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死ノ肆事⑴・第弍章《水面の妖変・忍び寄る首》

弍之罰「滅黯夢幻仕事」ー髪結いの亭主ー

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「ーーだっからよォ、ほら、おめェがよくやってるさァ。何か、こんなのとかこんなのとかやってやりゃよかったじゃん!」
 言いながら、戀夏は両手を組んだり左右対称に指を立てたり、そこに隣りの指を絡ませる仕草をして見せた。
 九字印の結び方のことを言っているのだ。
 ここは、上野広小路の甘味処【紅はこべ】。
 天誅殺師の裏方たる存在ながら、一年中、東海道を往き来していること以外はほぼ正体不明、常に所在不明な中年の男、兎知平(とちへい)のまだ九つの娘、お松がひとりで切り盛りしている店だ。
「まっ昼間から、人前でんなもん見せちまったら、あっしのこの身はどうなるとお思いですよ。妖術使いって噂が広まって、下手すりゃお縄ですぜ」
「あー、そっか……なァ、あれどうやんだよ?」
 路傍に置かれた床几台に腰かけ、行儀悪く、黒のぽっくりを脱いだ両足は、右足は床几台の上であぐらをかき、左足は、同じく台の上で立てひざをついている。
 手にしているのは、淡紅藤に薄紅梅色の串紋の丸い器。
 ーー赤えんどう豆、四角く切った半透明の小ぶりの寒天、牡丹色と若竹色のすあまがひとつずつに、数個の白玉。
 そこにたっぷりと黒蜜がかけられた、みつ豆だ。
 それを、木匙でがつがつ食べている。
  波佐見焼の、渋い褐返色の鎬湯呑みが二杯並べて置かれた、木目調の茶褐色の一枚の盆を挟み。
 戀夏の右隣りには、きちんと両足を揃えて姿勢よく、灰白色の地に、褐返色の飛び鉋文様が入った皿を左手に持ち、そこに乗った手鞠菊の練り切り菓子を、黒文字菓子楊枝で一口分ずつ丁寧に切り分けながら食べる滅黯がいる。
「なァ、あれどうやるんだよ?」
 ーー色も文様も愛らしい器の中に木匙入れ、かたわらの盆の上に置くと、戀夏は滅黯に向かって身を乗り出した。
「ーー口で教えてもわかりゃあしやせんので、指に教え込ませて頂きやすよ?」
「はァ?」
 滅黯は、口に含んだ菊手鞠の練り切りを飲み込むと、いったん飛び鉋文様の皿を、自分の右隣りに置いた、戀夏と同じ、褐返色の木目調の盆の上に置き、懐から取り出した懐紙で口を拭うと、瞬時に九字を組み、右手の人差し指でのどを九回つつき、言い放った。
 それと同時に、戀夏の両手が勝手に左親指を上にして、握られた。
『臨』
「え、えェっ!?」
 左右の人差し指が重なって立った。
『兵』
 左右の人差し指に、同じく両方の中指が絡む。
『闘』
 右手の人差し指が左手の人差し指と中指に、中指が左手の中指と薬指の間に差し込まれると、左右の薬指と小指が立ち上がり、指の腹がくっつき、両の親指が並んで、爪が上を向く。
 『者』
  組み合わさっていた両手が離れ、掌が上向いた。
 右手の薬指が左手の中指と薬指の間に下から入り、右手の中指が左手薬指の爪の下に触れると。
 右手の中指は左手薬指の第一関節の裏側に絡み、左手中指も同じく、右手薬指、第一関節の裏側に絡んだ。
 今度は左右の小指が立ち、左右の人差し指と親指の先端が四つ、くっつき合った。
『皆』
 指と指が絡まっていた両手が離れ、今度は両手の十指が内側に向かって握られ、
『陣』
 次は逆に、両手の十指が外側に握られた。
『烈』
 左手の人差し指を、右掌が握る。
『在』
 左右の人差し指と親指の腹がくっつき、擬宝珠の形を作る。
『前』
 うつろ握りにした左手が、左に向いた右手の指先が乗った。
「ーー……あ? これで終わりィ?」
「そうでやすよ」
「んーだよこんなこ難しいのォ……あたしァ覚えらんねェよ!」
「姐さん、九字印はこ難しくなんざありゃぁせんよ。ひとつひとつの印の結び方の流れをよっく見て行きゃあ、実に理にかなった動きになってんですぜ?」
「あたしァ頭悪りィから、んなのわかんねェって。無理無理、同じ両手使うンなら、あたしはあたしらしく、素手喧嘩(ステゴロ)で行ったらァ!」
 盆に乗って出されたときは、湯冷ましも通さない百度の緑の熱湯だった茶が、ほどよい熱さとぬるさを兼ね備えた温度になっており、みつ豆の味に夢中になる余り、乾いていたのどが潤された。
「『臨』める『兵』、『闘』う『者』『皆 』、『陣』『烈』れて、『前』に『在』り』ーー……」
 戀夏がみつ豆を食べ終えるより遅れて、手鞠菊の練り切り菓子を黒文字楊枝だけで食べ終えた滅黯が、すっかりぬるくなった茶を、きちんと高台の底に手を添えて、音を立てずにすすると、ぼそりと呟いた。
 大恩ある師であり、育ての親でもある、天狗浄眩黒羽(あめくじょうげんくろう)より六つの歳より習った、九字の意味を始めとする『術』の思い出しながら。
 江戸八百八町に有象無象に存在するとされている天誅殺師を束ねる、影の御前たる「暁に祈る巫女」の従者にして、天誅殺師の首領ーー。
 外出時は常に雲水姿で、編笠と錫杖以外は    
すべて、天台宗の雲水姿をすべて黒に塗り変えた、全身黒ずくめである。
 巫女が彼とともに暮らす根岸の寮では、墨染の衣の上に、高野山真言宗の古義素絹の色衣の中から、十六ある僧官のうち、上から七つ目の『大僧都』が身につける、鳶色の袈裟をかけている。
 大僧都とは、尼僧を管理する僧官の役職であり、僧位は『法眼和上位(和尚位とも)』。
 時代をさかのぼれば、大僧都の官位は推古天皇の御世、六二四年(当時はまだ元号がない)に設置され。
 時を下れば、明治六年の一八七三年に廃止されることとなる。
 足袋は履かず、カンカン照りが続き、太陽がのさばって地上の人々の昼の労働と夜の寝床を苦しめる、節気六月中の大暑の頃であろうと。
 雪が高く降り積もった、節気十一月節の大雪の真夜であろうと。
 一年を通して、素足で過ごしている。
 だというのに、その両足の裏側が汚れているところを見た天誅殺師は、ひとりとしていないという。
 一見すると生真面目でお堅い印象だが、酒は般若湯と言わずそのまま酒といい、冬は熱燗、夏は焼酎をみりんで割った「本直し」なるものを、僧衣のまま、または作務衣姿で、暑気払いの名目で平気で飲む。
 好物兼、酒の肴は、
 焼き鳥なら、鶏むね肉と小粒のにんにくを交互に差したものと、薬研軟骨。
 菜のものなら、茹でた野蒜に味噌を漬けたのと、玉子とニラを炒めたもの。
 魚は鮎に鱒の川魚の串焼きに、鰯の塩焼きに鯖の味噌煮、鰹のたたきを好む、完全な生臭坊主である。
(九字の読みと解釈は真言宗、雲水姿は天台宗を黒ずくめにしたお姿、天誅殺の際に唱えられるお題目は、法華宗の涅槃経ーー)
「そのくせ、お仕えなすってらっしゃるのは巫女様でーー」
 湯呑みから口を離し、軽く息を吐く。
「あっしが数えで四つの歳に、お歯黒どぶから掬って頂いて名づけられ。十までは、父御(ててご)代わりに毎晩風呂と寝床まで御一緒だったたぁ、今にしてみりゃ、恐れ入谷の鬼子母神。十一から数え十六まで根岸の寮の離れに住まわせて貰いやして。その上、按摩に、妖術に、殺しの技、あっしに見合った暗器まで頂戴しておきながら、待乳山聖天の麓に、診療所まで建てて頂きなさいやしてーー……感謝しても感謝し切れやせん。ですがねぇ、あっしぁ困ってるんでやすよ、実に」
 そこでいったん、茶を一口すすってから、
「御貴殿との長げぇお付き合いは伊達じゃありゃあせんが、あっしにゃあ、いつまで経っても、つかみどころのねぇ御方のまんまなんでさぁ。まったく、お師匠さんってお人は」
 おっしょさん、と江戸っ子口調で言いながら、滅黯は独りごちた。
 ーー太夫になる術もなく、身請けしてもらえる宛てなどない、お茶挽き落ち寸前の、不器量寄りかつ、床下手な吉原遊女が、誰ともわからぬ客との間に産み、生まれながらの全盲故、若い衆にもならぬと絶望した母親が、芥同然に、お歯黒どぶに投げ捨てた已の子(=要らない子)。
 それが十五年前の滅黯であり、師にして育ての親たる、浄眩との出会いであった。
 ーーーーーーーーーーーーーーーー
 その日の夕刻、自身が亭主を勤める三橋左橋の袂にある髪結い床「獺坊主」から、実吉が湯島天神裏の「牡丹長屋」に向かって早めの帰路に着けたのは、いつもの暮れ六ツより早く、七ツ半だった。
 店じまいも通常より一刻早く、夕七ツ。
 昼間、あんなことがあったにも関わらず、常連客はいつもの調子でぽつぽつ来てくれたがーー。
 第一に、この髪結い床に通うのをやめると言って、何もせずに帰って行った腹立たしい客達から、後から来た客達が何か吹き込まれてやしないか。
 第二に、あの恐ろしく口も腕も立つ、背中一面に不動明王の刺青を背負った美貌の女白浪に、実は物心ついた時から気にしていた、四角い顔の輪郭を、将棋盤か碁盤だとーー自分の発言は棚に上げてーー真正面から指摘される暴言を吐かれ。
 あっけなく折れた心を、必死で心のつっかい棒で支えながら、商売人魂で何とか笑顔を作り、かろうじて数人の客をさばき終えた。
 しかし、問題はそこからだった。
 ーーアサは今日限りでお暇を頂きますと宣言し、常連の滅黯なる按摩に支えられながら店を出て行ったきり、戻って来ることはなかった。
 勇吉は勝手に、おたにが自分から
『あたしが、あたしが間違ってました、申し訳ございません、御亭主! 非礼は如何様にも償いますので、何とぞ、何とぞもう一度ーー』
 と、土間で自分に向かって土下座し、泣きじゃくりながら、上がり框を四つん這いで履い上がってまで、何度足蹴にして払い除けも、自分の裾にすがりつき、懇願して来るに決まっている。
 そう思い込み、もちろんふたたび雇ってやるつもりで、どれだけの日数、またはどれだけの回数、アサを突き放し、何日目で、何回目で、アサを笑顔でふたたび受け入れてやろうか。
 そんな底意地の悪い光景を、頭で夢想していたがーー。
 アサは、戻って来なかった。
 そして、あの隆次はと言えばーー。
 やはり、あの女白浪に吊るし上げられた挙げ句に失禁するほどの恐怖を味わい、小便で濡れた褌一丁で後始末をさせられたことは。
 まだわずか十年の人生で、向こうっ気の強い、いっぱしの悪ガキを自負していた彼の自尊心を、木っ端微塵にしたようだ。
 相手が大人とはいえ、刺青者とはいえ、細身で小柄な女に微塵も抵抗出来ず、小便をもらし、自分の着物を『素手で』引き裂かれ、失禁した後始末の為の、雑巾になった。
 ーー掃除は済みました。
 その声を最後に、気づいたときには隆次は髪結い床から消えていた。
 慌てて『閉店中』の看板を入り口に立てかけ、そこら中を駆けずりまわって隆次を探したが、見つからない。
 (ーーどうすれば!?)
 (ーーどうすればいい!?)
 その思いにのみに囚われ、天下の往来で頭を抱えていた、その瞬間だった。
「てめぇか! てめぇだなぁ!? てんめぇ~~ 、この野郎!」
 櫛巻きの髪に、蒲公英色の地に、漆黒の井桁文様を散らした着物をまとい、同じく漆黒の帯を締めた三十路ほどの女が、鬼の形相で狂ったように絶叫しながら、実吉に体当たりし、彼の髷をつかんで、力まかせに頭突きを喰らわせた。
 実吉はそれと同時に強い脳震盪を起こし、その場に倒れ込んだまま、身動きが取れなくなった。
 互いに額から、微量とはいえ血を流しながら、ふたりの体は重なり合って道に倒れ込んだ。 
「てめぇ、この、このーーアタシの大恩人を貶めただけじゃなしに! 上野の在の者(もん)として、いちばんやっちゃならねぇことをしておくれだね!?」
 見覚えのある櫛巻き髪の女に襟の合わせ目をつかまれ、実吉は気づいた。
 この女は……あぁ、そうだ!
「りゅ、隆次のおっ母さん……?」
「そうだよ、アタシはお糸。アレの母親だよっ!」
 そう叫ぶなり、お糸は天を仰ぎ、激しく泣き叫んだ。
「うぅ、うわあぁあぁ~~!!」
「あ、あの……隆次は!? 隆次はどこにいるんです!?」
「あのバカタレはなぁ、四ツ半刻に、小便まみれの褌一丁でぎゃあぎゃあ泣きながら帰って来たよ!」
 しかし、実吉が隆次の安否を知って安堵したのも束の間。
  お糸は大粒の涙を流しながら、髪をめちゃくちゃにかきむしると、自身の右袖をたくし上げ、二の腕を晒した。
そこには、島帰りの証である二輪の刺青があった。
「アタシは島で飯を少しでも多く食うために、数え切れないほどの男と寝て、あれを、隆を腹に抱えて御赦免船で帰って来たんだ。これからはカタギになって、まっとうに生きようって決めてねぇ! でも!」
 お糸は額からわずかに垂れた血を拭うと、
「まだ十二だったみなしごのアタシが山谷の飯場で飯炊きしてたとき、無理やり犯して、勝手にバシタ(女房)扱いするようになった男がいやがんだよ。名前は要助って言ってねぇ。酒に博打に煙草とひと通り仕込みやがった、ヤー公が。アタシが島に送られるときは見送りにも来なかった野郎が! アタシが産み月になってから、どこで突き止めたんだが、山伏町の長屋で、絞りの下職でかつかつの暮らしをしてた、アタシの前に間抜けヅラ下げてやって来やがった! アタシを地獄宿に二束三文で売り飛ばして、てめえはその金で遊んで暮らそうって腹でよ!」
 「そ、それが俺に、何の関係が……」
「話はまだ途中だよ!……あぁそうそう、アタシはひととおり、何でこんなことになっちまったのか、ちゃんと隆の字から経緯を聞いてやったからね。それであの野郎の褌ひっぺがして裸にして、物干し竿でしこたまぶっ叩いた後、血まみれのすっぽんぽんに菰巻いて、荒縄でふん縛って、森下の松の大木から吊るして来てやったさ」
 お糸は実吉の鼻孔に右手の人差し指と中指を引っかけ、首を無理やり引き上げた。
「……話の続きだ。『アタシはもうカタギだ、それに今、腹の中にはもうじき十月十日を迎える赤ん坊がいる、そんな女を買う男なんかいるもんかい』ーーアタシはそういって突っぱねたさ。けどねぇ、あの下衆野郎は」
「『腹のデカくなった孕み女とヤリてぇだの、孕み女をヤリ倒して、赤ん坊を流してぇなんて、ド変態の客も珍しかねぇ、地獄の淫売宿だ、今のおめえにうってつけじゃねぇか』なんてほざきやがってよぉ!」
 話しながら、いつの間にか涙が止まっていたお糸が、ふたたび涙を流し始めた。
「それで……それで……あの野郎、勝手に長屋に住み着きやがって……身動きが取りづらくなったアタシに飯炊きさせて、てめえは昼間っから酒呑んでゴロゴロしてるか、アタシの稼ぎで賭場に出入りしてるか。そのうち、腰が痛くて堪らなくなってねぇ、待乳山診療所の名ぁ聞いて、なけなしの金持って、腰の痛さが響いて痛いったらない足ぃ引きずりながら行ったのさ。そしたらーー」
「滅黯さんは、アタシに真っ先に言ったよ『あんた様には、どうしようもねぇ毒虫が引っ付いてなさる』ってね」
 (ーーしつけぇったらねぇ悪りぃ虫は、箒で外に掃き出しただけじゃあ、何度だって隙間から長屋ん中に戻ってきやすぜ。例えやすなら、ほれ、ゴキブリは何度ひっぱたいて潰したってぇ、後から後から湧いて出て、キリがありやせんでしょう。一匹いれば、三十匹はいるってぇ)
 その言葉を聞きながら、お糸は気づかぬうちに声を出さず、顔全体が濡れるほどの、滂沱の涙をしていた。
 さらに、滅黯は丹念にお糸の腰痛を和らげるべく按摩を施したのだが、(ーー按摩の分の金は、一銭も要りいりやせん。その代わり、お糸さんが住む長屋の引き戸の前に、これに粟、黍、粺、麦、米の五穀を、少量でようござんすから、毎日朝昼晩と欠かさず入れて、置いといてくんなせぇ)
 それだけ言って、滅黯は底の浅い四升の四角い木箱と、米を入れる専用の枡を、お糸に渡した。
(それが、お糸さんと腹の子のお守りになりやす。ついでに悪い悪い毒虫も、恐れをなして逃げて行きやすぜーー)
 そのときのお糸も、今のお糸も、木箱には、
【浄三業】
【仏部三味耶】
【蓮華部三味耶】
【金剛三味耶】
の真言が、
 米を入れる専用の枡には、
【被甲護身】
の真言が彫り込まれている、いたことなど、知る由もない。

「その頃のアタシはすがれるものなら、何でもいいからすがりたかった。だから毎日神様仏様にすがる気で、その木箱と枡に五穀を入れておくのを絶対に欠かさなかった」
 ーーそれからほどなくして、要助は突然、お糸の元から姿を消した。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「そんで、あれはーーアタシの身におしるしが来て、出産を二、三日前に控えた晩だ 」
 不穏な空気を感じ、お糸は子の刻に目を覚ました。
 ほとんど骨と皮ばかりに痩せた要助が、お糸が寝る布団のかたわらに、これから地獄で獄卒達から拷問を受ける死者の如き、全裸に腰布一枚の姿で全身を震わせながら、古びた棒切れを持ち、立っていた。
「ひっ!!」
 だが、臨月の身体は文字通りの身重。
  木の棒切れが高々と掲げられ、お糸の腹を目がけて振り下ろされた。
 だが、お糸は素早く棒切れの先を両掌で受け止め、腹を守った。
 万が一のことを考えて、腹帯の上には箍屋から譲ってもらった、桶や樽の外を締める、竹で編んだ輪ーー使い古しの箍をその上に三段重ねにし、さらにその上に、晒しを巻きつけていた。
「要助ぇぇぇぇ!!! 臨月の女の寝込みを襲うたぁ、男の風上にも置けねぇ野郎だなぁ、こんのクソッタレ!!!」
「黙れこのアマ! てめぇこそ、俺に何ぞおかしな真似しやがったな!? 毎晩毎晩地獄で釜茹でにされて血の池に突き落とされて溺れて、金棒持った鬼どもに追い立てられて、針山を登らされて串刺しになる夢ばっかり見せられて、ここ半月、ろくに眠れやしねぇんだ!どこぞの祈祷師に呪詛でも頼んだか!? それともそのデケぇ腹抱えて、丑の刻参りか!?」
「アタシゃ、何にもしちゃいないよ! 今、この腹ん中にゃ、もうすぐ産まれるガキが入ってんだ! ふたつ身になる直前で、てめえに殺られるわけにゃ行かねぇのだけは、確かだけどねぇ!」
 ーーそのときだ。
「はァーーィ!!! ごォめんくださいまっしよォォォ!!!」
 長屋の入り口の木戸を派手に蹴り破り、何者かが飛び込んで来た。
 その直後、自身の腹を叩き、赤ん坊を殺そうとしていた棒切れが、容易に折れた音がした。
 ーーかろうじて、その人物が若い女らしいことしかわからないまま、お糸はかけ布団を頭からかぶり、四畳半の畳敷きの隅に身を寄せた。
「ーーお糸さん、でぇじょうぶですかい?」
 穏やかな声に、お糸は頭からかぶっていたかけ布団を恐る恐る外すと、そこには滅黯がいた。
「あ、按摩……さん……!?」
「こいつらがね、知らせて下さったんでさぁ」
 ヒン、カラカラカラカラ……と、滅黯の右手の人差し指と、手首に乗った、つがいらしき二羽の小鳥が鳴いた。
 二羽は姉弟の駒鳥、絽嬪と九十九であった。
「あ、あいつ、あいつは!?」
 お糸は無我夢中でかけ布団の中に滅黯を囲い込み、問いかけた。
「ーーお糸さん。あんた様は、孕み女のふたつの禁忌を御存知でやすかい?」
 まるで学のないお糸は、そのようなものがこの世に存在していることを、このとき初めて知った。
「……な、何だぃ、そりゃ……?」
「ひとつ。葬式には通夜にも告別式にも参列せぬこと。やむを得ず参列する場合は、腹帯の中に手鏡を入れること」
 そう言って、滅黯は甚平の袂から、小さな丸い手鏡を、お糸の寝巻きの帯の中に差し込んだ。
「ふたつ。火事を見ぬこと、火を見過ぎぬこと。見れば顔に赤い痣のある赤子が産まれる、と」
 滅黯が、背後からお糸の両眼を隠した。 
「どうぞしばらくの間、眼を閉じててくだせぇやし」
「……按摩さん、これは……一体……」
  ーーだが、お糸は好奇心に負け、滅黯の指の隙間からつい覗き見てしまった。
  蹴破られた戸口から差し込む、煌々とした蒼白い月光が。
 帯の上から着物の袖を脱ぎ払い、前かけのような一枚布で乳房を隠した、上半身裸に近い姿で、要助を叩きのめした、見知らぬ若い女の背中一面に彫り込まれた、不動明王が背負いつつ、全身にまとう火焔を、鮮やかに照らし出していた。
 要助の頭が天井にぴったり着き、そののどを、いや、首を。女ががっちり右掌だけで握り締めて、吊るし上げている。
 要助は両手両足を激しくばたつかせ、必死に抵抗するが、たかが女の腕一本に、まったく敵わない。
  バキ、
  ボキ、
  ベキ。
 嫌な音とともに、要助の首が女の手によってきっかり九十度に傾き。
右顔と右肩が、ぴたりとくっついた。
「黯、やっべ。やり過ぎちった」
「姐さん……ですから絶対にやり過ぎなさんなって、あれだけ念押ししやしたでしょうに……」
「悪りィ、この野郎にあんまりムカつき過ぎちまってよォ」 
 滅黯に姐さん、と呼ばれた女は、人ひとり手にかけた直後にも関わらず、悪びれもせず快活に笑った。
 そしてーー。
 「まったく、堪え性のねぇお方で」
 いったいどこから取り出したのか、 滅黯が首の骨を折られた要助の肉体を、葬式の鯨幕で三重に包んだ。
 大人の男ひとりを包んだ、相当な重さのがあるだろうそれを、女は片手で軽々と持ち上げ、長屋の外まで運び出すと。
 女に次いで外に出た滅黯が、鯨幕の包みに向かって何やら左右の掌を素早く組み合わせ、不動独鈷印の印契を結び、火界咒を唱え始めた。
 鯨幕の包みは何の火種もなく、一瞬にして燃え盛る炎に包まれた。
 ーー火の粉も上がらず、死んだばかりの肉塊が燃える音も臭いもなく、その場で骨ひとつ残さず、要助の亡骸は鯨幕ごと燃え尽きた。
 一本の骨も残さず、鯨幕の燃えカスひとつ残さず。
 煤も灰も「証拠」は何ひとつ後に残らなかったのだ。
「あ、人の命がかかってるからとはいえ、戸口蹴っ飛ばしちまって悪かったねェ。とりあえず今夜は入り口に立てかけとくだけにしかしとけねェけど、明日、朝イチで、『あらや』ってデケェ浪人がここに来るからさァ、そいつが直してくれるよ。あとォ、障子紙はちょっとイイの、桜の花の透かしが入ってるやつにしとくからさ、んふふっ」
 女は着物に袖を通し、軽やかな足取りで去って行く。
 これは夢なのか、現実なのか。
 ただ呆然とするしかないお糸の前に、滅黯が中腰で座り、
「今晩のあっしらのこたぁ、全部、他言無用に願いますぜ」
「……」
「あぁ、それから」
 滅黯がお糸の耳元に口を寄せ、内緒話のようにささやいた。
(もし、万が一にもあっしらの所業ぁ他所様に、他人(ひと)様にもらすようなことがありやしたら。そんときゃあ、お糸さんの命の保障は致し兼ねやすんで。なぁに心配(しんぺぇ)要りゃあせん、腹のお子さんは、小石川の養生所を通して、しかるべきところに養子に出して頂きやすからーー)
 次の瞬間、お糸は布団の中ではっと目を覚ました。視界には、ふくれた腹が重いので、いつの間にか横向きにしか寝られなくなって以来、よく見慣れたちゃぶ台と。
 枕元に置いた、山伏町の【ぜにごけ長屋】で、お佐智なる縫い物職の女が作っている、さるぼぼなる安産祈願の綿人形が、お佐智が綿の代わりにボロ切れを詰めてふくらませた小さな座布団の上に乗っているのを、この眼でしかと確かめた。
 その瞬間、お糸の腹が内側からぐいっと強く押された。
 反射的に腹を押さえる。
 どくん、どくん。
 鼓動が脈打つ感触が、はっきり伝わって来た。
(ーーあれは夢じゃない。夢なんかじゃなかったんだーー)
 二日後、お糸が産んだ子ーー隆次と名付けられたその赤ん坊の顔には、赤い痣はなかった。
 ーーーーーーーーーーーーーーーー
「……だけどね、こんなことになったのは……アタシの育て方が悪かったんだ……悪かったんだ……けど……ねぇ……けど、ねぇ……」
 お糸は、両掌で顔を覆い、再びさめざめと泣き出した。
 「けどね、アタシぁこれだけは胸を張って言えるよ。『他人(ひと)様を見下すな』それだけは子守り唄聴かせながら、叩き込んで来たんだ。だからアタシは聞いたよ、なんで按摩さんのこと、バカにしていいと思ったのかってね。そしたら、醜男や醜女や、かたわの客はーー」
「ーー『あいつらは、からかうにゃ最高の相手だって、親方に言われたんだ』ってーー……てめぇなぁ、よくそんな調子で客商売なんかやっておいでだねぇ!」
 そう言うなり、お糸は実吉の左頬を殴りつけた。
「痛(て)ぇっ!」
「あの戀夏って女(ひと)は、上野中のヤクザがそのツラ拝んだだけで道開ける『女不動のお戀』ってんだ。んなことも知らねぇってなぁ、あんた、上野で何年商売してんだい!」
 ーーあの、奇矯な風体の女白浪が?
  困惑するしかない実吉に、お糸は怒鳴りつけた。
「隆の野郎は、寺に入れることにしたよ。そうでもしねぇと、あのひん曲がった根性は直りそうにないからねーーほれ、これは返すよ!」
 ボロ切れで縫われた重い巾着袋を、お糸は涙ながらに実吉の横顔に叩きつけた。
 その勢いにまかせ、お糸は擦り切れた草鞋を履いた右足の爪先で、実吉の脇腹を蹴り飛ばした。
 実吉が、派手に尻餅をついた。
「こいつは、隆が今まであんたのとこで稼いだ金だ。あいつには当面、小遣い銭だけ渡して、残りはあたしが預かって貯めといたんだ。あれが数えで十六になったら、全額渡してひとり暮らし出来るようにってねーー」
 お糸は細眉を吊り上げ、ぼろぼろと涙を流しながら、髪を振り乱し、ほとんど化粧っ気のない顔にわずかに紅を差した唇を右側の前歯で噛み締めて実吉を睨むと、その場から走り去って行った。
 後には、尻餅をついたまま後ろに両手をつき、ボロい巾着と、巾着の中から散らばった無数の小銭に取り囲まれた、実吉だけが残されたーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
(何て日だ!)
 ーーとしか言いようのない、女難続きの一日だった。
 ただし、実吉はそれが自分自身の日頃の行いから起こったものだとは、微塵も理解していないし、しようともしていないし、自覚する気すらない。
 だが、実吉は自身の中でこれだけは絶対と決めていることがある。それは、
【仕事を家庭に持ち込まないこと】だ。
 戀夏なる女白浪に、ひざ蹴りを喰らわされた腹にはまだ痛みはないが、明日の朝、痛みをともなう青痣になっているかも知れないが、余裕で着物で隠せる分、問題ない。
 お糸に蹴られた右脇腹も同様、もし明日痛みや青痣が出れば、髪結い床の神棚に常備してある軟膏を塗り、晒しを巻いておけばいい。
 もし明日の朝、起床時に既に顔に青く浮き上がっていたとしても、就寝中に寝ぼけてどうにかしたとごまかせばいし、客の前に出るときは、白粉を塗ればいいだけのことだ。
 ーーふと、いつもの人けのない帰り道の無縁坂に足を踏み入れた途端、実吉は妙なおぞけに襲われた。
 無縁坂は、髪結い床のある湯島天満宮近くから、実吉一家が住まう池之端ーー不忍池の南半分を囲む町内にある御厨長屋に往き来するため、湯島方面から東に上野池の端へと下る坂である。
 坂の名の由来は、無縁坂の北に古くからの無縁寺があったからという、これまた実にぞっとしない所以からだ。
 ーー刻はまだ、七ツ半過ぎ。
 常の帰宅は暮れ六ツなり。
 実吉の足は、自ずと上野池の端へと向かっていた。
 しばらく歩を進めると、不忍池の際で釣り糸を垂らす者の背中を認めた。
 笠もかぶらず、月代も剃らぬ蓬髪、袴も履かず。
 向かって右に風呂桶大の木桶を置き、左に、明らかに空の魚篭を置き。
 雲竜柄の着流しをまとった大柄な浪人が、あぐらをかいて釣り糸を垂らしていた。
 一間ほどの間を置いて近づいて見て、実吉は驚いた。
 遠くからではあまりそう見えなかったが、この浪人の背中の広さと大きさに、少なからず畏怖を覚えたのである。
 背中が広く大きいと言っても、間違っても太ってなどいない。
 全身これ贅肉や無駄な脂肪がこれっぽっちもついていない、恐ろしく引き締まった肉体なのだ。
「何ね。わいば、誰(だい)ね」
 房州で生まれ育ち、江戸の在は七年の実吉である。
 かろうじて意味はわかったが、浪人の発した言葉は、独特の口調と訛りが強過ぎて、聞き取りにくく、非常にわかりづらかった。
 「あぁ、御浪人様相手に挨拶が遅れて、大変申し訳ございません。お初にお目にかかります。手前は三橋左橋の袂にて髪結いをしております、実吉という者でございますーー」
 浪人は不意に立ち上がるなり、右脇に置いていた木桶を、右手の人差し指で差し示した。
 何の疑問もなく実吉がその中を見に近寄り、しゃがみ込むと。
 木製の盥の中には無数のおたまじゃくしに泥鰌、それに比べたらわずかだが、数匹の小鮒がふよふよと、穏やかに優しげに泳いでいた。
「おおどぼす、ザリガニばおらんったい、喰い散らかされる心配ばなかばい。おうどか盛りのわいんとこの坊主どもに、見せんしゃい」
「え?」
「上が『鉄』で、下ば『剛(ごう)』? やっちゃ強か名ば付けたったいね。ばってん、名前負けにならんとよかばいがーー」
「!?」
「しりごばおなごで、名ばお科(しな)ーーとやろ? 学(がく)ばなかけんしょうんなかったいが、偶然やけんが、まうごつ皮肉な名ばつけたもんたい」
 何故、一面識もないはずのこの大柄な浪人が、我が子の名をすべてと、今現在の家庭内の困り事を知っているのか。
 すっくと立ち上がり、浪人は木桶を実吉に手渡し、何故か実吉はそれを素直に受け取っていた。
 浪人の身の丈は、軽く六尺を越えていた。
 ひどく場違いながら、実吉はこの浪人を、一見すると荒くれた風に見えるが、何と野性味に溢れたいい男かと、同性ながら感嘆した。
 口を開くたびに通常より長い左右の犬歯が覗いて、まるで牙のように見える。
 それはまるで、戦国時代の野武士が蘇ったかのような、野趣に溢れた容貌だった。
「ーー今日は、おいばおなごと、普段ば弟分で年下ばってんが、御役目んときば、れっきとした先達がーーやっちゃ世話になったけんな」
「ふぁ?」
「おいば、わいんごたるふーけもんば、うぅづらにっかけん」
「ご、御浪人様? 先ほどからいったい何を仰ってーー」
「こいば盥ごとやるけん、持って帰らんね」
 浪人が、おたまじゃくしや泥鰌、小鮒の入った盥を渡すと、浪人は実吉に背を向け、坊主の魚篭を逆さにして水を川に戻し、帰る準備を始めた、そのときだった。
 水中に垂らされていた釣り糸が、水面で反応を示した。
 突然押しつけられた品に戸惑うしかなかった実吉は、思わず声を上げた。
「御浪人様! 釣り竿が!」
 しかし、浪人は無言で、右手だけで釣り竿を水中から引き上げると、釣り糸と釣り針は、実吉が両腕に抱えた盥の中に飛び込み、水面から派手に水飛沫が上がった。
「うひょっ!」
 顔にかかった水飛沫を、実吉は反射的に右袖で拭った。
 「ははは、なかなかの竿捌きでございますが、悪戯にしてはちとひどぅございますな、御浪人さ……!?」
 一間ほど前に立つ、浪人が垂らしている釣り竿の先から垂らしているもの。
 それは、魚の身に般若の如き形相を浮かべ。無数の海藻を巻き込んでもつれ絡み合った長い黒髪を垂らした、醜女の顔を備えた、異形のものであった。
「人魚ばい」
 浪人は、低い声でこともなげに言い放った。
 磯と海水の臭いが、あたりに充満する。
「わいば、醜かもんば笑い者(もん)にするとが趣味とやろ?  そぎゃん磯臭ぉて醜女ばツラした人面魚、なんして笑わんと?」
  ヒッ、ヒッ、ヒッ、と、実吉は激しくひきつけを起こしたが、恐怖のあまり、実吉はその場から身動きひとつ取れない。
 その様を見て、浪人はそっくり返って笑った。
 そして、浪人がいう「人魚」が一言、しかし紛うことなき人の声で呟いた。
 「くるひたまえかないたもれさいしともどもおのれがちとこらねだやし」
 【ぐヒュッ】
 と、磯臭い息を吐きながら「人魚」はそれだけ言って、浪人の握った釣り竿に引き戻され、とんぼ返りするように勢いよく一回転して、不忍池の中に消えた。
 それと同時に、六尺越えの浪人の姿もーー。



 



 
 
 
 
 





 
 
 



 

 

 

 

 




 



 


 
 

 


 

 







 

 
 









 


 


 
    
  
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