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32.オバサンと女の子②
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「……誘うつもりだったなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
とぼとぼと廊下を歩きながら、明希は独りごちた。
口に出してから、これではまるで立岡に誘ってもらいたかったと言っているようなものだと思い直して慌てて首を振る。
立岡の告白を受けたわけではないけれど、仕事終わりの食事くらいなら明希だって喜んで付き合っていただろう。一仕事終えたわけだし、先輩と後輩でささやかな打ち上げをしても何ら問題はあるまい。
そんなことを考えていると、今こうして一人で帰路に着こうとしていることが無性に寂しくなって、明希は自分の腕をぎゅっと掴んだ。とっとと家に帰って一人でぐうたらしようと思っていたくせに、先程の立岡の表情を思い出すと明希まで悲しくなってくる。
でも、立岡は明希の指示に従ってすでに退社してしまっている。さっき「無事に手渡しました」と立岡からメールが届いていたから、きっと今頃は家に帰る途中だろう。今さら「戻ってきて」と言うのもおかしな話だし、そもそも照れ臭くてそんなこと言えるわけがない。
──別に、立岡くんとご飯行きたかったわけじゃないけど。そういうわけじゃないけど、なんか申し訳ないから、今度私からご飯に誘うのは、別にいいよね?
心のうちで自分に問いかけるけれど、答えが返ってくるはずもない。虚無感だけが残って、早く家に帰ってしまおうと明希は足早にエレベーターへ向かった。
「──でさ、営業三課の中里ってオバサン知ってる?」
廊下の角を曲がろうとしたところで、ふいに自分の名前が聞こえて明希はぴたりと足を止めた。
「中里って……あー、立岡がアシスタントやってる先輩だろ? つーか野辺山、オバサンとか言うなって」
「いーの、だってオバサンでしょ? あの人さあ、あたしがちょっと純と話してただけでめちゃくちゃ怖い顔で怒鳴ってきたんだけど! アシスタントってだけなのに、純のこと自分のものとでも思ってんのかな」
聞き覚えのある声の主は、きっと野辺山だろう。はきはきとした喋り方を好ましいとすら思っていたのに、今はまったくそう思えなかった。
この角を曲がった先にはエレベーターがあって、その手前の一角が休憩コーナーになっている。きっと野辺山たち数人がそこで会話をしているのだろうが、それを誰か──明希に聞かれていることには、ちっとも気付いていないようだ。
「でもさ、中里先輩って仕事できるって聞いたよ。デザイナーの八千穂さんにも気に入られてるんだって、うちの課長が話してた」
「そんなの、体使って取り入ったんじゃないの? あのオバサン、仕事のためならなんでもやりますって感じだしさぁ」
「うわっ、マジかよ! いいよなぁ、女はそういう手が使えて」
「あんたでもできるんじゃない? やり方教わってきなよ、あのオバサンに」
「はははっ、勘弁してくれよ!」
根も葉もない噂はこうやって立つのか、と明希は妙に冷静な頭でそう考えた。いや、未遂とはいえ明希は実際に体を使おうとしたことがあるのだから、あながち間違ってもいないのか。
自嘲気味にそんなことを思いながらも、明希の体は金縛りにでも遭ったかのように固まってしまった。何食わぬ顔で彼らの前を通り過ぎれば良いのに、どうしても足が動いてくれない。
エレベーターに乗るためには、どうしてもこの先の休憩コーナーを通らなければならない。ということは、明希の噂話で盛り上がっている彼らの目の前を通らなければ帰ることができないのだ。
こんな誰が通るかも分からない場所で堂々と先輩社員の陰口を叩くなんて、良い度胸をしている。いや、もしかしたら誰かに聞かせたくてわざと大声で話しているのかもしれない。顔も名前も分からない他の社員はともかく、野辺山だけはきっと明希の評判を下げたくてこんなことをしているのだろうと容易に想像できた。
「つーか立岡の奴、最近付き合い悪いよな。同期のみんなで飲みに行こうって誘っても全部断るし」
「それもたぶん、あのオバサンが断れって命令してるんだよ。仕事中も純のことこき使ってるくせにプライベートまで口出してさ、恋人気取りなんじゃない?」
「えー、ほんと? なぁんだ、もしかして立岡くんって中里先輩のこと好きなのかなぁとか思ってたけど、違うんだね。そりゃそっか、年離れすぎてるもんねぇ」
「そうだよ! だってあの人、もう三十路でしょ? オバサンが勘違いして独占欲丸出しにしてさ、みっともないよね」
甲高い笑い声が、いやに明希の頭に響き渡った。
立岡をこき使っていることも、彼との年の差が離れていることも、明希がもうすぐ三十歳になることも、すべて本当のことだ。まだ二十歳を少し過ぎたくらいの後輩社員たちに「オバサン」と呼ばれても、明希は何も反論できない。
そして、立岡に好意を向けられて調子に乗っていた自分がいたことも確かだった。
戸惑っていたのもまた事実だけれど、憎からず思っていた後輩に好かれていると知って、嬉しくなかったわけではない。彼の気遣いや優しさに助けられたことも数えきれないほどあるし、彼からキスをされてからはその熱い視線に胸が高鳴ったこともある。
こんな時になって、明希は立岡に対する自分の気持ちが変化していることをようやく自覚した。
とぼとぼと廊下を歩きながら、明希は独りごちた。
口に出してから、これではまるで立岡に誘ってもらいたかったと言っているようなものだと思い直して慌てて首を振る。
立岡の告白を受けたわけではないけれど、仕事終わりの食事くらいなら明希だって喜んで付き合っていただろう。一仕事終えたわけだし、先輩と後輩でささやかな打ち上げをしても何ら問題はあるまい。
そんなことを考えていると、今こうして一人で帰路に着こうとしていることが無性に寂しくなって、明希は自分の腕をぎゅっと掴んだ。とっとと家に帰って一人でぐうたらしようと思っていたくせに、先程の立岡の表情を思い出すと明希まで悲しくなってくる。
でも、立岡は明希の指示に従ってすでに退社してしまっている。さっき「無事に手渡しました」と立岡からメールが届いていたから、きっと今頃は家に帰る途中だろう。今さら「戻ってきて」と言うのもおかしな話だし、そもそも照れ臭くてそんなこと言えるわけがない。
──別に、立岡くんとご飯行きたかったわけじゃないけど。そういうわけじゃないけど、なんか申し訳ないから、今度私からご飯に誘うのは、別にいいよね?
心のうちで自分に問いかけるけれど、答えが返ってくるはずもない。虚無感だけが残って、早く家に帰ってしまおうと明希は足早にエレベーターへ向かった。
「──でさ、営業三課の中里ってオバサン知ってる?」
廊下の角を曲がろうとしたところで、ふいに自分の名前が聞こえて明希はぴたりと足を止めた。
「中里って……あー、立岡がアシスタントやってる先輩だろ? つーか野辺山、オバサンとか言うなって」
「いーの、だってオバサンでしょ? あの人さあ、あたしがちょっと純と話してただけでめちゃくちゃ怖い顔で怒鳴ってきたんだけど! アシスタントってだけなのに、純のこと自分のものとでも思ってんのかな」
聞き覚えのある声の主は、きっと野辺山だろう。はきはきとした喋り方を好ましいとすら思っていたのに、今はまったくそう思えなかった。
この角を曲がった先にはエレベーターがあって、その手前の一角が休憩コーナーになっている。きっと野辺山たち数人がそこで会話をしているのだろうが、それを誰か──明希に聞かれていることには、ちっとも気付いていないようだ。
「でもさ、中里先輩って仕事できるって聞いたよ。デザイナーの八千穂さんにも気に入られてるんだって、うちの課長が話してた」
「そんなの、体使って取り入ったんじゃないの? あのオバサン、仕事のためならなんでもやりますって感じだしさぁ」
「うわっ、マジかよ! いいよなぁ、女はそういう手が使えて」
「あんたでもできるんじゃない? やり方教わってきなよ、あのオバサンに」
「はははっ、勘弁してくれよ!」
根も葉もない噂はこうやって立つのか、と明希は妙に冷静な頭でそう考えた。いや、未遂とはいえ明希は実際に体を使おうとしたことがあるのだから、あながち間違ってもいないのか。
自嘲気味にそんなことを思いながらも、明希の体は金縛りにでも遭ったかのように固まってしまった。何食わぬ顔で彼らの前を通り過ぎれば良いのに、どうしても足が動いてくれない。
エレベーターに乗るためには、どうしてもこの先の休憩コーナーを通らなければならない。ということは、明希の噂話で盛り上がっている彼らの目の前を通らなければ帰ることができないのだ。
こんな誰が通るかも分からない場所で堂々と先輩社員の陰口を叩くなんて、良い度胸をしている。いや、もしかしたら誰かに聞かせたくてわざと大声で話しているのかもしれない。顔も名前も分からない他の社員はともかく、野辺山だけはきっと明希の評判を下げたくてこんなことをしているのだろうと容易に想像できた。
「つーか立岡の奴、最近付き合い悪いよな。同期のみんなで飲みに行こうって誘っても全部断るし」
「それもたぶん、あのオバサンが断れって命令してるんだよ。仕事中も純のことこき使ってるくせにプライベートまで口出してさ、恋人気取りなんじゃない?」
「えー、ほんと? なぁんだ、もしかして立岡くんって中里先輩のこと好きなのかなぁとか思ってたけど、違うんだね。そりゃそっか、年離れすぎてるもんねぇ」
「そうだよ! だってあの人、もう三十路でしょ? オバサンが勘違いして独占欲丸出しにしてさ、みっともないよね」
甲高い笑い声が、いやに明希の頭に響き渡った。
立岡をこき使っていることも、彼との年の差が離れていることも、明希がもうすぐ三十歳になることも、すべて本当のことだ。まだ二十歳を少し過ぎたくらいの後輩社員たちに「オバサン」と呼ばれても、明希は何も反論できない。
そして、立岡に好意を向けられて調子に乗っていた自分がいたことも確かだった。
戸惑っていたのもまた事実だけれど、憎からず思っていた後輩に好かれていると知って、嬉しくなかったわけではない。彼の気遣いや優しさに助けられたことも数えきれないほどあるし、彼からキスをされてからはその熱い視線に胸が高鳴ったこともある。
こんな時になって、明希は立岡に対する自分の気持ちが変化していることをようやく自覚した。
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