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死ノ肆事⑵・第壱章《白百合抱く聖母像と十字架の刺青》

陸之罰「新谷淫獄変」ー外道達の狂宴ー

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 新谷は、湯に浸かっていた。
 刻は暮六ツ、宵五ツ半の中間。
 もちろん【於多福屋】ではない。
 かと言って、戀夏が働く「日の出湯」こと「しろい湯」でもない。
 ではここはどこなのかというと、
「………」
「……やぐらかしか……」
 
「ーーやっぐらかしかぁ!?」
 男は、湯船から両掌ですくった熱い湯で顔をばしゃりと洗った。

「んっあーー、何でんかんでんやっぐらかしかぁ! ほんまこつ、しぇーーっからしかしぇからしかしぇからしかぁ! 」
 大の男ーー文字通り、身の丈六尺越えの体躯に合った大きな両掌が、ばっしゃばっしゃと何度も湯船の表面を叩きつけられ。
 その水飛沫ならぬ湯飛沫が、さほど高くない天井まで跳ね上がった。
 体のどこかがむず痒いのか、しきりに身をよじる。

「落ち着なきせぇやし、新谷さん、いくら『湯水の用に使う』と言いやしてもねーー」
 そこに、出会ってから初めて見る、半股引(はんだこひき)を下半身にきつく締め、さらにいつもと違い、一枚歯ではなく二枚歯下駄という三助姿の滅黯が、盆に枡酒を二個ずつ乗せて、後ろ手に戸を閉めた。
 相変わらず両眼は馴染みの青海波柄の手拭いで覆っているが、その辺に支障はないらしい。
「あ、黯か……す、すまんったい」
 慌てて落ち着きを取り戻した新谷が浸かっている湯船が置かれているのは、滅黯の診療所の離れとして設置された、小さな風呂場である。
「かまいやせん、どうせここぁ天誅殺師の隠れ家みてぇなもんでやすからーー」
「ここん風呂ば、わいにばぬるま湯でちょうどよかけんが、湯ば浸かっとっとっと、どぎゃんしゅうと彫り物んば入れたとこが疼いてしょうんなか……」
 新谷が思わず顔をしかめたその瞬間、滅黯がぷっと吹き出した。
 普段ならさして気にも止めず、
《黯、わいば、何ぞおかしかこつ言うたとかぁ? ははははっ》
 ーーと、その程度で流してしまうだろう滅黯の笑いが、いちいち風呂に入るたび、彫り物の疼痛に苛まれる今の新谷には、妙に癪に触った。
「何ね、そん笑いば。しぇからしか!」
「ーーあぁ、こりゃあ申し訳ありゃありゃあせん、新谷さん。いや、昔に姐さんが不動明王様と紅白の夾竹桃に蝮の刺青お彫(い)れなすったときと、まったく同じことをおっしゃるもんでやしたからーー」
「姐さんば……」
 あの烈女がそれほどまでにのたうちまわったのかと、新谷は純粋に驚いた。
「刺青(スミ)ば彫(い)れよってから、朝から晩までしゃっちばきゃーなえて、たまらんばい。いっじくそかいか、どろかどろか!」
「しっかし、新谷さんもようやりなすったもんで。お背中一面に刺青彫れなさるぐれぇ、あっしぁ何とも思いやせんよ。でやすがねぇ、これからどうなさるおつもりで? あっしゃ、どうなっても知りやぁせんよ?」
「ーーわいば、盲ばくせに、どがんしておいば背中、見えよっと?」
「ふはっ、あっしの白眼にゃあ、なぁんも見えとりやせんで。強いて言いや、脳味噌でやすかねぇ?」
「ぶははっ、あもじょんごたるな、おいば」
 あごを上げ、ごっ、ごっ、ごっ、と枡酒の中の冷や酒をあおると、滅黯はぷはぁーー、と息をついた。
「へへっ、いっくらぬるま湯ったってぇ、風呂の釜ぁ焚くのは暑くて熱ちぃ。冷ゃっこいもんを飲むに、越したこたぁねぇです」
 滅黯はいかにも爽快そうに左掌で口元を拭うと、湯船の簀子の上に、空になった枡を、勢いよく置いた。
 その様を見ながら、新谷は対称的に、ゆっくりと枡を傾けていた。
「おいば冷や酒、わいばぬるま湯ば浸かって、青い柚子ん汁ばやっちゃ絞った冷や焼酎とね。黯、おいばやっちゃ気ぃ利いとっとるばい」
「てぇしたこたぁありゃぁせん、ただの、長年の客商いの癖でやすよーー」
ーーーーーーーーーーーーーーーー「ーーそいで、新谷さん?」
 唐突、滅黯が問うた。
「あっしは、人様のなさることにケチつけるようなこたぁ、死んでもしとうございやせん。人様の心は、誰にも縛られるもんじゃございやせんし」
「何ば言いたかね、黯。それでよかろうもん。おいばそんくらい、どがんあっとね?」
「ーーするってぇとあれですかい。新谷さん、あんた様は鈴ヶ森で火あぶりになって、六尺の人炭になりてぇと、そういうわけで」
「わいばそぎゃんこつ、いっちょんも思うとらんばい」
「背中一面に、二輪の白百合を片腕に抱えられた聖母マリア様の御姿に、その後ろに十字架ーーこれじゃあとてもじゃねぇが、死ぬまで湯屋にゃ行けやせんぜ」
「湯屋だけが、風呂やなかろ?」
「へぇ?」
「やけん、黯。そぎゃんこつでわいばおいに話ばあるけん。早よ着替えゆうで」
 ざばぁーーと、六尺越えの身の丈の目方分の湯を、たっぷりと湯船からあふれさせながら。
 新谷は、湯船の中から立ち上がった。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「はぁつまり、あっしんとこの離れの風呂場を、湯屋代わりに使わせて頂きてぇとーー」
「頼むばい、黯。冬だけでよかけん。こげんこつ、おいにしか頼めんったい」
 新谷が両掌を合わせ、頭を下げて頼み込もうとしたその瞬間、
「いいですよ」
 あまりにもあっさりと、滅黯は快諾した。それも、満面のさわやかな笑顔で。
「……は?」
「あぁ、お礼代わりの風呂掃除も銭も要りゃあせん。ただですね、風呂焚くにゃ、井戸から水ぅ汲んだり薪割ったり、湯船で呑む酒ぇ用意したりと、それなりの支度が要りやすんで。遅くても、湯に浸かりてぇ二日前(めぇ)にはお教えくだせぇ、へぃ」
「……わいば、そぎゃんこつでよか? ほんまこつ?」    
「『そんがん、かんまんち。そぎゃんせんちでよか』」
 実に悠長な長崎弁で、滅黯は新谷に、左右の口角を上げた下半分だけながらとびきりの笑顔を向け、念を押した。
 新谷はしばし押し黙ったまま、湯船のふちに腰かけ、腕組みして右足を左足の太ももに乗せて、どこか苦い顔をしていたが、
「まぁ……早よ着替えゆうか。話はそっからばい」
 現在の刻、暮六ツ半。
 男ふたりだけの酒とつまみだけの夕餉もどきのサシ飲みが始まるには、ちょうどよき刻であったーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「はぁ? あん風呂場に、専属の三助ば雇ったとぉ!?」
「正確にゃ、三助じゃありゃあせんけどね。まぁ、下男てとこでさぁ。この鰯の塩焼きに、小鉢のものも全部、それがこしらえたんで」
 ーー鰯の塩焼き
 ーー柚子味噌載せ、ふろふき大根
 ーーいかそうめん
 ーー里芋の煮っころがし
 ーー江戸っ子の滅黯には煮染(し)め、九州出身の新谷には、がめ煮と呼ばれる煮物。
「ふはっ、こりゃやっちゃ豪勢ばい。味ば方はーー何ね、まうごつ美味かやなか!」
 新谷は、上記の料理を立て続けに一口ずつ味わうと、率直に感想を述べ、箸を握り締めて、く~っと震えた。
「ほれ余子吉(よねきち)っつぁん、お出でなすってくだせぇ。あっしのツレでさぁ」
 滅黯がそう口にすると、すぅ、と和室の襖が開き、廊下に正座している若い男が姿を現すや否や、余子吉と呼ばれた者は、新谷に向かって深々と頭を下げた。
 剃り立ての、髷を乗せた月代が初々しい。
 新谷に向かって深々と下げた頭を上げると、十六、十七ほどの、ひどくこわばった顔が現れた。
 左右の口端がひきつっているーーが、それより早く、新谷はこの若き板前が、一言でいえばバカであると理解した。
「あ、おいば新谷っちゅう者(もん)たい。よろしく頼むけんな」
「へぃっ!」
 ーー男も女も、声が無駄にデカい者はバカで無能で低能で低脳しかいない。
 それが、新谷がこれまでの人生で得た最大の教訓であり。
 世の理(ことわり)でありーー。
 真実だった。
 新谷は、バカ正直なまでに愚直な者は、決して嫌いではない。
 しかし、ただ声が大きいだけのバカには凄まじいまでの殺意を抱(いだ)く。
 ただし、耳が遠い故に自ずと大声にならざるを得ない者は、例外としている。
 何故なら、勤め先にして居候先の女主人、おふくがそうだからだ。
 それはともかくーー。
「んで、何ね?」
 わさびを醤油に溶かずに、わさびと醤油で、まだ透き通ったいかそうめんを奥歯でよく噛んで味わい。
 芯まで醤油の染み込んだ里芋の煮っ転がしは、小皿に乗せて四つに割り開いて食し。
 メインディッシュたる麦飯の割合の方が遙かに多い飯。
 ーー少しも生臭くない鰯の網焼き。
 ーー柚子味噌載せのふろふき大根。
 どれも大の好物を前にして新谷は唐突に箸を置き、腕組みすると。
 向かい合わせの滅黯は、大ぶりの牡丹が彫り込まれた土色の盆の上に置かれた、舌を出して顔を洗う三毛猫が一筆書きで描かれた、冷や酒を汲んだ質素な白磁の徳利にーー。
 盲目の上、さらにその前に青海波の手ぬぐいを巻いて目隠しをした状態で、同じく一筆書きの、眼を閉じて丸まった眠り三毛猫が二匹小さく描かれた猪口に。
 手酌をした酒で、唇と喉を湿らせていた。
「相変わらず、わいばどーよまぁ……どろわ」
 キンキンに冷え切った、白地に露草が描かれた、素朴な意匠の色玻璃ぐい呑みに注がれていた、生の焼酎が注がれたを手に取り。
 軽く一気に煽ると、焼けつくようにキツい酒が、喉から食道、胃の腑に流れ込んだ。
 口腔から、ぶはぁーっと唇を尖らせて、息切れを吐くと、新谷は、
「やせんなか。【ひとり仕事】今度ば、おいの番ったいね?」
「さすが新谷さん。話が早くて、助かりやす」
  その言葉に、新谷は自ずと不敵な笑みの形になった左の口端から、人より長く鋭い犬歯を見せ。
 滅黯は、唇に微笑を浮かべ。
 滅黯の両眼に巻かれた青海波の手ぬぐい越しに視線を合わせ、
 かちん、と。
 野卑な男と、不可思議な印象の少年、ふたりの右手に握られた猪口と色玻璃ぐい呑みを合わせ、乾杯した。

 ーーそして、翌日の昼。
 新谷は既に、自身に課せられた「ひとり仕事」に取りかかっていた。
 場所は、絵草紙屋の【花乞吹雪屋(はなごいふぶきや)】。
 店の規模は、新谷が住み込みで働く【於多福屋】とさほど変わらないーーか、強いて言えばこちらの店舗の方が、若干広い程度であり、寂れ具合もいい勝負といったところだ。
 昨晩に滅黯から耳にしたとおり「そこ」には、何故か不特定多数の年齢の男客達が、引きも切らない。
 店舗の前に行列が出来ているわけではない。
 何故か店の脇の細くて昼なお暗い路地裏で、縦横ともに一尺一寸はありそうな、太い古木の幹に、菰をかけただけの椅子もどきに腰を下ろし、古びた草鞋を履いた右足の甲を、左の太ももの上に乗せ。
 小刀をぎこちなく扱いながら、ざりざりと音を立てて、瓢箪のような形の、強い芳香を放つ果物の皮をちまちまとじつに不器用そうに剥く、十三、四歳ほどの少年の姿があった。
 縮れた赤毛を、文字どおり蓬髪の伸ばし放題にし、裂き布で後ろ髪を束ねた、暗い印象の少年である。
 そして何故か両眼を、上まぶたと下まつ毛の生え際の真上まで、細く切った晒しで、縮れた前髪ごと巻いて覆い隠し、かろうじてぎりぎりの視界を保っている。
 その痩せぎすの身にまとっているのは、ところどころ擦り切れた、岩井茶色の鮫小紋の粗末な絣の着物。
 腰に巻かれた帯は、仙斎茶と言う、あまりにみすぼらしい身なりだった。
 ーーそれは、陽が昇り月が姿を現すまで、一年中休みなく労働に従事して全身から汗を、両掌と両足の裏から血を流し、母と妹弟と、貧しさを絵に描いたような長屋に住みながらも、信仰と家族の会話を心の支えに。
 常に朗々と生きていた、十代半ばの自分と、まるで対照的な印象にも関わらずーー。
 何故か新谷は、自分のこれまでの陰の部分をすべて代わりに背負っているかのように見えた名も知らぬその少年の姿に、胸がえぐられるような思いに囚われたが、今の自分にそんな感傷に浸っている間はないと、仕事を始めた。
 ーー少年は、二十代から五十代までの、幅広い年齢層の男客ばかりが、荷札のようなものを店の者に袖の下のように手渡すと。
 すぐさま油紙で二重に包み、細い縄で俵結びにした長方形の束を手渡し、客はその包みを、そそくさと懐にしまい込む。
 あるいは大急ぎで風呂敷に包む。
(何しよん、あいら……)
 腕と足を組み、滅黯から指定された通りに腰の物を外し、髷が浪人のそれとわからないよう、頭から吉原被りーー鎌の絵、◎の絵、そしてひらがなの『ぬ』の字が、白地に紺色で描かれた、吉原に入り浸る道楽息子ら御用達の手拭いをかぶり、訝しげに、しばし客らの様子を伺っていた。
 新谷は、袂から彼らが持っているのと同じものと思しき荷札のようなものを取り出した。
 そこには、

【札番:四苦八苦掛ケ足シ和数也《瓜タテ割リノヨワイ麓伽羅峠》最終】
 
 滅黯を介して浄眩から渡されたものだが、これが何を現しているのか、さっぱりわからない。
 兎にも角にも、ここはよからぬ場所だ。それだけは、何となく空気でわかる。
 とりあえず渡すものを渡し、受け取るものを受け取って、早々にこの場を立ち去ろうーーというより、単に今この場に身を置いていることすら身の毛がよだちそうな嫌悪感を、新谷は全身で感じていた。
「おい」
「あ、ぅ。へぇ」
 なるたけ故郷(くに)のーー長崎訛りが出ないようーー。
 短く声に出した新谷の呼びかけに、少年が声変わりが始まって間もない、発声しづらそうな声で返答すると、差し出された荷札もどきをそっけなく受け取った。
「札番【四苦八苦掛ケ足シ和数】の注文主様……」
  荷札もどきに記された、一部の字を数回に分けて呟き。
 少年は、何やら口の中でぶつぶつ言いながら、懐から取り出した、小ぶりだが、恐ろしく年季の入ったそろばんを弾き終えると、少年の昏い両眼が、新谷を見上げた。
「ごん……ご、ごん品ば『この品』ば、按摩ど御方がら、品代ば……ま、まま、前払い(まえばだい)ば……ざでで、お、お、おでま、ずけ……ぞで、ぞどばば、お持でぃ帰り下ぜま、し」
「ーーのぅ」
 あまりにたどたどしく、発する声がところどころ不必要な濁音まみれの少年の口調に、新谷が違和感を覚えないはずがなかった。
 さりげなく問いかけたその瞬間、少年は恐怖にびくっと両肩を跳ね上がらせた。
「……何ね、そぎゃんぎゅうらしんでよか。確かに、わいば牙んごたる犬歯ば生やしとっとが、鬼やなかばい。間違うても、人ば取って喰うたりせんたいーーこいでわかっとっとか?」
  言いながら、新谷は色々な意味で戸惑いながらも、無言でゆっくりとうなずいた少年の両手から、果物と小刀を奪い取った。
 素早く右周りに、途中で皮が切れることなく、透けるように薄く螺旋状に剥き、少年に手渡した。
 そして寸分の間も置かず、左掌の上で、小刀の刃の下の部分でへたと皮をえぐった。
 続けて、左掌の上で、それなりに硬さのある剥き身の果実を豆腐のようにふたつに切ると、果実の芯にある種の部分を、谷形に切り落とした。
 そして果汁が滴り落ちる片方の果実の半分下をかじり、口に含むと、
「はぁ、懐かしか味ばい。見立てんとおり『おぉろら』ばい」
 『おぉろら』ーーオーロラ。
 江戸時代から日本にあった、洋梨の名である。
 少年はひどく驚いた顔で、新谷のかおをまじまじと見上げていた。
 それと同時に、
  
 ……チチチ、ピピピ……

 かそけき愛らしい鳴き声とともに、少年の頭に、両肩に。
 まるで少年の存在に惹き付けられるかのように、雀、メジロ、ハクセキレイ、ジョウビタキと、数羽の色とりどりの小鳥達が、脚を乗せた。
 我に返った少年が、新谷が螺旋状に切り落としたオーロラの果皮を小さくむしって両掌の上に乗せた。
 それと同時に、小鳥達は先を争うように、果皮をついばみ始めた。
「へへーー……そぎゃんとこば見っと。おいば、やっちゃ優しか男んごたるな」
「………」
「おいば、長崎の育ちっちゃろ? わいば、おいと同じか歳ん頃、オランダ通詞人の御役人様んとこで働いとったときにな、特別に外国(とっくに)の梨ば喰わせてもらったこつあるけん。あぁ、あんときの味と同じばい」
「……」
 むっしむっしと口の中で懐かしい味を堪能しながら、新谷は言葉を続けた。
 しかし少年は、しかめっ面をして変わらず無言である。
「わいのおなごな、おいと同じったい」
「お、ぁ……ご?」
「ととさんばオランダ人、かかさんば洋妾(らしゃめん)で、金色の髪に、両眼ば、紺色がかった、瑠璃色の色ばしとって、まうごつふとか乳しとった、やっちゃべっぴんのおなごったい。羨ましかろ?」
「……う、ぁ……」
「……?」
 そのとき、新谷は少年の口調に、遅過ぎる違和感を覚えた。
 もしや、と思い。
 戀夏から渡された、彼女の住まう仲町の元小料理屋の一階の鍵とともに瓶覗色の根付けに繋いだ、錫鼠色の水琴鈴を、新谷から向かって彼の左側の耳孔のすぐ前で揺らした。
 透き通るように美しく、余韻を持って鳴り響く音に、少年は顔をしかめ、まったく反応しなかった。
(わいから見て左ば耳……話ば何とか出来っとっとが……やっぱりそぎゃんこったいね?)
 何事かを確信したその瞬間。
 新谷は思わず、少年の視界を限界まで隠す晒し布にそのごつく大きな手をかけていた。
 その瞬間、
 
 ーーどん!
 身の丈五尺程度の細身の少年が、六尺越えの大柄な新谷の体躯をか細い両腕で、彼にとって渾身の力を込めて、突き飛ばした。
 それと同時に、新谷の襟の合わせ目から、勢い余って血赤珊瑚の長い輪に十字架を通した、亡妹、縫の形見のロザリオが飛び出した。
「あっ!!」
「ぁう、ぁうぁっ!?」
 新谷と少年が異口同音に叫ぶと、先にその場から脱兎の如く駆け出したのは、少年の方だった。 
「ーー待たんね、待たんね! わいばいっちょんばかし、おいに聞きたかこつーー」
 しかし、少年の頼りなくか細い背中は、彼が座っていた椅子を手に、その場に一切の痕跡を残すことなく。
 瞬く間に、新谷の視界から消え去ってしまった。
 
「……そぎゃんこつば、あったとね……」
「新谷さん、あんた様の、その子んことについての予想は、間違げぇなく当たってやすぜーーですが、申し訳ありゃあせん。今ぁとにかく、その『花乞吹雪屋』の裏の売り物(もん)の中身を、お広げくだせぇやし」
 ここは滅黯が浅草聖天町の待乳山近くで営む、
【杉山流待乳山麓按摩診療所】
の、六畳の仏間。
 内側からはしっかり鍵をかけ。
 一枚障子の入り口には、どこから持ってきたのか、古びた戸板が立てかけられ、わざわざつっかい棒までかけてある。
 玄関には恐ろしく年季の入った、深く太く鑿だけで字を彫り、そこに木炭を塗り込んで乾燥させたのちに何重にも漆を塗り重ねた、墨痕淋漓とした【本日臨時休業】の六文字がいやというほど目に入る、縦二尺、横一尺ほどの樫の一枚板が立てかけられている。
 一方的とも思える、いつもよりやや急いて聞こえる滅黯の頼みに若干口を尖らせて、新谷は脇に差した短刀で、油紙で二重に包み、細い荒縄で俵結びにした包みを、すぱすぱと斬り開いた。
 それは表紙に何の絵も描かれていなければ、一文字も記されていない、手漉きの木皮、塵入りの未晒(きなり)の楮紙で上下を挟んだ、十枚ほどの浮世絵が現れた。
 表裏の楮紙の上部には、千枚通しで開けたらしき細いふたつの穴が均等に並び、それが白練(しろねり)の紙撚り(こより)で固結びに綴じられている。
 滅黯がその結び目をすっ、と右の人差し指の爪の先でなぞると、結び目はあっさり切れ、
「ーー……な、何ね、こいば……!?」
 ーー畳の部上に散乱したそれは、確かに女の裸体を描いたあぶな絵と、男女の交合を描いた春画であったーーが、世間一般であぶな絵、春画と呼ばれるものとは、似て非なるものだった。
 相変わらず、完全な左右盲目のまぶたの上から、両眼を青海波の手拭いで覆い隠し、甚平をまとった滅黯が、いつになく冷静な口調で問うた。
「ーー新谷さん、おわかりでやしょう。ここに描かれとりやすおなごらはーーいや、その前(めぇ)に」
 そこで滅黯は、位牌ひとつどころか、お輪も線香立ても蝋燭の一本も、仏具の類いは何ひとつ置かれていない仏壇へとにじり寄り、きっちり両ひざと左右の足の十指を揃え、さながら茶道の師範のような所作で、すっと立ち上がった。
 ーー縦三寸、横二寸。
 小さな木彫りの如来、菩薩、明王、天部の四十四尊の仏像が、一台十一ずつに仕切られた、四段の黒塗りの檜の中に並んでいるのは、以前見たときと何ひとつ変わっていない。
 仏壇の奥の板に向かい、右掌の親指の関節をやや内側に折り、残り四本の指先を傾けて、右腕を前に突き出した。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛ーー」
 その題目が数回、滅黯の口から小声で繰り返し唱えられるや否や、黒いだけの空間のはずの仏壇の奥に、月光を強くしたような光を強く放ちながら、長方形の線が浮き上がった。
  それに向かい、滅黯の右人差し指と中指の先端が、ほぼ一尺前から右まわりにその線をなぞる。
 その瞬間、まさに目も眩むような強い白光が仏壇の中から放たれ、新谷は反射的に両眼をつぶり、昇り竜柄の灰色の着流しの右袖で、顔を覆った。
  その間に、滅黯は臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前の九字を切った。
 九字が切り終わると同時に、新谷は顔から袖をゆるゆると下ろし、ややしかめっ面のままの顔をあらわにした。
「黯、わいばまだ、眼ぇば眩んどるったい。わいばおいんごたる神様仏様と通じる力ば持っとらんけん。そんげん力ば使ぉてやっちゃかこつしゅーときば、先ば言っとくれんね」
「あぁ、こりゃどうもどうも、申し訳ありゃあせん。あっしは生まれついての盲でやすから、どうにもお眼の見える方の光の加減がわかりやせんでーーへぇ、何しろ、隠し二重扉ン中からこの箱を取り出すにゃ、この方法しかありゃあせんし、ひらに、ひらにご勘弁をーー」
 恐縮しきりの滅黯が、何度も何度も
頭を上げ下げしながら、新谷に謝罪する。
 ふと、滅黯の首に「人間の肉体の一部」が、きつく絡みついた。
 盲目の滅黯には、こういった独特の皮膚感覚と物言いを備えている。
 ーー急激に頭頂が、これまた「人間の肉体の一部」によってぐりぐりと強く押しつけられた。
「あ、新谷さん!?」
 滅黯が視力の代わりに与えられた、先天性かつ彼特有の皮膚感覚も、各人が肌や着物や髪に染みた、人並み外れた嗅覚を使わずとも、誰が何をしているのか、すぐにわかった。
 あぐらをかいた新谷が、頭を下げた自分の首を左腕で抱え込み、右の拳で頭頂にめり込ませているのだ。
 まるで、悪さをした幼子が父親に罰を与えるように。
「どぎゃんね、黯。こんふーけもん、おうどか坊主んごたる真似した罰ったい!」
 新谷の口調には、堪え切れない笑いが含まれていた。
 それに合わせたわけではないが、滅黯は必死に両足をばたつかせて、必死に訴えた。
 「……っらやさん、申し訳ありゃあせん、申し訳ありゃあせん! でやすが、今ぁこんな真似してる場合じゃありゃあせん! そ、その、そのあぶな絵に描かれとる、おな、おなごらんことがっ、先っ、で、やんす!」
 滅黯の言葉に、新谷は夢から覚めたかのようにはたと我に返り、滅黯の身から両腕を離した。
 

 
 


 


 

 
 
 


 
  
 
 
 




 

 

 
 



 

 

 
 
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