあ.......ん.......ぁん、んふ.......」
古畳が縦に敷かれた二畳間。
仮に屋根を取り払って上から見ると、そこは玄関と土間の左隣の間だ。
上から見て右にある「下の間」には左側の古畳とほぼ同じ幅と長さの白い敷き布団が敷かれ、何故かその下半分には、使い古しの色褪せた夏掛けが、二、三枚重ねて敷かれている。 患者の枕元の脇から、ふたつ並んだ畳のへりを隔てて右側の畳の上に置かれた、按摩がこの施術のために使う品々を収納した、年季の入った楢材の三段四杯の小抽斗。
わずか二畳の小部屋は、左右と患者を寝かせる布団の後ろ一面、さらに入り口の左側も漆喰で塗り固めた壁にし、そこから、紙は表も裏も茶色く煤けきって、あちこち削れ、ひびの入った襖の縁に、鍵代わりのつっかい棒がかけてある。
つっかい棒をかけた壁と左側の壁に垂直に置かれた粗末な衣紋掛けには、着物から帯に襦袢に腰巻きまで、女が身につけていたものすべてが掛けられていた。
今、按摩の両足がわずかに開いた両足の太ももをまたぎ、自身の両ひざを布団の上に置いて施術している客の女は、齢四十二。
背中から尻まで夏掛けをかけてはいるが、布団の上にうつ伏せになった女は、全裸である。
二の腕がたるみ、背中も腰も年相応に崩れ贅肉が付き、あちこちに薄茶色の染みが点在する肌は、十代二十代前半の若い女の、細く均整の取れた瑞々しい裸体からすれば、確かに見栄えは劣る。
だが、少し前に軽く浸かって貰った、家の外の小屋にある風呂のぬるま湯にゆっくり温められ、まだ湿り気を帯びた勝山結いの髪から両足の爪先まで、風呂上がりに全身に焚きしめた香ーー白檀の微香と相まって、女の裸体からは、さながら熟し切って少し傷んだ果実から放たれる、甘ったるい色香が漂ようようだ。
「お常さん、湯に浸かって肌は上気してやすのに、肩も腰も体の芯からずいぶん凝ってなすってやしたねぇ」
女ーーお常の首から背中と腰を一通り揉みほぐし終えた診療所の主たる按摩、滅黯(めつあん)が、お常の【腎愈】を、左右の指先十本に五尺五寸のやや細身の体躯の体重をかけて、前後に押し始めた。
腰にあり、身体の前面からするとへその裏にあるここは、腰下の性欲を高めるツボに該当する。
先ほどの喘ぎ声は、この施術のせいだった。
「毎日毎日、朝から晩まで中腰で洗濯、物干し、井戸の水汲みに雑巾がけ、竈の火吹きでこき使われてちゃあ、そりゃあ肩も腰も凝るさ。ね、ねぇ、黯さん.......」
「こんなときに何でさぁ、お常さん」
「んんっ、あ、あんた.......何で、いつも目隠しなんかしてんの、さ.......」
「へぇ、急にそんなこと聞きなさるたぁ、いってぇどうなすった?」
喘ぎ喘ぎ、お常が問い続ける。
「気になるじゃあないか。黯さん、アンタただでさえ按摩らしくない見てくれで、おまけにまだ十八だろ? そんな若い男が、枯れかけの年増の女の股を濡らして、気をやって悦ばせる按摩が出来るんだ。アタシらの間じゃもっぱらの噂だよ、目隠し取ったら、役者か若衆かって驚くほどのイイ男なんじゃあないかってね」
はははっ、と、滅黯が快活に笑った。
お常はさる武家屋敷で、通いの女中をしている。
アタシら、というのはこの診療所の常連であり、同じ武家屋敷の女中仲間達のことだ。
確かにこの滅黯という按摩は、何故かいつも両眼の部分を青海波の手ぬぐいで覆っている。
さらに頭も丸めず、髪は髷も結わない立髪で、そして常に浅葱色の甚平を着、何故か一本歯の下駄を履いている。
お常の指摘通り、 確かに世間一般の按摩の姿からは明らかにかけ離れていた。
「いってえどこのどなたがいいなすったんでさぁ、そんな嘘八百。何、あっしはこれこの通り、按摩で生まれつきの盲。まぶたは開いておりやすが、眼が死んだ魚みてぇに白く濁っておりやして。特に女子供に不気味がられることが多ござんしてねぇ、これじゃ客が寄りつかねぇかもってんで、こうして目隠しするようになった次第でござんすよ」
「おや、そういうことだったのかい。なんだい、悪いこと聞いちまったねぇ」
謝りながらも、お常の口調はあくまでもさばさばしている。
「んなこたぁ、お気になさらねぇで。それより後で、皆さんにその噂は真っ赤な嘘だって伝えといてくだせぇよ?」
滅黯は口に笑みを浮かべて、小抽斗の二段目の金具を引いた。中には、木栓をした縦二寸、横一寸、胴まわり四寸ほどの白磁の小瓶が、隙間なく並んでいる。
そこから滅黯は手探りで一本の小瓶を取り出し、木栓も抜かずに鼻を鳴らすと、木栓を開けた。
滅黯は小瓶を傾け、左掌にやや重みのありそうな中身の液体を垂らすと、右手で小瓶に木栓をし直してから抽斗の中に戻し、左右の掌を擦り合わせた。瓶の中身は香油ーーイランイラン。【花の中の花】という名で、和名は「月下香」催淫性のある香油である。 和名がありながらも、亜熱帯地域原産のこの香油の原料となる樹木は、耐寒性が低いため、四季のある日本の風土では生育が難しく、生育は難しい。ちなみに滅黯が常用しているイランイランはバタビア(現在のインドネシア)から輸入されたものである。
しかしどのような経路で滅黯の手元に届いているのかは、わからない。
「はぁっ、あぁんっ」
お常の左右のふくらはぎに、ぬらついた滅黯の掌が同時に触れ、丹念に揉みほぐしながら、太もも、尻へと這い上がって行く。
垂れ下がった双丘を両掌で餅のようにこねくりまわしながら、右の【環跳】を親指の腹で強く押し、尾てい骨にある【腰愈】に、左右の親指をぐっと押し込んだ。
ーーもうすでにお常の陰部は濡れそぼり、布団の上に重ねて敷かれた夏掛けには、濡れ染みが広がっているだろう。
頬を薄紅色に上気させ、 艶を含んだ息を小刻み吐くお常の両腕に自分の二の腕を通して、滅黯はお常の上半身を起こす。
それと同時に、香油にまみれた滅黯の両掌が、お常の両腋を数回素早く擦り上げると、ほどよく垂れたお常の乳房を左右から鳩尾を隠すようにぎゅっと寄せ上げ、左右の人差し指の先で、やや大きめの乳輪を、乳首に触れないよう円を描くように撫でまわす。
お常が一際高い、喘ぎを上げた。滅黯には触らなくてもわかる、お常の乳首が硬く勃っているのをが。
その体勢のまま、滅黯はお常の陰部に両掌を潜り込ませた。お常は自ら両足を開き、滅黯の胸にもたれかかる。
「相変わらず、お常さんの観音様は土砂降り雨降りでござんすねぇ、では、仕上げと行きやすよ」 細く見えながらも節くれだった男の指先が、紅く尖った小さな女根の包皮を剥き、ほんの数回擦り上げただけで、お常は絶頂に達した。
上下に激しく痙攣するお常の裸体を背後から抱きすくめ、両足をお常の腰にがっちりと交差させて、滅黯はしばしの間、寄せては返すお常の絶頂の余韻が完全に引くまで、そのままでいるーーつもりだった、いつものように。
「はいっ、こっちの勝ちィ!」
襖の向こうから聞こえてきた、場違いな若い女の声の後に、歓声と喚き声が湧き上がった。
滅黯は眉をひそめ、頭をかいてからお常を丁重に布団の上に寝かせてからつっかい棒を外し、襖を開けた。
「あーあー、やっぱり姐(あね)さんですかぃ」
下の間の一枚襖の向こうーー診療所の待合室になっている囲炉裏のある茶の間では、下半身の施術待ちの患者達が、あろうことか丁半博打に興じていた。
今しがた勝敗が決まったばかりらしく、頭を抱えて唸りながら板の間に座り込んでいる者達、互いに手を組み、笑顔で飛び跳ねながら喜びあっている者と、実にわかりやすく二手に分かれている。
即興の賭場で、盆台も盆蓙もなく、板の間に壺代わりの湯呑み茶碗と賽子がふたつ転がっている。
声の主は、壺振り役を勤めていた若い女だ。
その女の背後で手を組み合ってはしゃいでいるのは、ともに二十歳の茶汲女で、しのびすぎに髪を結っているのがおきみ、島田髷がおさよ。
対して、頭を抱えているのは本両替屋の主、喜左衛門と、銭両替屋の主、與之助。
こちらはともに、太鼓腹の五十路男である。
同業者同士の男と女が、男側は丁、女側は壺振り方の半に分かれての賭けだったのは、一目瞭然だ。
「はぁ? 固いこと言うんじゃないよ、黯。あんたが患者を待たせっぱなしにしてるから、あたしが暇潰しに皆の相手してやったんじゃないか」
板敷の茶の間で胡座をかき、左手を後ろについた恰好で煙管から紫煙を吐き出す、見るからに莫連でございという見た目の女が、悪びれもせずうそぶいた。
この女、名を戀夏(れんげ)という。齢二十六、下谷数寄屋町にある、本来は屋号を「日の出湯」というのだが、土地柄、仕事上がりの芸者や芸妓が多く通うことから、板の間に白粉の残り香が染みついてしまったことから、通称「しろい湯」と呼ばれるようなった銭湯の、ふたつ鳴りも構わぬ女三助だ。
滅黯の身なりも風変わりだが、この女のそれは滅黯以上である。
髪の色はところどころ金の筋が入った茶色。薄桃色に花柄の派手な着物の裾を尻端折にし、帯は肩ばさみ。
膝上までの黒い股引を履き、真冬だろうが大雪の日であろうが、一年中生足を晒している。
さらに金と茶色の髪は右側に高く括り上げ、蝶結びにした縮緬の端切れで飾っている。
「勘弁してくだせぇよ、ここは賭場じゃねぇんですぜ。ほれ、おきみさんもおさよさんも、はしゃいでねぇでおとなしく座った座った」
滅黯がふたりの女に向かって両手を上下に振る仕草を見せると、思いのほか、おきみもおさよも素直に従い、床の前に斜め座りに腰を下ろした。
「それからねぇ、この丁半博打。持ちかけたのは喜左さんに與之さん、おめぇさん方でやしょ?」
ふたりの肥えた五十路男は一瞬ぎょっとして、それからすぐに口をつぐんだ。
滅黯の問いには答えないが、その態度が肯定している。
「あっしゃ盲だが、その分鼻も耳も、お目の見える方より利くんでさぁ。全部聞こえてやしたよ、『おぉう、丁度いいとこに来ておくれだよお戀ちゃん、アタシら暇でしょうがなくて困ってるから、ちょいと壺振りの真似事しておくんな』ってねぇ」
その瞬間、戀夏を除く四人が同時に目を見開いた。
喜左衛門の口振りを真似た滅黯の声が、喜左衛門の声そのものだったからである。
ただ口調が良く似ているというのではない、声帯模写の文字通り、いやそれ以上に、喜左衛門の喉がそっくりそのまま滅黯の喉とすげ替わったかのようだった。
何故か戀夏がわすかに顔を曇らせ、ふたたび煙管をふかす。
ところで、喜左衛門も與之助も、身分で言えば按摩で町人の滅黯よりも上の『商人』である。
與之助もれっきとした店の主で、さらに喜左衛門に至っては金銀のみを取り扱い、大名家や大店との取り引きの専門を生業とする、本両替の主だ。
歳も身分もずっと上の相手を喜左さん、與之さんと呼び、こんな軽口が叩けるとは、滅黯と彼らの間には、よほどの信頼関係があるようだ。
そして下の間から四つん這いで出て来た滅黯がふたりを手招きし、そっと耳打ちする。
(おふたりとも消渇の気でお忍びに近いお越しなんでやすから、下手に騒いだらいけやせんぜ。人の口に戸は立てられねぇ、って昔っから言いやすからねぇ)
ふたりは揃って顔を赤くし、ひどく照れたような笑みを浮かべた。
ーー消渇の気で云々とは、早い話が『糖尿病由来の不能気味の下半身の治療』のことだ。
「けっ、固くていいのは男の股ぐらだけにしとけってんだ。そんじゃあたし、貰ってくよ。十二文!」
「えぇっ!? たったそれっぽっちでいいのかい、お戀さん!三百文もあるんだよ!?」
「あたしァただ壺振りの真似事してただけ、賭けに勝ったのはあんたらだろ。あたしの取り分は団子二束八文と、茶ァ二杯の八文だけで十分さ」
それだけ言って囲炉裏端で煙管の先をかつん、と叩き、颯爽とした足取りで茶の間を出、台所を通って、土間に脱ぎ捨てていた黒いぽっくりの薄桃色の鼻緒に足の親指と人差し指を押し込むと、
「残りの二百八十四文、ふたりで鰻一枚食って、玉子焼きに白魚、鮪の刺し身に小鰭と穴子の握りの二組食ってもお釣りが来るさ。おい黯、また来てやっからなーー!!」
戀夏は玄関から出てすぐに顔だけ出して大声で言うと、十二文を右掌に握り締め、どこかへ向かって脱兎の如く駆け出した。
「.......もう来ねぇでようござんすよ、姐さん」
滅黯はそう独りごちると、下の間に這って戻り、恍惚とした表情で布団の上に仰向けになったまま身動ぎもしない、イランイランの香油にまみれ、股を愛液でしとどに濡らしたお常の全身を拭き清めるため、衣紋掛けの裏に立てかけていた白杖を手繰り寄せ、台所の竈で弱火で刻をかけてゆっくり焚いていた熱い湯を、あらかじめ流しに用意していた桶に汲み、水瓶の上に常時十枚重ねに置いてある洗濯したての手拭い二枚を下の間に持ち込むべく、白杖をついて左掌について立ち上がった。
ーーところ変わって、同時刻。
上野広小路町は絵草紙屋兼貸本屋、『於多福屋』では、ちょっとした厄介事が発生しようとしていた。
年の頃は十三、十四ほどの少年ふたりが、あたりをきょろきょろと伺っている。
昼は未の刻八ツを少し過ぎたばかり、客は彼ら以外誰もいない。
その瞬間、ともに袖も裾も寸詰まりに近い、柿渋色の生地に、色あせた濃茶色の縞模様の苧の着物の甲太。
泥であちこちまばらに茶色く染まった白の井桁模様の、麻の藍色の着物の乙吉。
ふたりは、目を合わせてうなずき合った。
甲太は絵双紙を二冊、乙吉は貸本一冊を袂に放り込み、そのまま、土埃と乾いた泥が染み込んだ草鞋を履いた足で店内から外に走り出すべく、踵を返そうとするより早く、ふたりの右手首に衝撃が走った。
「「痛ってぇぇ!!!」」
ふたりは同音異口に叫び、反射的に右手首を左掌で握り締め、その場で足止めをくらった。
「.......さっきっからこつこつと、なーんばしちょん、わいら」
聞き慣れない言葉が、頭上から降り注いだ。
しかも強い怒気を含んだ、ドスの効いた低音で。
恐る恐る振り返ると、そこには雲突くようなーーとまでは行かないが、優に身の丈六尺はある、それも灰地に白の雲竜柄の生地に、白雲を突き抜ける二匹の昇り竜の柄が入った着流しを纏った大柄な男が、腕組みしてふたりを見下ろしていた。
甲太も乙吉もまったく気づいていないが、先ほど彼らの右手首に手刀を食らわせたのは、この男である。
男は身をかがめ、足元に落ちた貸本一冊と絵双紙二冊を拾うと、それぞれ一冊ずつ、表と裏の表紙に息を吹きかけ、手で払った。
ーー自分達のそれより軽くふたまわりは大きく、全体に節くれ立って骨太なごつい掌に思わず嘆息したが、それも束の間。
盗まれかけた貸本と絵双紙を元あった場所に戻した男の大きな右手が固く握られるや否や、寸分の間も置かず、それが立て続けに甲太と乙吉のつむじに、拳骨となって振り落とされた。
「こん、おーどかもん!」
先ほどの手刀などとは比べものにならない衝撃と激痛に、声も出せない。代わりに、涙が滲んだ。
涙に滲む目で、男は月代は伸び放題だが髷を結っていること、さらに二本差しであることに気づき、血の気が引いた。
露骨なまでに落ちぶれた食い詰め浪人にしか見えなくとも、相手はれっきとした武士なのだ。
「あん婆さんが居らんと、おいが一人ではんどかぶりしようときに万引きばしよるとは、そげんしょうとることすんな!」
「あ、あぁ、あの.......」
甲太が涙目で、ようよう声を絞り出した。
乙吉は彼の片腕にしがみつき、既にしゃくり上げながら、まだ鼻水を垂らしている。
「どがんしたと?」
「あ、あのさ、さ、さっきから、その.......あんたの言ってること、ひとつも意味が.......わからなくて.......」
その一言に、男ははっとした表情になり、顔に左掌を当てて天を仰いだ。
「いっちょんもわからん? あー、まーたおいとしたことがいかんばいかんばい、こっぺの悪か」
そう言いつつも、男の謎の口調は変わらなかった。
「わいら、さっき何しょっとかわかっとっとか?」
「へ? は.......?」
「『お前ら、さっき自分が何しようとしたかわかってるのか』って聞いとるば.......聞いてんだよ」
この男、姓を新谷(あらや)と言い、感情が昂るとお国言葉でまくし立てる癖がある。
絵双紙屋兼貸本屋の女主にして、雇い主であるお福すら下の名前は知らず教えられず、新谷本人から聞かされているのは、
長崎の武家の生まれで名字帯刀は許されているが、下級武士ゆえ、祖父の代から食いつめ浪人の家系。
貧しい町人ばかりが住む貧乏長屋に生まれ育ち、足が悪いために傘貼りの内職でしか生計を立てられない父を早くに亡くし、十八の歳に生来病弱な町人出の母、歳の離れた妹と弟が同時に亡くなり、天涯孤独の身になったことだけである。
ーーこの絵双紙兼貸本屋『於多福屋』は、かつては夫婦で営まれていたが、店主にしてお福の夫である、大の酒好きの三吾が泥酔の果てに顔の判断もつかないほどの土左衛門となって大川で溺死して以来、お福が女手一つで営んで来た。
しかしお福が歳を重ねるに連れ足腰が悪くなると同時に、絵双紙や貸本を万引きするのにうってつけとの悪い噂が悪ガキやチンピラ達の間で広まってしまい、一時期は閉店寸前にまで追い込まれた。
が、それは奇しくも、新谷が人宿ーー俗に口入屋と呼ばれるーーを介し、長崎から江戸に移住して間もなくの頃だった。
加齢のため、足腰の曲がりや不自由さはどうにもならないが、腰痛とひざの痛みが嘘のように和らぐため通っていた、
《杉山流 待乳山麓診療所》
この診療所の主たる若き按摩、滅黯から、
『信頼出来る知人の紹介』として雇うことになったのが、この新谷なのだ。
人宿からでも新谷からでもなく、滅黯とお福が話し合って出した、用心棒として雇う条件として、
【店の二階の一部屋を彼の住居とする】
【用心棒の他、新刊の絵双紙の絵双紙問屋からの店への仕入れと貸本の陳列と整頓】
【店と店周りの掃除、どぶ攫いやその他のあらゆる汚れ、力仕事を含む雑用全般】
【月払いの固定給は五匁四分】
【万引きした者は未遂を含み、捕捉した場合、一人に付き百文の歩合制とする】
【朝晩の食事代は固定給から毎月一匁二分を引く、それ以外の食事代は自腹】
ーーという、こと細かな労働条件と引き換えに、しかし決して互いに何ら理不尽な部分はない契約のもとに、雇い、雇われた次第である。
「ちょ、ちょっとだろ」
「は? どこさん『ちょっと』? ーーやなか、どこが『ちょっと』だ? あ? 」
新谷がドスの利いた低い地声で訊ねると、彼が自筆で半紙に太筆で大きく書いた、店内のあちこちに貼りつけた、見料ーー現代でいうところのレンタル料金一覧の一枚を、左手の裏拳で叩いた。
新谷が腰を屈めて身を乗り出し、甲太と乙吉の顔に、ずいっ、と顔を近づけた。
「ふん、おめぇらそんな口が叩けるってこたぁ、必要最低限の学問は受けてやがるな。なら声に出して言ってみろ。見料は幾らだ?」
「い、一冊で、ぎ、ぎ、銀二分(=百六十円)」
「次。四、五冊は?」
「ぎ、ぎぎ、銀、三分から四分(=二百四十円~三百二十円)」
「十冊以上はいくらで、貸し出し期限はいつまでだ?」
「ぎ、銀一匁(=八百円)で、ひと月から半年!」
「わかってんじゃねぇか」
その一言に、甲太と乙吉はひとまず安堵した。しかし未遂とはいえ、したことは悪事に代わりない。
「おめえらの家、どこだ。親はいるか? いないか? いるなら親に突き出して、代わりに一冊分の見料払って貰う。いねぇんなら今から明日の今時分まで丸一日、『俺達は万引きしようとしました』って書いた木札ァ首から下げて、店先に筵しいて荒縄で首括りつけてよ、正座で両足でふん縛って晒し者にしたらぁ」
甲太と乙吉の顔が、真っ青になった。
「あ、お、おっ母には言わねぇでくれよ!おっ母は朝から晩まで働いてて、胃が悪りぃんだ! しかも今は病をこじらせて寝ついてて……俺がこんなことしたって知った上に銀二分払えなんて言われたら、俺は食うや食わずになって、おっ母は死んじまうよ!」
「お、おお、俺もだよ.......お父っつぁんに知られたら、お、俺、腹斬らされちまう.......かも.......」
乙吉の顔は、青を通り越して紙のようになっている。
「腹ァ斬らされる? 何だ、てめぇの父っつぁま、浪人か?」
こくん、と乙吉がうなずいた。
「なら話は早ぇ。俺の死んだ親父殿も、浪人だったからな。それにほれ、俺も見た通りの浪人よ。てめえの息子の仕出かした不始末についちゃあ、よくわかってくれんだろ」
ひぃっ、と声にならない声を上げて、乙吉は震え上がった。
「家は?」
ふたりは答えない。寒くもないのに歯をがたがた鳴らして、瘧のように全身を震わせている。
「わいら、『答えん』とか? 『答えきらん』とか? 』」
新谷の口から発せられたこの奇妙な言葉に、ふたりはますます声が出せなくなった。
家ーーと言っても貧乏長屋だがーーなど教えたくない、父と母に知られるのも弁償させるのも、その後の母の心労や父から命じられるやも知れない銀二分と命と引き換えの償いと罰を受けるのも、絶対に嫌だ。
だからと言って、晒し者にされるのも嫌だ。
『答えんとか?』は、
「自分の意志で答えないのか?」であり、
『答えんきらんとか?』は、
「答えることが出来ないのか?」の意で、
どちらも、正にふたりの心境そのものであった。
「はー、どっちも嫌っさね? やぜらしかが、しょうんなか」
新谷が髪を掻きむしって溜息混じりに発せられた言葉に、甲太と乙吉は自分達を見逃してくれるのかと思ったが、そうは問屋が下ろさなかった。
ほっと胸を撫で下ろす間もなく身体がふっと宙に浮いたかと思うや否や、甲太は新谷の右肩に、乙吉は新谷の左肩に軽々と担ぎ上げられていた。
「口ばきかんとならしょうんなか、屋根から落っちゃかしたるったい」
さして苦もなく、新谷は一階の店内から二階へ繋がる階段を上がり、襖を開けていた四畳半の自室へ入った。
「わいらみたいなおーどか坊主に、借りた本ば一年経っても返さんまんまのおーどもんがやっちゃおるけん、おい達ゃ商売上がったりになるったい。こんがん、ぞーだんやなかばい!」
行儀悪く、爪先で町並みが見渡せる一枚だけの襖の左側を開け放ち、両足をばたつかせて無駄な抵抗を繰り返すふたりをものともせず、新谷は屋根瓦の上に降りる。
屋根の大棟に腰を下ろし、あぐらをかくと同時に、両肩に担いでいた甲太と乙吉を左右に立たせた。
ジャリ、という耳障りな音が、硬直する甲太と乙吉の耳に聞こえた。
震えの止まらない身で金縛りに合っているような、矛盾した状態の甲太と乙吉が、それぞれ新谷の傍ら側の目を彼に向けると、新谷は腰の二本差しのうち、大刀を抜こうとしている最中だった。
しかし、その大刀の刀身は赤茶色に錆きって、刃こぼれしまくっている。
「研がねぇでなまくらになった包丁ほど、手や指を切ったときほど傷が治りにくいし、痛てぇんだって、婆さんが言ってたな」
錆ついた刀身は、鞘から中々抜けない。
それでもジャリジャリ、ジョリジョリと生理的に嫌な音を立てながら、じわじわと抜かれて行く。
甲太と乙吉の全身はすでに肌だけでなく、着物全体まで脂汗にまみれ、汗で変色している。
その直後、立て続けに甲太の左袖と乙吉の右袖が肩口から袂ごと一閃に切り落とされ、帯に縦の切れ目が入った。
それぞれ右半身、左半身が裸で褌一丁というぶざまな姿になったことに気づくより先に、甲太と乙吉は同時に背中を強く押され、そのまま屋根の平部を勝手に駆け下りて行った。
「「ひゃ、うひょ、あひゃ、うわゎわをひょひゃっっ」」
「へぇ、錆びた刀でも力まかせに振りゃあ、意外によく斬れるもんだな」
甲太と乙吉が、ひどく間の抜けた声を上げながら今にも二階の屋根から転落しようとする寸前、新谷は懐から取り出した鉤縄を二本取り出し、それをふたりの背中に向かって投げつけた。
鉤は上手い具合に甲太の右の袂に、乙吉の左肩に食い込んだ。
後方にぐいっと縄を引かれ、屋根瓦の上に仰向けに倒れたふたりは、そのまま大棟の上に立った新谷の手によって、ずるずると引き上げられた。
ーー息も絶え絶えの甲太と乙吉の両頬に、平手打ちを食らわせては詰問を繰り返し、何とか家の場所を聞き出した新谷は『於多福屋』の裏にまわり、本来は新刊の絵双紙を問屋から積んで店に運ぶための商売道具である大八車の荷台に、褌一丁にしたふたりを左右仰向けに並べて、荒縄で括りつけた。
甲太と乙吉はまだ意識が朦朧としているが、そう遠くないうちに、はっきり意識を取り戻すはずだ。
引き手となる者が入る荷台の前の枠に立ち、大八車の荷台を両腕で起こす。
その瞬間、何故か荷台の後方にごくわずかな負荷が加わった。
「面白そうなことしてんじゃん、新谷。あたしもついてく」
振り向くと、荷台の後ろに顔見知りの女がひとり、後ろ向きに腰かけていた。
女は新谷に顔を向け、右手に持った煙管を、人差し指と中指で器用にまわす。
ーー戀夏だ。
「あ、姐さん!? 」
先ほどの按摩ーー滅黯と同じく、新谷もまた彼女を姐さんと呼んだ。
自分を目にしたその顔に、一瞬、朱の線が走ったのを、戀夏はわざと気づかない振りをした。
盲の按摩。
貸本屋兼、絵双紙屋の住み込みの用心棒の浪人。
ふたつ鳴りもかまわない、莫連の女三助。
生業も見た目も齢もまるで異なるこの三人の男女は、知り合いであった。
「こりゃ遊びやなかけん、仕事ですたい。ダメっすよ」
「やだですけん、あたしも行くですたい」
戀夏が子どものように新谷の言葉を真似てそういうと、新谷は、はぁ、と軽く溜息をついて大八車を轢き始めた。
実は新谷には、この女に弱みがある。
ーー俗に言う『惚れた弱み』だ。
荷台には、荒縄で括りつけられた褌一丁の少年ふたり。
その後方には、金の筋が何本も入った茶色の髪のに、花柄の着物を尻端折にして股引を履いた、生足をぶらぶらさせながら煙管をふかす女。
そんな取り合わせの三人を荷台に乗せた大八車をえっちらおっちら引く、六尺はある二本差しの大男。
嫌でも目立つ異様な光景のはずだが、大通りを道行く人々はちらちら視線を向ける程度で、さほど気にする風でもない。
何故なら、
【あぁ、また『於多福屋』で、不届き者がとっ捕まったか】
程度のもので、町の人々にとっては、既に見慣れ切った光景だからだ。
当初は、老若男女を問わず大勢の野次馬が後追いしながら市中引き回しの罪人を見物するが如き人だかりがついてまわって辟易したものだが、事情が人づてに知れ渡るにつれ、それはすぐに日常の風景のひとつに変わっていた。
「新谷ァ、あの歌、出だしどんなんだっけ? あれだよあれェ、でんでん虫みたいな」
「ーー『でんでらりゅうば』?」
「そっ、それそれ」
ふぅっ、と煙管から紫煙を吐き出すと、戀夏は機嫌よく歌い出した。
「♪でんでらりゅうば~でてくるばってん、でんでられんけん、でてこん.......でてこん.......でて.......」
「『ででこんけん』」
「♪でてこんけん、こんこられんけん、こられらけんけん、こーんこん、こーんこんっ」
ふたりの不届き者とひとりの陽気な厄介者を乗せて、大八車を引く新谷の足が、下谷山崎町の長屋へと向かう。
一年を通して素足で、履き潰すことを前提に、安物の草鞋しか履かない、六尺の身の丈に合った、角張った幅広の足の十指。
左右のかかとはひび割れ、土と泥が皮膚の内側まで染み込んで、分厚く硬質化している。
それは彼が歩んで来た、これまでの人生と暮らしぶりを物語っていた。
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