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【其の参「若侍と性悪女達と童巫女」】
天誅殺師 鴉ノ記
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「おい婆ぁよ、今日の昼、また万引きしようとしたガキばふたりとっ捕まえたけん、来月の給金に足しといてくれんね」
「はぁ~、またかい。この調子じゃ売り上げや貸し賃より、アンタの給金にばっかり金がかかっちまうよ、まったく」
刻は暮れ六ツ。
『於多福屋』の二階にあるおふくの四畳半の部屋に置かれたちゃぶ台で、畳の上に直にあぐらをかいた新谷と、ふたつ折りにした座布団の上に正座したおふくが向かい合って夕餉を食べながら、今日の出来事が語られている。
麦飯に、貰い物の白菜の味噌汁。
一口ずつの手前味噌と、塩。
おふくが自ら漬けた茄子のぬか漬けが数切れ。
新谷が山崎町の『味噌汁長屋』からの大八車を曳いての帰り道、わざわざ山谷堀で、あの錆だらけの刀を銛代わりにして捕まえた、鮒を新谷がさばき、甘露煮もどきにしたものが一皿。
煮込みに時間をかけられなかったせいで、川魚特有の泥臭さが抜け切れていないのは否めないが、醤油と砂糖の甘辛い濃い目の味つけで、食べられない味ではない。
それ以外はすべて端がわずかに欠けたり、ひびの入った陶器の小皿に盛られた、一口程度の量。
そんな、いつも通りのごく質素な夕餉であった。
「あー、婆ぁの口に合わせて味付けしたけんが、やっぱり江戸の味つけってのはからかぁ。もう食われきらんたい」
丼に盛った麦飯を食べ切ってもなお、鮒の甘露煮もどきを半分以上残し、新谷は箸を置いた。
(江戸ば、なんでんかんでん蕎麦蕎麦蕎麦、出汁ば鰹鰹鰹! あん真っ黒なつゆばいっちょんも美味からんし、好かん。おいばもう、わやばい! はぁ、あご出汁の白かつゆのそうめんば食いたかぁ)
「何だい、もういらないのかい? なら、アタシが貰うよ」
言うが早いが、おふくの箸が新谷の残した煮魚の残りが乗った皿に伸びる。
残りものの煮魚は、麦飯の上に乗っておふくの口に飲み込まれた。
「おい婆ぁ、そいば確かに残りもんばい。やけんど、せめておいが『食うとよか』言うてから食わんとか、あ!?」
「アンタ、自分で言ったじゃないのさ。もう食ぇねぇって」
「へっ、わいば名前、本当はふくでなしに『ぶく』か『ふぐ』言(ゆ)うとやろ? やけん、そげに肥えとるんばい!」
「はー、まったく。デカい図体して、細かいことうるさい子だねぇ、アンタは。そのくせ老い先短い年寄りのこたぁ、婆ぁ婆ぁ呼びくさる。アンタ本当にお武家さんの出かい?」
「せからしか! そもそも家(うち)ん祖父(じい)さまは豊臣方の足軽で、おいば足萎えで傘張りの内職しか出来ん食いつめ浪人の親父殿と、字も読めん書けん、町人の母(かか)しゃんとの『あいのこ』ばい。親父殿にヤットーの稽古つけて貰ったこつ、いっちょんもなかったい!」
「ーーアタシは嫌いじゃないよ、そういうの」
見当違いな返答に、新谷は怪訝な顔つきになった。
「もう、この世にまともな二本差しなんかいやしないんだよ。旗本や直参のお偉方だって、竹光差して格好だけつけてやがんだからねぇ」
「……」
「アタシ、若い頃にうっかり町中でお侍にぶつかっちまったことがあってねぇ。相手が刀抜いたもんだから、必死になって逃げたことがあるんだよ。でも『斬り捨て御免』なんて、ありゃ表向きだけのことだって後から知って、バカらしくなったさ。お侍が、町人から無礼を働かれたから斬りましたって奉行所に訴えたって、証人や証拠がなきゃ話にならないんだ。侍が嫌いな町人なんざ、山ほどいるんだ。とにかく逃げ切っちまえば、こっちのもんなんだよ」
武家の生まれとは言え、【斬り捨て後免】に関しては、新谷はまったく知らないことだった。
「だから侍どもは、みんな黙ってんだい。それに町人風情に無礼打ちを仕損じたとなりゃ、向こうは『武士たる者が、剣の研鑽を怠るとはあるまじきこと』って、お家は改易、本人は切腹になるんだものよ。バカバカしいったらありゃしない」
「婆ぁ、まさかそれ、わざとやっとったか?」
「当ったり前じゃないか。今はでっぷり肥えて足もひざも悪くしちまって、腰も曲がっちまったけど、若い頃はうんと痩せてて足が速かったから、『鎌鼬のおふく』のふたつ名で、高慢ちきな侍どもの袖を剃刀で切り裂いて紙入れ抜き取って、ずいぶん小銭稼ぎさせて貰ったもんさ」
ふひゅっ、とおふくは笑った。
ーー若き日のおふくが行っていたその行為は、掏摸の間では『ボタはたき』と呼ばれる技なのだが、当時のおふくにはそのような意図はなく、単なる度の過ぎたいたずら程度にしか思っていなかったし、今もその考え方は変わっていないようだ。
「そげんこつばっかしてたけん、ばちばかぶって足ん腰ん悪かなったばい」
「へっ、バチがあたってこうなったんなら、儲けもんさ。あの世で罰を受けなくてすむんだからね」
「ーーまぁ、なんでんよか。皿と茶碗、流しの桶に水入れて漬けといてくれんね」
そう言って新谷がおふくの部屋を出ようとした瞬間、新谷は派手に鴨居に額を打ちつけた。
「んがあぁ!」
左右の掌で額を押さえ、新谷は敷居の上に大股を開いて座り込んだ。
六尺もある新谷の身の丈には、どこの家屋の襖も障子も、欄間も低過ぎるのだ。
ぶふっ、とおふくが吹き出しそうになり口を両手で押さえた、そのときだった。
「………お晩でやす、失礼致しやすーー。按摩の滅黯でごぜぇやす、新谷さんは御在宅でーー?」
新谷にもおふくにも聞き慣れた声が、階下から戸を叩く音とともに聞こえた。
しかし少々耳の遠いおふくには聞き取れず、新谷が二階から店舗である一階へと駆け下りて行った。
「黯やろ? 今、戸ば開けるけん、いっちょん待っとっといね」
小さな閂型の鍵を二ヶ所外し、店舗の前の四枚の戸板をわずかに開ける。
後から、慎重に階段を降りて来たおふくが手に持った龕灯と、白杖をついた滅黯の隣に佇む小柄な連れが持った、赤紫に近い、濃い桃色の小さな提灯の中に灯る細い蝋燭の火が重なり、真っ暗な店舗は一度に明るくなった。
濃い桃色の提灯の持ち主は、お松であった。
大輪の赤と青の朝顔柄の白い浴衣を着、鹿の子のちりめん帯を締めて、全身が上気している。
「こんな時分に、すいやせん。まだ、夕餉の途中でやしたか?」
「いや、ちょうど食い終わったとこばい」
「こんばんはぁ」
お松は水気を含んでしっとりとしたおかっぱ頭を、ふたりに向かってぺこりと下げた
「何ね、お松坊やなか」
「あらあら、お松ちゃんじゃないかい。どしたぃどしたぃ?」
「お戀の姐さんから預かって来やしてね。数寄屋町の日の出湯ーーしろい湯で風呂上がりの帰りでさぁ」
「お松ちゃん、あんた夕餉食べて来たかぃ? お腹空いてないかね?」
「うん、大丈夫だよ。しろい湯の二階で、ねぇねが茶飯売りから買ってくれた茶飯と、砂糖入金時食べたから。お腹いっぱい」
「あっはっは、茶飯に砂糖入金時たぁ、うちの飯より上等だ。ーーで、黯さん。何の用だよ?」
「へぃ、急でてぇへん申し訳ありゃあせんが、このお松ちゃんのお父っつぁん、今ァ長旅に出ておりやしてね。こんな小っせえ娘っこ、ずっとひとりにしとくのも忍びねぇし、おっ母さんもいねぇ一軒家にひとりってぇのも危なっかしい。そんなわけで、せめて一晩でいいから、こちらに泊めてくれねぇかと、お願げぇに参りやした次第でーー」
「ありゃありゃ、あの親父、まぁたどっか行っちまったのかい。鉄砲玉みてぇな男だねぇ、まったく。一晩なんて、そんなケチくさいこと言いなさんな。お父っつぁんが帰ってくるまで、うちで預かったげるよ」
「ありがとうごぜぇやす」
滅黯は心から感謝の気持ちを込めて、白杖をついたまま深々と頭を下げた。
(あぁ、それとーー)
滅黯が、こっそりとおふくに耳打ちした。
(お松ちゃんがねぇ、御迷惑でなきゃあ、おふくさんと一緒に寝てぇそうで。それも同じ部屋でってんじゃなく、同じ布団で、枕並べて、でさぁ)
おふくの顔が、ぱぁっと明るくなった。
「ほい、ほほほい、枕、枕!」
この足腰とひざの悪い老婆にはかつて夫がいたが、ふたりの間に子はなく、当然孫もいない。
たまたま、昼間干しておいた自分の枕をお松に譲り、自分は亡夫の使っていた、押し入れの下段に入れっ放しの枕を出すため、よろけながら階段を上がり、自室の押し入れに向かった。
「おい婆ぁ、俺が手伝わんでよかか!? 腰がぎっくり逝っても知らんけんな!」
「大丈夫だよ、こんな嬉しいこたぁないからねぇ」
《ーーお松っちゃぁーん、湯冷めしないうちに、布団入っといで。婆ちゃんねぇ、今から銭湯に行ってくるから、それまでアンタがお布団温っためといておくれな》
隠しきれない喜びを含んだおふくの声が、三人の耳に遠く届く。
「はぁーい。じゃあね、ありがとう黯兄(に)ィ。気をつけて帰ってね」
とっとっとっとっ、と、
お松がまだ温かい裸足で、軽やかに階段を駆け上がって行く。
「送ってってやれんと悪かな、黯。おいば残って、はんどかぶりしとらんとならんけん」
「んなこたぁお気になさらねぇで、新谷さん。あぁ、お礼にいいこと教えてあげやすよ」
「?」
「お戀の姐さん、三助してるときは、下の毛の生え際ぎりぎりから両足の付け根までしかなねぇ、布切れみてぇな短い股引履いて、生足が太ももの付け根から剥き出しだそうですぜ?」
「……は?」
「それだけじゃねぇんでさぁ、上は首と腰に紐つけた、一枚布で体の前だけ隠して、背中の刺青さらして、あんな細いのに横からも見ても前から見ても、たっぷんたっぷん揺れるデケぇ乳がたまんねぇって、湯上がりの男客どもが噂し合ってやしたよ。あれで布の下から乳首まで出てりゃ完璧なのによォ、って。いやはや、あっしはこの目でそのお姿を直に拝めねぇのが、残念至極でなりゃあせん」
「黯、わいば!」
顔を赤くして拳を振り上げかけた新谷に、
「へへっ、やっぱり新谷さんは、実にわかりやすいお方でさぁ」
滅黯が笑いながらそう返すと、新谷はバツが悪そうに拳を引っ込めた。
ーーもともと、本気で殴る気など毛頭なかったのだが。
「それじゃあ、あっしはこれで失礼しやす」
滅黯は新谷に軽く頭を下げると、踵を返し、杖をつきつつ、一本歯の下駄で帰路につき、その姿が夜の闇に溶けて行く。
「あれ、何だい。黯さん、もう帰っちまったのかい。アタシもしろい湯に行くついでに、途中まで送ってってやろうと思ったのに」
入浴料の六文を納めた、掏摸除けに紐をつけた小さながま口を、首から下げて胸元にしっかり押し込み。
洗い粉と糠袋を入れ、手拭いをかけた自前の桶という、銭湯行きの必需品一式を手にしたおふくが、残念そうに言った。
「けっ、わいんごつぶくぶく肥えた、足萎えに腰曲がりののろまな婆ぁ、黯の野郎には足手まといにしかならんばい」
「はぁ、よくもまぁ、そう次から次へ憎まれ口が叩けるもんだね、アンタは」
おふくは軽く新谷のすねを蹴ろうとしたが、難なくかわされた。
「ふん、アタシはこれからお戀ちゃんに背中流してもらうんだい、羨ましいだろ? 背中一面と、両肩から二の腕まで刺青(スミ)の入ったあの娘の雪みたいに真っ白な肌ったら、とうの昔に月のものが干上がった婆ぁのアタシから見たって、艶っぽくて堪らないんだ。だからって、嫉妬するんじゃないよ? その目で拝みたきゃ、しろい湯行って男湯で、ふたつ手鳴らしなぁね」
「なっ……ん言うとっとか、こん婆ぁ!」
ひゃひゃひゃひゃ、と、残っている歯を数えた方が早い口を開けて笑いながら、おふくは曲がった腰に手を当て、一階の戸口からのそのそと銭湯に向かって行った。
形容しがたい苛立ちと気恥ずかしさに、新谷は伸び放題の月代をかきむしり、半ば八つ当たりのように強く階段を踏んで、二階に上がり、これまた八つ当たり同然に自室の襖をばん!と開け、後ろ手で力任せに閉めた。
そのまま、新谷は布団は屋根の上に敷いて干すか、毎朝畳んで押し入れに入れるのが日課という彼には珍しく、今日だけ敷きっぱなしにしていた布団の上に、ふて寝のように大の字に寝転んだ。
枕と後頭部の間で両手を組み、立てた左ひざの上に右ひざの裏を乗せ、雨漏りの染みがあちこちに点在する、天井の木目を見つめる。
弾みで、着物の合わせ目から、首の右横にずるりとこぼれ落ちた『それ』を首から外し、右手に握ると、顔の上にかざした。
すべてが血赤珊瑚で造られた、首飾り。
しかし、それは今この国にあってはならない上に、個人が所有することすら許されないものであった。
ーー蓮根に椎茸、人参、こんにゃくの煮物。
沢庵二切れ、玄米飯に、薬味の白い刻み葱を浮かべたわかめと豆腐の味噌汁。
それが、おせんのひとりきりの夕餉の品だった。
洗い物を終え、出枯らしのぬるい茶をすすりながら、おせんは浮き立つ心で書きものをしていた。
書きものと言っても、ひらがなとわずかばかりの漢字だけの走り書きだ。
使い古しの、先の広がってしまった細筆を糸で縛り、わずかな墨を含ませて。
藁半紙を重ねて右上を太い木綿糸で縫って綴じた簡素な雑記帖に、
〈なか町小りょうり屋 つがのや住み れんげ〉
それからわずかに間を空けて、その隣に、
〈あんみつ うえの町 とくだい寺参けい〉
と、書き加えた。
上野町は、今日の昼に団子を食べた【紅はこべ】のある、上野広小路の東隣の町。
常に摩利支天を祀る徳大寺という寺への参詣客で賑わい、彼らがその後に立ち寄る商店も多く、その中に、おせんが戀夏を誘った甘味処もあるのだ。
おせんの心は、浮き足立っていた。
戀夏とともに出かけ、徳大寺を参詣してから、甘味処であんみつを食べる日を想って。
(でも、助けてくれた上にお団子にお茶までおごってもらっといて、それにこんな綺麗な音色の根付けまでくれて、あんみつ一杯だけじゃ……わたしの稼ぎじゃ奢りは無理だし、何か、ちょっとでいいからお礼……ちょっとでいいから……)
しばらく思案したのち、おせんは藁半紙につらつらと何やら書き連ね始めた。
(そうだ、これだよ。わたしがお戀さんに出来るお礼はーー)
さらなる胸の高鳴りを覚えて、おせんは我知らず、胸の前で左右の手を握り締めた。
ーーそれが、己が身に降りかかる惨劇の始まりとも知らずに。
翌日。
刻は四ツ半。客のまったく来ない店先で、新谷は一階の店舗内にある絵双紙の購入賃と貸し賃の支払い場兼、休憩所たる四畳半の間で、ふたつ折りにした座布団を枕代わりに六尺もの身を横たえ、右ひじで頭を支え、まどろんでいた。
おふくは少し前に、お松を連れて出かけた。
いつまで逗留することになるかわからないが、お松は結局おふくの一存で、父親の兎知平が帰って来るまで、ここで預かることになった。
そのため、お松父子が住む目黄不動近くの一軒家からお松の着物をあらかた風呂敷に包んでここに運び。
目黄不動近くの一軒家にしっかり戸締まりをしてから、【旅中】の紙を戸に打ちつけて来ると言う。
それなら俺が行った方がいいと新谷は言ったが、おふくは帰りに、古着屋で悪いが、お松の着替えや寝間着をいくつか本人に選ばせて、それらを買ってやりたいのだと言った。
そうしておふくはお松を連れて、どちらからともなく、ふたり、手をつないで出かけて行った次第である。
うつらうつらとしながら、新谷は笑顔とたわいない会話を交わし合いながら、燦々とした太陽の下(もと)を歩むふたりの後ろ姿を思い返す。
その姿は、実の祖母と孫娘そのものだった。
(あん時の、婆ぁとお松坊……もし、縫か定(てい)の野郎にガキば出来とったら……母(かか)さんも……あぁだったとやろか……)
悔しくはない。
悲しくもない。
ましてや、感傷に浸っているのでもない。
もし、亡き妹が嫁ぎ、亡き弟が妻を娶り、子を成していたらーー。
母には孫達が、自分にとっての甥や姪が生まれていたらと、夢想しているわけでもない。
今となっては、すべてがあり得ないことでしかない。
とうの昔に、すべてあきらめたことだ。
新谷はただ温かい陽射しに全身を照らされる心地よさの中に身を置き、そんなかそけき夢想に耽っている、ただそれだけのことだ。
「あ、あのーーす、すみません、ど、どなたか、い、いぃ、いらっしゃいます、か?」
控えめなかけ声だったが、新谷は飛び起きた。
「あぁ、今行くけん!」
慌てて草鞋を履いて客のもとに駆け寄ると、それはひとりの若い女だった。
「え、あ、あの……こ、こちらに、は、花の画集、は……お、置いて、ません、か?」
何故か、女は顔を伏せて横を向いていた。
「あン、花の画集? そんなら、確かこの辺にーー」
店舗内にある絵双紙、貸本を、新刊から古本まですべて頭に叩き込んでいる新谷は、難なく客の求める絵双紙を探し出し、手渡した。
「買うとか? 借りるとか?」
「か、借ります。い、一冊、ぎ、銀二分でよろしいですよね!?」
「そうたい」
「あぁ、あ、ありがとうございますっ、し、し、失礼、します!」
女は銀二分を新谷に手渡すと、逃げるように『於多福屋』から立ち去ってしまった。
「……」
確かに代金は受け取った。しかし、新谷はわかっていた。
(あんおなご……縫とまんま同じばい。外ん出らるときはまっぽし向かれきらんで、人と会うて用ば済ませんとならんときは、いっつもあがんして、あせがるんごたる、はっていく。いっちょんも見えんかったけんが、ありゃ……)
新谷は、亡き妹のお縫と先ほどの女客ーーおせんが、まったく同じ癖を持っていることに気づいていた。
いつもうつむき加減で、真正面から他人の顔を見られず、顔を上げ、前を見て外を歩くことが出来なかったお縫。
どうしても人と会う用事を済まさなくてはいけないときは、用事が済むや否や、逃げるようにその場から立ち去ってしまう。
だが、お縫は決して醜女ではなく、むしろ顔立ちは充分に美しい娘であった。
しかしその顔には、周囲の心ない、口さがない男達にとっては恰好の、嘲笑され、傷つけられるに値する大きな要因があったのだ。
(あいもきっと、こどん頃からどぎゃしこちょぶらかせられとったごた。はぁ、なんして男んどもば、顔んこつでおなごばせびらかすとか!)
急激に気が昂ぶって感情が押さえ切れなくなり、怒りに任せて、新谷は駆け足で二階に上がった。
そして、押し入れにしまっていた兎知平の土産物である、故郷(くに)の、壱岐の麦焼酎の大徳利の栓を抜いた。
重い徳利に手を添え、底を持ち上げ。
首を後ろに反らして直に口をつけ、ごっ、ごっ、と、のどを鳴らして一気に煽ると、その癖のある強い酒に、のどから胃までが熱く灼かれるような感覚に襲われた。
新谷は栓を締め直しながら、ぶはーっと一気に息を吐いた。
(あの、絵双草紙屋さんの大きい男の人に、顔見られてないよね? 大丈夫だよね?)
強い不安に苛まれながら、心の内で必死にその思いを打ち消しながら、おせんは、顔を伏せて町中の道端を歩いていた。
亡き母に連れられて、幼い頃から行きつけの問屋に赴き、数枚の縮緬を買った帰りだ。
前に抱えた風呂敷包みの中には『於多福屋』で借りた花の画集とともに、その縮緬が納められている。
目的は果たせた。
後はただ人目に触れないように、住まいの長屋に帰ればいい。
だからこそ一刻も速く長屋に戻らなければと、無意識に早足になっていた。
だが、それがいけなかった。
「ひ、ひゃっ!」
常にうつむき、前を見ずに歩くおせんは、うっかり地面の小石に蹴躓き、前のめりに転ぶ寸前で何者かに抱き止められ、ことなきを得た。
「大丈夫か?」
「は、はぃ……え!?」
地面に袴を履いたひざをつき、我が身を抱き止めていたのは、美貌の若侍だった。
綺麗に剃り上げられた月代に、一本のほつれもなく結われた髷。
幼い頃夢中になって読み耽った絵巻物に登場した、小姓を従えた若き武将の如き、実に凛々しき美貌だった。
若侍はおせんを抱き起こし、
「気をつけて帰られよ」
それだけ言って、足早に立ち去った。
おせんは礼を言うことも忘れ、しばしその場に立ち尽くしていた。
頬が熱く、胸が高鳴っていることに気づいた瞬間、おせんは、はっと我に返った。
そして激しく頭を振り、脱兎の如く駆け出して、住まいである長屋の一部屋に駆け込むや否や、ぴしゃりと戸口を締め、鍵替わりのつっかい棒をかけた。
外出した後には絶対に欠かさない、両足を洗うすすぎもせずに草鞋を脱ぎ捨て、四畳半の上に飛び上がるように駆け寄上がると、おせんは風呂敷包みの上に顔を伏せた。
そうしてうつぶせになったまま、おせんはしばらく身じろぎもしなかった。
(早く鎮まって、わたしの心の臓。早く熱が引いてよ、わたしの顔と、頬!)
おせんは、あの若侍に恋心を抱いてしまった。
たが、町人であること以前に、醜女の自分がこんな感情を持ってはいけないことは重々承知している。
幼い頃から、散々男達に言われて来た。
【お前みたいな醜女を嫁に貰う男はいない、お前みたいな醜女とヤる男なんかいない】
ーーと。
(言われなくても、そんなこと自分がいちばんわかってるよ!)
ふと、おせんは風呂敷包みを涙で濡らしていることに気づき、慌てて顔を上げた。
縮緬は、水に濡れると皺が寄って縮んでしまう。
焦って風呂敷包みを開くと、買ったばかりの縮緬はたとう紙に包まれていたおかげか、一枚たりとも縮んではいなかった。
安堵の溜め息をつくと同時に、おせんは左右の目から流していた涙を、両手の甲で強く拭った。
(ん?)
そのとき、おせんはあることに気づいた。
今はまだ、九ツの真昼。
まだ買い物に出かける時間は充分にあると、おせんは赤い目を甕に溜めた水で洗い流し、ふたたび外出した。
ーーそうして、時は刻々と惨劇に向かって近づいていた。
(焼け石に水なのは、わかってる。でも、お戀さんにまた会うときまでに、少しでもましにしときたいんだーー)
泣き顔を甕の水で洗った際、水鏡に映った自分肌のあまりのかさつきに気づいたからだ。
おせんは、生まれて初めて化粧品を買うため、小間物屋に向かっていた。
化粧品と言っても、紅白粉ではない。
いちばん安い、化粧水を買い求めるためだ。
せめて、このがさがさの肌が少しでも潤うように、と。
行き先は、柳橋。
江戸八百八町一の花街にして繁華街であり、神田川が隅田川に流れ込む橋が、地名の由来である。
西には夏に花火が上がる江戸最大の繁華街、両国広小路を控えている。
柳橋には茶屋を始め、舟宿、仕出し屋、髪結い床に小間物屋が所狭しとひしめき、軒をかまえている。
ここ、柳橋の芸者達は江戸市中に存在する芸者達ーー吉原芸者に町芸者、鯔背な土地柄から来る、薄化粧に気っぷの良さが売りの巽、羽織の異名を取る、深川芸者とは趣を異にした、江戸の花街の代表格とも言える、格上の存在であった。
粋人達はまず、この柳橋でひととおり酒と料理を楽しんだのち、それから新吉原、本所深川、洲崎へと、各々舟で遊興に繰り出すのだ。
そのような場所へ化粧水を買いに行くなど、おせんには敷居が高過ぎるにも程があった。
しかし、今のおせんには強い心の拠り所がある。帯から垂らした、戀夏から貰った雪兎柄の水琴鈴の根付けが。
「いらっしゃいませーー」
店に入るなり、活気のある手代に奉公人から幼い丁稚達の男女入り雑じった声に、おせんは思わず身をすくませた。
しかし、この手の店の勝手をまったく知らないおせんは、意を決して側にいた女性の奉公人に声をかけた。
「あ、あの……」
「はい」
「こ、こ、ここ、で……そ、その、申し訳ないんです、が、そ、その……いちばん、や、安、安くてり、量の少ない、け、け、化粧水、を……か、買いたく、……」
「いちばん? お安いものでよろしゅうございますか?」
前かけを握り締め、緊張のあまりいつもよりひどく吃りながらも。
おせんに対応してくれた女の奉公人の声にも表情にも、彼女を見下すような態度や雰囲気は、いっさいなかった。
「それでしたら、このへちま水がお買い得かとーー」
「どこかで見た顔と思えば、お主、おせんではないか。久しいのう。相も変わらぬ聞き苦しいどもりに、その顔で化粧水とは、もしやどなたか恋しい殿方でも出来たのかえ? 」
「「え?」」
おせんと奉公人の女が異口同音に声を発し、声のした方を同時に振り向いた。
「まぁ、これはこれは、圓山様の安江お嬢様!」
女がそう言い放ったその瞬間、女は顔をぱあっと輝かせたが、おせんは顔ーーどころか、全身から血の気が引いた。
まるやま、やすえ。
圓山安江ーー。
十年前とまったく変わらない傲岸不遜な顔が、おせんを見据えていた。
そして、その背後に控える三人の女達の顔と表情もまた、十年前と何ら変わりなくーー。
「ーー二年ほど、行儀見習いとして大奥に奉公しておったが、この度縁談がまとまって、暇(いとま)を頂いてのう。結納も済ませた故、祝言の日まで、ここで毎日茶を点て花を生け、書を習い、鉄漿(かね)の付け方を覚え、おとなしゅう暮らしておれと、父上の仰せじゃ。万が一、花嫁のそなたの身に何かあっては我が家の大損害、先方にも申し訳が立たぬと仰られてな」
ーーここは、根岸の寮。
上野の山の北側の崖下にあり、根岸と、ひぐらしの里こと日暮里の間にまたがった土地にある、閑静でありながら風光明媚な環境から、富裕層の商人達の寮ーーいわゆる別荘が多くある、花のお江戸の静寂(しじま)の地。
音無川の清流。
春先の鶯の鳴き声。
山茶花を初めとした四季折々の花々がひっそりと花開き、
【初音の里】に始まり、
【呉竹の里】
【時雨ヶ岡】
との、風流な呼び名で呼ばれている。
中でも春先の鶯の鳴き声は根岸の地の代名詞であり、この時代より遥か後に『鶯谷』の地名の由来となるのである。
おせんは柳橋の小間物屋で安江と再会を果たしたのち、彼女の昔からの取り巻きである三人の武家娘達とともに、なかば拐かされるに近い形で、駕籠に押し込まれ、ここまで連れて来られた。
「ほほほ、それは建前と言うものでございましょう。いくら一人娘とはいえ、安江様のお父上はまこと娘御に甘いと、わたくしの父が申しておりましたわ」
ーーおせんは今、旗本・圓山家の一人娘、安江が祝言までの猶予期間に父から与えられた、寮の中にある四畳半の茶室に押し込められている。
天上から見て、一畳の貴人畳、客畳、踏込畳、点前畳に、時計まわりに囲まれている茶室の中央の、半畳の炉畳に、正座で座らされて。
床の間の前の貴人畳で脇息にもたれかかっている安江は、撥(ばち)型の鼈甲簪を差し、扇面に宝尽くし柄の、紅地の金彩友禅の振り袖を身にまとっていた。
同じく金彩友禅の袋帯もまた、金、銀、白、橙の四色に柄が別れ、それぞれに桐、梅、菊、松の柄が、実にきらびやかである。
女狐のごとききつい印象を与える一重の切れ長の両目に、真紅の口紅を差した薄い唇が、恐ろしく酷薄な印象を与える。
しかし、そんな安江に親しげに語りかけたのは、客畳に正座する、浅紫地に白や黄色の牡丹、熨斗、吉祥文様の振り袖、銀簪がきらびやかなのーー。
御家人・大鞆(おおとも)家の娘、お照。
安江とは物心つく前からの幼なじみであり、安江のいちばんのお気に入りの娘でもある。
実際、お照は四人の中でもっとも端正な顔立ちをしている。
「お照様の仰られる通りでございますわねぇ、安江様。祝言と申されましても、安江様は他家に嫁がれるではなしに、お相手の方が、圓山のお家に婿入りなされるのですもの」
袖口で口許を覆い隠し、くすくす笑いながらお照の言葉を継いだのはーー。
点前畳に座す、譜代席・畝崎(せざき)家の娘、お蔵。
薄抹茶色地に松竹梅、流水、枝折戸、芝垣、阿山の振り袖を身にまとい、藤の房のつまみ簪を頭の左に飾り、そばかすだらけの両頬と、口の左下のほくろが印象的な娘である。
「それに、何と申しましても、大奥のような窮屈で恐ろしい所に二年もいらっしゃったのですもの。せめて暫しの間は自由にさせてやりたい。それが親心というものでございましょう」
お蔵の言葉に、安江がうなずいた。
「ですから、わたくしどもも『安江様の茶や花や書の手習いに付き合うよう、仰せつかっております』と言えば、父上母上の目の届かないところで、好き勝手に小間物屋に化粧水や紅白粉を買いに行き、茶席に必要だからと、好きなだけ菓子の御相伴に預かりになれるのですもの。役得とはまさにこのことでございますわよ。それにーー」
点前畳に座る、紫から灰色への移り変わりが目を引く、歯朶唐草に桜の振り袖の娘ーー。
赤、青、灰色、薄緑色の四色使いの雪輪模様の帯が目を引く、安江の取り巻き達三人の中ではいちばん格下の、二半場の米堀(よねぼり)家の娘、お弓。
髷に上等な柘植の櫛を差し、前雷に四本の玉簪を差している。
顔立ちは決して悪くないのに、鷲鼻と左右に張り出した左右の小鼻が、玉に傷である。
そのお弓が横目でおせんをちらりと見やり、
「またこうして、わたくしどももの退屈しのぎに。恰好のおもちゃを取り戻せたのですから」
安江達は、一斉に笑い声を上げた。
安江が脇息にもたれかかる背後にある床の間には、祝言祝いのものであろう、吉祥高砂が描かれた掛け軸がかかり、安江が手ずから生けたらしき色鮮やかな花々が、大きく平たい器に飾られている。
そして彼女らは皆、きらびやかな帯を丸帯の文庫結びか、背中にぴったり付けた矢の字結びに締めている。
おせんはふと、いつも長屋にある稲荷社に自分が供えている名もなき野の花を思い出し、惨めな思いにかられた。
しかし、その床の間のには、茶室に置くべきではないものが置かれていた。
柳橋の小間物屋で、文字通り金に糸目をつけずに安江達が大量に買った、高級な化粧水と紅白粉の数々である。
おせんが買おうとしていた、いちばん安いへちま水のそれとは質も値段も比べものにならない、化粧水の中でも高級品とされる『花の露』に『蘭麝水』を始め、三人分の頬紅、口紅、目弾き、爪紅がごっそり置かれている。
「して、おせん。そなたは相も変わらず醜いが、その醜い顔に出来たさらに醜いにきび」
お弓が、おせんの顔に点在するにきびを指差した。
お弓の人差し指がおせんの顔を左右上下を点々と指差すと、
「にきびには、想い、想われ、振り、振られーーとあらす。おせん、そなたのにきびは『想い』と『振られ』の箇所に出来ておる。誰ぞ好いた者に振られたのであろう」
「ち、違います! そ、そんなこ、こと、あ、ありません!」
ーーもちろん、このようなことは何の根拠もない迷信だ。
「おやおや、そうムキになるとは、ますます怪しいこと」
お弓がからかうと、間を置かず、お照が冷やかした。
「ほんに、昔は、何ひとつ我らの言葉に反論しなかった、無口のはまぐりのおせんが」
「そ、そんなこ、こと、ありま、せ、ん……」
「なれば、何故に醜女のそなたが、一人前に化粧水なぞ買うた?」
「………」
にやつくお蔵に問われたが、おせんは答えなかった。
この連中に、お戀とのことは絶対に話したくなかった。話してしまえば、お戀と自分の関係が汚されるとしか思えなかったからだ。
ーーこの武家娘達とおせんとの関係は、十年前にさかのぼる。
当時、まだ存命中だったおせんの母ーーお丑は、とある旗本屋敷に、通いの奉公をしていた。
奉公と言っても、家の奥方を始め、住み込みの女中達の腰巻きの洗濯専門の下女だったが。
そして、生理中に使用する晒し木綿の女性用のふんどしの洗濯と、経血の染み抜きの下働きに従事していた。
江戸時代の生理用品は、股間に『御簾紙』という和紙を当てて経血を吸収させ、それを固定させるふんどしが、『お馬』と呼ばれていた。
いわば、当時のサニタリーショーツだ。
名の由来は、その形状が馬の頭に似ているからである。
その旗本屋敷こそが、今、おせんを取り囲んでいる四人の娘の首領格、安江の邸宅であった。
腰巻きの洗濯は季節を問わず素足で踏み洗い、お馬の洗濯は経血の染み抜きを、洗濯板を使わず手洗いで時間をかけて落とさねばならない。
そのため、お丑の両手と両足は常に荒れ、冬場になれば、痛々しいあかぎれが手足のところどころに深く刻まれていた。
奉公人の中でも、誰もが嫌がる最下層の仕事である。
故に、圓山家は貧民窟の長屋の住人を雇ったのだ。
実際、当の女中達は誰ひとりとしてお丑に感謝や労いの言葉をかけることはなかった。
腰巻きはもちろん、お馬も、女にとってはなくてはならないものだというのに、一度腰や股から離してしまえば、汚いものでしかないらしい。
それに加え、女中達はこぞって、
『牛(=お丑)がお馬の洗いものとは、これ如何に。人の身で、牛馬に足らぬ者がおる』
と、嘲笑うのだ。
そのくせ、洗濯された腰巻きとお馬は当たり前のように身につけ、腰巻きはおりものや尿(ゆばり)やわずかな大便の拭き残しで、お馬は経血で汚して返す。
初めは、母の手荒れを見かねて手伝いをしていたおせんだったが、ある日、安江から直々に遊びに誘われた。
手伝いを理由に断わろうとしたが、お丑は、
『安江お嬢様からのお言葉には、何があっても逆らってはならないよ』
と言い渡され、どんなことでも絶対服従するよう、きつく言い渡された。
それは娘に過酷な労働を手伝わせたくない親心であり、かつ、最下層の下女の娘ごときが主の娘の誘いを断ったとあっては、母子そろって、どんな仕打ちを受けるかわからないーー。
そんな忖度があったのだと気づいたのは、母が父とともに亡くなってからである。
しかし、おせんが安江から誘われた遊びは、残酷なものだった。
遊びは単なる、鬼ごっこ。
まだ幼いおせんは、武士の中でも最上級の旗本の安江が直々に、御家人、二半場の娘達とともに、町人である自分と身分の分け隔てなく遊びに誘ってくれたのだと、信じて疑わなかった。
遊び場は、必ず『奥山』と呼ばれる、浅草寺観音堂の後方一帯。
最初にじゃんけんで鬼を決め、五人一斉に散らばるのだか、幼い頃から太めで、元より足が遅く、どんくさいおせんが、毎回、あっさりと二番目の鬼になってしまう。
しかし、愚鈍なおせんは重い体と鈍足で必死に安江、お照、お蔵、お弓を探し求め、汗だくで走りまわった。
おせんが、やっとの思いで遠く離れた場所にいる彼女らを見つけると、四人はおせんのことなど初めからいなかったかのように、和気あいあいと立ち話をしている。
おせんが彼女達に向かってどすどすと走り出すと、誰かひとりがすぐさまこちらへ向かって来るおせんの姿に気づき、その者が皆に目配せする。
そして四人はうなずき合うと、文字通り四方に走り出し、逃げる。
そしてそれ以降、おせんが誰かを捕まえ、鬼役に追いかけられることは二度とない。
ーーそんな日々の繰り返しのうち、愚鈍ながらも、おせんはようやく気づいた。
自分は、彼女達の対等な遊び仲間ではない。
弄ばれ、笑い者にされているのだと。
「のう、おせん。また今日も皆で鬼ごっこをしようぞ」
ーーその日、おせんは母の手伝い中に、圓山家に来ていたお弓に声をかけられ、腰巻き洗いをする濡れた足を止め、お弓に頭を下げた。
「も、申し訳、あ、ありま、せ、せん、あた……わたしは、きょ、今日から、み、み、皆様方と、お、鬼ごっこすることを、や、辞め、辞めさ、させて、い、いぃ、頂だ、きます」
お弓の顔が、驚愕に満たされた。
「それはいかなることぞ、おせん」
「わ、わたしめは、あ、足が、おそ、遅うございます。で、ですから、わ、わたしばかり、鬼役ばかりで、つ、つろう、ございます、で、ですから、こ、これからは、安江様や、み、皆様方、お足の、お、お早い方だけで、お、お遊びになられた方が、よょ、よろしいかと、ぞ、存じまして、じ、辞退、さ、させて頂くこ、ことに、いぃ、
致し、まし、た」
自己主張など一切出来ず、自分達に何も言えず、逆らうことなど出考えもしないとばかり思っていたおせんの言葉に、お弓はひどく面食らった。
「な、何を申すか! それは、そなたが安江様の御父上、御母上に逆らうも同然の振る舞いであるぞ!?」
「か、かか、かまい、ま、ませぬ。い、いぃ、一向に」
表向きは必死に強がりながら、おせんは泣きたかった。間違いなく、自分のせいで母はこの仕事をクビになる。
ーー事実、その日の夕刻、お丑が仕事を終え、おせんを連れて屋敷を出ようとした、そのとき。
圓山家の女中から突然、何の説明もなく、今後一切の屋敷への出入りとクビとを言い渡された。 何の説明もなく、いくら理由を尋ねても、女中は【奥様がそう仰られましたので】の一点張りで、何ひとつ教えてもらえなかった。
その日は月末近くだったにも関わらず、その月の分の給金は一文足りとも支払われなかった。
この件に関して、お丑は何も言わなかった。
「脱ぎや、おせん」
「え?」
「聞こえぬか? 着物を脱げというておるのじゃ。私が大奥に入った際、御半下の方々から強いられた『新参の舞』を、私が指南してやろうと言うのじゃ、有り難く思うがよい」
安江は蛇のような双眸でおせんを見つめて、冷徹に言い放った。
今のおせんはまさに、蛇に睨まれた蛙であった。
「まぁ、安江様直々の舞の指南とは、何と有り難きこと」
「ほほ、残念ながら、わたくしは御遠慮致したき舞でこざいますけれど」
お蔵の言葉に、お照がくすくすと笑った。
「何も全裸になれとは言うておらぬ。腰巻き一枚は残してよいのじゃ。女ばかりの、人目に付かぬ場で、何を恥ずかしがることがあろうか」
平然とした安江の口調が、却っておせんの恐怖心を煽り立てる。
無意識に、おせんは我が身を抱きしめ、震えていた。
そのとき、それまでうつむき、両ひざを握り締めていたお弓がすっくと立ち上がり、炉の上で湯を沸かし続けている真形(しんなり)釜に歩み寄り、恵明蓋を外すや否や、火受の底から釜全体に広がった直火の熱さをものともせず、左右の鐶付(かんつき)を素手で握ると。
釜の中の、煮え立つ熱湯を何のためらいもなく、中身をすべておせんの頭からぶちまけたのである。
耳をふさぎたくなるようなおせんの悲鳴が、四畳半の茶室に響き渡る。
頭髪から着物の裾まで、熱湯に全身を浸されているのも同然のおせんは、畳の上を転げまわった。
「熱いのなら、脱げばよかろう!?」
熱湯に濡れたおせんの髪をわしづかみにし、お弓はおせんの耳元で囁いた。
(わたしが、その昔。幼い頃お前に鬼ごっこを断られた折り、安江様から『何故におせんを引き止めなんだ!』とお叱りを受け、安江様とお照様とお蔵様から着物の上を脱がされ、御三方からそろって、裸の上半身に唐橘(からたち)の枝で百叩きの刑と称して鞭打たれた痛みを受けた恨みが、そなたにあるのぞえ!)
おせんは愕然としたが、そのようなことは逆恨みも同然である。
しかし、お弓は容赦なくおせんの着物を剥ぎ取った。
瞬く間に身ぐるみを剥がされ、赤い腰巻き一枚にされたおせんは、それでも必死に両腕で乳房と上半身を隠していたが、その両腕はお照とお蔵にふたりがかりで後ろ手にまわされた。
「お、おや、おやめ、下さいっ!」
しかし、おせんの両手首はあっさりと腰布に巻き取られた。
ーー満々と張り出した大きな乳房と、太めの体型故に、大きく膨れた腹が剥き出しになった、齢十六の若い娘にはあまりにも屈辱的な姿で、おせんは炉畳の上に立たされた。
「まぁ、ご覧下さいましな、安江様。あの鏡餅のごとき三段腹」
お照の言葉に、皆がどっと笑い声を上げた。
お蔵とお弓が立ち上がり、おせんに歩み寄る。
「なれど、この無駄に大きな乳房、誠にけしからぬ」
「まったく、これに触れる殿方など一生現れぬでしょうに、我々の誰よりも豊かで白くて」
お蔵とお弓が、指先でおせんの両乳首をぎゅっとつねった。
「痛いっ!!」
しかしお蔵とお弓は、おせんの乳首を容赦なくぎりぎりとつねり上げる。
「う、うぐ……」
ーー下手に痛がったり抵抗すれば、さらにひどい目に合わされると直感で悟ったおせんは、奥歯を噛み締め、必死に声を押し殺した。
「子を産み、乳を与えることなど一生あるまいに。これがまさに、宝の持ち腐れと言うのであろうの」
脇息の上で気だるげにひじをつき、安江が唇の片端を上げ、その光景を嗜虐的な眼差しで見つめている。
「……安江様、わたくし、濡れてまいりました」
「お照ーー」
潤んだ両眼を伏せ、しなだれかかって来たお照に頬を寄せ、安江がお照と唇を重ねるや否や、ふたりの舌があっという間に絡み合った。
お照の襟の合わせ目から差し込まれた安江の右掌が、彼女の乳房を交互に、かつ巧みに揉みしだきながら、乳首をいじっているーー。
苦痛に耐え、涙に霞む視界の端で、おせんはその退廃的、かつ、おぞましい光景を見た。
「ーーおせん。今のそなたは、仕立て物で暮らしを立てておるのであろう?」
お蔵の言葉に、おせんははっと我に返った。
「……う、ぐぅ……」
お蔵とお弓の手によって、おせんの左右の乳房の上部に、待ち針が貫かれた。
針が肌に刺さる痛みは鋭く、一度でもつん、と刺されば次から次へと、その極小の穴の傷口から絶え間なく血の粒がぷつぷつと沸き出し、止まらなくなる。
それも、ただ刺さったのではない。
裁縫に使うときと同様、まず内側に向かって肌を貫き、それから外に突き出した針の先で、もう一度肌の内側に突き通すと、針の上部についた花形の留め具をきつく刺し込み、生きた肌の二ヶ所に固定された。
併せて三ヶ所の傷口から、たらたらと極細の血が、おせんの胸元から乳房へと滴り落ちる。
外側に出たわずかな針と肌の隙間に、お蔵とお弓がどこからか持ち出した、大ぶりの金色の鈴の上部の穴に、輪にした一本の紐を通した鈴の紐を、潜り込ませた。
針に、二重になった紐の間に鈴が通され、きつく締められた。
「ほほほ、善きかな善きかな、それ、踊りゃ踊りゃ」
おせんは、安江に指南された通り、両腕をそろって上にあげ、それを左右交互に繰り返す舞を踊らされた。
ーー脇息にもたれかかった安江の豪奢な紅地の金彩友禅は上下ともに体から離れて裸体を晒し、金銀に白と橙が四分割され、それぞれ桐、梅、菊、松の帯だけを固く腰まわりに残して、安江の腰にまとわりついているだけだ。
蜜を含んだ花に群がる蝶のように、まず、安江と舌を絡め合うほどの濃厚な口づけをしながら、互いに乳首を弄り合っていたお照が、そのまま着物の左側の袖を外し。
次に、お蔵が安江の右側に正座し、まず自身が着物を手早く脱ぎ捨て、安江の左袖を下ろした。
その瞬間、嫉妬を露にした表情でお照がお蔵を睨みつけた。
遅れを取ってはならぬとばかりに、安江と舌づけしながら、お照も着物を脱いだ。
最後に、おもむろに立ち上がったお弓が帯を解いてするりと着物を滑り落とした。
観音開きになった、濃いめの陰毛に覆われた安江の秘部へ四つん這いになってにじり寄ると、白くむっちりとした尻を高く突き上げて、そのまま安江の陰部に顔を埋めた。
お照は安江の舌づけと、勃起した右乳首を、その白い指先でこねまわし。
お蔵は安江の左乳房を丸ごと口いっぱいに咥えながら、口の内側で、たっぷり唾液を乗せた舌先で、乳首を舐めまわしているのがわかる。
お弓は安江の股座に大小の陰唇の付け根まで舌先で清めるが如く奉仕しながら、舌先で包皮を剥き、剥き出しにた赤い肉粒を吸っては舐めているのだ。
元より、おせんは性の知識など申し訳程度しかなくーーそれも、女同士での、遊びとしての睦み合いがこの世に存在することすら、知らない。
ましてや、左右の胸元に待ち針を貫かれた痛みに耐えることで精一杯のおせんには、その光景は淫猥なな悪夢にしか見えなかった。
目の前にある、お弓の股間から愛液があふれ出した。
耐えられず、お弓は自分の陰部に指先を伸ばし、そこを弄り始めた。
既に濡れそぼった膣に中指を根元まで挿れ、抜き差しを繰り返す。
だというのに、当の安江は喘ぎ声ひとつあげず、女の性感帯を激しく愛撫されながら、平然としたまま軽やかに唄い出した。
「♪かっぽれかっぽれ かっぽれかっぽれ かっぽれかっぽれ」
安江が、実に小気味良く唄い出した。なかなかの美声である。
お照、お蔵、お弓が、いったん安江への愛撫を止めた。
お照は安江の左肩にあごを乗せ、彼女の背後から両腕を絡ませた。
お蔵は安江の右半身に、斜め座りになってしなだれかかり、お弓は両ひざを立てて、安江の左太ももに横顔をあずけた。
「♪沖(いそ)の暗いのに 白帆が サー 見えるぅ」
「「「ヨイトコリャサ」」」
手を叩きながら合いの手を挿れるのは、お照とお蔵とお弓である。
「♪エー 蜜柑船じゃえ」
「「「あ~~、蜜柑船」」」
「♪蜜柑船じゃサーエ 見ゆる」
「「「ヨイトコリャサ」」」
「♪あれは紀伊の国 ヤレコレコレワイサ」
「「「ヨイトサッサッサ」」」
「♪エー 蜜柑船じゃえ」
「「「かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ」」」
「……よ……い、と、な……よい……よ……い……」
太肉の身に相応な豊かな乳房を揺らして、単調な舞いを繰り返しながら、おせんの両頬はいつしか涙に濡れていた。
ーーこれが真の屈辱ということなのか。
ーーわたしはやはり、人として扱われることはないのか。
その瞬間、おせんの脳裏に三人の顔が浮かんだ。
今は亡き父と母。
そして、戀夏。
おせんは、ぐっと左右の奥歯を噛み締めた。
(お戀さんが、背中と両腕に刺青を彫ったときのことを思えばーーこんなの大したことない、大したことないはず。刺青を彫るのには、何刻も何日もかけて針の束で肌を刺して、そこにたくさんの色の墨を擦り込むんだって、聞いたことあるもの。お戀さんは今のわたしなんかより、ずっとずっと痛くて苦しかったはずよ!)
たかが待ち針二本ーー。
その気丈な思いが、おせんを支えた。
「存分に楽しませてもらったぞえ。しかし、退屈しのぎにはまだ足りぬ。微塵も足りぬわえ」
ーーおせんがようやく解放されたのは、根岸の寮に連行されてから二刻近く経過し、九つ半と八つの間になってからのことだった。
茶室の釜で煮えたぎった熱湯を浴びせられたうえに、かっぽれを初手に、
【お江戸日本橋】
【猫じゃ猫じゃ】
【奴さん】
ーーと、新参舞を三曲も踊らされ、おせんの髪は鬢がほつれにほつれていた。
さらに全身に汗をかいたまま、腰巻き一枚の姿で、濡れて冷えきった着物と帯と履き物を叩きつけられ、門の外に叩き出された。
柳橋からこの根岸まで、駕籠に押し込まれて連れて来られたおせんには、ここから下谷山崎町の長屋までどうやって帰ればよいのか、見当もつかない。
それ以上に、おせんの心を絶望させているのは、安江に取り上げられた人質ならぬ物質だ。
ひとつは、両親が亡くなる間際、病い身を押して、父母が『田んぼのお酉様』こと、神吉原本町裏の神社、鷲神社で買ってくれた御守り。
ふたつめは、戀夏からもらった水琴鈴と蜻蛉玉のついた根付け。
安江が、雪兎の絵入りの水琴鈴の透き通った音色をいたく気に入り、交換条件を提示して来た。
「この美しき音色の鈴を渡せば、ふた親の形見の御守りは返してやるし、二度とここに連れて来て、此度のような目には合わさぬ」
ーーと。
しかし、おせんにとってはすでに、両親の形見と同じくらい、戀夏からもらった根付けは誰にも渡したくない、大切な贈り物となっていた。
「い、嫌、で、ございます。そ、それだけは……そ、その、ね、根付け、だ、だけは、お、おゆ、お譲り、で、でき、出来ませぬ」
腰巻き一枚の姿で、おせんは安江に土下座し、懇願した。
「貴様……」
安江は顔を引きつらせ、畳に額づいたおせんの頭を、体重をかけて片足で踏みにじった。
それを皮切りに、お照がおせんの顔を上げさせ、黒い漆塗りの長方形の鞘に収めた自分の懐刀を抜き、刃先でおせんの左の口端に当てがい、一に頬まで斬り裂いた。
悲鳴を上げ、顔半分から潜血を噴き出すおせんにかまわず、次にお蔵が裸足のおせんの髷をつかんで引き起こし、左右の胸元に打ち込まれていた待ち針二本を引き抜くや否や、右足首を持ち上げた。
血のついた二本の待ち針が、右足の親指の中に、ためらいなく突き刺された。
爪の先には二枚の花の形の留め具がついているが、そこからあふれ出る血がだくだくと爪を先から指の腹、足の裏、土踏まずからかかとまで滴り落ちて行く。
(お、おっかさん、おっかさん、おとっつぁん、おとっつぁん、助け……て、助けてぇ!)
おせんは嗚咽を噛み殺しながら、ボロボロと大粒の涙を流した。
「えぇ、憎らしい! 涙を流すぐらいなら、わたしに泣きながら許しを乞い、針を抜いて下さいと、何故言わぬのかえ!」
お蔵は怒鳴り、ひどく苛立ったまま、元いた点前畳の上に正座し、そこに腰を下ろした。
最後は、言うまでもなくお弓である。
全裸のお弓は大股を開いて、上向かせたおせんの口に股間を押しつけた。
「ひとしずくもこぼすでないぞ。ひとしずく残らず飲み切るのぞえ」
言うなり、お弓はおせんの口腔に向かって勢いよく放尿した。
塩辛く、独特の臭いを発するその液体はおせんをむせさせるには充分だったが、必死に耐えた。
やがて尿(ゆばり)の奔流が収まると、お弓は憎々しげにおせんに命じた。
「廁紙の代わりに、我が陰部を拭いや」
おせんは無言で従った。
尿(ゆばり)に濡れそぼった大小の陰唇をくまなく吸い取り、舌で清め、びしょ濡れの縮れた陰毛を、それこそ一本ずつ吸う心構えで。
それはお弓の被虐心を満足させたが、おせんの心はズタズタになった。
「うっ、ぐっ……」
着物を身にまとうより先に、おせんののどは水を欲していた。海水の濃さには到底及ばないが、塩辛い液体を飲まされたのだから、当たり前だ。
さらに、安江から通告された言葉が繰り返し頭に響き渡る。
(来週の今日の同じ刻に、ここに再び馳せ参じよ。何、駕籠を長屋に寄越して遣わす。もし拒めば、来ぬのならばーーのぅ?)
そう言いながら邪悪な笑みを浮かべた安江に、
右手に両親の形見である御守りを。
左手に戀夏から譲られた水琴鈴をかざされ。
おせんは絶望するしかなかった。
仮にまたこの寮に来たところで、容易くふたつの物質(ものじち)を返してくれはしまい。
それどころか、今日以上の痛みを伴う辱しめが待っているに違いない。
「ーーそこな者」
突然声をかけられ、おせんは着物で我が身の前を覆った。
それが根岸の寮の住まう者らしいことだけは、かろうじてわかった。
のどの渇きにばかり気を取られていたが、今の自分は腰巻き一枚という、全裸そのものの姿であることに気づいたが、今のおせんには着物に袖を通す余裕すらない。
声の主は、実に不可思議な姿をしていた。
ーー身の丈わずか四尺八寸程度の、十歳ほどの小柄な少女。
少女は市女笠をかぶり、透き通った虫垂れ衣を足首まで垂らしている。
そして、白い着物に緋袴の巫女装束を身にまとい、膝の裏まである長い黒髪を結びもせず、前髪と後ろ髪を一直線に横に切り揃えている。
少女が市女笠をわずかに上向かせ、顔を露にした。
その瞬間、おせんは青ざめ、震え上がった。
ぞっとするほど美しく、人間離れしているーーどころか、まるで妖しの類いに見えたからだ。
恐ろしく切れ長の一重の両眼は長く濃い睫毛に縁取られ、小さな唇は血を塗ったように赤く、白磁のような白い肌をしていて、まるで名工の手による日本人形のようだ。
「人でなしどもに囚われたか。しかし、それはそなたの運命(さだめ)なるぞ」
「え……?」
少女は手早くおせんに着物を着せてやり、帯を締めた。
そしてお照に斬られた口端に、右手の指先をそっと触れた。
少女の指先ーー中指に、ぽうっと螢火のような灯りが点った。
「これ以上、顔が醜くなっては目も当てられぬ」
口元から、激しい痛みがやんわりと引いて行く。
それから襟元にそっと掌を差し込み、胸元に空いた四つの針穴にも。
続けて、少女はおせんの右足を、その小さな掌の上に乗せた。
「あぁ。これは、これは」
おせんは、この少女に強烈な違和感を覚えた。
しゃべり方にあまりにも抑揚がなく、まるで人間らしさというものがない。
その人形のような容姿そのままに、完全に人形そのものが口を利いているようだ。
少女の指先に、また螢火に似た淡い光がかざされると、二本の足の親指の中に根元まで突き刺さった待ち針が、何の痛みもなくするりと抜け落ちた。
軽い拷問の激痛は消え失せ、左右の胸元から乳房へ、指先からかかとまでとめどなく滴り落ちていた鮮血は、一瞬にして止まり、固まった。
「それはしっかり持っておきや。次にこの寮に来るとき持参せねば、もっと痛い目に合わされるぞえ」
「あ、あの……貴女は、いったい……?」
戸惑うしかないおせんは、少女に問うた。
「今の妾に名はない。『暁に祈る巫女』とだけ呼ばれておる」
少女はそれだけつぶやいた。
「……あ、あかつきに……いの、る……みこ……?」
『暁に祈る巫女』とだけ名乗った少女は、おせんののどにそっと触れた。
螢火は点らず、代わりに少女は、
「マカタマ ノ
アメ ノ ミナカヌシ
タカミムスヒ
カムミムスヒ
ミスマル ノ タマ」
唄うように小声でそう唱えると、嘘のようにのどの渇きが消え去った。
それも、ただ渇きが消えただけではない。
きんと冷えきった清流の湧水を飲み干したような清涼感が、のどを潤している。
「あ、あなたは、どど、どこのどなた様、な、なので、すか? な、何故わたしに、こ、ここ、このような施しを、し、して、く、下さるの、ですか!?」
「施し? 其(そ)は、どのような意味で問うておる?」
「巫女様、その調子では会話が成り立ちませぬ。そろそろお引き取りばーー」
「鴉か。すまぬ、妾にはどうにも自覚出来ぬものでな」
鴉ーーと呼ばれた、どこからともなく聞こえて来た男の声に、『暁に祈る巫女』なる少女は、無表情のまま淡々と。
「おせんと申したか。相すまぬ」
「い、いぃ、え……そ、そ、そんな、こ、こと、は、あ、ありません……か、から!」
「妾には、人としての心や感情というものがないのだ。いや、ないというより、失ったのか奪われたのかもわからぬが」
「……?」
おせんには、この状況のすべてが理解出来なかった。
『暁に祈る巫女』が、おせんにすっと小さな壺と本を手渡した。
自分が柳橋の小間物屋で買った、店の売り物の中でいちばん安い化粧水と、『於多福屋』で借りた花の画集である。
「着物とともにそなたに向かって叩きつけられたが、鴉めが割れぬように守った。それと、これもそなたのものであるか?」
「あ、あぁ、あり、ありがとうご、ござ、ございます!」
おせんは、安い化粧水入りの小さな壺と花の画集を、両腕にひっしと抱き締めた。
「そなた、何故妾が施しをしゆるかと尋ねたの」
「あ、あぁ……す、すみません、そ、そんな、つ、もりじや、な、なな、なくて……」
「そう、怯えるな。責めておるのではないわえ」
相変わらず抑揚のない冷たい口調だが、その言葉に、おせんは混乱の中、わずかに落ち着きを取り戻した。
「……そなたが、あの可憐な春の花の名を持ちながら、修羅の縁(えにし)を持つ、血生臭い運命(さだめ)に縛られし者と、ゆかりのある者故よ」
「しゅ、しゅらの、えに、し? ち、ちな、ちなまぐさい、さだ、め?」
それがまさか戀夏のことだとは、おせんには気づく由もなかった。
「善きにつけ悪しきにつけ、人には生まれながらの縁と運命というものがある。その極みが、生と死ぞ」
「?」
「わからずともよい。わからずともよきことよ。いや、わかるはずもないのだ。ただの人間には」
禅問答のような巫女の言葉の数々に、おせんはわけもわからず黙り込むしかなかった。
「……わ、わたし、か、帰ります。お、お世話になりまして、あ、ありがとう、ご、ございました。ご、ごご、ごめん下さい、まし」
おせんは立ち上がった。だが、立ち上がるなりふらついた足元に気づかれまいと、必死に身を支えて、巫女に背を向けて、横顔だけ向けて、深く会釈した。
「待ちや」
え? と思わず声を出したその瞬間、巫女は両眼をつぶり顔をわずかに伏せ、左右の掌を交差させて、おせんの額に当てがった。
途端におせんの視界に、絵の具を垂らした水の中のような光景が広がった。
赤、橙、黄色、緑、青、藍、紫ーー。
虹を形作る七色が水中に広がる光景をひとしきり見終わったと同時に。
おせんは意識を失った。
「ーーのう、鴉。妾は先ほどあの者らを人でなしと申したが、やはり妾も人ではないのであろうか。とうの昔に、人ではなくなったのであろうか」
「巫女様。善きにつけ悪しきにつけ、人には生まれながらの縁と運命があると、御自分で申されたばかりではございませんか。なれば『それ』が、貴女様の縁であり、運命なのでございましょうや」
「……そうであろうか」
(ーー哀しい、御方)
鴉は心の底からそう思った。
「巫女様」
「何ぞ」
「八ツ刻の菓子に、赤餡を大納言で飾り尽くした鹿の子菓子を用意しております。この鴉めが、茶を点てて差し上げますほどに」
「そうか」
人形そのものの、かっちりと一文字に固定された巫女の口端が、わずかに上がったように見えた。
「本日は晴天にて、特別に。野点とまいりましょうかーー」
「はぁ~、またかい。この調子じゃ売り上げや貸し賃より、アンタの給金にばっかり金がかかっちまうよ、まったく」
刻は暮れ六ツ。
『於多福屋』の二階にあるおふくの四畳半の部屋に置かれたちゃぶ台で、畳の上に直にあぐらをかいた新谷と、ふたつ折りにした座布団の上に正座したおふくが向かい合って夕餉を食べながら、今日の出来事が語られている。
麦飯に、貰い物の白菜の味噌汁。
一口ずつの手前味噌と、塩。
おふくが自ら漬けた茄子のぬか漬けが数切れ。
新谷が山崎町の『味噌汁長屋』からの大八車を曳いての帰り道、わざわざ山谷堀で、あの錆だらけの刀を銛代わりにして捕まえた、鮒を新谷がさばき、甘露煮もどきにしたものが一皿。
煮込みに時間をかけられなかったせいで、川魚特有の泥臭さが抜け切れていないのは否めないが、醤油と砂糖の甘辛い濃い目の味つけで、食べられない味ではない。
それ以外はすべて端がわずかに欠けたり、ひびの入った陶器の小皿に盛られた、一口程度の量。
そんな、いつも通りのごく質素な夕餉であった。
「あー、婆ぁの口に合わせて味付けしたけんが、やっぱり江戸の味つけってのはからかぁ。もう食われきらんたい」
丼に盛った麦飯を食べ切ってもなお、鮒の甘露煮もどきを半分以上残し、新谷は箸を置いた。
(江戸ば、なんでんかんでん蕎麦蕎麦蕎麦、出汁ば鰹鰹鰹! あん真っ黒なつゆばいっちょんも美味からんし、好かん。おいばもう、わやばい! はぁ、あご出汁の白かつゆのそうめんば食いたかぁ)
「何だい、もういらないのかい? なら、アタシが貰うよ」
言うが早いが、おふくの箸が新谷の残した煮魚の残りが乗った皿に伸びる。
残りものの煮魚は、麦飯の上に乗っておふくの口に飲み込まれた。
「おい婆ぁ、そいば確かに残りもんばい。やけんど、せめておいが『食うとよか』言うてから食わんとか、あ!?」
「アンタ、自分で言ったじゃないのさ。もう食ぇねぇって」
「へっ、わいば名前、本当はふくでなしに『ぶく』か『ふぐ』言(ゆ)うとやろ? やけん、そげに肥えとるんばい!」
「はー、まったく。デカい図体して、細かいことうるさい子だねぇ、アンタは。そのくせ老い先短い年寄りのこたぁ、婆ぁ婆ぁ呼びくさる。アンタ本当にお武家さんの出かい?」
「せからしか! そもそも家(うち)ん祖父(じい)さまは豊臣方の足軽で、おいば足萎えで傘張りの内職しか出来ん食いつめ浪人の親父殿と、字も読めん書けん、町人の母(かか)しゃんとの『あいのこ』ばい。親父殿にヤットーの稽古つけて貰ったこつ、いっちょんもなかったい!」
「ーーアタシは嫌いじゃないよ、そういうの」
見当違いな返答に、新谷は怪訝な顔つきになった。
「もう、この世にまともな二本差しなんかいやしないんだよ。旗本や直参のお偉方だって、竹光差して格好だけつけてやがんだからねぇ」
「……」
「アタシ、若い頃にうっかり町中でお侍にぶつかっちまったことがあってねぇ。相手が刀抜いたもんだから、必死になって逃げたことがあるんだよ。でも『斬り捨て御免』なんて、ありゃ表向きだけのことだって後から知って、バカらしくなったさ。お侍が、町人から無礼を働かれたから斬りましたって奉行所に訴えたって、証人や証拠がなきゃ話にならないんだ。侍が嫌いな町人なんざ、山ほどいるんだ。とにかく逃げ切っちまえば、こっちのもんなんだよ」
武家の生まれとは言え、【斬り捨て後免】に関しては、新谷はまったく知らないことだった。
「だから侍どもは、みんな黙ってんだい。それに町人風情に無礼打ちを仕損じたとなりゃ、向こうは『武士たる者が、剣の研鑽を怠るとはあるまじきこと』って、お家は改易、本人は切腹になるんだものよ。バカバカしいったらありゃしない」
「婆ぁ、まさかそれ、わざとやっとったか?」
「当ったり前じゃないか。今はでっぷり肥えて足もひざも悪くしちまって、腰も曲がっちまったけど、若い頃はうんと痩せてて足が速かったから、『鎌鼬のおふく』のふたつ名で、高慢ちきな侍どもの袖を剃刀で切り裂いて紙入れ抜き取って、ずいぶん小銭稼ぎさせて貰ったもんさ」
ふひゅっ、とおふくは笑った。
ーー若き日のおふくが行っていたその行為は、掏摸の間では『ボタはたき』と呼ばれる技なのだが、当時のおふくにはそのような意図はなく、単なる度の過ぎたいたずら程度にしか思っていなかったし、今もその考え方は変わっていないようだ。
「そげんこつばっかしてたけん、ばちばかぶって足ん腰ん悪かなったばい」
「へっ、バチがあたってこうなったんなら、儲けもんさ。あの世で罰を受けなくてすむんだからね」
「ーーまぁ、なんでんよか。皿と茶碗、流しの桶に水入れて漬けといてくれんね」
そう言って新谷がおふくの部屋を出ようとした瞬間、新谷は派手に鴨居に額を打ちつけた。
「んがあぁ!」
左右の掌で額を押さえ、新谷は敷居の上に大股を開いて座り込んだ。
六尺もある新谷の身の丈には、どこの家屋の襖も障子も、欄間も低過ぎるのだ。
ぶふっ、とおふくが吹き出しそうになり口を両手で押さえた、そのときだった。
「………お晩でやす、失礼致しやすーー。按摩の滅黯でごぜぇやす、新谷さんは御在宅でーー?」
新谷にもおふくにも聞き慣れた声が、階下から戸を叩く音とともに聞こえた。
しかし少々耳の遠いおふくには聞き取れず、新谷が二階から店舗である一階へと駆け下りて行った。
「黯やろ? 今、戸ば開けるけん、いっちょん待っとっといね」
小さな閂型の鍵を二ヶ所外し、店舗の前の四枚の戸板をわずかに開ける。
後から、慎重に階段を降りて来たおふくが手に持った龕灯と、白杖をついた滅黯の隣に佇む小柄な連れが持った、赤紫に近い、濃い桃色の小さな提灯の中に灯る細い蝋燭の火が重なり、真っ暗な店舗は一度に明るくなった。
濃い桃色の提灯の持ち主は、お松であった。
大輪の赤と青の朝顔柄の白い浴衣を着、鹿の子のちりめん帯を締めて、全身が上気している。
「こんな時分に、すいやせん。まだ、夕餉の途中でやしたか?」
「いや、ちょうど食い終わったとこばい」
「こんばんはぁ」
お松は水気を含んでしっとりとしたおかっぱ頭を、ふたりに向かってぺこりと下げた
「何ね、お松坊やなか」
「あらあら、お松ちゃんじゃないかい。どしたぃどしたぃ?」
「お戀の姐さんから預かって来やしてね。数寄屋町の日の出湯ーーしろい湯で風呂上がりの帰りでさぁ」
「お松ちゃん、あんた夕餉食べて来たかぃ? お腹空いてないかね?」
「うん、大丈夫だよ。しろい湯の二階で、ねぇねが茶飯売りから買ってくれた茶飯と、砂糖入金時食べたから。お腹いっぱい」
「あっはっは、茶飯に砂糖入金時たぁ、うちの飯より上等だ。ーーで、黯さん。何の用だよ?」
「へぃ、急でてぇへん申し訳ありゃあせんが、このお松ちゃんのお父っつぁん、今ァ長旅に出ておりやしてね。こんな小っせえ娘っこ、ずっとひとりにしとくのも忍びねぇし、おっ母さんもいねぇ一軒家にひとりってぇのも危なっかしい。そんなわけで、せめて一晩でいいから、こちらに泊めてくれねぇかと、お願げぇに参りやした次第でーー」
「ありゃありゃ、あの親父、まぁたどっか行っちまったのかい。鉄砲玉みてぇな男だねぇ、まったく。一晩なんて、そんなケチくさいこと言いなさんな。お父っつぁんが帰ってくるまで、うちで預かったげるよ」
「ありがとうごぜぇやす」
滅黯は心から感謝の気持ちを込めて、白杖をついたまま深々と頭を下げた。
(あぁ、それとーー)
滅黯が、こっそりとおふくに耳打ちした。
(お松ちゃんがねぇ、御迷惑でなきゃあ、おふくさんと一緒に寝てぇそうで。それも同じ部屋でってんじゃなく、同じ布団で、枕並べて、でさぁ)
おふくの顔が、ぱぁっと明るくなった。
「ほい、ほほほい、枕、枕!」
この足腰とひざの悪い老婆にはかつて夫がいたが、ふたりの間に子はなく、当然孫もいない。
たまたま、昼間干しておいた自分の枕をお松に譲り、自分は亡夫の使っていた、押し入れの下段に入れっ放しの枕を出すため、よろけながら階段を上がり、自室の押し入れに向かった。
「おい婆ぁ、俺が手伝わんでよかか!? 腰がぎっくり逝っても知らんけんな!」
「大丈夫だよ、こんな嬉しいこたぁないからねぇ」
《ーーお松っちゃぁーん、湯冷めしないうちに、布団入っといで。婆ちゃんねぇ、今から銭湯に行ってくるから、それまでアンタがお布団温っためといておくれな》
隠しきれない喜びを含んだおふくの声が、三人の耳に遠く届く。
「はぁーい。じゃあね、ありがとう黯兄(に)ィ。気をつけて帰ってね」
とっとっとっとっ、と、
お松がまだ温かい裸足で、軽やかに階段を駆け上がって行く。
「送ってってやれんと悪かな、黯。おいば残って、はんどかぶりしとらんとならんけん」
「んなこたぁお気になさらねぇで、新谷さん。あぁ、お礼にいいこと教えてあげやすよ」
「?」
「お戀の姐さん、三助してるときは、下の毛の生え際ぎりぎりから両足の付け根までしかなねぇ、布切れみてぇな短い股引履いて、生足が太ももの付け根から剥き出しだそうですぜ?」
「……は?」
「それだけじゃねぇんでさぁ、上は首と腰に紐つけた、一枚布で体の前だけ隠して、背中の刺青さらして、あんな細いのに横からも見ても前から見ても、たっぷんたっぷん揺れるデケぇ乳がたまんねぇって、湯上がりの男客どもが噂し合ってやしたよ。あれで布の下から乳首まで出てりゃ完璧なのによォ、って。いやはや、あっしはこの目でそのお姿を直に拝めねぇのが、残念至極でなりゃあせん」
「黯、わいば!」
顔を赤くして拳を振り上げかけた新谷に、
「へへっ、やっぱり新谷さんは、実にわかりやすいお方でさぁ」
滅黯が笑いながらそう返すと、新谷はバツが悪そうに拳を引っ込めた。
ーーもともと、本気で殴る気など毛頭なかったのだが。
「それじゃあ、あっしはこれで失礼しやす」
滅黯は新谷に軽く頭を下げると、踵を返し、杖をつきつつ、一本歯の下駄で帰路につき、その姿が夜の闇に溶けて行く。
「あれ、何だい。黯さん、もう帰っちまったのかい。アタシもしろい湯に行くついでに、途中まで送ってってやろうと思ったのに」
入浴料の六文を納めた、掏摸除けに紐をつけた小さながま口を、首から下げて胸元にしっかり押し込み。
洗い粉と糠袋を入れ、手拭いをかけた自前の桶という、銭湯行きの必需品一式を手にしたおふくが、残念そうに言った。
「けっ、わいんごつぶくぶく肥えた、足萎えに腰曲がりののろまな婆ぁ、黯の野郎には足手まといにしかならんばい」
「はぁ、よくもまぁ、そう次から次へ憎まれ口が叩けるもんだね、アンタは」
おふくは軽く新谷のすねを蹴ろうとしたが、難なくかわされた。
「ふん、アタシはこれからお戀ちゃんに背中流してもらうんだい、羨ましいだろ? 背中一面と、両肩から二の腕まで刺青(スミ)の入ったあの娘の雪みたいに真っ白な肌ったら、とうの昔に月のものが干上がった婆ぁのアタシから見たって、艶っぽくて堪らないんだ。だからって、嫉妬するんじゃないよ? その目で拝みたきゃ、しろい湯行って男湯で、ふたつ手鳴らしなぁね」
「なっ……ん言うとっとか、こん婆ぁ!」
ひゃひゃひゃひゃ、と、残っている歯を数えた方が早い口を開けて笑いながら、おふくは曲がった腰に手を当て、一階の戸口からのそのそと銭湯に向かって行った。
形容しがたい苛立ちと気恥ずかしさに、新谷は伸び放題の月代をかきむしり、半ば八つ当たりのように強く階段を踏んで、二階に上がり、これまた八つ当たり同然に自室の襖をばん!と開け、後ろ手で力任せに閉めた。
そのまま、新谷は布団は屋根の上に敷いて干すか、毎朝畳んで押し入れに入れるのが日課という彼には珍しく、今日だけ敷きっぱなしにしていた布団の上に、ふて寝のように大の字に寝転んだ。
枕と後頭部の間で両手を組み、立てた左ひざの上に右ひざの裏を乗せ、雨漏りの染みがあちこちに点在する、天井の木目を見つめる。
弾みで、着物の合わせ目から、首の右横にずるりとこぼれ落ちた『それ』を首から外し、右手に握ると、顔の上にかざした。
すべてが血赤珊瑚で造られた、首飾り。
しかし、それは今この国にあってはならない上に、個人が所有することすら許されないものであった。
ーー蓮根に椎茸、人参、こんにゃくの煮物。
沢庵二切れ、玄米飯に、薬味の白い刻み葱を浮かべたわかめと豆腐の味噌汁。
それが、おせんのひとりきりの夕餉の品だった。
洗い物を終え、出枯らしのぬるい茶をすすりながら、おせんは浮き立つ心で書きものをしていた。
書きものと言っても、ひらがなとわずかばかりの漢字だけの走り書きだ。
使い古しの、先の広がってしまった細筆を糸で縛り、わずかな墨を含ませて。
藁半紙を重ねて右上を太い木綿糸で縫って綴じた簡素な雑記帖に、
〈なか町小りょうり屋 つがのや住み れんげ〉
それからわずかに間を空けて、その隣に、
〈あんみつ うえの町 とくだい寺参けい〉
と、書き加えた。
上野町は、今日の昼に団子を食べた【紅はこべ】のある、上野広小路の東隣の町。
常に摩利支天を祀る徳大寺という寺への参詣客で賑わい、彼らがその後に立ち寄る商店も多く、その中に、おせんが戀夏を誘った甘味処もあるのだ。
おせんの心は、浮き足立っていた。
戀夏とともに出かけ、徳大寺を参詣してから、甘味処であんみつを食べる日を想って。
(でも、助けてくれた上にお団子にお茶までおごってもらっといて、それにこんな綺麗な音色の根付けまでくれて、あんみつ一杯だけじゃ……わたしの稼ぎじゃ奢りは無理だし、何か、ちょっとでいいからお礼……ちょっとでいいから……)
しばらく思案したのち、おせんは藁半紙につらつらと何やら書き連ね始めた。
(そうだ、これだよ。わたしがお戀さんに出来るお礼はーー)
さらなる胸の高鳴りを覚えて、おせんは我知らず、胸の前で左右の手を握り締めた。
ーーそれが、己が身に降りかかる惨劇の始まりとも知らずに。
翌日。
刻は四ツ半。客のまったく来ない店先で、新谷は一階の店舗内にある絵双紙の購入賃と貸し賃の支払い場兼、休憩所たる四畳半の間で、ふたつ折りにした座布団を枕代わりに六尺もの身を横たえ、右ひじで頭を支え、まどろんでいた。
おふくは少し前に、お松を連れて出かけた。
いつまで逗留することになるかわからないが、お松は結局おふくの一存で、父親の兎知平が帰って来るまで、ここで預かることになった。
そのため、お松父子が住む目黄不動近くの一軒家からお松の着物をあらかた風呂敷に包んでここに運び。
目黄不動近くの一軒家にしっかり戸締まりをしてから、【旅中】の紙を戸に打ちつけて来ると言う。
それなら俺が行った方がいいと新谷は言ったが、おふくは帰りに、古着屋で悪いが、お松の着替えや寝間着をいくつか本人に選ばせて、それらを買ってやりたいのだと言った。
そうしておふくはお松を連れて、どちらからともなく、ふたり、手をつないで出かけて行った次第である。
うつらうつらとしながら、新谷は笑顔とたわいない会話を交わし合いながら、燦々とした太陽の下(もと)を歩むふたりの後ろ姿を思い返す。
その姿は、実の祖母と孫娘そのものだった。
(あん時の、婆ぁとお松坊……もし、縫か定(てい)の野郎にガキば出来とったら……母(かか)さんも……あぁだったとやろか……)
悔しくはない。
悲しくもない。
ましてや、感傷に浸っているのでもない。
もし、亡き妹が嫁ぎ、亡き弟が妻を娶り、子を成していたらーー。
母には孫達が、自分にとっての甥や姪が生まれていたらと、夢想しているわけでもない。
今となっては、すべてがあり得ないことでしかない。
とうの昔に、すべてあきらめたことだ。
新谷はただ温かい陽射しに全身を照らされる心地よさの中に身を置き、そんなかそけき夢想に耽っている、ただそれだけのことだ。
「あ、あのーーす、すみません、ど、どなたか、い、いぃ、いらっしゃいます、か?」
控えめなかけ声だったが、新谷は飛び起きた。
「あぁ、今行くけん!」
慌てて草鞋を履いて客のもとに駆け寄ると、それはひとりの若い女だった。
「え、あ、あの……こ、こちらに、は、花の画集、は……お、置いて、ません、か?」
何故か、女は顔を伏せて横を向いていた。
「あン、花の画集? そんなら、確かこの辺にーー」
店舗内にある絵双紙、貸本を、新刊から古本まですべて頭に叩き込んでいる新谷は、難なく客の求める絵双紙を探し出し、手渡した。
「買うとか? 借りるとか?」
「か、借ります。い、一冊、ぎ、銀二分でよろしいですよね!?」
「そうたい」
「あぁ、あ、ありがとうございますっ、し、し、失礼、します!」
女は銀二分を新谷に手渡すと、逃げるように『於多福屋』から立ち去ってしまった。
「……」
確かに代金は受け取った。しかし、新谷はわかっていた。
(あんおなご……縫とまんま同じばい。外ん出らるときはまっぽし向かれきらんで、人と会うて用ば済ませんとならんときは、いっつもあがんして、あせがるんごたる、はっていく。いっちょんも見えんかったけんが、ありゃ……)
新谷は、亡き妹のお縫と先ほどの女客ーーおせんが、まったく同じ癖を持っていることに気づいていた。
いつもうつむき加減で、真正面から他人の顔を見られず、顔を上げ、前を見て外を歩くことが出来なかったお縫。
どうしても人と会う用事を済まさなくてはいけないときは、用事が済むや否や、逃げるようにその場から立ち去ってしまう。
だが、お縫は決して醜女ではなく、むしろ顔立ちは充分に美しい娘であった。
しかしその顔には、周囲の心ない、口さがない男達にとっては恰好の、嘲笑され、傷つけられるに値する大きな要因があったのだ。
(あいもきっと、こどん頃からどぎゃしこちょぶらかせられとったごた。はぁ、なんして男んどもば、顔んこつでおなごばせびらかすとか!)
急激に気が昂ぶって感情が押さえ切れなくなり、怒りに任せて、新谷は駆け足で二階に上がった。
そして、押し入れにしまっていた兎知平の土産物である、故郷(くに)の、壱岐の麦焼酎の大徳利の栓を抜いた。
重い徳利に手を添え、底を持ち上げ。
首を後ろに反らして直に口をつけ、ごっ、ごっ、と、のどを鳴らして一気に煽ると、その癖のある強い酒に、のどから胃までが熱く灼かれるような感覚に襲われた。
新谷は栓を締め直しながら、ぶはーっと一気に息を吐いた。
(あの、絵双草紙屋さんの大きい男の人に、顔見られてないよね? 大丈夫だよね?)
強い不安に苛まれながら、心の内で必死にその思いを打ち消しながら、おせんは、顔を伏せて町中の道端を歩いていた。
亡き母に連れられて、幼い頃から行きつけの問屋に赴き、数枚の縮緬を買った帰りだ。
前に抱えた風呂敷包みの中には『於多福屋』で借りた花の画集とともに、その縮緬が納められている。
目的は果たせた。
後はただ人目に触れないように、住まいの長屋に帰ればいい。
だからこそ一刻も速く長屋に戻らなければと、無意識に早足になっていた。
だが、それがいけなかった。
「ひ、ひゃっ!」
常にうつむき、前を見ずに歩くおせんは、うっかり地面の小石に蹴躓き、前のめりに転ぶ寸前で何者かに抱き止められ、ことなきを得た。
「大丈夫か?」
「は、はぃ……え!?」
地面に袴を履いたひざをつき、我が身を抱き止めていたのは、美貌の若侍だった。
綺麗に剃り上げられた月代に、一本のほつれもなく結われた髷。
幼い頃夢中になって読み耽った絵巻物に登場した、小姓を従えた若き武将の如き、実に凛々しき美貌だった。
若侍はおせんを抱き起こし、
「気をつけて帰られよ」
それだけ言って、足早に立ち去った。
おせんは礼を言うことも忘れ、しばしその場に立ち尽くしていた。
頬が熱く、胸が高鳴っていることに気づいた瞬間、おせんは、はっと我に返った。
そして激しく頭を振り、脱兎の如く駆け出して、住まいである長屋の一部屋に駆け込むや否や、ぴしゃりと戸口を締め、鍵替わりのつっかい棒をかけた。
外出した後には絶対に欠かさない、両足を洗うすすぎもせずに草鞋を脱ぎ捨て、四畳半の上に飛び上がるように駆け寄上がると、おせんは風呂敷包みの上に顔を伏せた。
そうしてうつぶせになったまま、おせんはしばらく身じろぎもしなかった。
(早く鎮まって、わたしの心の臓。早く熱が引いてよ、わたしの顔と、頬!)
おせんは、あの若侍に恋心を抱いてしまった。
たが、町人であること以前に、醜女の自分がこんな感情を持ってはいけないことは重々承知している。
幼い頃から、散々男達に言われて来た。
【お前みたいな醜女を嫁に貰う男はいない、お前みたいな醜女とヤる男なんかいない】
ーーと。
(言われなくても、そんなこと自分がいちばんわかってるよ!)
ふと、おせんは風呂敷包みを涙で濡らしていることに気づき、慌てて顔を上げた。
縮緬は、水に濡れると皺が寄って縮んでしまう。
焦って風呂敷包みを開くと、買ったばかりの縮緬はたとう紙に包まれていたおかげか、一枚たりとも縮んではいなかった。
安堵の溜め息をつくと同時に、おせんは左右の目から流していた涙を、両手の甲で強く拭った。
(ん?)
そのとき、おせんはあることに気づいた。
今はまだ、九ツの真昼。
まだ買い物に出かける時間は充分にあると、おせんは赤い目を甕に溜めた水で洗い流し、ふたたび外出した。
ーーそうして、時は刻々と惨劇に向かって近づいていた。
(焼け石に水なのは、わかってる。でも、お戀さんにまた会うときまでに、少しでもましにしときたいんだーー)
泣き顔を甕の水で洗った際、水鏡に映った自分肌のあまりのかさつきに気づいたからだ。
おせんは、生まれて初めて化粧品を買うため、小間物屋に向かっていた。
化粧品と言っても、紅白粉ではない。
いちばん安い、化粧水を買い求めるためだ。
せめて、このがさがさの肌が少しでも潤うように、と。
行き先は、柳橋。
江戸八百八町一の花街にして繁華街であり、神田川が隅田川に流れ込む橋が、地名の由来である。
西には夏に花火が上がる江戸最大の繁華街、両国広小路を控えている。
柳橋には茶屋を始め、舟宿、仕出し屋、髪結い床に小間物屋が所狭しとひしめき、軒をかまえている。
ここ、柳橋の芸者達は江戸市中に存在する芸者達ーー吉原芸者に町芸者、鯔背な土地柄から来る、薄化粧に気っぷの良さが売りの巽、羽織の異名を取る、深川芸者とは趣を異にした、江戸の花街の代表格とも言える、格上の存在であった。
粋人達はまず、この柳橋でひととおり酒と料理を楽しんだのち、それから新吉原、本所深川、洲崎へと、各々舟で遊興に繰り出すのだ。
そのような場所へ化粧水を買いに行くなど、おせんには敷居が高過ぎるにも程があった。
しかし、今のおせんには強い心の拠り所がある。帯から垂らした、戀夏から貰った雪兎柄の水琴鈴の根付けが。
「いらっしゃいませーー」
店に入るなり、活気のある手代に奉公人から幼い丁稚達の男女入り雑じった声に、おせんは思わず身をすくませた。
しかし、この手の店の勝手をまったく知らないおせんは、意を決して側にいた女性の奉公人に声をかけた。
「あ、あの……」
「はい」
「こ、こ、ここ、で……そ、その、申し訳ないんです、が、そ、その……いちばん、や、安、安くてり、量の少ない、け、け、化粧水、を……か、買いたく、……」
「いちばん? お安いものでよろしゅうございますか?」
前かけを握り締め、緊張のあまりいつもよりひどく吃りながらも。
おせんに対応してくれた女の奉公人の声にも表情にも、彼女を見下すような態度や雰囲気は、いっさいなかった。
「それでしたら、このへちま水がお買い得かとーー」
「どこかで見た顔と思えば、お主、おせんではないか。久しいのう。相も変わらぬ聞き苦しいどもりに、その顔で化粧水とは、もしやどなたか恋しい殿方でも出来たのかえ? 」
「「え?」」
おせんと奉公人の女が異口同音に声を発し、声のした方を同時に振り向いた。
「まぁ、これはこれは、圓山様の安江お嬢様!」
女がそう言い放ったその瞬間、女は顔をぱあっと輝かせたが、おせんは顔ーーどころか、全身から血の気が引いた。
まるやま、やすえ。
圓山安江ーー。
十年前とまったく変わらない傲岸不遜な顔が、おせんを見据えていた。
そして、その背後に控える三人の女達の顔と表情もまた、十年前と何ら変わりなくーー。
「ーー二年ほど、行儀見習いとして大奥に奉公しておったが、この度縁談がまとまって、暇(いとま)を頂いてのう。結納も済ませた故、祝言の日まで、ここで毎日茶を点て花を生け、書を習い、鉄漿(かね)の付け方を覚え、おとなしゅう暮らしておれと、父上の仰せじゃ。万が一、花嫁のそなたの身に何かあっては我が家の大損害、先方にも申し訳が立たぬと仰られてな」
ーーここは、根岸の寮。
上野の山の北側の崖下にあり、根岸と、ひぐらしの里こと日暮里の間にまたがった土地にある、閑静でありながら風光明媚な環境から、富裕層の商人達の寮ーーいわゆる別荘が多くある、花のお江戸の静寂(しじま)の地。
音無川の清流。
春先の鶯の鳴き声。
山茶花を初めとした四季折々の花々がひっそりと花開き、
【初音の里】に始まり、
【呉竹の里】
【時雨ヶ岡】
との、風流な呼び名で呼ばれている。
中でも春先の鶯の鳴き声は根岸の地の代名詞であり、この時代より遥か後に『鶯谷』の地名の由来となるのである。
おせんは柳橋の小間物屋で安江と再会を果たしたのち、彼女の昔からの取り巻きである三人の武家娘達とともに、なかば拐かされるに近い形で、駕籠に押し込まれ、ここまで連れて来られた。
「ほほほ、それは建前と言うものでございましょう。いくら一人娘とはいえ、安江様のお父上はまこと娘御に甘いと、わたくしの父が申しておりましたわ」
ーーおせんは今、旗本・圓山家の一人娘、安江が祝言までの猶予期間に父から与えられた、寮の中にある四畳半の茶室に押し込められている。
天上から見て、一畳の貴人畳、客畳、踏込畳、点前畳に、時計まわりに囲まれている茶室の中央の、半畳の炉畳に、正座で座らされて。
床の間の前の貴人畳で脇息にもたれかかっている安江は、撥(ばち)型の鼈甲簪を差し、扇面に宝尽くし柄の、紅地の金彩友禅の振り袖を身にまとっていた。
同じく金彩友禅の袋帯もまた、金、銀、白、橙の四色に柄が別れ、それぞれに桐、梅、菊、松の柄が、実にきらびやかである。
女狐のごとききつい印象を与える一重の切れ長の両目に、真紅の口紅を差した薄い唇が、恐ろしく酷薄な印象を与える。
しかし、そんな安江に親しげに語りかけたのは、客畳に正座する、浅紫地に白や黄色の牡丹、熨斗、吉祥文様の振り袖、銀簪がきらびやかなのーー。
御家人・大鞆(おおとも)家の娘、お照。
安江とは物心つく前からの幼なじみであり、安江のいちばんのお気に入りの娘でもある。
実際、お照は四人の中でもっとも端正な顔立ちをしている。
「お照様の仰られる通りでございますわねぇ、安江様。祝言と申されましても、安江様は他家に嫁がれるではなしに、お相手の方が、圓山のお家に婿入りなされるのですもの」
袖口で口許を覆い隠し、くすくす笑いながらお照の言葉を継いだのはーー。
点前畳に座す、譜代席・畝崎(せざき)家の娘、お蔵。
薄抹茶色地に松竹梅、流水、枝折戸、芝垣、阿山の振り袖を身にまとい、藤の房のつまみ簪を頭の左に飾り、そばかすだらけの両頬と、口の左下のほくろが印象的な娘である。
「それに、何と申しましても、大奥のような窮屈で恐ろしい所に二年もいらっしゃったのですもの。せめて暫しの間は自由にさせてやりたい。それが親心というものでございましょう」
お蔵の言葉に、安江がうなずいた。
「ですから、わたくしどもも『安江様の茶や花や書の手習いに付き合うよう、仰せつかっております』と言えば、父上母上の目の届かないところで、好き勝手に小間物屋に化粧水や紅白粉を買いに行き、茶席に必要だからと、好きなだけ菓子の御相伴に預かりになれるのですもの。役得とはまさにこのことでございますわよ。それにーー」
点前畳に座る、紫から灰色への移り変わりが目を引く、歯朶唐草に桜の振り袖の娘ーー。
赤、青、灰色、薄緑色の四色使いの雪輪模様の帯が目を引く、安江の取り巻き達三人の中ではいちばん格下の、二半場の米堀(よねぼり)家の娘、お弓。
髷に上等な柘植の櫛を差し、前雷に四本の玉簪を差している。
顔立ちは決して悪くないのに、鷲鼻と左右に張り出した左右の小鼻が、玉に傷である。
そのお弓が横目でおせんをちらりと見やり、
「またこうして、わたくしどももの退屈しのぎに。恰好のおもちゃを取り戻せたのですから」
安江達は、一斉に笑い声を上げた。
安江が脇息にもたれかかる背後にある床の間には、祝言祝いのものであろう、吉祥高砂が描かれた掛け軸がかかり、安江が手ずから生けたらしき色鮮やかな花々が、大きく平たい器に飾られている。
そして彼女らは皆、きらびやかな帯を丸帯の文庫結びか、背中にぴったり付けた矢の字結びに締めている。
おせんはふと、いつも長屋にある稲荷社に自分が供えている名もなき野の花を思い出し、惨めな思いにかられた。
しかし、その床の間のには、茶室に置くべきではないものが置かれていた。
柳橋の小間物屋で、文字通り金に糸目をつけずに安江達が大量に買った、高級な化粧水と紅白粉の数々である。
おせんが買おうとしていた、いちばん安いへちま水のそれとは質も値段も比べものにならない、化粧水の中でも高級品とされる『花の露』に『蘭麝水』を始め、三人分の頬紅、口紅、目弾き、爪紅がごっそり置かれている。
「して、おせん。そなたは相も変わらず醜いが、その醜い顔に出来たさらに醜いにきび」
お弓が、おせんの顔に点在するにきびを指差した。
お弓の人差し指がおせんの顔を左右上下を点々と指差すと、
「にきびには、想い、想われ、振り、振られーーとあらす。おせん、そなたのにきびは『想い』と『振られ』の箇所に出来ておる。誰ぞ好いた者に振られたのであろう」
「ち、違います! そ、そんなこ、こと、あ、ありません!」
ーーもちろん、このようなことは何の根拠もない迷信だ。
「おやおや、そうムキになるとは、ますます怪しいこと」
お弓がからかうと、間を置かず、お照が冷やかした。
「ほんに、昔は、何ひとつ我らの言葉に反論しなかった、無口のはまぐりのおせんが」
「そ、そんなこ、こと、ありま、せ、ん……」
「なれば、何故に醜女のそなたが、一人前に化粧水なぞ買うた?」
「………」
にやつくお蔵に問われたが、おせんは答えなかった。
この連中に、お戀とのことは絶対に話したくなかった。話してしまえば、お戀と自分の関係が汚されるとしか思えなかったからだ。
ーーこの武家娘達とおせんとの関係は、十年前にさかのぼる。
当時、まだ存命中だったおせんの母ーーお丑は、とある旗本屋敷に、通いの奉公をしていた。
奉公と言っても、家の奥方を始め、住み込みの女中達の腰巻きの洗濯専門の下女だったが。
そして、生理中に使用する晒し木綿の女性用のふんどしの洗濯と、経血の染み抜きの下働きに従事していた。
江戸時代の生理用品は、股間に『御簾紙』という和紙を当てて経血を吸収させ、それを固定させるふんどしが、『お馬』と呼ばれていた。
いわば、当時のサニタリーショーツだ。
名の由来は、その形状が馬の頭に似ているからである。
その旗本屋敷こそが、今、おせんを取り囲んでいる四人の娘の首領格、安江の邸宅であった。
腰巻きの洗濯は季節を問わず素足で踏み洗い、お馬の洗濯は経血の染み抜きを、洗濯板を使わず手洗いで時間をかけて落とさねばならない。
そのため、お丑の両手と両足は常に荒れ、冬場になれば、痛々しいあかぎれが手足のところどころに深く刻まれていた。
奉公人の中でも、誰もが嫌がる最下層の仕事である。
故に、圓山家は貧民窟の長屋の住人を雇ったのだ。
実際、当の女中達は誰ひとりとしてお丑に感謝や労いの言葉をかけることはなかった。
腰巻きはもちろん、お馬も、女にとってはなくてはならないものだというのに、一度腰や股から離してしまえば、汚いものでしかないらしい。
それに加え、女中達はこぞって、
『牛(=お丑)がお馬の洗いものとは、これ如何に。人の身で、牛馬に足らぬ者がおる』
と、嘲笑うのだ。
そのくせ、洗濯された腰巻きとお馬は当たり前のように身につけ、腰巻きはおりものや尿(ゆばり)やわずかな大便の拭き残しで、お馬は経血で汚して返す。
初めは、母の手荒れを見かねて手伝いをしていたおせんだったが、ある日、安江から直々に遊びに誘われた。
手伝いを理由に断わろうとしたが、お丑は、
『安江お嬢様からのお言葉には、何があっても逆らってはならないよ』
と言い渡され、どんなことでも絶対服従するよう、きつく言い渡された。
それは娘に過酷な労働を手伝わせたくない親心であり、かつ、最下層の下女の娘ごときが主の娘の誘いを断ったとあっては、母子そろって、どんな仕打ちを受けるかわからないーー。
そんな忖度があったのだと気づいたのは、母が父とともに亡くなってからである。
しかし、おせんが安江から誘われた遊びは、残酷なものだった。
遊びは単なる、鬼ごっこ。
まだ幼いおせんは、武士の中でも最上級の旗本の安江が直々に、御家人、二半場の娘達とともに、町人である自分と身分の分け隔てなく遊びに誘ってくれたのだと、信じて疑わなかった。
遊び場は、必ず『奥山』と呼ばれる、浅草寺観音堂の後方一帯。
最初にじゃんけんで鬼を決め、五人一斉に散らばるのだか、幼い頃から太めで、元より足が遅く、どんくさいおせんが、毎回、あっさりと二番目の鬼になってしまう。
しかし、愚鈍なおせんは重い体と鈍足で必死に安江、お照、お蔵、お弓を探し求め、汗だくで走りまわった。
おせんが、やっとの思いで遠く離れた場所にいる彼女らを見つけると、四人はおせんのことなど初めからいなかったかのように、和気あいあいと立ち話をしている。
おせんが彼女達に向かってどすどすと走り出すと、誰かひとりがすぐさまこちらへ向かって来るおせんの姿に気づき、その者が皆に目配せする。
そして四人はうなずき合うと、文字通り四方に走り出し、逃げる。
そしてそれ以降、おせんが誰かを捕まえ、鬼役に追いかけられることは二度とない。
ーーそんな日々の繰り返しのうち、愚鈍ながらも、おせんはようやく気づいた。
自分は、彼女達の対等な遊び仲間ではない。
弄ばれ、笑い者にされているのだと。
「のう、おせん。また今日も皆で鬼ごっこをしようぞ」
ーーその日、おせんは母の手伝い中に、圓山家に来ていたお弓に声をかけられ、腰巻き洗いをする濡れた足を止め、お弓に頭を下げた。
「も、申し訳、あ、ありま、せ、せん、あた……わたしは、きょ、今日から、み、み、皆様方と、お、鬼ごっこすることを、や、辞め、辞めさ、させて、い、いぃ、頂だ、きます」
お弓の顔が、驚愕に満たされた。
「それはいかなることぞ、おせん」
「わ、わたしめは、あ、足が、おそ、遅うございます。で、ですから、わ、わたしばかり、鬼役ばかりで、つ、つろう、ございます、で、ですから、こ、これからは、安江様や、み、皆様方、お足の、お、お早い方だけで、お、お遊びになられた方が、よょ、よろしいかと、ぞ、存じまして、じ、辞退、さ、させて頂くこ、ことに、いぃ、
致し、まし、た」
自己主張など一切出来ず、自分達に何も言えず、逆らうことなど出考えもしないとばかり思っていたおせんの言葉に、お弓はひどく面食らった。
「な、何を申すか! それは、そなたが安江様の御父上、御母上に逆らうも同然の振る舞いであるぞ!?」
「か、かか、かまい、ま、ませぬ。い、いぃ、一向に」
表向きは必死に強がりながら、おせんは泣きたかった。間違いなく、自分のせいで母はこの仕事をクビになる。
ーー事実、その日の夕刻、お丑が仕事を終え、おせんを連れて屋敷を出ようとした、そのとき。
圓山家の女中から突然、何の説明もなく、今後一切の屋敷への出入りとクビとを言い渡された。 何の説明もなく、いくら理由を尋ねても、女中は【奥様がそう仰られましたので】の一点張りで、何ひとつ教えてもらえなかった。
その日は月末近くだったにも関わらず、その月の分の給金は一文足りとも支払われなかった。
この件に関して、お丑は何も言わなかった。
「脱ぎや、おせん」
「え?」
「聞こえぬか? 着物を脱げというておるのじゃ。私が大奥に入った際、御半下の方々から強いられた『新参の舞』を、私が指南してやろうと言うのじゃ、有り難く思うがよい」
安江は蛇のような双眸でおせんを見つめて、冷徹に言い放った。
今のおせんはまさに、蛇に睨まれた蛙であった。
「まぁ、安江様直々の舞の指南とは、何と有り難きこと」
「ほほ、残念ながら、わたくしは御遠慮致したき舞でこざいますけれど」
お蔵の言葉に、お照がくすくすと笑った。
「何も全裸になれとは言うておらぬ。腰巻き一枚は残してよいのじゃ。女ばかりの、人目に付かぬ場で、何を恥ずかしがることがあろうか」
平然とした安江の口調が、却っておせんの恐怖心を煽り立てる。
無意識に、おせんは我が身を抱きしめ、震えていた。
そのとき、それまでうつむき、両ひざを握り締めていたお弓がすっくと立ち上がり、炉の上で湯を沸かし続けている真形(しんなり)釜に歩み寄り、恵明蓋を外すや否や、火受の底から釜全体に広がった直火の熱さをものともせず、左右の鐶付(かんつき)を素手で握ると。
釜の中の、煮え立つ熱湯を何のためらいもなく、中身をすべておせんの頭からぶちまけたのである。
耳をふさぎたくなるようなおせんの悲鳴が、四畳半の茶室に響き渡る。
頭髪から着物の裾まで、熱湯に全身を浸されているのも同然のおせんは、畳の上を転げまわった。
「熱いのなら、脱げばよかろう!?」
熱湯に濡れたおせんの髪をわしづかみにし、お弓はおせんの耳元で囁いた。
(わたしが、その昔。幼い頃お前に鬼ごっこを断られた折り、安江様から『何故におせんを引き止めなんだ!』とお叱りを受け、安江様とお照様とお蔵様から着物の上を脱がされ、御三方からそろって、裸の上半身に唐橘(からたち)の枝で百叩きの刑と称して鞭打たれた痛みを受けた恨みが、そなたにあるのぞえ!)
おせんは愕然としたが、そのようなことは逆恨みも同然である。
しかし、お弓は容赦なくおせんの着物を剥ぎ取った。
瞬く間に身ぐるみを剥がされ、赤い腰巻き一枚にされたおせんは、それでも必死に両腕で乳房と上半身を隠していたが、その両腕はお照とお蔵にふたりがかりで後ろ手にまわされた。
「お、おや、おやめ、下さいっ!」
しかし、おせんの両手首はあっさりと腰布に巻き取られた。
ーー満々と張り出した大きな乳房と、太めの体型故に、大きく膨れた腹が剥き出しになった、齢十六の若い娘にはあまりにも屈辱的な姿で、おせんは炉畳の上に立たされた。
「まぁ、ご覧下さいましな、安江様。あの鏡餅のごとき三段腹」
お照の言葉に、皆がどっと笑い声を上げた。
お蔵とお弓が立ち上がり、おせんに歩み寄る。
「なれど、この無駄に大きな乳房、誠にけしからぬ」
「まったく、これに触れる殿方など一生現れぬでしょうに、我々の誰よりも豊かで白くて」
お蔵とお弓が、指先でおせんの両乳首をぎゅっとつねった。
「痛いっ!!」
しかしお蔵とお弓は、おせんの乳首を容赦なくぎりぎりとつねり上げる。
「う、うぐ……」
ーー下手に痛がったり抵抗すれば、さらにひどい目に合わされると直感で悟ったおせんは、奥歯を噛み締め、必死に声を押し殺した。
「子を産み、乳を与えることなど一生あるまいに。これがまさに、宝の持ち腐れと言うのであろうの」
脇息の上で気だるげにひじをつき、安江が唇の片端を上げ、その光景を嗜虐的な眼差しで見つめている。
「……安江様、わたくし、濡れてまいりました」
「お照ーー」
潤んだ両眼を伏せ、しなだれかかって来たお照に頬を寄せ、安江がお照と唇を重ねるや否や、ふたりの舌があっという間に絡み合った。
お照の襟の合わせ目から差し込まれた安江の右掌が、彼女の乳房を交互に、かつ巧みに揉みしだきながら、乳首をいじっているーー。
苦痛に耐え、涙に霞む視界の端で、おせんはその退廃的、かつ、おぞましい光景を見た。
「ーーおせん。今のそなたは、仕立て物で暮らしを立てておるのであろう?」
お蔵の言葉に、おせんははっと我に返った。
「……う、ぐぅ……」
お蔵とお弓の手によって、おせんの左右の乳房の上部に、待ち針が貫かれた。
針が肌に刺さる痛みは鋭く、一度でもつん、と刺されば次から次へと、その極小の穴の傷口から絶え間なく血の粒がぷつぷつと沸き出し、止まらなくなる。
それも、ただ刺さったのではない。
裁縫に使うときと同様、まず内側に向かって肌を貫き、それから外に突き出した針の先で、もう一度肌の内側に突き通すと、針の上部についた花形の留め具をきつく刺し込み、生きた肌の二ヶ所に固定された。
併せて三ヶ所の傷口から、たらたらと極細の血が、おせんの胸元から乳房へと滴り落ちる。
外側に出たわずかな針と肌の隙間に、お蔵とお弓がどこからか持ち出した、大ぶりの金色の鈴の上部の穴に、輪にした一本の紐を通した鈴の紐を、潜り込ませた。
針に、二重になった紐の間に鈴が通され、きつく締められた。
「ほほほ、善きかな善きかな、それ、踊りゃ踊りゃ」
おせんは、安江に指南された通り、両腕をそろって上にあげ、それを左右交互に繰り返す舞を踊らされた。
ーー脇息にもたれかかった安江の豪奢な紅地の金彩友禅は上下ともに体から離れて裸体を晒し、金銀に白と橙が四分割され、それぞれ桐、梅、菊、松の帯だけを固く腰まわりに残して、安江の腰にまとわりついているだけだ。
蜜を含んだ花に群がる蝶のように、まず、安江と舌を絡め合うほどの濃厚な口づけをしながら、互いに乳首を弄り合っていたお照が、そのまま着物の左側の袖を外し。
次に、お蔵が安江の右側に正座し、まず自身が着物を手早く脱ぎ捨て、安江の左袖を下ろした。
その瞬間、嫉妬を露にした表情でお照がお蔵を睨みつけた。
遅れを取ってはならぬとばかりに、安江と舌づけしながら、お照も着物を脱いだ。
最後に、おもむろに立ち上がったお弓が帯を解いてするりと着物を滑り落とした。
観音開きになった、濃いめの陰毛に覆われた安江の秘部へ四つん這いになってにじり寄ると、白くむっちりとした尻を高く突き上げて、そのまま安江の陰部に顔を埋めた。
お照は安江の舌づけと、勃起した右乳首を、その白い指先でこねまわし。
お蔵は安江の左乳房を丸ごと口いっぱいに咥えながら、口の内側で、たっぷり唾液を乗せた舌先で、乳首を舐めまわしているのがわかる。
お弓は安江の股座に大小の陰唇の付け根まで舌先で清めるが如く奉仕しながら、舌先で包皮を剥き、剥き出しにた赤い肉粒を吸っては舐めているのだ。
元より、おせんは性の知識など申し訳程度しかなくーーそれも、女同士での、遊びとしての睦み合いがこの世に存在することすら、知らない。
ましてや、左右の胸元に待ち針を貫かれた痛みに耐えることで精一杯のおせんには、その光景は淫猥なな悪夢にしか見えなかった。
目の前にある、お弓の股間から愛液があふれ出した。
耐えられず、お弓は自分の陰部に指先を伸ばし、そこを弄り始めた。
既に濡れそぼった膣に中指を根元まで挿れ、抜き差しを繰り返す。
だというのに、当の安江は喘ぎ声ひとつあげず、女の性感帯を激しく愛撫されながら、平然としたまま軽やかに唄い出した。
「♪かっぽれかっぽれ かっぽれかっぽれ かっぽれかっぽれ」
安江が、実に小気味良く唄い出した。なかなかの美声である。
お照、お蔵、お弓が、いったん安江への愛撫を止めた。
お照は安江の左肩にあごを乗せ、彼女の背後から両腕を絡ませた。
お蔵は安江の右半身に、斜め座りになってしなだれかかり、お弓は両ひざを立てて、安江の左太ももに横顔をあずけた。
「♪沖(いそ)の暗いのに 白帆が サー 見えるぅ」
「「「ヨイトコリャサ」」」
手を叩きながら合いの手を挿れるのは、お照とお蔵とお弓である。
「♪エー 蜜柑船じゃえ」
「「「あ~~、蜜柑船」」」
「♪蜜柑船じゃサーエ 見ゆる」
「「「ヨイトコリャサ」」」
「♪あれは紀伊の国 ヤレコレコレワイサ」
「「「ヨイトサッサッサ」」」
「♪エー 蜜柑船じゃえ」
「「「かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ」」」
「……よ……い、と、な……よい……よ……い……」
太肉の身に相応な豊かな乳房を揺らして、単調な舞いを繰り返しながら、おせんの両頬はいつしか涙に濡れていた。
ーーこれが真の屈辱ということなのか。
ーーわたしはやはり、人として扱われることはないのか。
その瞬間、おせんの脳裏に三人の顔が浮かんだ。
今は亡き父と母。
そして、戀夏。
おせんは、ぐっと左右の奥歯を噛み締めた。
(お戀さんが、背中と両腕に刺青を彫ったときのことを思えばーーこんなの大したことない、大したことないはず。刺青を彫るのには、何刻も何日もかけて針の束で肌を刺して、そこにたくさんの色の墨を擦り込むんだって、聞いたことあるもの。お戀さんは今のわたしなんかより、ずっとずっと痛くて苦しかったはずよ!)
たかが待ち針二本ーー。
その気丈な思いが、おせんを支えた。
「存分に楽しませてもらったぞえ。しかし、退屈しのぎにはまだ足りぬ。微塵も足りぬわえ」
ーーおせんがようやく解放されたのは、根岸の寮に連行されてから二刻近く経過し、九つ半と八つの間になってからのことだった。
茶室の釜で煮えたぎった熱湯を浴びせられたうえに、かっぽれを初手に、
【お江戸日本橋】
【猫じゃ猫じゃ】
【奴さん】
ーーと、新参舞を三曲も踊らされ、おせんの髪は鬢がほつれにほつれていた。
さらに全身に汗をかいたまま、腰巻き一枚の姿で、濡れて冷えきった着物と帯と履き物を叩きつけられ、門の外に叩き出された。
柳橋からこの根岸まで、駕籠に押し込まれて連れて来られたおせんには、ここから下谷山崎町の長屋までどうやって帰ればよいのか、見当もつかない。
それ以上に、おせんの心を絶望させているのは、安江に取り上げられた人質ならぬ物質だ。
ひとつは、両親が亡くなる間際、病い身を押して、父母が『田んぼのお酉様』こと、神吉原本町裏の神社、鷲神社で買ってくれた御守り。
ふたつめは、戀夏からもらった水琴鈴と蜻蛉玉のついた根付け。
安江が、雪兎の絵入りの水琴鈴の透き通った音色をいたく気に入り、交換条件を提示して来た。
「この美しき音色の鈴を渡せば、ふた親の形見の御守りは返してやるし、二度とここに連れて来て、此度のような目には合わさぬ」
ーーと。
しかし、おせんにとってはすでに、両親の形見と同じくらい、戀夏からもらった根付けは誰にも渡したくない、大切な贈り物となっていた。
「い、嫌、で、ございます。そ、それだけは……そ、その、ね、根付け、だ、だけは、お、おゆ、お譲り、で、でき、出来ませぬ」
腰巻き一枚の姿で、おせんは安江に土下座し、懇願した。
「貴様……」
安江は顔を引きつらせ、畳に額づいたおせんの頭を、体重をかけて片足で踏みにじった。
それを皮切りに、お照がおせんの顔を上げさせ、黒い漆塗りの長方形の鞘に収めた自分の懐刀を抜き、刃先でおせんの左の口端に当てがい、一に頬まで斬り裂いた。
悲鳴を上げ、顔半分から潜血を噴き出すおせんにかまわず、次にお蔵が裸足のおせんの髷をつかんで引き起こし、左右の胸元に打ち込まれていた待ち針二本を引き抜くや否や、右足首を持ち上げた。
血のついた二本の待ち針が、右足の親指の中に、ためらいなく突き刺された。
爪の先には二枚の花の形の留め具がついているが、そこからあふれ出る血がだくだくと爪を先から指の腹、足の裏、土踏まずからかかとまで滴り落ちて行く。
(お、おっかさん、おっかさん、おとっつぁん、おとっつぁん、助け……て、助けてぇ!)
おせんは嗚咽を噛み殺しながら、ボロボロと大粒の涙を流した。
「えぇ、憎らしい! 涙を流すぐらいなら、わたしに泣きながら許しを乞い、針を抜いて下さいと、何故言わぬのかえ!」
お蔵は怒鳴り、ひどく苛立ったまま、元いた点前畳の上に正座し、そこに腰を下ろした。
最後は、言うまでもなくお弓である。
全裸のお弓は大股を開いて、上向かせたおせんの口に股間を押しつけた。
「ひとしずくもこぼすでないぞ。ひとしずく残らず飲み切るのぞえ」
言うなり、お弓はおせんの口腔に向かって勢いよく放尿した。
塩辛く、独特の臭いを発するその液体はおせんをむせさせるには充分だったが、必死に耐えた。
やがて尿(ゆばり)の奔流が収まると、お弓は憎々しげにおせんに命じた。
「廁紙の代わりに、我が陰部を拭いや」
おせんは無言で従った。
尿(ゆばり)に濡れそぼった大小の陰唇をくまなく吸い取り、舌で清め、びしょ濡れの縮れた陰毛を、それこそ一本ずつ吸う心構えで。
それはお弓の被虐心を満足させたが、おせんの心はズタズタになった。
「うっ、ぐっ……」
着物を身にまとうより先に、おせんののどは水を欲していた。海水の濃さには到底及ばないが、塩辛い液体を飲まされたのだから、当たり前だ。
さらに、安江から通告された言葉が繰り返し頭に響き渡る。
(来週の今日の同じ刻に、ここに再び馳せ参じよ。何、駕籠を長屋に寄越して遣わす。もし拒めば、来ぬのならばーーのぅ?)
そう言いながら邪悪な笑みを浮かべた安江に、
右手に両親の形見である御守りを。
左手に戀夏から譲られた水琴鈴をかざされ。
おせんは絶望するしかなかった。
仮にまたこの寮に来たところで、容易くふたつの物質(ものじち)を返してくれはしまい。
それどころか、今日以上の痛みを伴う辱しめが待っているに違いない。
「ーーそこな者」
突然声をかけられ、おせんは着物で我が身の前を覆った。
それが根岸の寮の住まう者らしいことだけは、かろうじてわかった。
のどの渇きにばかり気を取られていたが、今の自分は腰巻き一枚という、全裸そのものの姿であることに気づいたが、今のおせんには着物に袖を通す余裕すらない。
声の主は、実に不可思議な姿をしていた。
ーー身の丈わずか四尺八寸程度の、十歳ほどの小柄な少女。
少女は市女笠をかぶり、透き通った虫垂れ衣を足首まで垂らしている。
そして、白い着物に緋袴の巫女装束を身にまとい、膝の裏まである長い黒髪を結びもせず、前髪と後ろ髪を一直線に横に切り揃えている。
少女が市女笠をわずかに上向かせ、顔を露にした。
その瞬間、おせんは青ざめ、震え上がった。
ぞっとするほど美しく、人間離れしているーーどころか、まるで妖しの類いに見えたからだ。
恐ろしく切れ長の一重の両眼は長く濃い睫毛に縁取られ、小さな唇は血を塗ったように赤く、白磁のような白い肌をしていて、まるで名工の手による日本人形のようだ。
「人でなしどもに囚われたか。しかし、それはそなたの運命(さだめ)なるぞ」
「え……?」
少女は手早くおせんに着物を着せてやり、帯を締めた。
そしてお照に斬られた口端に、右手の指先をそっと触れた。
少女の指先ーー中指に、ぽうっと螢火のような灯りが点った。
「これ以上、顔が醜くなっては目も当てられぬ」
口元から、激しい痛みがやんわりと引いて行く。
それから襟元にそっと掌を差し込み、胸元に空いた四つの針穴にも。
続けて、少女はおせんの右足を、その小さな掌の上に乗せた。
「あぁ。これは、これは」
おせんは、この少女に強烈な違和感を覚えた。
しゃべり方にあまりにも抑揚がなく、まるで人間らしさというものがない。
その人形のような容姿そのままに、完全に人形そのものが口を利いているようだ。
少女の指先に、また螢火に似た淡い光がかざされると、二本の足の親指の中に根元まで突き刺さった待ち針が、何の痛みもなくするりと抜け落ちた。
軽い拷問の激痛は消え失せ、左右の胸元から乳房へ、指先からかかとまでとめどなく滴り落ちていた鮮血は、一瞬にして止まり、固まった。
「それはしっかり持っておきや。次にこの寮に来るとき持参せねば、もっと痛い目に合わされるぞえ」
「あ、あの……貴女は、いったい……?」
戸惑うしかないおせんは、少女に問うた。
「今の妾に名はない。『暁に祈る巫女』とだけ呼ばれておる」
少女はそれだけつぶやいた。
「……あ、あかつきに……いの、る……みこ……?」
『暁に祈る巫女』とだけ名乗った少女は、おせんののどにそっと触れた。
螢火は点らず、代わりに少女は、
「マカタマ ノ
アメ ノ ミナカヌシ
タカミムスヒ
カムミムスヒ
ミスマル ノ タマ」
唄うように小声でそう唱えると、嘘のようにのどの渇きが消え去った。
それも、ただ渇きが消えただけではない。
きんと冷えきった清流の湧水を飲み干したような清涼感が、のどを潤している。
「あ、あなたは、どど、どこのどなた様、な、なので、すか? な、何故わたしに、こ、ここ、このような施しを、し、して、く、下さるの、ですか!?」
「施し? 其(そ)は、どのような意味で問うておる?」
「巫女様、その調子では会話が成り立ちませぬ。そろそろお引き取りばーー」
「鴉か。すまぬ、妾にはどうにも自覚出来ぬものでな」
鴉ーーと呼ばれた、どこからともなく聞こえて来た男の声に、『暁に祈る巫女』なる少女は、無表情のまま淡々と。
「おせんと申したか。相すまぬ」
「い、いぃ、え……そ、そ、そんな、こ、こと、は、あ、ありません……か、から!」
「妾には、人としての心や感情というものがないのだ。いや、ないというより、失ったのか奪われたのかもわからぬが」
「……?」
おせんには、この状況のすべてが理解出来なかった。
『暁に祈る巫女』が、おせんにすっと小さな壺と本を手渡した。
自分が柳橋の小間物屋で買った、店の売り物の中でいちばん安い化粧水と、『於多福屋』で借りた花の画集である。
「着物とともにそなたに向かって叩きつけられたが、鴉めが割れぬように守った。それと、これもそなたのものであるか?」
「あ、あぁ、あり、ありがとうご、ござ、ございます!」
おせんは、安い化粧水入りの小さな壺と花の画集を、両腕にひっしと抱き締めた。
「そなた、何故妾が施しをしゆるかと尋ねたの」
「あ、あぁ……す、すみません、そ、そんな、つ、もりじや、な、なな、なくて……」
「そう、怯えるな。責めておるのではないわえ」
相変わらず抑揚のない冷たい口調だが、その言葉に、おせんは混乱の中、わずかに落ち着きを取り戻した。
「……そなたが、あの可憐な春の花の名を持ちながら、修羅の縁(えにし)を持つ、血生臭い運命(さだめ)に縛られし者と、ゆかりのある者故よ」
「しゅ、しゅらの、えに、し? ち、ちな、ちなまぐさい、さだ、め?」
それがまさか戀夏のことだとは、おせんには気づく由もなかった。
「善きにつけ悪しきにつけ、人には生まれながらの縁と運命というものがある。その極みが、生と死ぞ」
「?」
「わからずともよい。わからずともよきことよ。いや、わかるはずもないのだ。ただの人間には」
禅問答のような巫女の言葉の数々に、おせんはわけもわからず黙り込むしかなかった。
「……わ、わたし、か、帰ります。お、お世話になりまして、あ、ありがとう、ご、ございました。ご、ごご、ごめん下さい、まし」
おせんは立ち上がった。だが、立ち上がるなりふらついた足元に気づかれまいと、必死に身を支えて、巫女に背を向けて、横顔だけ向けて、深く会釈した。
「待ちや」
え? と思わず声を出したその瞬間、巫女は両眼をつぶり顔をわずかに伏せ、左右の掌を交差させて、おせんの額に当てがった。
途端におせんの視界に、絵の具を垂らした水の中のような光景が広がった。
赤、橙、黄色、緑、青、藍、紫ーー。
虹を形作る七色が水中に広がる光景をひとしきり見終わったと同時に。
おせんは意識を失った。
「ーーのう、鴉。妾は先ほどあの者らを人でなしと申したが、やはり妾も人ではないのであろうか。とうの昔に、人ではなくなったのであろうか」
「巫女様。善きにつけ悪しきにつけ、人には生まれながらの縁と運命があると、御自分で申されたばかりではございませんか。なれば『それ』が、貴女様の縁であり、運命なのでございましょうや」
「……そうであろうか」
(ーー哀しい、御方)
鴉は心の底からそう思った。
「巫女様」
「何ぞ」
「八ツ刻の菓子に、赤餡を大納言で飾り尽くした鹿の子菓子を用意しております。この鴉めが、茶を点てて差し上げますほどに」
「そうか」
人形そのものの、かっちりと一文字に固定された巫女の口端が、わずかに上がったように見えた。
「本日は晴天にて、特別に。野点とまいりましょうかーー」
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