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死ノ肆事⑴・第壱章《怪眼触手・様子見之擬態》

壱之罰「滅黯夢幻仕事」ー髪結いの亭主ー

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「ーーですからね、俺は。盲の嫁には醜女がいちばんだと思ってるんですよ。これぞ『割れ鍋に閉じ蓋』ってやつじゃないかと、はははっ」
 その発言に、男ばかりのまばらな客達の視線が、一斉に亭主に注がれた。
「ん? でもこの場合、どっちが割れ鍋で、どっちが綴じ蓋になるんですかねぇ? まぁ、盲は按摩や鍼灸で人様の役に立つんでやすから、見てるだけで気分が悪くなる醜女の方が、割れ鍋でしょうなぁ」
 ーーここは、忍川が不忍池から流出する出口の、御成街道にかかる、左右中央に分かれた三つの橋、三橋左橋の袂にある髪結い床。
 屋号を『獺坊主』
 獺が僧衣をまとい袈裟をかけた絵が、軒先にかけられている。
 「獺=かわうそ=うそ」で、「嘘を言(ゆ)ってはならない」
「坊主=僧の頭」は、「丸坊主だから結えない」
 に、引っかけているのだ。
 ーーこの頃、髪結い床は一町につき一軒と定められていた。
 髪結い床が営める場はふたつ。
 一に、長屋の脇の「内床型」
 二に、町境の空き地か橋の袂の「出床型」
 経営陣は、亭主たる親方ひとりにつき、下職と呼ばれる弟子達(見習いの新人)から、中床(中堅の店員)を合わせて、ひとりから三人まで雇えた。
 腰高障子には、主に海老やだるまなどの絵が描かれており。
 入店すると、すぐに上がり框、三尺強から四尺弱ほどまで板敷きになっており、その奥は畳敷きの待合所。
 碁盤に将棋盤、読本、煙草盆が常備され、客達のちょっとした社交場となっている。
  順番が来れば、まず小僧のいる上がり框に腰かけ、元結切りをする。
 次に、植物油に生蝋と香料を混ぜて練ったものを髪になでつけ、フケを丹念に取り除き、下ろした髪を梳く。
 次は、中床が月代と顔を剃り上げ。
 最後は、親方が結い上げの仕上げを行う。

一、月代剃り
二、髪ほどき
三、顔剃り
四、結い上げ(髷の結い直し)

 以上の四つが、一回の「定番セットコース」であった。
 料金は、十六文から二十八文。
 現代の金額に換算すると、五百二十円から九百十円。
 当時の町人の平均月収は三百文、今の七千五百円。
 江戸の庶民の洗髪頻度は一ヶ月から二ヶ月に一回で、故にフケ取りなどという施術があったのも、当たり前のことだった。
 そして今、客の髪を剃っているのは「獺坊主」の亭主にして、親方の実吉(さねきち)だ。
 齢二十七、この道二十年になる。
 そして髪を剃られているのは、按摩の滅黯、十八歳。
 何故か滅黯は按摩ながら有髪で、髷も結わない立髪だ。
 彼が毎月この髪結い床で頼むのは、顔剃りと、月代剃り代わりの軽い髪の剃り落としによる調髪だ。
 ーーこの「獺坊主」には、現在「中床」がいない。
 少し前まで「おみつ」と呼ばれていた、髪結い床には珍しい、実吉と同い年ほどに見える女ーー現代で言うなら、女性理容師であるーー細身で機敏かつ、目尻の長い奥二重が印象的な女がいたが、半月前に故郷の房総に帰ったと、滅黯は待合所で耳にしていた。
 そのため、月代剃りと結い上げは実吉が行い、顔剃りはふたりいる「小僧」のうち、半年先に弟子入りした、十歳の隆次(りゅうじ)に任せている。
「ところで、按摩さん?」
 調髪を終えた実吉が、どこかいやらしさを含んだ笑顔で声をかけた。
「へぇ、何でやしょう」
「按摩さん、いつもそうして青海波の手ぬぐいで両眼を隠してられるのは、確か両方とも、眼が『死んだ魚の目ぇみたいに白く濁ってて、女、子どもに怖がられるからだ』って、仰ってましたよねぇ?」
「そりゃ、もちろん。あっしがこの髪結い床に初めて来た日に、御亭主にお願げぇ致しやしたからねぇ。『あっしはここで髪と顔を剃って頂く間、ずっと両眼を閉じておりやす、もしうっかり開いちまっても、そんときゃあどうぞ、見ねぇでおくんない』ってぇね」
 滅黯の口調は、あくまでも穏やかだ。
 実吉が滅黯の首と肩まわりから、剃り落とした髪を、持ち手が長く毛先の短い棕櫚の小箒で払い落としながら、
「按摩さん、一度見せてくださいよ、その白い眼。俺はね、夕餉にいさきやかますの焼き魚、朝餉に鯵やサンマの開きが出るたび、按摩さんの眼のこと思い出しちまって、気になって仕方なくて、ねぇ? ーーへへへっ」
「ーーそれはかまいやせんが、御亭主があっしの眼を見てぇのは、他にも理由がおありなんじゃござんせんか?」
「ありゃ、バレましたか。按摩さんはサトリ並みに勘が鋭いってぇのは本当ですな。いやね、お恥ずかしいお話なんですがーー」
頭を掻きながら、実吉は続けた。
「ウチの五つと三つの坊主ども、半年前に三番目のガキ、一つの娘っこが産まれてから、わがままがひどくなっちまいましてねぇ。あれが、赤ん坊返りっていうんですか? それで坊主どもが癇癪起こしたり、俺や嬶のいうこと聞かねぇときに、按摩さんの白眼の話を持ち出したら、少しはあいつらもおとなしくなるんじゃねぇかと、そう思いましてね?」
「ほぉ、するってぇと……」
「お、ぉーー親方っ!」
 その瞬間、開ければそこは流し場の二枚障子の向こうから、ひとりの少女ーーいや、童女が飛び出して来た。
「何だ?  アサ」
 アサは、齢九つの小僧だ。
 たすきがけをし、白緑色の赤とんぼ柄の葡萄色の質素な麻の着物に、萱草色の無地の帯の下から、生成りの前かけをしている。
 髪は編み込みの三つ編みにして背中に垂らし、結び目を元結いで束ねているだけ。
 顔はそばかすだらけで、まるで垢抜けない、ひどく野暮ったい。
「そんなこと、やめてください!」
「やめる? 何をだ?」
「おいコラ、アサ! っのチビ! てめえ女のくせして、親方に逆らおうってのかぁ!?」
 褐返色の無地の木綿の着物に無地の絹鼠色の帯を締めた隆次が、アサにつめ寄った。
 くりくり坊主で全身浅黒く、よく日焼けした肌。
 目つきからして、見るからに生意気そうな、悪ガキの風貌だ。
 「つまり、こういうことでござんすか? 『白眼の按摩が来~るぞ~、白眼の按摩が来~るぞ~』ってな風に、お子さんを脅かしなすりてぇ……と?」
「そうそう、よくわかってらっしゃるじゃありませんか!」
 実吉は、あくまでも朗らかだ。
 だが、アサと、老若問わず順番待ちの客達にとっては、それらの会話は実に気まずく、不快なものでしかないのだ。
《ーーですがねぇ。世の中にゃ、あんた様が知らねぇ方がようござんすことが、山ほどあるんですぜ、御亭主ーー》
 滅黯は素早くのどを指先でつつき、一瞬にして、自分の声を実吉にしか聞こえないように『調律』した。
「え? 何ですかい、按摩さ……」
 その直後、突如として、実吉の金切り声の悲鳴が辺り一面に響き渡った。
「きゃあ!?」
「な、何だなんだ!?」
 アサが悲鳴を上げ、隆次があわてふためき、客達もまた、それぞれに悲鳴や驚愕の声を上げた。
 実吉は滅黯のかたわらにへたり込み、後ずさりしようとしている。
 だが、何度も何度も背中を大黒柱に打ちつけて、それ以上後ずさり出来ずにいる。
 ーーそれというのも、滅黯が実吉に向けて開いた両掌にあった。
 滅黯の両掌の真ん中には、そこに埋め込まれたかのような眼球がついていたのだ。
 左右の眼球が好き勝手に上下左右に視線を変え、右眼も左眼もどこにも焦点を定めようとしない。
《ーー御亭主、按摩の姿をした『手の目』てぇ妖怪を、御存知でやすかい?》
 滅黯の問いに、実吉は否定も肯定も出来ず、ただその場にへたり込んだまま、両足をがくがく震わせている。
 血の気の引いた真っ青な顔で、それでも実吉は滅黯の両掌の眼球から、視線がそらせない。
 《実はあっしは、その『手の目』なんでごぜぇやす。あぁもう、ですから申し上げたんでさぁ、知らねぇ方がよござんす、とーー》
 滅黯の両掌から眼球がせり出し、平面から立体に変じた。
 文字通り球体の眼球の後ろには、複雑に絡み合った生々しい視神経の束が、この世のものとは思えない触手のように、ずるずると伸び始めた。
 ふたつの眼球は、実吉の顔をあらゆる角度からじろじろと見つめ、やがて全体から、油状の、精液と栗の花に似た不快臭を放つ、透明なぬるぬるとした液体を、実吉の全身に滴り落とした。
「ーーおィ亭主、さっきから聞いてりゃなんだってんだよォ、てめエァ」
 滅黯が使う杖に左腕を絡め、待合所に座していた奇矯な風体の若い女が、口に咥えていた長煙管の吸い口から唇を離し、紫煙を細く長く吐き出すと、共用の煙草盆にカツン、と火種を落とした。
 薄紅梅に黄アゲハが舞う、派手な着物の裾を男並みの尻端折りにし、その下には黒の股引を履いてはいるものの、それが太もものつけ根から、わずか三寸ほどの丈しかないものだからーー。
 女がずっと待合所の壁に寄りかかって、左足は立てひざをつき、両足の裏をくっつけて大股を開き続けていたその白くしなやかな両足と股ぐらは、まばらな男客達の良き目の保養になっていた。
 鋭い女の声にはっと我に返ると、実吉を凝視していた奇怪な両眼の触手は、跡形もなく消え失せていた。
「あ……あぁ?」
「ーーなんでェ、狐か狸に化かされたみてェな抜けたツラァしやがって。っの野郎、盲の嫁にはブスがいいだの、てめェんとこのガキにいうこと聞かせるために黯に眼ェ見せろだの、黙ってりゃ好き放題ほざきやがってよォ?」
 その鮮烈なまでの美貌と、恐ろしく威勢のいい啖呵に、滅黯を除く周囲の者達は皆気圧され、思わず息を飲む。
「人様の生まれや姿形をバカにするようなことばっか言いくさりやがって。てめェ、あんなんマジで面白れェと思ってんのか? あァ?」
 何かの染料で染めているのか、それともこれが地の色なのか。
 女が左側頭部で高々と結い上げ、ちりめんの端切れで飾った髪は褐色(茶髪)で、そこに細かったり、少しだけ幅広だったりと、黄金の筋(金のメッシュ)が、幾本も通っている。
 女ーー戀夏が、わずかに褐色がかった蛾眉を吊り上げ、荒ぶる口調で実吉の襟をつかみ、へたり込んだままの彼を左腕のみで立ち上がらせると、洒落者らしく、高麗納戸色の足袋を履いた実吉の爪先が、床の上から二寸は浮いていることに気づいた男客達から、血の気が引いた。
 戀夏は素早く右手で喉輪を喰らわせ、実吉を大黒柱に押しつけた。
 実吉の爪先と床の間は、二寸から四寸に上がり、戀夏の右袖が二の腕まで垂れ下がり、そのか細く白い腕があらわになった。
 その瞬間、一部の男客達がざわめいた。
(お、おい!? あ、ありゃ、あの腕ぁーー)
(べ、『紅の夾竹桃に蝮が潜んだ紋々』それにあの赤毛ーーってこたぁ、あ、あのどエラいべっぴんの……はーー)
「あたしにはちィとも笑えなかったし、寒かったし、マジ痛てェったらなかったんだけどよォ~? ついでにいうと、聞いてるだけでムカっ腹立って仕方なかったけどねェ!ここのお客さん達は、あんなんで笑えんのかィ。なァ、どうなんだよォ?」
 満面の笑みを浮かべて、戀夏は待合所の男客達に振り返った。
 いきなり話を振られた彼らは動揺し、誰もが口ごもるばかりで、答えはない。
「あ、アタシは……い、いぃ、嫌でした! すごく、すごく!」
 真っ先に声を上げたのは、実吉の弟子の、アサなる娘であった。
 前かけを両掌で握り締め、前のめりになって声を張り上げたのだ。
「「ア、アサ!?」」
 実吉と隆次が、異口同音に叫んだ。
 「アタシがここで働き始めたとき、そんなそばかすだらけのみっともねぇ顔じゃ看板娘にもならねぇ、おたふくかおかめの面でもかぶってた方が、笑いが取れて客が入るって、親方に笑われてーー洗い場で泣いてたら! 隆のあにさんも『親方ぁ、そりゃ禁句ですよぉ!』なんて煽って、ふたりで腹抱えて笑って……あにさん、あんたも親方と同じじゃないのさ!」
 前かけで涙を拭き拭き、アサは真っ赤に充血し、濡れた双眸でふたりをにらみつけながら、思いの丈をぶつけた。
「けっ、何でェ何でェ! こんな小せェ娘っ子がいちばんに声上げたってェのに、亭主の話が面白れェか面白くねェかもいえねェのかィ、おめェら!」
 ーーしばし髪結い床中が無言、ではなく無音になった後、男客達がぽつぽつと声をもらし始めた。
「お、俺も……嫌……だったよ」
「だよな……」
「そりゃよぅ、御亭主は確かに腕はいいさ。けど話すこたぁ、『この間、顔が菊石(あばた)だらけのひでぇ醜男の客に、新しい髷の結い方を薦めておだてて結わせたら、思ったとおり似合わねぇの何のって。そいつが髪結い代払って、俺の声が聞こえなくなるまで、あれがここから帰って行くまでの間、笑いを堪えるのが大変だった』だのーー」
「『醜女と醜男は飯を見習え、飯には何を乗せて食っても美味いが、人のツラが飯で髪が食い物なら、醜女と醜男の頭はどんな形に結っても、下が不味いことには、どうしたって不味くしかならねぇ』なんてよぉーー」
 あちこちから、雨後の筍の如く湧き上がる、不快感を訴える常連達の声。
 実吉の顔は赤くなったり青くなったり、終いには、紙のように白くなった。
 その瞬間、実吉を喉輪から解放した戀夏は、
「そんだけ不満があんだったら、さっさと言えってんだ。おめェらの股についてんのァ、玉と竿じゃなしに、お稲荷さんと蒲の穂じゃァねェのかィ!」
 男客達と隆次は、その一声に黙り込んだ。
 しかし、髪結い床なる小城なれど、一国一城の主たる実吉は、そこで怯まなかった。
 「姐さんあんた、他所の髪結い床のまわし者で、ウチにケチつけに来た潰し屋かい」
「は? んなわきゃねェだろ」
「じゃあ、何しに来たんだ!」
「あたしはその按摩のツレさ。それで、てめェがそいつーー黯に話しかける一言一句が気に食わなかったから文句つけた。したら、てめェんとこの娘っ子の弟子と、野郎の客どもが、てめェへの不満と本音を言った。そんだけのことじゃねェかよーーだいたい原因は、てめェのバカさ
加減にあったんじゃねェかィ、っのボケナスがァ!」
 腕組みしての正論に、実吉は一瞬怯んだが、長年の客商売は伊達ではなかった。どこの馬の骨とも知れない女白浪風情に、引き下がるタマではない。
「隆の字、今すぐ番屋行って、この女ーー」
 そのとき、複数の溜め息や舌打ちとともに、待合所にいた常連客達が全員、示し合わせたかのように上がり框を降り、髪結い床の入り口からたった一歩の土間に脱いでいた草鞋や下駄に足を通し、無地の藤色の暖簾をかきわけ、ぞろぞろと店を後にする。
 予想だにしていなかた展開に、実吉は当然慌てた。
「み、皆さん方!? い、いったいどうなすったんでーー」
「悪りぃな。俺ぁもう、あんたにゃ何も言いたかねぇよーー強いていうなら、やっとこ自分(てめえ)の気持ちに正直になれたってところかねぇ」
 「俺も似たようなもんだ。俺の場合はーーそうさな、あの姐さんのおかげで、男として恥ずかしくなった、目が覚めたってこった」
 ーー去り行く客達は、このふたりのどちらかに似た言葉を去り際に口にし、すぐさま『獺坊主』から、客はひとりもいなくなった。
 しかし、最後のひとりだけが実吉を憐れむような眼で、言い残した。
「……なぁ旦那よ、あんたこんだけ長げぇこと江戸で客商売してて、本当に知らねぇのかい?」
「な、何をで?」
「ーーはぁ~ぁ、『知らぬが仏』ってぇのは、真っ赤どころか真っ赤っ赤な大嘘だったんだなぁ。こりゃあ実に良い教訓になったぜ。今までありがとさんよ、旦那」
 最後の客は、意味深かつ不可解な言葉をーー。
『遺して』行った。
『残して』でない理由は、いずれ実吉が身を以て痛感することになるが、それはまだ少し先の話だ。

「「「俺ら、もう今日限りで店替えするぜーー」」」

 とどのつまりが、これまでの馴染みの客達全員に、そう宣告されたのだ。
 しばし呆然としてからようやく事態を理解し、愕然とするしかない実吉は、その場に力なくへたり込んだ。
「アタシも今この場で、お暇を頂戴致します、親方」
「ア、アサ!?」
 実吉はさらなる予想外の展開に、無駄に声を張り上げた。
「ーーこんな髪結い床を奉公先に選んだのが、そもそもの間違いでした。親方は上野一の腕前の髪結いだからって聞いて、だからアタシもここで一生懸命働いて技を身につけようって思ってたのに。先ほどまでいらした、お客様達のいう通りです」
 店から支給した生成りの前かけを、帯の下から抜いて丁寧に畳み、かけていたたすきをほどくと、こちらも均等な長さに畳み、床に置いた前かけの上に乗せた。
 そしてアサは胸元に左掌を当て、軽く深呼吸をすると、
「ーーお美津さんが、美津代ねえさんが、どうして何も言わずにここを辞めたかも、わからないくせに!」
「はぁ、お美津? どうして今、アレの名前が出て来るんだ!? どういう意味だ、アサ!」
「ーー言ってもわからないでしょうから、申し上げません」
 アサは暖簾に手をかけたところで、全身で実吉と隆次に向かい合い、ひざの上で両掌を重ね、深々と頭を下げた。
「今月分のお給金は、月末に頂戴に上がります。それでは、短い間でしたが、たいへんお世話になりました」
 そのあまりに毅然とした態度に、実吉はアサを怒鳴りつけることも、隆次は理不尽にアサに難癖をつけることも出来ず、固まった。
 ーーその心意気や良し、の意味と賞賛の意を込めて、戀夏が、深緋色の口紅を塗った艶めかしい唇を軽く尖らせ、ヒュウッと口笛を吹いた。
 そのまま、小さな素足を両足とも粗末な草鞋の中に収め、足早に店を後にしようとしたアサの左腕を、直前で隆次が左腕でつかむと同時に後ろにひねり上げた。
 あろうことか、隆次は両掌でアサの左腕を、左右から、渾身の力を込めて絞ったのだ。
「い、痛っ!」
「へへっ、てめぇが何か失敗したときに、俺が毎回欠かさず罰としてやってやった、雑巾絞りだよ!ったく、ふざけんじゃねぇぞこの恩知らずが。上だけで勘弁してやっから、裸さらして親方と俺に土下座して詫び入れろぃ。暇が出んのはそれから先だぁ、このチビがっ!!」
 ーーアサの脳裏に、仕事で何か失敗する度に隆次に裏庭に呼び出され、こうして『雑巾絞り』なる、手首とひじを両掌で握られ、ぎりぎりと上下別方向にねじられた記憶が、鮮明に蘇った。
 しかし次の瞬間、アサは隆次から与えられるその痛みから、あっさり解放された。
 アサは何故か土間で、いつの間にか一本足の下駄を履き、戀夏が預かっていた杖を右手に持っていた滅黯に、背後から左肩に手を置かれ、かばわれるようにして立っていた。
 アサの眼の前で、隆次は何故か万歳の姿で硬直していた。
 その背後には戀夏が立ち、よくよく見れば、戀夏の両手十指が、隆次の十指の谷間に、背後からがっちり喰い込んでいる。
「黯、あんたはその娘(こ)ンこと頼むよォ? このオスガキとバカ亭主ァ、あたしの獲物だかんなァ?」
「わかっとりやす。わかっとりやすが、何とぞ、死なねェ程度にお頼(たの)申しやすよ、姐さん」
 ーー戀夏の鮮烈な美貌に、満面の笑みが浮かぶと同時に、戀夏は隆次の十指から両手を離した。
 それと同時に、隆次は耳をつんざくような絶叫を上げ、その場に両ひざを折った。
「りゅ、隆次!?」
  実吉が慌てて弟子の元に駆け寄ったときにはもう、時、既に遅し。
 戀夏の十指が隆次の十指から離れる寸前、戀夏は隆次の十指の根元をすべて、同時に脱臼させたのだ。
「そんじゃァ、遠慮なくさせて頂きますよォーーアサちゃんに代わっての上半身裸になっての、土・下・座ァ!」
 ーー戀夏なる、髪色も身なりも奇矯極まりない女からの宣言は、実吉と隆次にとって、腹立たしい生意気な女を徹底的に貶められる、完全勝利のはずだった。
「言っとくけどォ、男に二言はないよねェ? あたしが土下座することに」
 ーー余裕しゃくしゃくで、実吉にも、半泣きでうずくまり、左右の十指を両掌でかばう隆次にも口をはさむ間を与えず、戀夏は両袖から両腕を抜き取り、襟の合わせ目から、上半身をあらわにした。
 次の瞬間。
 その場にいる滅黯を除く三人ーーアサ、実吉、隆次が一斉に眼を剥き、絶句した。
 戀夏の背中には、肩口から尾てい骨まで、一面に。
 余すところなくびっしりと、不動明王の彫り物が「刺青」の字そのままに青い墨で彫られ、皮膚に刻み込まれていた。
 いつも通り、体の前は上下の左右に紐を縫いつけ、上の紐は首の後ろで、下の紐は細腰をひとまわりしてから、二重にして腹の前で結ぶようにつけた長い紐を、上下とも固結びにした一枚布で覆っていた。
「あっれェーー? おっかしいねェ。あたし今、土下座してねェよなァ? 隆次とか言ったっけェ? あんた。なーなー、何であたしに土下座させないんだィ? 」
 露骨に隆次を挑発し、煽る戀夏に比例して。
 アサは、驚愕とかすかな恐怖から、両眼を見開いて両掌で口を覆い。
 実吉と隆次は愕然とするばかりだった。
「……これってさァ? あたしがただの『くっそムカつく生意気な女』から『お不動様の刺青背負った、マジやべェ女』ってわかったからだろォ? ったく情っさけねェなァ、オイ」
 戀夏が実吉と隆次の前にまわり込み、両肩から左右の乳房にかけて彫った、紅色の夾竹桃の花々と葉に潜り込み、三角の頭を除かせた刺青を見せつけ、ふたりを煽る。
「ーーアサさん。あっしと一緒に、早くここを出やしょう」
「え? で、でも、アタシ……」
「あんた様はもう、お暇を頂いたんですぜ? この髪結い床の中に、何ぞお忘れものはありやせんか?」
「あ、ありません!」
「でやしたら、もうここに用はござんせん。あぁ御亭主、お代はここに置いてきやすぜーーいつも通りの、顔剃り代と髪剃り代合わせて、二十二文でさぁ」
 滅黯は、身にまとった甚平の袂から、上部をねじった二枚重ねの半紙に包んだ四文銭五枚と一文銭二枚を、上がり框のすぐ手前に置いた。
「よござんすか、ここから先は間違げぇなく、アサさん、あんた様みてぇなおぼこい娘さんが眼に、耳になさるにはあんまりに毒な、下品で汚ねぇ言葉とやり取りの応酬になりやすんで、その前(めぇ)に、ね?」
「あ、は、はいっ!」
「ーーんなわけで、申し訳ありゃあせんが。あっしがいいと言うまで、アサさんは両眼と両耳をふさいどいておくんなせぇ」
 ゆったりと落ち着いていながら、どこか切羽詰まったように自分を急かす滅黯の言葉に、アサはごく素直に応じ、ふたりは足早に髪結い床を後にした。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「隆次とか言ったよなァ? てめェでけしかけといて、何だってんだィ、そのビッたツラァよォ」
 ーーぺしっと、戀夏は右掌で隆次の左頬を叩いた。
「させろっての」
 ーー平手打ち、右頬に軽く一発。
「だからァ、あたしに土下座させろよ。あたしが自分からやるって言ってんだからさァ。男に二言はねェっつったろ?」
 ーーまたも平手打ち、左右の頬に一発ずつ。
「だーかーらぁー、早くしろよ、あたしァいらち(=せっかち)なんだ。さっさとあたしに土下座させてよォ、ついでにその臭っせぇ足であたしな頭と横顔踏みつけてみやがれってんだ、っのガキがァ!」
 ーーその直後、平手打ちは往復ビンタに変わり、隆次の顔面が激しく左右に揺れる。
 いらちとは、本来江戸の者が使う言葉ではない。尾張のお国言葉だ。
 しかし、三歳で双子の弟、夏とともに、パトロンたるオランダ商人が、妻子のいる母国に帰国してしまった洋妾(らしゃめん)の丸山遊女だった母親によって、全国を周り興行を行う、見世物小屋の一座に売られたがため、否応なしに諸国を巡って来た戀夏は、感情が昂ると、つい各地の方言が出てしまう、特有の癖があった。
「ほらァ!」
 ーー隆次の左右の頬が赤くなり、口の中が軽く切れた。
「ほらってェ!」
ーー隆次の鼻孔から鼻血が垂れ、当人は半泣きで戀夏の両掌から逃げようともがくが、戀夏は決して両掌の力を緩めない。
 親方たる実吉はそれを止める術もなく、半ば腰が抜けたようになって、両足をがくがく震わせて、制止する手も声も出せない。
「あァ? ンっだよ、何か臭せェと思ったら、十にもなってションベン漏らしたのかよ、てめェァ! おい亭主、家に赤ん坊がいるってんなら、こいつ寝かせてケツ上げて、おむつ替えてやんな!」
 ーーその言葉に自尊心を粉々に砕かれた隆次は、下半身を小便で濡らしたまま、天井を仰ぎ、まさしく赤ん坊のように泣き喚いた。
「おいコラ、隆次っての。てめェはもう十(とお)だ、赤ん坊じゃねェだろが。だったらよォ、さっさと雑巾でてめェが漏らしたそこらのションベン拭けってんだよ、おィ!」
 戀夏は隆次の身から着物を引き剥がすや否や、その着物を素手で瞬く間にびりびりに引き裂いた。
 それらをすべて隆次の顔に叩きつけると、
「おーら、これが雑巾でィ。そんだけあンだからよォ、まずは小便拭き取って、次は残りの雑巾で水拭きして、次は乾拭き。ほれ、やったやったァ!」
 戀夏が語尾を強く言い放つと、隆次は自身の小便に濡れた褌一丁の姿で、床に水溜まりを作った自分の小便を、自分の着物だった布切れで、必死に拭き取り始めた。
「次はあんただねェ、御亭主」
 両足が瘧のように震え、 身動きの取れない実吉の顔から、血の気が引いた。
「安心しなァ、あんたにはいい年こいてションベン漏らさせるようなこたァ、しねェから」
 しかし、代わりに実吉がやらされたのは、失禁以上に屈辱的な行為だった。
 戀夏は細い首をこきこき鳴らしながら、
「ガキが三人だァ? てめェみてェなクズと夫婦ンなろうってェ女が、この世にいるたァねェ。そのツラじゃァ見た目に騙されたとは思えるねェし、同じ穴のムジナって奴かィ。その様子じゃ、ガキもクソガキなのが手に取るようにわかるよ」
「ーー!!」
 曲がりなりにも妻子持ちの男が、妻子を侮辱されて黙っていられるわけがない。
 思わずカッとなり、昔の地が出てしまった実吉は、戀夏の体の前を覆う、一枚布の胸ぐらをつかみ、戀夏の腹が見えるまでに、引き上げた。
 しかし、すぐさま戀夏が右手だけで実吉の襟の合わせ目をわしづかみにし、そのまま彼の首の後ろまで右腕伸ばし、そこでがっちりと固定した。
 その瞬間、実吉はひどく動揺した。
 女の細腕ひとつに、身動きがまったく取れなくなったのだ。
「……ふン、あんたもだいぶ腕力に物を言わせて来たみたいだねェ? だけどわかるよ、あたしには。あんたの腕力はてめェよか弱い者(もん)にしか向けて来なかったのがよォ」
「てめ……この野郎……!」
「腕力バカと喧嘩師の違い、身を以て教えてやるよ。喧嘩師ってのはなァ、自分より強い奴しか相手にしねェ、もしくは、女、子どもやジジババみてェな弱い者を理不尽に痛めつける輩を痛めつける。半殺しじゃなしに、全殺上等の気心でねェ!?」
「っのアマぁっ!」
 怒りが頂点に達した実吉が、ついに拳を握って戀夏の顔面を殴ろうとしたが、それは戀夏が首を軽く傾けただけで、さらりと交わされた。
 しかも、戀夏の右掌に拳がすっぽり収まっている。
「おィてめェ、足、さっきからずっとあたしに踏まれてんの気づいてねェのかァ? っの、バーーカ!!!」
 言われてようやく気づいた。
 実吉の両足の爪先から下に、内股になった戀夏の両足の爪先が乗っている。
 華奢な体躯に見合わず、その両足は不動で、実吉は心身ともにさらに追い込まれる。
 ーーやがて、初めはぎしぎし、次第にみしみしと音を立てて、実吉の右拳にじわじわと痛みが広がり始めた。
 まさか、こんな細身の女が、片手だけで自分の拳を砕きにかかっているとは夢にも思わなかったが、これは現実だ。
「やめっ、やめろ俺の負けだ、負けだっ! だ、だだだだから、だから、商売道具の手ぇ、折らねぇでくれっ、頼む、頼むっ!!! 手ぇやられちゃあーー」
「 おまんまの食い上げなんだ、嫁とガキと赤ん坊がぁ! 飢え死んじまうんだよぉぉぉ!!!」
「……ふぅーん……」
 そこで、実吉ははっと我に返った。
 戀夏の両掌が、十枚の爪をすべて緋色に染めたか細い白い十指が、自分の両耳の下の輪郭を、なでさすっていた。
 例えようのない恐怖のあまり、実吉の全身がびくっ!!! と跳ね上がった。
「おめェの顔よォ、将棋盤か碁盤みてェな輪郭してんなァ。そんなにエラ張ってて、てめェの親父(おやっ)さんとおふくろさんは、どっちが人で、どっちが魚だァ? コラ」
 さらりと言い放たれたその一言が、実吉の胸を抉り込んだ。
「その上、んーな一重の細っそい眼ェしやがって。そんなんで、てめェはちゃんと物見えてんのかって話だよ、あァ!?」
 ーー普段、人を言葉で理不尽に攻撃したり、容姿をいじったりする者ほど、実は自身にはその耐性がまるでないものだ。
  故に、戀夏のその一言で実吉の自尊心は木っ端微塵に砕け散った。
 密かに、物心ついた頃から、彼にとって最大の劣等感たる顔の部位を、真正面から二箇所同時に罵られたのだから。
「ほいっ!」
「ぐげっ!! 」
 ーー極めて押し込みの効いた戀夏のひざ蹴りが実吉の腹に直撃し、実吉はその場に腹を抱えて崩れ落ちた。



 







 








 

 
 
 








 
 
 
 
 
 
 

 








 

 


 

 







 

 
 









 


 


 
    
  
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