天誅殺師 鴉ノ記

比嘉環(ひが・たまき)

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【其の陸「号泣と酒匂の睦みと剃刀落としの水鏡」】

天誅殺師 鴉ノ記

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 その日の昼、お戀は町中をひた走っていた。
 走るのにはおおよそふさわしくない、いつもの薄桃色の鼻緒の黒ぽっくりで。
 ーー昨晩、珍しく客が少なく、定時の暮れ六ツより少しばかり早く終い湯になったのと、さらに明日が休みであるのをいいことに、勤め先の「しろい湯」こと「日の出湯」がある数寄屋町から足を伸ばし、上野広小路にある、琉球人の黎涚(りせい)が営む琉球料理の店『くわっちぃ』で、イラブチャーの刺身を肴に、泡盛で一杯やった後、泡盛の酒壺を買って、家の二階で、店から持ち帰った豆腐ようを肴に家呑みをしていたところ、泥酔してそのまま眠り込んでしまったのである。
 何しろ、豆腐よう自体が琉球産の島豆腐を泡盛と紅麹に漬け込んだ代物だ。
 ーー実はこの黎涚は天誅殺師達と関わりのある者だが、本人は仕事を行なわない、兎知平と同じく、暁に祈る巫女と鴉とは昵懇の協力者のため、特例として、天誅殺師であることを知られていても、私生活での交流を許されている。
 歳は五十六。
 言葉は琉球訛りもひどく、右眼に黒い眼帯をし、髪は髷も結えないほどに白く薄く、身の丈はわずか五尺足らず、首のすぐ後ろ、背中に三角岩のような瘤のある、せむしという、一見すると他人から忌み嫌われ、誰からも白い目で見られ、敬遠されそうな容姿だが、料理の腕前はすこぶる良い上に、妙に愛嬌があって意外なほど人好きのする男で、客が引きもきらない。
 それだけでなく、小柄な体躯故か子ども受けまでよく、昼時には彼を真ん中にして「花いちもんめ」をしては黎涚を取り合ったり。
男の子には独楽(こま)を、女の子にはあやとりの相手。
 さらに煌びやかな千代紙を使っての折り鶴から様々な花を象った折り紙を与え、せがまれれば、実に丁寧に優しくわかりやすく手ほどきをし。
 本体の部分が蛇の皮で覆われているという、三線なる琉球特有の、三味線によく似た楽器で、琉球の唄を、見た目に反したよく通る美声で唄い聞かせ。
 さらには琉球の神話や妖怪話に民話、琉球特有の怪異譚を
実に面白おかしく、身振り手振りを交えて聞かせる、そんな好々爺だーーが、天誅殺師に関わりがある以上、恐ろしい裏の顔も持っているのも、また事実なのだ。
 
 ーー前夜、どんな酒をどれだけ深酒しようと、二日酔い知らずの戀夏であるが、さすがに泡盛にはやられた。頭痛や吐き気こそないものの、強い酒を呑んで、熱いからと二階の障子を開け放って、その下に寄りかかって、泡盛を呑みながら、持ち帰った豆腐ようを肴に一杯やっているうち、そのまま寝落ちしてしまったのだ。
 刻は、辰五ツ。
不用心極まりないが、仮に盗っ人や強姦魔が侵入したとしても、戀夏なら何の心配もない。むしろ、心配するべきは相手の身の方だ。
 ーー目覚めたのは朝方の涼風と、瓦に止まった数羽の雀の鳴き声でだった。
 そのとき、何の前触れもなく、二階の瓦を昇って、雨戸も閉めずに開け放っていた障子から勝手に入って来た、新谷に揺り起こされた。
「姐さん、姐さん!!」
「ふぁっ!? ……ちょ、ちょ、ちょちょ、おい新谷、てめェ、なに人ん家に勝手に入って来てんだよ!?」
 起き抜けにも関わらず、戀夏の意識ははっきりしていた。ただし、息はひどく酒臭い。
 おまけに足元には、泡盛を注いだお猪口と箸が散乱している。
「やっちゃ入り口ば叩いても、反応なかけん、雨戸も閉めんてうっちょかるる二階の障子ば外から見えたばい、近くで家ば建てとっとるところから、梯子ば借りて、二階ん屋根瓦まで登って来たとです」
「あんだよそれ、どういうことだよ! わけわかんねェわ!」
 「今はそぎゃんこと言っとる場合やなかですたい! 姐さん、姐さんば、下谷山崎町の長屋に住んどる、おせんておなごば、知っとっといね!?」
「……は? おせん? 何であんたが、あいつのこと知ってんの?」
 目を見開いて、心底不思議そうに尋ねた。
 新谷は顔を反らし、しばし無言になると、絞り出すように言葉を発した。
「……昨晩……黯とおいが助けて、診療所に運んだとです……ぼぼとぼいのすば、ズタボロの血まみれで……黯が傷ば治しましたったけんが、朝、おいが起こしに行ったとですが、そん時ばもう、布団ばもぬけの殻で……黯は盲で、その上、診療所は五ツ半から開きよる。人探しなんか出来んばい、やけん、おいが今探しまわっとるとこですたい」
「は?『ぼぼとぼいのす』って何ィ? それより、あの子、どこか怪我でもしたの!?  おい、何があったんだよ、おい、新谷ァ!?」
「……輪姦(まわ)された……とです……」
「あァ?」
「ぼぼが股で、ぼいのすが尻の穴んこつでーー股だけやなか、尻の穴まで。破瓜の血と尻の穴が裂けて、襦袢と腰巻まで、血と精にまみれとった……と……黯が……」
「って……え……は……? あンだと、コラァ!!」
 怒鳴り声を上げて、戀夏がすっくと立ち上がった。
 そして立ち上がるや否や、一階に向かって階段をかけ下り、片手の指に黒ぽっくりの鼻緒をかけて素早く二階にかけ戻って来ると、今度は新谷と逆に、自分が障子を乗り越えて屋根瓦に降り立ち、新谷が二階まで登るのに使用した梯子も使わず、戀夏は二階の軒先からためらいもなく飛び降りた。
 立てひざをつく格好であざやかに着地すると、戀夏はその場で両足にぽっくりを履いた。
「あ、姐さん!!」
 二階から身を乗り出し、新谷が声をかけたときにはもう、戀夏は脱兎の如く下谷山崎町の、おせんの住まう長屋に向けて、駆け出しと後だった。
 後に残された新谷は、開け放たれた障子の敷居の上に、両腕を乗せて顔を伏せた。
 伝え方が率直過ぎたかと後悔したが、どう考えても、あれ以外の伝え方しかなかったーーと無理やり自分で自分を納得させた。
 軽く溜息をつき、障子に背を向けて敷居の上に両ひじを置き、天井を仰ぐと、平皿に乗った食べかけの豆腐ようと、散乱した箸に畳の上に転がったお猪口が視界の片隅に入った。
  貧乏長屋に生まれ育ち、貧しい町人と同じ暮らしを送っていたとはいえ、いみじくも武家の生まれ。
 体の弱い母に代わって、幼い頃から台所仕事もこなさなくてはならなかった育ち故、皿や箸やお猪口と言った食器類がが直に畳の上に散乱している状況など、耐えらない性分だ。
 新谷は散乱したそれらをまとめて一階の流しに運び、かつては小料理屋であった流して、水瓶にたっぷりたたえられていた水で箸と、泡盛で濡れたお猪口を洗うと、わざわざ濡れ布巾で拭いた、まだ残されたままの客席の上に置いた。
 食べかけの豆腐ようの上には、とりあえず懐から取り出した懐紙を数枚かけて置いた。
懐紙にあっという間に紅色の染みが広がったが、それは気にしないことにした。
  ほこりっぽい椅子を引き、新谷はそこに腰かけた。
(はぁ、やっちゃ因果な商売ったい……やけんが、こいがおい達の宿命(さだめ)とばい)
 誰もいないのをいいことに、新谷は肌身離さず首から下げている『それ』を取り出し、きつく握り締めた。
 忌まわしい記憶がまとわりついた、名前通りの血のような鮮赤の珊瑚で出来た亡妹の形見ーー。
 鴉も暁に祈る巫女も滅黯もわかり切っているだろうが、戀夏はまだわからないだろう。
 恐ろしく気性が激しく、幼い頃に孤児となり、年頃になってからは夜鷹に舟饅頭と、女一匹、まさにその身ひとつで最下層の世界で生き抜いて来た過去と、その類いまれなる腕力のせいか、過度に正義間が強く、人の命は皆平等で、職業に貴賤はないと思っている。
 だが、残念ながらこの無情な世において、それらの戀夏の矜持はすべて、絵空事の綺麗事でしかないのだ。
「人も、人ん命も平等やなかばい、姐さん」
  身分、容姿、信仰、先天的であれ後天的であれ、身体や精神や知能に障害を抱え、俗に健常でない肉体と心身の者ら。
 または男女を問わず醜い容姿の人間は、人として扱われず、その存在と命ともども軽んじられ、迫害されるのがこの世の常だ。
 (おい達は『苦難の下僕』とですか!? 主よ、なんしてお答え下さらんとですか? 答えきらんとですか!?)

その頃、戀夏は脇目も振らず、おせんの住居たる下谷山崎町のぜにごけ長屋に向かって、韋駄天の如く駆けていた。
額から顔、背中に大量の汗をかき、息も切らしているが、苦しさより、おせんへの想いの方が遥かに勝っていたからだ。新谷からは、おせんが長屋に戻っているかも知れないと一言も聞いていないのに。
(おせん!あんみつ一緒に食べるってェあの約束破ったら、承知しねぇかんなァ!!)
 ーーどれだけの距離を、どんな経路で走ったか、わからない。ただ、おせんと初めて出会ったとき、新谷の曳く大八車の後ろに乗り、物見遊山で一緒について行ったときの、おぼろげな記憶だけを頼りにして。
 気がつけば、あの長屋にたどり着いていた。
 木戸を駆け抜け、裏長屋の棟割長屋の敷地内に入った時点で、戀夏はそこで息切れし、両掌を両ひざにつくと、もう足が前に出なくなった。
 それでもひどくのどが乾き、本能的に水が飲みたくて飲みたくて耐え切れなくなった戀夏は、もつれる足で井戸まで進み、鶴瓶を落として水を汲み上げると、井戸端であぐらをかき、半ば顔に水をぶっかけるように、汲み上げた水を、すべて飲み干した。
 そこでようやく人心地が着いた戀夏は、ペちぺちと左右の頬をごく軽く叩き、気力を振り絞って、
【ぬいもの つくろいもの 承ります おせん】
 ーーあの古びた、天日干しと雨ざらしにされされ続けた板を目印に、戀夏はおせんの棲み家の戸口を叩いた。
「おせん、おせんっ! いる!? あたしだよ、戀夏、お戀!!」
 返事はない。
 しかし、戸口がわずかに開いているのに気づき、戀夏は建て付けの悪い戸口を、その腕力で一気に開けた。
 ーー部屋の中には、家財道具一式はすべて揃っている。たが、おせんの姿はない。
 梁の下に転がっている踏み台を目にした瞬間、何故か戀夏の背筋が凍りついた。
「ちょいと」
 不意に声をかけられ、戀夏は振り向いた。
 そこには、若い夫婦者らしき若い男女が、男を後ろに、女を前にして立っていた。
 男の左掌が、女の右肩をつかんでいる。
 ふたりとも両眼が真っ赤に充血し、女の方に至っては、両まぶたが腫れ上がっていた。
「その髪の色に変わった服装……あんた、戀夏さん……お戀さんって人かい?」
「そォ、だけど」
 夫らしき男に、身を支えられるように肩をつかまれた女が有無を言わさず、戀夏の手首をきつくつかみ、戀夏は彼らの棲み家に無理やり押し込まれた。
 男が素早く戸口を閉め、すでに四畳半に上がっていた戀夏と女の元に、ひざでにじり寄ると、戀夏は女に肩をつかまれて引き寄せられ、三人はまるで、火の着いていない火鉢を取り囲んで内緒話をするかのように、頭を寄せ合う形になった。
「いきなりで申し訳ねぇ、俺は大工の宇之助、こいつは女房のお佐智ってんだ」
 ふたりの夫婦者の夫、宇之助が妻の分も一緒に自己紹介した。
 何故なら、妻のお佐智は濡れた手拭いを目元に当てたまま、しゃくり上げているからだ。
 ひざの横に置いてある、水を入れた木桶に手拭いを入れてゆるく絞ると、また目元に当て直す。
「もう知ってると思うけど、あたし、戀夏。お戀。あの……何か用? あたし、おせんを尋ねて来たんだけど、家ん中がら空きでさァ。あんたらお隣さんだろ、何か知らない?」
 四畳半が、静寂に包まれた。
 しかしその静寂も束の間、お佐智が古くささくれ立った古畳の上に、わっと泣き伏した。
「お佐智、てめぇいい加減にしろよ! いつまで泣いてやがる気だ!目が潰れっちまうぞ!」
 夫に怒鳴られても、お佐智は泣き止まない。
 そして妻をいさめる夫の宇之助も、涙を流していた。
「お見苦しいところをお見せしちまって、申し訳ねぇな。これが、おせんさんからあんたへの遺品だ」
 宇之助は、玄関から向かって部屋の左側に設置されている神棚のやや左下に置いてある、柳行李の中から、風呂敷包みを渡された。
「戀夏って名前の、茶色い髪に着物を尻端折りにした、ちょっと変わった見た目の、でもそりゃあ綺麗な人が尋ねて来たらこれを渡して欲しいって、うちの戸口の前に置かれてたんでぇ。俺達夫婦(めおと)宛の文と一緒によ」
 説明しながら、宇之助は右袖で涙を一気に拭った。
「宇之助さん……つったっけ、あんた。遺品? 遺品って、どういうこと?」
 風呂敷包みを見つめながら、戀夏は半ば放心状態で尋ねた。
 いくら学がなくとも、「遺品」の意味がわからない戀夏ではない。しかし、それ以外言葉が出ない上、宇之助から何を言われたのか、まったく理解出来ないのだ。
 「死んじまったんだよ。梁に縄かけて、首を括ってねぇ」
「お吟婆ぁ!?」
 建て付けの悪い戸口をギシギシ軋ませながら、老婆が入って来た。
「で、でぇじょうぶかよ、おせんが死んだって聞いてから、ずっと寝込んでるってぇのに!」
 宇之助が素早く四畳半さから降り、お吟なる老婆の身を支えると、お吟は懐からくしゃくしゃになった文を取り出し、すぐさま懐にしまい直した。
「……あんたが、戀夏さん、お戀さんとやらかい。おぅおぅ、こりゃ、おせんちゃんの文に書いてあった通り、いや、それ以上のべっぴんさんじゃないかえ。どうせあたしゃもうじき、おせんちゃんと同じとこに行くんだ。こんな生き弁天様拝めて、ヨボヨボのみっともねぇ姿晒して長生きしたのも、無駄じゃなかったようだ」
 お吟は、戀夏に向かって合掌した。
「おせん、死んじまったんだな。それも、首を吊って」
 抑揚のない、無表情で戀夏が問うた。
 お吟は、静かにうなずいた。
 それがすべての答えであり、真実だった。
「『いつもいつも、こんな醜女に親切にしてくれてありがとうございます、申し訳ありませんでした、お婆ぁの三つ葉に刻みネギに、玉子入りの雑炊、わたしが今まで食べたものの中で、いちばんのごちそうでした』ってねぇ。殺されるかも知れないから逃げるって書いてあったのに、わざわざあんなボロい鍋を綺麗に洗って返してくれて、こんな汚い婆に、文まで遺してくれてーーまったくどこまで律儀者なんだか。バカだよあの娘は、バカだよ、本当に……」
 背を向け、お吟は涙をつまらせて、今にも消え入りそうな後ろ姿を見せ、宇之助とお佐智夫婦の家を後にした。
 その直後、宇之助は無言で涙を流しながら、拳で畳を何度も殴りつけた。
 宇之助はその間、ずっと鼻をすすり続けていた。
 お佐智はようやく涙が収まったらしく、濡れた手拭いを交互に左右のまぶたに当てながら、ようやく身を起こした。
「あれ?」
 戀夏は、開けっ放しにされたまままの柳行李の中に、一冊の画集があるのに気づいた。
 ちょうど後ろ側になっていたその画集の裏表紙の片隅に、【於多福屋】の名が記されていた。
「お佐智さん、その本……」
「え? あぁ、おせんさんが貸本屋から借りた本でね、代わりに返してくれって頼まれてるんです」
「……その【於多福屋】って貸本屋、知ってるよ。知り合いが働いてる店だから。あたしが代わりに返すよ、この長屋からだと、ちょっと遠いしさ」
「え、えぇ! 本当ですか!? ありがとうございます、よろしくお願いします!」
 畳に頭を擦りつけ、土下座する勢いで、お佐智は戀夏に礼を述べた。
 戀夏はおせんの遺品たる風呂敷包みと、於多福屋の商品である花の画集を小脇に抱え、戸口の中と外で、互いに何度も何度も頭を下げ合い、別れを告げた。
 木戸をくぐり抜けた後、ちらりと振り返ると、顔を濡れ手拭いで覆うお佐智の肩を宇之助が何度も軽くぽんぽんと叩き、妻の右肩に左掌を乗せ、連れ立って家の中に入って行く光景が見えた。
 そして、斜向かいの家の戸口で、数珠を手に挟み、深い皺に埋もれ、垂れたまぶたの下から落涙しながら、唇の動きからして、恐らく経文を唱えながら正座し、上半身をうつ伏せにしている、お吟という老婆の姿も。
 戀夏はらしくもなく、優しげな微笑を湛え、しばらくゆっくり歩むとーー。
 どっと涙が溢れ出すと同時に、ぜにごけ長屋にやって来たときと同様に、韋駄天の如く疾走した。
(【於多福屋】には婆ぁとお松坊がいるし、黯が九十九と絽嬪ば飛ばして『人探しを手伝ってもらっとる』と、足に文ば括りつけて伝えて貰ってあるけん、しぱらく戻らんでも良かが……姐さん、いつんなったら帰って来るとね? こんままや、埒が開か……)
 いつ帰って来るかも知れない戀夏を待ち、新谷の耳に、どたどたと階段を駆け降りて来る音がした。
 ーー元小料理屋の形跡をそのまま遺した一階に走り込んで来たのは、土足のままの戀夏だった。
 新谷がかけていた梯子は、とうに元あった場所に返されたが、二階の障子は風通しを良くするため、開けたままにしていた。
 まさかそこから入って来たのだろうか。それしか考えられないが、実際そうだった。
 何と、戀夏は二階の瓦目がけ、店の二尺ほど前から道端に両掌をつき、勢いをつけて駆け、その勢いで二階の瓦に飛び乗ったのだ。
 ーー現代で言うところの、陸上選手のクラウチングスタートの体勢であるーー
何事が起きるのかと見守っていた通行人達から拍手喝采が沸き起こったが、戀夏にとって、そんなことはどうでもよかった。
「姐さん!?」
 戀夏はただいまも言わず、水瓶の蓋を開け、柄杓も使わず、そのまま直に顔を突っ込んで、ぞぶぞぶと水を飲み出した。
 茶色い髪に金の筋が何本も入った、右側に高く結った髪が、ほつれにほつれ、髪を結ぶ縮緬の切れ端は、蝶結びがほどけている。
 うなじが紅潮し、幾つもの汗の玉を作って背中に流れ込んで行くその様に、新谷は思わず、胸の高鳴りを覚えた。
「姐さん、そのーー」
 どこまで行って来たのか、おせんの足取りは掴めたのかと、尋ねようとした。
「死んでた」
「あ!?」
 顔だけでなく、前髪からほつれた髪まであらかたびしょ濡れのまま、戀夏は水瓶から顔を上げ、新谷に背中を向けたまま、一言言い放った。
「ぜにごけ長屋のあの部屋で、梁に縄かけて、首吊ったってよ。隣の大工の夫婦者(もん)と! 同じ長屋の婆さん達が、泣きながら教えてくれたよ!」
「……!!」
 新谷は、絶句した。あれだけの目に合ったのだ、心のどこかで最悪の事態も考えてはいたが、まさか、あの長屋で自死するとは、予想だにしていなかった。
「これ」
 後ろ手に突き出されるまで、新谷は戀夏が小脇に荷物を抱えていることに気づかなかった。
 突き出されたそれは、数日前、顔を伏せた若い女がかり、花の画集ーー。
(あの婆さんが言ってた、おせんが『殺されるかもしれない』って文に書いてあったって、どういうことだよ……おせんを殺そうとしてた奴って、どこのどいつなんだよ……)
 ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、戀夏は水瓶に映る自分の顔を見つめていた。
 自分の顔ながら、まるで般若の如き形相だと思い、ばしゃりて水しぶきを上げて、瓶の中の水に顔を突っ込んだ。
(縫と同じ癖しとった、あんおなごが借りた本やなかとね!? 顔ば見えんかったばい、そぎゃん、すらごつ……すらごつ……)
 新谷も、にわかには信じ難い話だったが、戀夏が現場に行って確かめて来たというのだから、紛うことなき真実だ。
「ちきしょーー!! バカ野郎ーー!!」
 水瓶の中にしばし顔を浸していた戀夏が息苦しさに耐え兼ねて顔を上げると同時に、天井に向かって、声の限りに叫んだ。
 戀夏は髪を結ぶ縮緬の切れ端を蝶結びにきつく結い直すと、一階の戸口の鍵を開け、外に飛び出して行った。
(あぁ、こりゃ……ダメばい)
 新谷は額に左掌を当て、二階に上がった。
そして開けっ放しの二階の障子の敷居をまたいで、後ろ手に障子を閉めると、梯子を外した、屋根瓦の坂を恐る恐る降りる。
 軒先までたどり着くと、数回深呼吸をして、覚悟を決めた。
 飛び降りるしか、他に方法はなかっぱた。
 しかし、五尺と一寸強の小柄で細身な戀夏と違い、六尺もある身の丈に加え、がっしりとした体躯の大男の新谷では、わけが違う。
 剣道における蹲踞の体勢で着地した瞬間、声も出せないほど凄まじい痺れが両足を襲い、新谷はしばらくその場から立ち上がれなくなった。
 戀夏は今、頭に血が昇って逆上し、完全に正常な判断力を失っている。
 新谷は痺れが収まるのを待って、両足を引きずりながら戀夏の行き先に向かって歩き出した。
 戀夏の性分からして、行き先は検討がついている。それなりの長い付き合いで、ましてーー。
 一人の男として、心の底から好いてしまった女だからこそ。
「旦那っ!旦那っ!旦那旦那旦那旦那旦那ァっ!! 旦那ってばよォ、おいコラ、
さっさと出て来ねェかオラァ、鴉よォ! あたしだ、戀夏だよォ!」
 ーー戀夏が向かった先は、暁の巫女と鴉が住まう、根岸の寮だった。
 静寂なたたずまいの閉められた門を、力まかせにどんどんと叩き、辺りをはばからぬ胴間声でがなり立てる。
 ややあって、門が開いた。
「うるさいぞ、戀夏。おまえの腕力でそう何度も門を叩かれたら、この門は崩れてしまうわ」
 何本にも分かれて長く垂らした前髪に、三つ編みにした後ろ髪を靡かせて、黒ずくめの着物に、鵺の刺繍入りの鮟鱇帯、さらに足には黒革のブーツという奇天烈な姿の鴉が、ひどく鬱陶しそうに現れた。
 しかし、戀夏は鴉の言葉などまったく意に介さず、鴉の襟の左右の合わせ目をつかむや否や、
「旦那っ!あたしの依頼、受けておくんな!金なら幾らでも払うから、毎月の給金から少しずつ払って返すからァ! あたしの、天誅殺の依頼を受けておくんなよォ!!」
「ダメだ」
 戀夏の必死の懇願に、鴉はにべもなかった。
「あんでだよ、この野郎!!」
「我々天誅殺師が受けるのは、暁の巫女様の御尊顔に【うらみすだま】の魂が憑き、形となって現れたときのみ。俺達はこの、江戸八百八町の中でも、殺しを生業とする連中の中でも、他人(ひと)様からの依頼を受けて、大金を積まれて動く復讐代行屋とも、殺し屋稼業の奴らとは、趣を異にする。まして、天誅殺師当人の私怨を晴らすための個人的な依頼など、論外だ。戀夏、おまえこの道に入って何年だ」
「んなこたァ、わかってんだよォ!」
 戀夏は涙を流しながら、その場で激しく地団駄を踏んだ。
「だって.........だって、悔しいじゃねェか、あんな、あんなの.......あんなのよォォ!!」
「何があったか知らんが、ダメなものはダメだ。それともおまえ、『火山の橙蝋(とうろう)刑』で、骨も遺さず消えてなくなるか?」
 ーー『火山の橙蝋刑』とは、鴉の秘儀中の秘儀で、掟を破った天誅殺師への極刑で、生きたまま脳内から溶岩を発生させ、頭頂から火山の如く垂れ流された溶岩で全身を溶かし殺すという、考えるだに無惨な刑だ。
 しかも、脳を溶岩化されているにも関わらず、全身が溶け崩れるまで意識も保たれ、視覚も痛覚も残るという。
 さらに、刑の執行時には、痛覚は通常の十倍は増幅されるとも。
 実際、この刑に処された者が過去に存在したかはわからず、天誅殺師達の間では噂の範囲でしかないが、仮にいたとしても、鴉がその事実を天誅殺師達に通達するようなことはないだろう。
「そんなの、絶対絶対ぜーったい嫌に決まってんだろが、この野郎!!」
「ならば、去れ。今のうちならすべてなかったことにしてやる」
 うっ、うっ、と左右の拳を握り締め、戀夏はぼろぼろと大粒の涙を流した。
「嫌だ、嫌だ、嫌だーっ! 死ぬのも嫌だし、橙蝋の刑で殺されるのも嫌だし、あたしがおせんの仇を取ってやれないのも、全部嫌だ! いーやーだーぁぁぁ!!」
 同時に、その場に崩れ落ちたかと思うや否や、戀夏は突然その場にひっくり返り、両腕両足を激しくばたつかせて、号泣し始めた。
「うゎぁぁぁーーーん!!」
 とても二十四歳の女とは思えない、駄々っ子そのものの言動である。
 しかし、鴉は何かわかっているかのように
冷静な態度で、門にもたれかかって、腕組みしながら、極めて冷静な表情とたたずまいで、その様子を見守っていた。
 そしてーーやはり来た。
 七尺ほど前から、何かを背負った大柄な浪人の姿を認めて、鴉は思わずニヤリとした。
 「どうも。世話かけてすまねぇな、兄(あに)さん」
 新谷が、深々と頭を下げた。
「よくこれがここに来るとわかったな。それに、準備がいい」
「詳しいことは言えねぇけど、ここしか行く先はないと思ったもんでよ」
 新谷がしゃがみ、戀夏に諭すように話しかけた。
 「さ、姐さん。鴉の兄さんにこれ以上迷惑かけんと、ぷるぷる帰りましょう」
「ぷるぷるって、何言ってやがんだてめえ! あたしァ寒天でも葛切りでもところてんでもねェぞ、コラァ!!」
 ーーぷるぷる、とは長崎弁で『急いで』『早く』の意味である。
 はぁ、と軽く溜息をつき、新谷は鴉に背を向けた。
 彼が背負っていたのは、形の整っていない長方形の板と、正方形の板を数本の釘で打ちつけて繋げただけの、粗末な座椅子もどきだ った。
 梯子を借りた家を建設中の現場で、不要な板を使って、太っ腹な大工の親方に、即興で作って貰った品だ。
 上の長方形の板の左右上下に、丸鑿でほがした穴に、二重の太縄が通され、それが新谷の両肩にかけられているのだ。
「悪りィが兄さん、姐さんをここに乗せてくれんね」
「おいよ」
 鴉は、地べたで両腕両足を激しくばたつかせる戀夏の両腋を抱え上げ、ひょいと持ち上げると、容易く座席の上、両腕を左右の縄に通した。
 この程度のことで怯む戀夏ではない、簡単に座席から降りられるはずだったーーが、座席からすぐさま離れようとした瞬間、戀夏の身に思わぬ事態が起こった。
 鴉が袂から取り出した縄に、戀夏の上半身が長方形の板に、両ひざが正方形の両端に、それぞれ緊縛された。
 その四箇所に、鴉は懐から取り出した『急急如律令』の札をべたべたと貼り付けた。
「ナマク サマンダバサラナン センダ マカロシャナ  ソワタヤ カンマン」
 そして素早く右手の人差し指と中指を伸ばし、小指と薬指を曲げ、後者の二指を親指の指先で押して刀印の形を取り、左掌も同じ形を作ると、腰につけた。
 慈救呪の印を結ぶと、不動明王の慈救呪を三回唱え、右手の刀印で四縦五横に九字を切ると、瞬く間に両掌で九字印を結んだ。
 ーー「臨」の独鈷印。
 ーー「兵」の大金剛輪印。
 ーー「闘」の外獅子印。
 ーー「者」の内獅子印。
 ーー「皆」の外縛印。
 ーー「陣」の内縛印。
 ーー「列」の智拳印。
 ーー「在」の日輪印。
 ーー「前」の穏形印。
 そして最後に、
「オン ソバハバ シュダ サルバダルマ ソバハバ シュドウカン」と唱え、
「浄三業」の印を組んだ。
 鴉が唱えた真言は、
「三業」ーー身、口、意にまとった諸々の罪業を滅し、清浄にさせる真言だ。
 ある意味、今の戀夏を落ち着かせるにはうってつけと言えば、そうだ。
「戀夏なる女性(にょしょう)の腕力、しばし留めん」
 鴉がつぶやくや否や、
「んっだよ、これよォ!?」
 ーー過去の事例に則っていえば、成人男性の指の爪を何なく剥がし、子どもとはいえ、ひと握りで睾丸を潰したほどの握力が、まったく効かない。
「ふざけんな、こっの、前髪すだれのゆるゆる三つ編みの死神野郎!! 死ね、死ね死ね、死にさらせェっ!! てめぇんとこの寮に、赤猫這わせたろかァ!」
 両足をばたつかせながら、戀夏が暴言を吐きつつ、泣き叫ぶ。
「姐さん! 人様に向かって、そげんふうてんわるう言うんば、ダメばい!」
「うっせェ、黙れこの野郎!! 誰かー、助けて下さーい! この大男、人攫いだー!地獄宿に女売る、女衒だよォー! 」
「姐さんごたる歳のおなごば、女衒も買わんとですよ」
「あぁ!? てめぇ、コラァ! 女の歳と目方は言うもんじゃねェぞ!」
「歳も目方も、おいばいっちょんも言うとりません。.......って、姐さん、足ばたばたさせんで下さい! おいのケツに足ば当たってあぃたぁすけん!」
 遠ざかって行くふたりの姿をにまにまと見送りながら、鴉は自分の隣に暁の巫女が立っていることに気づき、飛び上がりそうなほど驚いた。
「み、みみ、みみみ、巫女、巫女様!?」
「.......何を慌てておるか、鴉。慌てることなどあるまいに。ーーのう、鴉よ」
「はい」
「妾は長いこと、あの戀夏なる女性(にょしょう)が不思議で、理解に苦しむ存在であった。人並み外れた美貌を持ちながら、まるで益荒男(ますらお)の如き振る舞いと口の利き方。だがの、今ようやっと、妾のあの者への気持ちがわかったような気がしたのえ」
「巫女様ーー.......して、その御心は」
「『感情』とはあのようなものかと、初めて気づいたような、記憶を取り戻したような、そのような心持ちにあるぞよ」
 ふと、鴉の顔が陰りを帯びたように見えた。
「悔しいと泣き。殺されたくないと泣き。死にたくないと泣き。自分の意思が通らないと、そなたに悪態をついて泣き。我が身の自由が奪われればまた泣き、自分の思うがままを口にし、泣き叫ぶ。あれが、『感情』なるものかとーー」
「あの者はいささか、いえ、あまりにも感情表現が過ぎまするが」
 鴉は苦笑しながら、暁の巫女に答えた。
「ふむ、左様であるか」
 無表情に抑揚なく、巫女は返した。
「お部屋に戻りましょう、巫女様。後のことは、あの浪人めがよきにはからってくれましょうから」
「そなたが申すのであれば、そうなのであろうな。しかし囲碁のさなか、そなたが劫に陥った時点でこのような事態に巻き込まれるとは、天の采配であろうかの」
「あーー.......巫女様ーーそれは、その.......」
 口ごもりながら、鴉は門を閉め、閂をかけた。
 悪態と暴言を叫びながら、緊縛された上に体のあちこちに御札を貼られ、両足だけ暴れまわる戀夏は、行き交う人々の奇異な視線を一心に受けながら、新谷によってえっちらおっちら背負われて運ばれながら、自宅の元小料理の二階ではなく、【於多福屋】の店舗、一階の上がり框まで運ばれた。
 しかし、心と声の限りに泣き叫び、喚くというのは想像以上に体力を消耗するらしく、【於多福屋】に着いた時点で、戀夏はまったく声を発しなくなっていた。
 代わりに、新谷の背から下ろさる、上がり框に座り込んだ戀夏の涙と嗚咽は、留まることを知らない。
ーー新谷が背負った簡易製の椅子に緊縛、全身にべたべた御札を貼った戀夏の姿には、さすがにおふくもお松も驚愕したが、新谷がおふくに、
(悪りィが、姐さんがこんな恰好しとっと理由は、しゃっちで聞かんでくれんね。お松坊にも、たい)
 とささやかれ、おふくは大人の忖度で、すべての言葉を飲み込んだ。
 だが、まだ幼いお松には通用しない。
「ねぇね、何で泣いてるの? もしかして、あのお団子のお姉ちゃんのこと? やっぱりあたしがあのとき『影が見えなかった』通り、死んじゃったの!? ねぇ!? ねぇ!? ねぇってばぁ! ねぇね、教えてよ、教えてよぉ!」
 戀夏の両手首をつかんで尋ねるお松の声が、次第に涙声になって行く。
「.......そうだよ.......松っこが、あいつの影が見えなかった通り.......おせんはねェ、ののさんに.......なっちまったんだよォ.......」
 こんな状態でも、真実を伝えるのが大人の役目と思ったか、さすがに、縊死による自死であることは伏せたものの、戀夏はお松にそれのみ伝えた。
 途端に、お松は一瞬絶句し、間を置かずぽろぽろと涙を流すと、堰を切ったように泣き出した。
 お松がおふくの方を見ると、おふくはお松に向かって軽く手招きし、微笑した。
「ばっちゃまぁ!!」
 お松は泣きながらおふくのでっぷりした下腹に顔を埋め、そのままおふくの曲がった
腰に抱きついた。
 泣きじゃくるお松の小さな背中に両腕をまわし、その背中を、皺だらけの両掌で、とんとんと優しく叩いた。
「あんた、早く二階にお戀ちゃん連れてってやんな。お松っちゃんは、あたしが面倒見とくから。どうせそのうち、泣き疲れて寝ちまうだろ」
「ーーそいぎんた、頼むばい、婆ぁ」
 戀夏を直に背負い、新谷は二階の自室に向かって階段を昇り始めた。
「けっ、こんなときまで婆ぁ呼びかい!  じゃあアタシも言わせてもらうよ、弱みにつけ込んで、お戀ちゃんに手ェ出すんじゃ.......」
 そこまで言いかけて、おふくは左腕にしっかりお松を抱きながら、右手の親指と人差し指をあごに当て、何事か思案するような表情になると、
「.......いや、手ェは.......場合によっちゃ、出してもかまわないかねぇ。お戀ちゃんの方から、あんたにすがりつくこともあるかも知れないし。ただね、もしお戀ちゃんが孕んだりしたら、あんたはまだ所帯持てるような身じゃないから、そこんとこは、まぁ、上手くおやりな」
「はぁ!? こげんときに何言うとか、こん婆ぁ!」
 顔を真っ赤にし、階段を素早く駆け上がると、やや遠いおふくの耳にもはっきりと聞こえるほどの勢いで、ピシャリと激しく襖を閉める音が聞こえた。
 場所を変え、おふくは絵双紙と貸本の購入賃と貸し賃の支払い場兼、昼餉と八つ時の休憩所たる四畳半の間へ向かい、自分の下腹にしがみついていたお松を抱っこし、自分の履物を脱ぎ、縮緬地の薄赤色の鹿の子の鼻緒が着いたお松の朱色の履物を脱がせてやると、そこに上がった。
 二つ折りにした座布団を枕にし、ふたりでひとつの枕代わりにし、まだ泣き止まないお松は、おふくの両襟をぎゅっとつかんで、胸に顔を埋めた。
「あぁ、よしよし。大丈夫だ大丈夫だ、寝ちまいな、寝たら楽しい夢が見られるからね。泣いて寝て起きたら腹が減る。ばっちゃがまた、美味いもん、夕餉に出してやっから、な?」
 何度もうなずくお松の頭を、おふくは
愛おしそうに撫でた。
「お松っちゃんの好きなもん、一番、かぼちゃとあずきのいとこ煮、二番が菜飯、三番、味噌田楽、四番、ねぎま、五番、奈良茶、六番、幾世餅、七番、餅花、八番.......」
 適当に節をつけてお松の好物を並べ上げて行くと、お松は既に寝息を立てていた。
 おふくは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を、手元に置いてある、竹籠に入れたちり紙を
数枚取り、まぶたや鼻が赤くならないよう、さらに顔も、出来るだけ優しく拭き取ってやりながら、不埒なことを妄想していた。
(もし、もしもだよ。お戀ちゃんがあれの子を孕むようなことになりゃ、あれに店主の座を譲って、アタシは隠居。ふたりが晴れて夫婦(めおと)になったら、二階の部屋に住まわせて、お戀ちゃんがしろい湯に働きに出てる間は、アタシが赤ん坊の面倒見てやるんだ。お松っちゃんだって、弟か妹が出来たみたいで嬉しいだろうしねぇ。えぇっへへ、何だか楽しくなって来ちまった。ま、どうせ叶わぬ夢だろうけどさ)
 ーー一方、二階。
 戀夏は入り口から見て左側にある、押し入れと壁が垂直になる部屋の隅に向かい、両足を抱え、両ひざの上に顔を伏せ続けていた。
 上半身と両ひざを緊縛していた縄は、【於多福屋】に着くと縄の方から勝手に解けたが、まだ、鴉に貼られた御札はそのままだ。
 四畳半の狭さ故、遠く離れて距離を置くことも出来ない新谷は、開け放った障子の敷居の上に腕組みして腰かけ、左足を敷居の上に乗せ、右足を畳の上に下ろしている。
 六尺の身の丈には実に窮屈なのだか、自室とはいえ他に身の置き場がないのだから、仕方ない。
「姐さん、昼にもなってなかうちから何ですが、一杯やらんとですか」
 新谷は押し入れを開け、秘蔵の壱岐の麦焼酎の大徳利と、一対のぐい呑みを出すと、こぼさないように丁重に、一杯ずつ浅く注(つ)いだ。
 ぐい呑みは長崎から江戸にやって来る際、風呂敷一枚に包む程度しかなかった着替え以外に、首からかけて持って来た珊瑚のそれ以外に、唯一持って来た品である。
 蚤の市で安く購入した品で、あまり酒に強くない両親は、自家製の梅酒をわずかに注いでは、あっさり酔いがまわって、すぐに眠り込んでしまったものだ。
「.......して」
「あ?」
「剥がして、これ.......もォ、暴れないから.......」
 恐ろしくしおらしい、蚊の鳴くような声で、戀夏は訴えた。
 ほっと胸を撫で下ろすと、石像のように
固まった戀夏をこちらに向き直し、鴉の貼りつけた急急如律令の御札を剥がしてやった。
「.......ねェ、これ.......焼酎?」
 ぐい呑みを両手で持った戀夏は、真っ赤に充血した両眼でそれを見つめ、鼻で匂いを嗅いだ。
 嗚咽は収まっているが、涙はまだ止まっていない。
「『壱岐の麦焼酎』て、兎知平のおっさまの長崎の土産物ですたい。そんぐい呑みば、おいがガキん頃、蚤の市で、おいが父(とと)さんと母(かか)さんに買うたったもんで.......」
 新谷が言いかけた途中で、戀夏はぐい呑みに浅く注いだ麦焼酎を、一気に呑み干した。
「うーわ、匂いも後味もすげェクセ強ェな、これ」
 言いながら、戀夏は右手の甲で口許を拭った。
「ほー、こりゃうったまぐる! ザルでうわばみん姐さんが、麦焼酎でぐーば見とらすたる」 
 そして、新谷もぐい呑みに注いだ麦焼酎を呑み干したが、新谷にとってはむしろ呑み慣れた、かつ懐かしい味である。
「.......ムカつく」
 戀夏がまだまだ止まりそうにない涙を流しながら、口を尖らせ、そっぽを向いた。
「何でてめェが、こんなクセ強ェ酒、さらっと呑めんだよ、納得行かねェわ」
「そりゃおいば、生まれも育ちも長崎ですけん。こんくらいではぶてんと、姐さん」
 立てひざをつき、伝法鉄火なたたずまいで自分のお株を奪われ、ふてくされる戀夏に、新谷は安堵した。
 ようやく、いつもの『姐さん』たる戀夏が
戻って来てくれた、とーー。
「新谷ァ、もう一ぱ.......!?」
 そのとき、新谷が手にした手拭いが、戀夏の顔にそっと触れた。
 まだ乾き切っていない涙を、拭き取ってやったのだ。
「な、ん、だよっ!」
 予想外の出来事に、戀夏は思わず新谷の手を振り払ってしまった。
「もう酔ったとですか? 姐さん。ーー顔ば赤うなっとるとです」
 わかっていてわざと、新谷は言った。そう、根っからの莫連女のくせに、戀夏はこの手の状況下には滅法弱い。
「新谷ァ、てめぇあたしをからかってんのか、ざけんな!」
 照れ隠しと悔しまぎれに、戀夏は大徳利から自分のぐい呑みの飲み口ぎりぎりまで、一気に麦焼酎を注いだ。
 ぐっ、と一気に呑みかけて、途中で激しくむせた。
「大丈夫すか!? クセも匂いも強か言うとっとに、しゃっちで呑むけんーー」
「うる、げほっ、せぇ、ごほっ、なぁ! ごふっ、げふっ」
 水代わりに、戀夏はニ、三度のどを鳴らして麦焼酎をゆっくりと呑むと、咳き込みは収まった。
 「あんたば、危なっかし過ぎるったいーー」
 いつの間にかあぐらをかき、ぐい呑みから麦焼酎をすすりながら、いつにない真顔で、新谷は言った。
「あんだよ。それ、あたしのことかァ? てか新谷、てめぇいつからあたしのこと『あんた』なんて呼べる立場になった? あァ!?」
 呑み慣れない酒を立て続けに呑んだせいか、既に軽く酔いがまわっている自分を、戀夏は理解していない。
 「そぎゃんつもりは、いっちょんもなかとです」
「あー、そうだ。ねぇねぇ、あのさァー、あんた、首から何かかけてるよねー。何かキラキラして、綺麗なの、あたし、さっきあんたに背負われたとき、見えたんだよねェ。ね、何アレ?」
 「!!」
 絡み酒になって来た戀夏が、身を乗り出して新谷の襟の合わせを指差した。
 新谷の顔色が、すっと蒼冷めたのにも気づかず。
「こいは.......死んだ妹の形見です.......たい」
「ふーん。そォなんだァー。そういうんなら、あたしも似たようなもん、持ってるよ。形見とは、ちょっと違うけどォ」
 言いながら、戀夏は首から下げた銀色の細く長い網目の鎖に通された、銀の輪を見せた。
 その銀の輪に、新谷は目を疑った。
 それは明らかに、ともに南蛮渡来の白銀の、目の荒いネックレスに通された、指輪であったからだ。
「ちょ、ちょ.......姐さん、こいば!」
「ん? そこに彫ってある字ィ、読めんの? だったら教えてちょーよォ」
 戀夏は銀の長鎖に指輪を通したペンダントを首から外し、あっさり新谷に渡した。
 ーー当時、長崎には「オランダ通詞」なる、世襲制の町役人がいた。鎖国以前はポルトガルとの交易が中心であったが、鎖国以降、海外との交易はオランダのみとされ、それまでポルトガル語の通訳を勤めていた役人達はポルトガル語を媒介にし、オランダ語を習得するという、特殊技能を身につけたのだ。
 ーー当時、まだ十二歳の新谷はその「オランダ通詞」の町役人の屋敷で、水汲みに風呂炊き、薪割りと言った下働きをしていた。
 しかし、仕事の合間に、寺子屋に通う妹の縫と定次郎の勉強を見てやるため、働くために辞めてしまった寺子屋の勉強に勤しむ新谷少年の姿を目にした人徳者な主人が、内密に働く時間を減らして、ポルトガル語とオランダ語を指南してくれたのだ。
 さすがに会話までは習得出来なかったが、日常会話程度なら、ポルトガル語とオランダ語の読み書きはわずかに出来る。
 ーーあまりに久しぶりなため、記憶を取り戻すのに時間がかかったが、指輪の内側に細く彫られた文字に目を凝らし、それが戀夏の母からの言葉であることを理解した。

【はは ふゆ より れん へ なつと いつまでも なかよく ねがう 】

「ねェー、読めたァ?」
 行儀悪く、左掌を畳の上につき、右手でぐい呑みの中の麦焼酎を傾けながら、尋ねて来た。
「読めた.......とです」
 我知らず震える声で、新谷は彫られていた文字をそのまま口にした。
「姐さん、姐さんば.......」
 あひゃひゃひゃ、と天井に向かって、戀夏はけたたましく笑った。
「あたしも実は、あんたと同じ長崎の生まれなんだよ。でも数えで四つのときまでしかいなかったから、あんたみたいに長崎の言葉はひとつも話せないし、何も覚えてないけどねェ?」
 唐突過ぎる告白に、新谷は声も出せないほどの衝撃を受けた。
(ーー姐さんが、長崎の生まれ!?)
「あたしの母ちゃん、丸山遊郭の遊女で、羅紗緬(らしゃめん)で。で、その結果が、この髪と、この瞳の色なわけ!」
 戀夏が新谷の額に自分の額を押しつけ、両掌の人差し指と親指でまぶたと眼の下をいっぱいに開いた。
 ーー新谷はそのとき初めて、戀夏の瞳の色が、紺青の深い瑠璃色であることを知った。
 それなりに長いつき合いながら今の今まで気づかなかったのは、戀夏とまともに視線が合わせられなかったからだとは、口が裂けても言えない。
「ふゆ.......は、姐さんのおっかさんてのはわかったとですが、なつ、てのは誰(だい)ですね?」
「弟。双子の。父ちゃんが外国(くに)に帰っちまって、母ちゃん一人じゃあたしら育て切れなくなって、その指輪を渡されて、売られたんだよ。たまたま長崎に来てた、軽業師の一座に。男と女の、それもあいのこの双子ってだけで見世物になる上に、あたしはトンボ返りの技、夏は標的のあたしの身に当てない匕首(ヤッパ)投げの技を仕込まれて、女形にされて。双子のならではの息の合った芸って、売りにされてさァ」
「.......」
「けど、その一座の親方ってのが男色で。ある日夜が明けたら、あたしら一座の稼ぎ全部と、夏の奴さらって、夜逃げしてトンズラよ。で、あたしはその日から自分の名前に夏の字をつけ足して、戀夏って名乗るようにしたわけ。もし再会出来たとき、すぐ気づいて貰えるように、ね。それからあたしはすぐ夜鷹になったって、そういうわけェ......しっかし、夏の指輪には何て彫ってあったんだろねェ?」
 ーーこれまでの会話中、戀夏はずっと、ぐい呑みに浅く注いだ麦焼酎を仰っていた。
 いつの間にか立てひざをつき、完全に酔いがまわって、麦焼酎のクセの強い味と匂いに鈍麻したらしい戀夏が、空になったぐい呑みに自分で大徳利から、もう何杯目になるかわからない酒を注ごうとした、そのときだった。
(…………!?  ーー!!)
 酒匂の漂う新谷の唇に、自分の唇が重ねられていると気づくまで、戀夏は数秒を要した。
 それと同時に、酔いが完全に吹き飛んだ。
 新谷の両眼は閉じられているが、戀夏の両掌は見開く一方だ。
 (あ.......あぁ.......)
 反射的に新谷を突き飛ばそうとして、むしろその口づけを許している自分に気づいた。
 それどころか、見る見るうちに愛液に潤う股間さえ感じていてーー。
 新谷の両掌が戀夏の両手首をつかみ、戀夏の柄で細身な体は、あっという間に新谷の六尺の重い体躯の下に組み敷かれたが、今の戀夏に、何故か抵抗の意思はまったくなかった。
「.......姐さん」
 そこでようやく新谷はわずかに唇を離すと、荒い息の中で言葉を継いだ。
 新谷の黒い眼と、戀夏の瑠璃色の眼は、互いに視線を反らせない。
「正直に言うとです。おいば今、勃っとるとです。なんしてか言うとーー」
 新谷が少し体を上げると、黒い股引を履いた戀夏の股間に、固く熱いものが押しつけられた。
「おいば、姐さんのこつ好いとっとですけん。初めて会うたときから、ずっと」
 元夜鷹にして舟饅頭の戀夏には、数え切れないほど触れて来た、実によく知った感触だった。
 新谷が何のためらいもなく言ってのけた通り、勃起した男根の、着物越しの感触。
「あ、あの、あた、あたあたた、あたしっーー」
 その気になれば、新谷ぐらいの大男の手首ぐらい、ひと握りで容易に骨折させられるはずだが、まったく力が入らない。
 それは酔いがまわっているからでもなく、実は新谷の方が戀夏の脅威的な腕力を凌いでいるからでもない。
 戀夏の心の奥底ーー本音が、この状況を享受しているのだ。
 次に新谷は、襟の合わせ目から直に右乳房に、ごつく骨ばった左掌を差し込んで来た。
「んっ!」
 一瞬、鋭い痛みが走った。固く尖った乳首に、新谷のごわごわとざらついたした大きな掌が触れたのだ。
「姐さん、姐さんのここば、なんぞおいの股と同じに、固たぁなっとりますたい」
 わざとらしく耳元でささやいた途端、戀夏は頬を染め、左手の人差し指の第二関節を歯で噛むと、新谷から顔を反らした。
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 新谷は、戀夏の豊満な乳房を揉みしだく。
「おいば、ずっとこうしたかったとです。姐さんのこのふとか乳揉んで、ケツばわしづかみにして、唇ば重ねてーーそしたら、やっちゃ奥んまで、舌ば絡めて.......」
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「え?」
 今度は、戀夏が新谷を責める番だった。
「後ろに両掌をついて、褌取りな。でもって、両脚は痛くなるぎりぎりまで開くんだ。でねェとあたしがやりづれェんだから。ほら、早ーやーくっ!」
 この後、新谷の男根が戀夏の口腔に咥えられ、竿に絡みつく舌にねぶられ、口腔いっぱいに吸い上げられること、一回。     
 戀夏の豊満な乳房に竿を挟まれて擦り上げながら、亀頭をしゃぶられながら、先端を舌先で突つかれてはを繰り返されること、一回。
 わずか二回とも大量に射精し、その精液はすべて、戀夏に飲み下された。
「あんたの精.......濃いのに甘くて、飲みやすいねェ.......美味ェよ、最高だよ.......」
 「そ、っすか.......」
 男は射精した後、本能的に眠くなる。
それも、これだけ激しく、しかも久しぶりに搾取された後での眠気は尋常ではなく、新谷は酔いも手伝って、そのまま四畳半の大半を占領するように、大の字になって、眠りに落ちた。
 「新谷ァ.......」
 寝顔に触れ、心の内でつぶやいたつもりが思わず口に出てしまった瞬間、戀夏は咄嗟に口をふさいだ。
 そして恐る恐る股引の中に右手を差し入れ、さらに陰部に差し入れてからてを引き抜くと、五指には蜘蛛の巣の如き愛液の膜が、ねっとりと絡みついていた。
 両眼を閉じ、ふたたび陰部に戻した右手で、赤く勃起しているだろう肉粒を中指の先て弄りながら、戀夏は妄想する。
ーー自宅の二階。
 きっちり雨戸を閉め切った、六畳の真の暗闇の部屋。
 新谷が、濡れそぼった股間に顔を埋め、唇と舌で愛撫してくれ、自分はその後頭部をつかんで、泣きながら哀願する。
(あはァ、いい! いいの、気持ちいいから、止めないで! )
 ーーと。  
 ほどなくして、挿入の瞬間が来る。新谷は律儀に、今から戀夏の膣内に、自分の勃起した男根を挿入する、と言う。
 ずっ、と挿入された男根は、戀夏の膣内に深く埋められるほどに、快楽が増す。
 一旦、互いに動きを止めた戀夏と新谷は、既に互いの汗と戀夏の愛液に濡れそぼった布団の上で、固く抱き締め合った。
 戀夏の妄想の中で、新谷の腰が激しく前後し始めた。
 それと同時に、戀夏の自慰に寄る絶頂が徐々に高まりーー戀夏は達した。
 両足の間に、きつく右手を挟んで締めつけつつ、全身を激しく痙攣させながら。
(.......嘘、だろ.......新谷のこと考えながらイくなんて.......あたし.......)
 自身の行為を酷く恥じながらも、戀夏の心に一切の後悔はなかった。
 (けどこのぬるぬる、どうしよ)
 辺りを見まわして、戀夏はひっそりと新谷の着物の裾の裏側で、手を拭いた。
 戀夏はまだ淫靡な匂いが残る指で煙管に火打ち石で点火し、煙管を吸い始めた。
 ふーっ、と一息目の紫煙を噴き出すと、
(あァ.......口と乳で二発も抜いてやった後の一服は、さすがに美味ェなァ.......)
 そのまま、戀夏は新谷の頭の脇で立てひざをつきながら、体を前後に揺らし、煙管を心行くまで味わった。
 結局、新谷は夕餉の刻まで目を覚ますことはなく、戀夏はいつの間にか二階から姿を消していた。
しかしーー。
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 その間、巫女の部屋からはカタカムナ全八十首を詠い上げ、ひふみ祝詞、天津祝詞と、無数の「ウタヒ」が聴こえて来たが、巫女から呼ばれぬうちは、自分は部外者だ。
「鴉! 鴉ぇ!」
「はい!」
「見やれ」
 何とそのとき、暁の巫女は剃刀の刃の峰を、口に咥えていた。
 そして、峰から口を離すと、真下にある、薄く水を湛えた生け花用の平皿の上に落とすと、透明な水面いっぱいに赤い波紋が広がり、その中から一頭の黒アゲハがふわりと舞い上がり、そのまま刺青の如く、暁の巫女の鼻の付け根を軸とするかのように、両の目元から左右の頬まで黒アゲハが肌に吸い込まれた。
「どうにも昼間から顔が疼くと思うておったら、【うらみすだま】の黒蝶ぞ。鴉、明日の亥の刻四ツに、招集をかけや。兎知平めは、今どこにおる」
「もう既に江戸入りし、こちらに向かっていると、ヤタめから伝え聞いておりますがーー」
「鼠取り薬売りに早よう化けさせて、組子らに通達させよ。刻は明日の昼四ツ半。しかしそれ以降は各々が日常を全うせいと伝えい」
 鴉は簾越しの暁の巫女に向かい、深々と頭を下げた。
「かしこまりまして、ございます。して.......使う組子は?」
「『上野喰代サの四番』」
 ふっ、と、鴉は思わず吹いてしまった。
「何だ、何ゆえに笑う」
「その【うらみすだま】の魂の主が、あの組子の者らと、をわずかに袖振り合いし縁(えにし)を持った者だからでございましょう? 特に、あの『雪月花』ならぬ、『雪血華(せつげっか))』なる女ーー戀夏と」
「えぇい、まさしくその通りよ。やはりそなたに隠し事は出来ぬのじゃなぁ。いつもいつも、腹の底まで見透かされておる」
「それは、我も貴女様と同様、人にして人にあらざらぬ者でございます故ーーそうではございませぬか、『飛騨の鬼姫』様?」
「ふん、何と久しく聞いたふたつ名であることよ、そのふたつ名は」


  



 



 







 




 



 







 






 

 


 




 
 

 
 



 

 
 


 


 








 


 




 











 

 

 


 
 
 

 
 




 


 
 
 
 









 



    
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百合ランジェリーカフェにようこそ!

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別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

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