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三の湯
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「ほっ、本当に、申し訳ありませんでした!!」
畳に額を擦り付ける勢いで、要が秋奈に向かって土下座する。ずきずきと痛む後頭部を濡れたタオルで冷やしながら、秋奈は引きつった顔でそんな要を見下ろした。
「あ、あの、ぶつけた所は大丈夫でしょうか? すみません、私のせいでっ……!」
「いや、ぶつけた所は大丈夫なんですけど……精神的ショックの方が大きいと言うか……」
そう。先ほど秋奈が目撃した"風呂桶を舐め回す赤ら顔で細長い舌の化け物"の正体は、なんとこの旅館の主人である要だったのだ。
秋奈の悲鳴で我に帰った化け物、つまり要は、一瞬のうちに人間へと姿を変えた。その変化すら秋奈にとっては衝撃で、気が遠くなってその場に倒れてしまったのだ。
その際、床に後頭部を打ち付けた秋奈は譫言のように「へや、へやにもどらないと」と言っていたようで、人間に戻った要が大慌てで秋奈を担いで彼女の部屋へ運んだというわけである。
「あ、あのー……私、幻覚でも見たんですかね?」
さっき起きた出来事を否定したくてそんなことを聞いたのだが、要は今にも泣きそうな顔で首を横に振った。秋奈の淡い期待はすぐに消え、代わりに要の口からにわかには信じられない事実を告げられる。
「……実は私、人間ではなくて……垢嘗という、妖怪なんです」
あかなめ、と秋奈が復唱すると、要はまた顔を歪ませて申し訳なさそうに頭を垂れた。
「騙すようなことをして、ごめんなさい……でも、私が秋奈ちゃんのファンだというのは本当です。ずっとあなたを応援していたのも」
「あ、え、ありがとう、ございます……?」
場違いな礼を言うと、要はやっと顔を上げてくれた。ぐすぐすと鼻を鳴らしているその姿はどう見ても普通の男の人にしか見えなくて、秋奈は恐る恐る彼に尋ねる。
「あの、垢嘗っていう妖怪……なんですよね? なんですかそれ?」
「え、えーっと……垢嘗は夜中になると、風呂場に侵入して、人間の使った風呂桶や手桶に付いた垢を舐めるという習性があって」
「うげっ……」
「あっ、で、でも、それは大昔の話でっ、私は生まれたときから普通に人間らしく生きてきたんです! ほらっ、どこからどう見ても人間でしょう!?」
身の潔白を証明するように両腕を広げる要だが、秋奈はつい先ほど彼の禍々しい本性を目の当たりにしたばかりである。あからさまに怯えた顔をする秋奈に気付いて、要はすぐさま居住まいを正した。
「……本当に、すみませんでした。こんなこと言ったって、許してもらえるわけないとは分かってます。でも、あんな風になってしまったのは、今日が初めてで……っ」
「え……?」
そう言ったかと思うと、要はとうとう本格的に泣き出してしまった。彼の印象を暗く見せている黒縁眼鏡を外して、長すぎる前髪も水に濡れて掻き分けられているせいか、さっきよりも幼く見える。そんな要が子どものように泣いているのだから、だんだんと罪悪感が押し寄せてきた。
「あ、あの、要さん? 泣かないでくださいよ。ていうか、えっ? あんな感じになっちゃったの、初めてなんですか?」
「うっ、うう、はい゛っ……ひぐっ、最初は、いつも通り風呂掃除してたんですけど、ここに秋奈ちゃんが入ったんだなって、ふと考えてしまって……っ、そしたら、理性が飛んだというか、訳が分からなくなってっ……」
なるほど、と頷きながら秋奈は腕を組んだ。後頭部の痛みも引いてきたので、タオルは脇に置いて少しだけ要の方へと近付く。今度は要の方がびくっと体を跳ねさせて、秋奈から距離を取るように仰け反った。
「あ、秋奈ちゃん、あんまり近づかないほうが……っ」
「大丈夫ですよ。第一、ここに風呂桶は無いですし。それじゃ、毎晩あの姿になって風呂桶を舐めてたってわけじゃないんですね?」
「あっ、当たり前です! そんな不潔なこと、するはずがありませんっ!」
「……まあ、ついさっき舐めてましたけどね」
先ほどの要の姿を思い出しながらぼそりと呟くと、彼はまた絶望したように項垂れた。そのまま、言い訳でもするかのように彼は語り始める。
「……実は、私の母は人間なんです。父は、正真正銘の垢嘗ですが」
「え……それじゃ、半分は人間ってこと?」
「は、はい……だから、油断していたというか……半分人間だから、自分は父のようにはならないと思っていたんです。……つい、さっきまでは」
要はまたぐすっと鼻を鳴らした。秋奈にとっても先ほどの出来事は衝撃的だったが、要本人はもっと驚いたことだろう。しかも、妖怪の姿に変わった自分を他人に見られてしまったのだから、ショックが大きくて当然だ。
「本当に、ごめんなさい……気味の悪いところを見せてしまったうえに、驚かせて怪我までさせてしまって」
「あ、いや、それはもういいんですけど……私としては、妖怪っていうものが本当にいるっていうことの方が、その、驚いたというか」
「そ、そうなんですか? 今まで、妖怪に会ったことありませんか?」
「無いですよ! え、逆に要さんはあるんですか? 家族以外の妖怪と会ったことが」
「も、もちろん。向かいの饅頭屋の主人は小豆洗いですし、私の親友は木の葉天狗ですが、普通にサラリーマンとして働いてますし……ああそれに、知り合いの酒蔵の娘さんは蟒蛇に嫁いだと聞きました」
しれっとした様子でそう話す要だが、秋奈は驚いて目を丸くした。自分が知らないだけで、世の中には妖怪がたくさん紛れ込んでいるのだろうか。それとも、要の周囲だけが異質なのだろうか。
よく分からないが、とにかく要がただの人間ではないということだけは理解できた。
「はあ……すごいことに首突っ込んじゃったなぁ」
「ご、ごめん、なさい……」
「いえ、責めてるわけじゃないんです。それにしても、その……つまり要さんは、私のことが好きすぎて本性が現れちゃったってことですか?」
「すっ……!? ひっ、え、ええっと、そ、そういう、ことはっ」
「さっき垢嘗になってるとき、言ってくれたじゃないですか。秋奈ちゃん、好きだって」
先ほどの要の言葉を口にすると、彼の顔は耳まで真っ赤になった。純情そうな要の反応にくすりと笑うと、彼は一瞬ためらってから、おずおずと口を開く。
「……私、秋奈ちゃんとの握手会に、一度行ったことがあるんです」
「え……」
「そのとき秋奈ちゃんは、こんな私にもにっこり笑って、ありがとう、あなたのために頑張ります、なんて言ってくれて……手汗まみれで、気持ち悪かっただろうに、嫌な顔ひとつしなかった」
ぽつりぽつりと、大切な思い出を語るように要が言った。その表情はとても優しげで、その時のことをちゃんと覚えていない自分が情けなくなる。
「明るくて、元気な秋奈ちゃんを見てると、とっても幸せな気持ちになるんです。だから、もしまた会うことができたら、今度は私が秋奈ちゃんに『ありがとう』って、言いたくて……それなのに、こんな嫌な気持ちにさせて、申し訳ない気持ちでいっぱいで」
そう言うと要は、もう一度深々と頭を下げた。しばらくしてからやっと顔を上げたかと思うと悲しげに笑って、声を詰まらせながら秋奈に告げる。
「あ、秋奈ちゃん、好きです。こんな風にあなたと話すことができて、本当に嬉しかった。……っ、それと、いつも私に元気をくれて、ありがとう」
その言葉を聞いて、今度は秋奈の目から涙が溢れた。
誰も自分のことなんて見ていないかもしれない、自分は求められていないかもしれないという不安を抱えながら、それでも諦めたくなくてこの仕事を続けてきた。でも、こうして秋奈の頑張りを見ていてくれる人がいるのだと、この時初めて知ったのだ。
秋奈が涙を流していることに気付いた要は、何を勘違いしたのかさらに深く頭を下げた。そんな彼に苦笑しながら、「嬉し涙ですよ」と言えばやっと顔を上げてくれる。
「……要さん。私、今度写真集出せるかもしれないんです。頑張り次第では、単独で出してくれるかもって」
「えっ……ほ、本当に!?」
「あ、まだ確定じゃないんですけどね? ……少し迷ってたけど、要さんのおかげで決心がつきました。要さんが応援してくれるなら、汚れ仕事だろうと何だろうとこなしてみせます!」
そう言って笑ってみせた秋奈だったが、それを聞いた要は表情を曇らせた。写真集が出るかもしれないと言ったときは笑顔を見せてくれたのに、怪しむように秋奈に尋ねる。
「汚れ仕事、って……? バラエティ番組か何かに出るんですか?」
「えっ? あ、ああ、違いますよ。汚れ仕事と言うか、体を張る仕事と言うか……それをクリアできたら写真集を出してもらえるらしくて」
「か、体を……!? あっ、あの、もし違ったらすみません。それって……枕営業、とかじゃ、ないですよね?」
単刀直入に言われて、秋奈は思わず言葉に詰まった。その様子を見た要は目を見張り、突然がしっと秋奈の両肩を掴んだ。
「だっ、だめです! そ、そんなことしても、秋奈ちゃんが汚れるだけだ!」
「えっ……で、でも」
「考え直してくださいっ! 私だけじゃなくて、他の秋奈ちゃんファンだって、きっとそんなこと望んでない! わ、私は、ページの隅っこだろうと、他の子の影に隠れていようと、いつでも明るく笑ってる秋奈ちゃんが好きなんですっ!」
再びぽろぽろと涙を流す要を、秋奈は複雑な表情で見つめていた。
要の気持ちはありがたいが、そうでもしない限り秋奈に大仕事が回ってくる可能性は無いに等しい。そうしてのんびりしているうちにどんどん歳をとって、もっと若くて可愛い新人が入ってきて、小さな仕事すらもらえなくなる可能性の方がずっと高いのだ。
「……でも、要さんだって私の写真集見たいでしょ?」
「うっ……そ、それはもちろん、ですが……でもきっと、それで写真集が出たとしても、私は嬉しくない。秋奈ちゃんが辛い思いをするくらいなら、写真集なんて出なくていいんです」
要のそのまっすぐな言葉に、秋奈の決意は揺らいだ。自分を応援してくれるファンに面と向かって「嬉しくない」と言われてしまえば、一体何のために自らの体を差し出すのかと疑問に思ってしまう。
でも、単独の写真集を出すというのは秋奈の夢でもあるのだ。グラビアアイドルを名乗るからには、一冊くらい自分だけを写した本が欲しいと思うのは当然だろう。それに、相手方の編集長にはもうすでに返事をしてしまった後だ。
「……ごめんなさい、要さん。要さんの気持ちはとっても嬉しいけど、私はやっぱり、写真集を出したい。そのチャンスがあるなら、体を張る覚悟もできてるんです」
「そっ、そんな……!」
「でも、約束します。体を張るのは今回だけ。写真集さえ出してもらえたら、あとは自力で仕事を掴むから。……都合のいい話だけど、そしたらまた、私を応援してくれますか?」
膝の上で固く握られた要の拳に触れる。険しい表情のまま口を引き結ぶ要は頷いてはくれなかったけれど、首を横に振ることもしなかった。
「……要さん。目、つぶってください」
「え……ど、どうして」
「いいから。お願いします」
要からの問いには答えずに、秋奈は促すように彼の手を強く握った。怪訝な顔をする要だったが、じっと己を見つめてくる秋奈の視線に耐えかねたようにゆっくりと目を閉じる。
そして、要がしっかりと両目を閉じたことを確認すると、秋奈は彼の薄い唇にそっとキスをした。
「っ、えっ……!? あっ、秋奈ちゃんっ、今なにを……っ」
唇に触れた途端、要はこれ以上ないほど目を見開いた。再び顔が耳まで赤くなってしまった彼に、秋奈は眉を下げて笑う。
「……ごめんなさい。私のことを本気で心配してくれる要さんに、何かお礼がしたくて……でも、これくらいしか思いつかなくて。い、嫌でしたか?」
「いっ、いいい嫌なわけ、ないです……っ! でっ、でも、こんな、得体の知れない私なんかに、きっ、キスするなんて……! あ、秋奈ちゃんっ、自分を安売りしたら駄目ですっ!」
「安売りなんてしたつもりはありません! でも、少しでも綺麗なうちに、私のことをちゃんと好きでいてくれる人にあげたいなって……その、ファーストキスを」
なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろう、と秋奈は言いながら赤面した。
しかし、秋奈の言葉を聞いた要は、笑うことも怒ることもせずに、驚きと悲しみの入り混じったような表情で秋奈を見つめていた。
畳に額を擦り付ける勢いで、要が秋奈に向かって土下座する。ずきずきと痛む後頭部を濡れたタオルで冷やしながら、秋奈は引きつった顔でそんな要を見下ろした。
「あ、あの、ぶつけた所は大丈夫でしょうか? すみません、私のせいでっ……!」
「いや、ぶつけた所は大丈夫なんですけど……精神的ショックの方が大きいと言うか……」
そう。先ほど秋奈が目撃した"風呂桶を舐め回す赤ら顔で細長い舌の化け物"の正体は、なんとこの旅館の主人である要だったのだ。
秋奈の悲鳴で我に帰った化け物、つまり要は、一瞬のうちに人間へと姿を変えた。その変化すら秋奈にとっては衝撃で、気が遠くなってその場に倒れてしまったのだ。
その際、床に後頭部を打ち付けた秋奈は譫言のように「へや、へやにもどらないと」と言っていたようで、人間に戻った要が大慌てで秋奈を担いで彼女の部屋へ運んだというわけである。
「あ、あのー……私、幻覚でも見たんですかね?」
さっき起きた出来事を否定したくてそんなことを聞いたのだが、要は今にも泣きそうな顔で首を横に振った。秋奈の淡い期待はすぐに消え、代わりに要の口からにわかには信じられない事実を告げられる。
「……実は私、人間ではなくて……垢嘗という、妖怪なんです」
あかなめ、と秋奈が復唱すると、要はまた顔を歪ませて申し訳なさそうに頭を垂れた。
「騙すようなことをして、ごめんなさい……でも、私が秋奈ちゃんのファンだというのは本当です。ずっとあなたを応援していたのも」
「あ、え、ありがとう、ございます……?」
場違いな礼を言うと、要はやっと顔を上げてくれた。ぐすぐすと鼻を鳴らしているその姿はどう見ても普通の男の人にしか見えなくて、秋奈は恐る恐る彼に尋ねる。
「あの、垢嘗っていう妖怪……なんですよね? なんですかそれ?」
「え、えーっと……垢嘗は夜中になると、風呂場に侵入して、人間の使った風呂桶や手桶に付いた垢を舐めるという習性があって」
「うげっ……」
「あっ、で、でも、それは大昔の話でっ、私は生まれたときから普通に人間らしく生きてきたんです! ほらっ、どこからどう見ても人間でしょう!?」
身の潔白を証明するように両腕を広げる要だが、秋奈はつい先ほど彼の禍々しい本性を目の当たりにしたばかりである。あからさまに怯えた顔をする秋奈に気付いて、要はすぐさま居住まいを正した。
「……本当に、すみませんでした。こんなこと言ったって、許してもらえるわけないとは分かってます。でも、あんな風になってしまったのは、今日が初めてで……っ」
「え……?」
そう言ったかと思うと、要はとうとう本格的に泣き出してしまった。彼の印象を暗く見せている黒縁眼鏡を外して、長すぎる前髪も水に濡れて掻き分けられているせいか、さっきよりも幼く見える。そんな要が子どものように泣いているのだから、だんだんと罪悪感が押し寄せてきた。
「あ、あの、要さん? 泣かないでくださいよ。ていうか、えっ? あんな感じになっちゃったの、初めてなんですか?」
「うっ、うう、はい゛っ……ひぐっ、最初は、いつも通り風呂掃除してたんですけど、ここに秋奈ちゃんが入ったんだなって、ふと考えてしまって……っ、そしたら、理性が飛んだというか、訳が分からなくなってっ……」
なるほど、と頷きながら秋奈は腕を組んだ。後頭部の痛みも引いてきたので、タオルは脇に置いて少しだけ要の方へと近付く。今度は要の方がびくっと体を跳ねさせて、秋奈から距離を取るように仰け反った。
「あ、秋奈ちゃん、あんまり近づかないほうが……っ」
「大丈夫ですよ。第一、ここに風呂桶は無いですし。それじゃ、毎晩あの姿になって風呂桶を舐めてたってわけじゃないんですね?」
「あっ、当たり前です! そんな不潔なこと、するはずがありませんっ!」
「……まあ、ついさっき舐めてましたけどね」
先ほどの要の姿を思い出しながらぼそりと呟くと、彼はまた絶望したように項垂れた。そのまま、言い訳でもするかのように彼は語り始める。
「……実は、私の母は人間なんです。父は、正真正銘の垢嘗ですが」
「え……それじゃ、半分は人間ってこと?」
「は、はい……だから、油断していたというか……半分人間だから、自分は父のようにはならないと思っていたんです。……つい、さっきまでは」
要はまたぐすっと鼻を鳴らした。秋奈にとっても先ほどの出来事は衝撃的だったが、要本人はもっと驚いたことだろう。しかも、妖怪の姿に変わった自分を他人に見られてしまったのだから、ショックが大きくて当然だ。
「本当に、ごめんなさい……気味の悪いところを見せてしまったうえに、驚かせて怪我までさせてしまって」
「あ、いや、それはもういいんですけど……私としては、妖怪っていうものが本当にいるっていうことの方が、その、驚いたというか」
「そ、そうなんですか? 今まで、妖怪に会ったことありませんか?」
「無いですよ! え、逆に要さんはあるんですか? 家族以外の妖怪と会ったことが」
「も、もちろん。向かいの饅頭屋の主人は小豆洗いですし、私の親友は木の葉天狗ですが、普通にサラリーマンとして働いてますし……ああそれに、知り合いの酒蔵の娘さんは蟒蛇に嫁いだと聞きました」
しれっとした様子でそう話す要だが、秋奈は驚いて目を丸くした。自分が知らないだけで、世の中には妖怪がたくさん紛れ込んでいるのだろうか。それとも、要の周囲だけが異質なのだろうか。
よく分からないが、とにかく要がただの人間ではないということだけは理解できた。
「はあ……すごいことに首突っ込んじゃったなぁ」
「ご、ごめん、なさい……」
「いえ、責めてるわけじゃないんです。それにしても、その……つまり要さんは、私のことが好きすぎて本性が現れちゃったってことですか?」
「すっ……!? ひっ、え、ええっと、そ、そういう、ことはっ」
「さっき垢嘗になってるとき、言ってくれたじゃないですか。秋奈ちゃん、好きだって」
先ほどの要の言葉を口にすると、彼の顔は耳まで真っ赤になった。純情そうな要の反応にくすりと笑うと、彼は一瞬ためらってから、おずおずと口を開く。
「……私、秋奈ちゃんとの握手会に、一度行ったことがあるんです」
「え……」
「そのとき秋奈ちゃんは、こんな私にもにっこり笑って、ありがとう、あなたのために頑張ります、なんて言ってくれて……手汗まみれで、気持ち悪かっただろうに、嫌な顔ひとつしなかった」
ぽつりぽつりと、大切な思い出を語るように要が言った。その表情はとても優しげで、その時のことをちゃんと覚えていない自分が情けなくなる。
「明るくて、元気な秋奈ちゃんを見てると、とっても幸せな気持ちになるんです。だから、もしまた会うことができたら、今度は私が秋奈ちゃんに『ありがとう』って、言いたくて……それなのに、こんな嫌な気持ちにさせて、申し訳ない気持ちでいっぱいで」
そう言うと要は、もう一度深々と頭を下げた。しばらくしてからやっと顔を上げたかと思うと悲しげに笑って、声を詰まらせながら秋奈に告げる。
「あ、秋奈ちゃん、好きです。こんな風にあなたと話すことができて、本当に嬉しかった。……っ、それと、いつも私に元気をくれて、ありがとう」
その言葉を聞いて、今度は秋奈の目から涙が溢れた。
誰も自分のことなんて見ていないかもしれない、自分は求められていないかもしれないという不安を抱えながら、それでも諦めたくなくてこの仕事を続けてきた。でも、こうして秋奈の頑張りを見ていてくれる人がいるのだと、この時初めて知ったのだ。
秋奈が涙を流していることに気付いた要は、何を勘違いしたのかさらに深く頭を下げた。そんな彼に苦笑しながら、「嬉し涙ですよ」と言えばやっと顔を上げてくれる。
「……要さん。私、今度写真集出せるかもしれないんです。頑張り次第では、単独で出してくれるかもって」
「えっ……ほ、本当に!?」
「あ、まだ確定じゃないんですけどね? ……少し迷ってたけど、要さんのおかげで決心がつきました。要さんが応援してくれるなら、汚れ仕事だろうと何だろうとこなしてみせます!」
そう言って笑ってみせた秋奈だったが、それを聞いた要は表情を曇らせた。写真集が出るかもしれないと言ったときは笑顔を見せてくれたのに、怪しむように秋奈に尋ねる。
「汚れ仕事、って……? バラエティ番組か何かに出るんですか?」
「えっ? あ、ああ、違いますよ。汚れ仕事と言うか、体を張る仕事と言うか……それをクリアできたら写真集を出してもらえるらしくて」
「か、体を……!? あっ、あの、もし違ったらすみません。それって……枕営業、とかじゃ、ないですよね?」
単刀直入に言われて、秋奈は思わず言葉に詰まった。その様子を見た要は目を見張り、突然がしっと秋奈の両肩を掴んだ。
「だっ、だめです! そ、そんなことしても、秋奈ちゃんが汚れるだけだ!」
「えっ……で、でも」
「考え直してくださいっ! 私だけじゃなくて、他の秋奈ちゃんファンだって、きっとそんなこと望んでない! わ、私は、ページの隅っこだろうと、他の子の影に隠れていようと、いつでも明るく笑ってる秋奈ちゃんが好きなんですっ!」
再びぽろぽろと涙を流す要を、秋奈は複雑な表情で見つめていた。
要の気持ちはありがたいが、そうでもしない限り秋奈に大仕事が回ってくる可能性は無いに等しい。そうしてのんびりしているうちにどんどん歳をとって、もっと若くて可愛い新人が入ってきて、小さな仕事すらもらえなくなる可能性の方がずっと高いのだ。
「……でも、要さんだって私の写真集見たいでしょ?」
「うっ……そ、それはもちろん、ですが……でもきっと、それで写真集が出たとしても、私は嬉しくない。秋奈ちゃんが辛い思いをするくらいなら、写真集なんて出なくていいんです」
要のそのまっすぐな言葉に、秋奈の決意は揺らいだ。自分を応援してくれるファンに面と向かって「嬉しくない」と言われてしまえば、一体何のために自らの体を差し出すのかと疑問に思ってしまう。
でも、単独の写真集を出すというのは秋奈の夢でもあるのだ。グラビアアイドルを名乗るからには、一冊くらい自分だけを写した本が欲しいと思うのは当然だろう。それに、相手方の編集長にはもうすでに返事をしてしまった後だ。
「……ごめんなさい、要さん。要さんの気持ちはとっても嬉しいけど、私はやっぱり、写真集を出したい。そのチャンスがあるなら、体を張る覚悟もできてるんです」
「そっ、そんな……!」
「でも、約束します。体を張るのは今回だけ。写真集さえ出してもらえたら、あとは自力で仕事を掴むから。……都合のいい話だけど、そしたらまた、私を応援してくれますか?」
膝の上で固く握られた要の拳に触れる。険しい表情のまま口を引き結ぶ要は頷いてはくれなかったけれど、首を横に振ることもしなかった。
「……要さん。目、つぶってください」
「え……ど、どうして」
「いいから。お願いします」
要からの問いには答えずに、秋奈は促すように彼の手を強く握った。怪訝な顔をする要だったが、じっと己を見つめてくる秋奈の視線に耐えかねたようにゆっくりと目を閉じる。
そして、要がしっかりと両目を閉じたことを確認すると、秋奈は彼の薄い唇にそっとキスをした。
「っ、えっ……!? あっ、秋奈ちゃんっ、今なにを……っ」
唇に触れた途端、要はこれ以上ないほど目を見開いた。再び顔が耳まで赤くなってしまった彼に、秋奈は眉を下げて笑う。
「……ごめんなさい。私のことを本気で心配してくれる要さんに、何かお礼がしたくて……でも、これくらいしか思いつかなくて。い、嫌でしたか?」
「いっ、いいい嫌なわけ、ないです……っ! でっ、でも、こんな、得体の知れない私なんかに、きっ、キスするなんて……! あ、秋奈ちゃんっ、自分を安売りしたら駄目ですっ!」
「安売りなんてしたつもりはありません! でも、少しでも綺麗なうちに、私のことをちゃんと好きでいてくれる人にあげたいなって……その、ファーストキスを」
なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろう、と秋奈は言いながら赤面した。
しかし、秋奈の言葉を聞いた要は、笑うことも怒ることもせずに、驚きと悲しみの入り混じったような表情で秋奈を見つめていた。
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