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第一章
13.私と彼とファーストキス
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「ずいぶん過激な友達だね? 倫」
「え……?」
ざあざあと雨が降り注ぐ中、来るべき痛みがやってこないことと、ここにいるはずのない人の声が聞こえたことを認識して私は恐る恐る目を開ける。
そこにいたのは、私に向かって振り下ろされたモップを片手で受け止めて、いつものように穏やかに笑う平原さんだった。
「ひ、ひら、はらさん……? どうして……」
「倫、大丈夫? 怪我はない?」
「え? は、はい……」
「嘘つき。膝、血出てるよ。あとで手当てしてあげるね」
彼の言葉に、慌てて自分の膝を見る。転んだときに擦ったのか、確かに膝から少しではあるが血が流れ出ている。
「な……なんでこの人がここにいるのよっ!?」
「え、あ、運転手さん、あの」
いきなり平原さんが現れたことに、彼女たちもかなり驚いているようだった。
必死に言い訳を探しているようだったが、この状況を見れば何が起こっていたかは誰の目にも一目瞭然だろう。
「さて。俺は君たちに特に言うことはないんだけど、先生たちが今君たちを探し回ってるはずだから、言い訳するならそのときにして」
「えっ……!?」
「倫はずぶ濡れだから、早く着替えようね。おいで」
そう言って平原さんは泥まみれの私を抱き起こして、彼の持っていた傘に入れてくれた。
そして彼女たちには見向きもせず、すたすたとその場を去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
しかし、そんな彼を引き止めたのはリーダー格の彼女だった。
顔面蒼白だが、目にいっぱい涙を溜めながら平原さんに向かって叫ぶ。
「なんで、なんでその子には優しくするんですか!? あたし、去年からずっと運転手さんのこと見てたのに!!」
震える声でそう叫ぶ彼女は、平原さんの答えも待たずに続ける。
「付き合ってるわけじゃないんですよね!? その子だって言ってました!! 運転手さんは、別にその子が好きなわけじゃないって……!」
「……へえ。そんなこと言ったの、倫」
やっと反応した平原さんは、彼女ではなく何故か私に問いかける。その笑顔が少し怖くて、私は口を噤んだままゆっくり頷いた。
「はあ……なんかおかしいと思ったら、そういうことか。じゃあ、これなら分かるよね?」
そう言って平原さんは、雨に濡れた私の顎を掬って、そのまま無駄のない動作で私の唇を奪った。
もちろん、彼の唇で、だ。
「なっ……!?」
その瞬間を彼女たちが見逃すはずもなく、驚きのあまり声も出せていないようだった。
それは私も例外ではなく、ただ驚きながらしっかりと触れ合った平原さんの唇の熱さだけを感じていた。
「……分かった? あ、今見たのは先生たちには言わないでね。恥ずかしいから」
平原さんの声が、どこか遠くから聞こえているような気がする。何が起きたのか、よく理解できていない。
導かれるまま彼に手を引かれてぬかるんだ道を歩きだしたが、ふと大事なことを思い出して立ち止まる。
「あっ、七海の上履き……!」
「え?」
「な、七海の上履きだけ、返してもらわなきゃ」
うまく頭が働いていないが、それだけは返してもらわなければ困る。
茫然と立ち尽くす彼女たちの脇をすり抜け、走って物置小屋に入った。隅に置かれていた白い上履きを見つけてほっとする。
そしてそれを抱えて、再び平原さんの傘の下に戻った。
「それ、どうしたの?」
「あ……これ、人質に、取られてて……」
「そういうことか。あと忘れ物は無い? あ、倫の荷物は書道部の先生が預かってくれてるから、受け取りに行こう」
「は、はい……」
何がどうなって、今こういう状況になっているのかがさっぱり分からない。
ただ平原さんの言う通り、まず書道室に荷物を取りに行って、心配そうに私の荷物を持って待ってくれていた田中先生からそれを受け取った。
そして、隣の書道準備室を借りて念のため持ってきていた私服に着替える。体は泥だらけのままだったから気持ち悪かったけれど、乾いた服に着替えただけで少し気持ちが落ち着いた。
次に向かったのは職員室だった。平原さんと二人で中に入ると、担任の先生がやってきて事情を聞かれた。私がうまく説明できないでいると、なぜか代わりに平原さんが説明してくれる。
時々私に確認を取りながら彼が事の顛末を担任に話し終えると、気付かなくてごめんな、と謝られた。私が相談しなかったのが悪いので、ぶんぶんと首を振る。そんな私を見て、平原さんは優しく笑った。
他の先生も何人かやってきて、今後彼女たちにどういった指導をするか話し合っていた。今は生徒指導の先生が物置小屋にいる彼女たちの元へ向かっているらしい。
どういうわけか平原さんと先生たちは見知った間柄のようで、事情を話し終えると「最近どうですか」なんて世間話に興じていた。平原さんも愛想よくそれに応じていたが、状況を把握できずにぽかんとしている私に気付いて、そろそろ失礼します、と私を連れて職員室を後にする。
最後に昇降口に行って、七海の下駄箱に上履きを戻した。一仕事やり終えた気がして大きくため息をつくと、平原さんはにっこり笑ってくれる。
「頑張ったね、倫。今日は家まで送っていくよ」
「えっ?」
「すごい雨で倫が心配だったから、車で迎えに来たんだ。ちょうど休みだったしね。まさかこんなことになるとは思ってなかったけど」
「え? あ、あの」
「ちょっと待ってて、ここまで車持ってくるから」
そう言って、平原さんは昇降口に私を残して行ってしまう。
一人立ち尽くしていると、すぐに平原さんの乗った白い車が昇降口の前までやってきた。
運転席から手招きされて、無視するわけにもいかず私は恐る恐る助手席に乗り込んだ。すぐに車は動き出して、土砂降りの雨の中を進んでいく。
「ごめんね、倫。俺のせいで辛い思いさせちゃって」
「いえ、あの、平原さんのせいでは」
「隠さなくていいよ。君の友達の上田さんに全部聞いたから」
「えっ!?」
「さっき、偶然校門で会ったんだ。もしかして平原さんですかって話しかけられて、それで倫が最近嫌がらせを受けてることも聞いた」
まさか、七海とも話していたとは。
そういえば、今日は雨だからテニス部の練習がなくなって、授業が終わったらすぐに帰ると言っていた気がする。
「それで何か嫌な予感がして倫を探してたんだ。あ、もちろん先生たちに許可は取ったよ? 不審者だと思われても嫌だし」
「あ、あの、それなんですけど……先生たちと、お知り合いなんですか?」
「うん。俺、今の部署に配属される前は広報課にいたんだ。それで学校とバス会社で連携して防犯対策してたから、その関係でこの高校にも何回か来たことあって」
なるほど、それで先生たちとも顔見知りだったのか。
ただでさえ平原さんは一度会ったら忘れられない外見だし、気さくで話しやすいから先生たちも覚えていたのだろう。そのおかげで、私は今こうしてほぼ無傷でいることができたのだ。
「……平原さん、ありがとうございました」
「ううん。元はと言えば俺のせいだしね」
「そんなことないです。私がちゃんと先生に相談してればよかったんですけど、そのうち収まるかなって放っておいたから……」
「倫は悪くないよ。……でも、一つだけ聞いていい?」
外はまだ雨が降っている。その雨音と、車のワイパーが忙しなく動く音が聞こえる。
隣にいる平原さんの顔を見つめると、まっすぐ前を向いたまま真面目な顔で私に問いかけた。
「どうしてあの子たちに、俺と付き合ってるって言わなかったの?」
「……え?」
「いじめがエスカレートすると思ったから? それとも、倫にとって俺はただの知り合いだったの?」
「えっ、あの、平原さ」
「答えて、倫」
赤信号で車が止まる。平原さんは相変わらずの綺麗な顔で私を見つめていた。でも、気のせいかその顔が少し不機嫌そうに見える。
一体どういうことだろう。彼と付き合っているだなんて、いくら身を守るためとはいえそんな畏れ多い嘘をつけるはずがないのに。
何が平原さんの気に障ったのだろう、とびくびくしながら、私は言葉を選んで答えた。
「あ、の……私は、平原さんとは、お茶したり、お話をしたりする関係だと、そう言っただけで……」
「答えになってないよ。じゃあ聞き方を変えるけど、倫にとって俺は何なの?」
厳しい口調でそう言われて、緊張で体が強張る。どうして平原さんはこんなに怒っているのだろう。
私にとって平原さんは恩人であり、良き相談相手であり、そして初恋の人だ。
でもまさか、こんな張りつめた空気の中でそんな呑気なことが言えるはずもない。こんな場所で告白をするつもりはないし、まだはっきりと失恋もしたくなかった。
「……答えられない?」
「あっ……あの」
「分かった。じゃあ倫、今すぐお母さんに連絡して。今日は帰らないって」
「えっ!?」
「俺が誘拐犯扱いされてもいいなら、別にしなくていいけど」
ぼそっと物騒なことを言って、平原さんはアクセルを踏み込んだ。家に帰る道とは違う方向に車が進んでいく。
どこに向かうつもりなのだろう。行先が分からない不安はあったが、私は彼の言う通りスマートフォンを取り出してお母さんにメッセージを送った。なんだか彼に脅迫されている気分である。
しばらく車を走らせている間、平原さんは口を開かなかった。まっすぐ前だけを見て、口は堅く一文字に結ばれている。何がそんなに彼の機嫌を損ねてしまったのだろう。
そして二十分ほどして、アパートの駐車場に着いてそこで平原さんは車を止めた。一度来たことのある、平原さんの家だ。
車を停めてから、平原さんは先に車を降りて傘を開く。そして外から助手席のドアを開けると、荷物を抱えてあたふたしている私を強引に降ろした。私の手首を掴む力がいつもより強くて、それだけで私は泣きそうになる。
それから彼は無言のまま家の鍵を開けて、私に中に入るよう促す。おずおずと足を踏み入れると、すぐにガチャンと玄関の扉が閉まった。その音に驚いて竦むと、平原さんは突然私の肩を掴んでドアに押し付けた。
「んぅっ……!?」
そして、私の動きを封じたまま平原さんはいきなりキスをした。
キスというより、無理矢理口を塞がれているようだ。その行為の意味が分からず、私は目を開けたまま身動き一つとれない。
「っ……、おいで。すぐお風呂溜めるから、入って」
「え……」
「泥だらけでしょう。髪もまだ濡れてるから、そのままだと風邪ひくよ」
「あ……は、はい……」
今日は、何が起きているのかさっぱり分からない。
さっき学校でも彼女たちの前でキスをされた。何かの間違いかと思っていたけれど、二度目を受けてなお「間違い」で済ませられるほど能天気でもない。
でも、平原さんの機嫌はまだ直っていないようだ。どうしてキスしたんですか、なんて聞ける雰囲気ではなくて、お風呂の準備をしている平原さんを廊下でしゃがんで待っていた。
「……お風呂、沸いたよ。入っておいで」
「あ、でも、平原さんが先に」
「俺はあとでいい。早くしないとまた口塞ぐよ」
「はっ、入りますっ!」
今日の平原さんはなんだかおかしい。
シャワーで泥を流して髪も顔も体も全部綺麗に洗ってから、湯の張られた湯船に浸かって考える。
何がそんなに平原さんの機嫌を損ねてしまったのだろう。あんな子供同士のいざこざに巻き込んでしまったからだろうか。でも書道室や職員室で先生たちと話している平原さんは、いつもと同じだった気がする。
車に乗せてもらって、平原さんの質問攻めにあって、彼の表情が曇ったのはそのあたりからだ。
「あれって、キスだよね……?」
独りごちて、そっと唇に触れる。あれが私のファーストキスだったのに。
キスってもっといい雰囲気の夜景の見える公園なんかで、甘ったるい空気感の中するものじゃなかったのか。ついさっきまで自分を痛めつけていた女の子の前で、あんな公開処刑みたいにされるとは思ってもみなかった。
さっきだってそうだ。平原さんにしては珍しく乱雑にドアを閉めて、それに竦んだ隙に唇を奪われた。なんで機嫌が悪いのにキスなんかするんだろう。
そういえば、平原さんは確かクォーターだ。おばあさんが外国人だと言っていた。彼の口から家族の話が出たのはそのたった一回きりだけど、そのおばあさんの影響で彼も気軽にキスをする文化をお持ちなのかもしれない。
こじつけだとは重々承知だが、そうとしか思えない。というより、そういうことにしないと正気でいられそうになかった。
まだ答えは出ないけれど、いつまでも湯に浸かっているわけにはいかない。自分を奮い立たせるように頬を叩いて、湯船から上がることにした。
「ひ、平原さん、お風呂ありがとうございました」
「うん。じゃあ俺も入ってくるけど……逃げないでよ、倫」
「ひっ……は、はいっ」
この前借りたのと同じ、平原さんの黒いジャージを着てリビングに戻る。それと入れ替わるように彼もお風呂に向かったけれど、やっぱり今日の平原さんは怖い。
普段は心配になるくらい優しくて温和な彼とは別人のように、不機嫌さを隠そうともせず口元も全く緩まない。
でも、ここから逃げようなんて考えていなかった。いくら怖くても、平原さんは平原さんだ。
私を助けてくれた恩人で、ちょっと変わってるけど私の恋した大切な人だ。そう思ったら少しだけ緊張が解ける。
ふと、泥だらけになった制服のことを思い出してバッグを漁った。夏服だったからまだ良かったけれど、ブラウスはともかくスカートはクリーニングに出さないといけないかもしれない。平原さんの家で洗うのは無理だけど、濡れてしまっているから干すだけならば許してもらえるだろうか。
そう思ったのに、確かにビニール袋に入れて持ってきたはずの制服がない。平原さんの車に置いてきちゃったかも、と思って慌てて玄関に向かって靴を履いたら、ガチャンとお風呂場の扉が開いた。
びくっとして振り返る。
そこには腰にタオルを巻いただけの平原さんが、最大級の不機嫌さを纏った瞳で私を見ていた。
「……逃げるつもり?」
「ちっ、違いますっ! あの、汚れた制服、車に置いてきちゃったかもしれなくて! ていうか、ふ、服着てくださいっ!」
「だって倫がバタバタしてるから。制服なら倫がお風呂に入ってる間にクリーニングに出してきたよ。日曜日には仕上がるって」
「へっ? すっ、すみません! あ、ありがとうございます……?」
「うん、だからリビングに戻って。早く」
「は、はいっ!」
これ以上平原さんの半裸を見ていられないのもあって、私は逃げるようにリビングへと戻った。
心臓に手を当てる。どきどきどころではなく、ばくばくと大きく脈打っているのが分かる。
前から平原さんはちょっと強引なところがあったけれど、今日はそれに輪をかけて強引だ。逆らったら恐ろしい目に遭いそうな、そんな危険さをはらんでいる。
下手に動いたらいけないと思って、私は正座したまま彼がリビングに戻って来るのをじっと待っていた。
「え……?」
ざあざあと雨が降り注ぐ中、来るべき痛みがやってこないことと、ここにいるはずのない人の声が聞こえたことを認識して私は恐る恐る目を開ける。
そこにいたのは、私に向かって振り下ろされたモップを片手で受け止めて、いつものように穏やかに笑う平原さんだった。
「ひ、ひら、はらさん……? どうして……」
「倫、大丈夫? 怪我はない?」
「え? は、はい……」
「嘘つき。膝、血出てるよ。あとで手当てしてあげるね」
彼の言葉に、慌てて自分の膝を見る。転んだときに擦ったのか、確かに膝から少しではあるが血が流れ出ている。
「な……なんでこの人がここにいるのよっ!?」
「え、あ、運転手さん、あの」
いきなり平原さんが現れたことに、彼女たちもかなり驚いているようだった。
必死に言い訳を探しているようだったが、この状況を見れば何が起こっていたかは誰の目にも一目瞭然だろう。
「さて。俺は君たちに特に言うことはないんだけど、先生たちが今君たちを探し回ってるはずだから、言い訳するならそのときにして」
「えっ……!?」
「倫はずぶ濡れだから、早く着替えようね。おいで」
そう言って平原さんは泥まみれの私を抱き起こして、彼の持っていた傘に入れてくれた。
そして彼女たちには見向きもせず、すたすたとその場を去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
しかし、そんな彼を引き止めたのはリーダー格の彼女だった。
顔面蒼白だが、目にいっぱい涙を溜めながら平原さんに向かって叫ぶ。
「なんで、なんでその子には優しくするんですか!? あたし、去年からずっと運転手さんのこと見てたのに!!」
震える声でそう叫ぶ彼女は、平原さんの答えも待たずに続ける。
「付き合ってるわけじゃないんですよね!? その子だって言ってました!! 運転手さんは、別にその子が好きなわけじゃないって……!」
「……へえ。そんなこと言ったの、倫」
やっと反応した平原さんは、彼女ではなく何故か私に問いかける。その笑顔が少し怖くて、私は口を噤んだままゆっくり頷いた。
「はあ……なんかおかしいと思ったら、そういうことか。じゃあ、これなら分かるよね?」
そう言って平原さんは、雨に濡れた私の顎を掬って、そのまま無駄のない動作で私の唇を奪った。
もちろん、彼の唇で、だ。
「なっ……!?」
その瞬間を彼女たちが見逃すはずもなく、驚きのあまり声も出せていないようだった。
それは私も例外ではなく、ただ驚きながらしっかりと触れ合った平原さんの唇の熱さだけを感じていた。
「……分かった? あ、今見たのは先生たちには言わないでね。恥ずかしいから」
平原さんの声が、どこか遠くから聞こえているような気がする。何が起きたのか、よく理解できていない。
導かれるまま彼に手を引かれてぬかるんだ道を歩きだしたが、ふと大事なことを思い出して立ち止まる。
「あっ、七海の上履き……!」
「え?」
「な、七海の上履きだけ、返してもらわなきゃ」
うまく頭が働いていないが、それだけは返してもらわなければ困る。
茫然と立ち尽くす彼女たちの脇をすり抜け、走って物置小屋に入った。隅に置かれていた白い上履きを見つけてほっとする。
そしてそれを抱えて、再び平原さんの傘の下に戻った。
「それ、どうしたの?」
「あ……これ、人質に、取られてて……」
「そういうことか。あと忘れ物は無い? あ、倫の荷物は書道部の先生が預かってくれてるから、受け取りに行こう」
「は、はい……」
何がどうなって、今こういう状況になっているのかがさっぱり分からない。
ただ平原さんの言う通り、まず書道室に荷物を取りに行って、心配そうに私の荷物を持って待ってくれていた田中先生からそれを受け取った。
そして、隣の書道準備室を借りて念のため持ってきていた私服に着替える。体は泥だらけのままだったから気持ち悪かったけれど、乾いた服に着替えただけで少し気持ちが落ち着いた。
次に向かったのは職員室だった。平原さんと二人で中に入ると、担任の先生がやってきて事情を聞かれた。私がうまく説明できないでいると、なぜか代わりに平原さんが説明してくれる。
時々私に確認を取りながら彼が事の顛末を担任に話し終えると、気付かなくてごめんな、と謝られた。私が相談しなかったのが悪いので、ぶんぶんと首を振る。そんな私を見て、平原さんは優しく笑った。
他の先生も何人かやってきて、今後彼女たちにどういった指導をするか話し合っていた。今は生徒指導の先生が物置小屋にいる彼女たちの元へ向かっているらしい。
どういうわけか平原さんと先生たちは見知った間柄のようで、事情を話し終えると「最近どうですか」なんて世間話に興じていた。平原さんも愛想よくそれに応じていたが、状況を把握できずにぽかんとしている私に気付いて、そろそろ失礼します、と私を連れて職員室を後にする。
最後に昇降口に行って、七海の下駄箱に上履きを戻した。一仕事やり終えた気がして大きくため息をつくと、平原さんはにっこり笑ってくれる。
「頑張ったね、倫。今日は家まで送っていくよ」
「えっ?」
「すごい雨で倫が心配だったから、車で迎えに来たんだ。ちょうど休みだったしね。まさかこんなことになるとは思ってなかったけど」
「え? あ、あの」
「ちょっと待ってて、ここまで車持ってくるから」
そう言って、平原さんは昇降口に私を残して行ってしまう。
一人立ち尽くしていると、すぐに平原さんの乗った白い車が昇降口の前までやってきた。
運転席から手招きされて、無視するわけにもいかず私は恐る恐る助手席に乗り込んだ。すぐに車は動き出して、土砂降りの雨の中を進んでいく。
「ごめんね、倫。俺のせいで辛い思いさせちゃって」
「いえ、あの、平原さんのせいでは」
「隠さなくていいよ。君の友達の上田さんに全部聞いたから」
「えっ!?」
「さっき、偶然校門で会ったんだ。もしかして平原さんですかって話しかけられて、それで倫が最近嫌がらせを受けてることも聞いた」
まさか、七海とも話していたとは。
そういえば、今日は雨だからテニス部の練習がなくなって、授業が終わったらすぐに帰ると言っていた気がする。
「それで何か嫌な予感がして倫を探してたんだ。あ、もちろん先生たちに許可は取ったよ? 不審者だと思われても嫌だし」
「あ、あの、それなんですけど……先生たちと、お知り合いなんですか?」
「うん。俺、今の部署に配属される前は広報課にいたんだ。それで学校とバス会社で連携して防犯対策してたから、その関係でこの高校にも何回か来たことあって」
なるほど、それで先生たちとも顔見知りだったのか。
ただでさえ平原さんは一度会ったら忘れられない外見だし、気さくで話しやすいから先生たちも覚えていたのだろう。そのおかげで、私は今こうしてほぼ無傷でいることができたのだ。
「……平原さん、ありがとうございました」
「ううん。元はと言えば俺のせいだしね」
「そんなことないです。私がちゃんと先生に相談してればよかったんですけど、そのうち収まるかなって放っておいたから……」
「倫は悪くないよ。……でも、一つだけ聞いていい?」
外はまだ雨が降っている。その雨音と、車のワイパーが忙しなく動く音が聞こえる。
隣にいる平原さんの顔を見つめると、まっすぐ前を向いたまま真面目な顔で私に問いかけた。
「どうしてあの子たちに、俺と付き合ってるって言わなかったの?」
「……え?」
「いじめがエスカレートすると思ったから? それとも、倫にとって俺はただの知り合いだったの?」
「えっ、あの、平原さ」
「答えて、倫」
赤信号で車が止まる。平原さんは相変わらずの綺麗な顔で私を見つめていた。でも、気のせいかその顔が少し不機嫌そうに見える。
一体どういうことだろう。彼と付き合っているだなんて、いくら身を守るためとはいえそんな畏れ多い嘘をつけるはずがないのに。
何が平原さんの気に障ったのだろう、とびくびくしながら、私は言葉を選んで答えた。
「あ、の……私は、平原さんとは、お茶したり、お話をしたりする関係だと、そう言っただけで……」
「答えになってないよ。じゃあ聞き方を変えるけど、倫にとって俺は何なの?」
厳しい口調でそう言われて、緊張で体が強張る。どうして平原さんはこんなに怒っているのだろう。
私にとって平原さんは恩人であり、良き相談相手であり、そして初恋の人だ。
でもまさか、こんな張りつめた空気の中でそんな呑気なことが言えるはずもない。こんな場所で告白をするつもりはないし、まだはっきりと失恋もしたくなかった。
「……答えられない?」
「あっ……あの」
「分かった。じゃあ倫、今すぐお母さんに連絡して。今日は帰らないって」
「えっ!?」
「俺が誘拐犯扱いされてもいいなら、別にしなくていいけど」
ぼそっと物騒なことを言って、平原さんはアクセルを踏み込んだ。家に帰る道とは違う方向に車が進んでいく。
どこに向かうつもりなのだろう。行先が分からない不安はあったが、私は彼の言う通りスマートフォンを取り出してお母さんにメッセージを送った。なんだか彼に脅迫されている気分である。
しばらく車を走らせている間、平原さんは口を開かなかった。まっすぐ前だけを見て、口は堅く一文字に結ばれている。何がそんなに彼の機嫌を損ねてしまったのだろう。
そして二十分ほどして、アパートの駐車場に着いてそこで平原さんは車を止めた。一度来たことのある、平原さんの家だ。
車を停めてから、平原さんは先に車を降りて傘を開く。そして外から助手席のドアを開けると、荷物を抱えてあたふたしている私を強引に降ろした。私の手首を掴む力がいつもより強くて、それだけで私は泣きそうになる。
それから彼は無言のまま家の鍵を開けて、私に中に入るよう促す。おずおずと足を踏み入れると、すぐにガチャンと玄関の扉が閉まった。その音に驚いて竦むと、平原さんは突然私の肩を掴んでドアに押し付けた。
「んぅっ……!?」
そして、私の動きを封じたまま平原さんはいきなりキスをした。
キスというより、無理矢理口を塞がれているようだ。その行為の意味が分からず、私は目を開けたまま身動き一つとれない。
「っ……、おいで。すぐお風呂溜めるから、入って」
「え……」
「泥だらけでしょう。髪もまだ濡れてるから、そのままだと風邪ひくよ」
「あ……は、はい……」
今日は、何が起きているのかさっぱり分からない。
さっき学校でも彼女たちの前でキスをされた。何かの間違いかと思っていたけれど、二度目を受けてなお「間違い」で済ませられるほど能天気でもない。
でも、平原さんの機嫌はまだ直っていないようだ。どうしてキスしたんですか、なんて聞ける雰囲気ではなくて、お風呂の準備をしている平原さんを廊下でしゃがんで待っていた。
「……お風呂、沸いたよ。入っておいで」
「あ、でも、平原さんが先に」
「俺はあとでいい。早くしないとまた口塞ぐよ」
「はっ、入りますっ!」
今日の平原さんはなんだかおかしい。
シャワーで泥を流して髪も顔も体も全部綺麗に洗ってから、湯の張られた湯船に浸かって考える。
何がそんなに平原さんの機嫌を損ねてしまったのだろう。あんな子供同士のいざこざに巻き込んでしまったからだろうか。でも書道室や職員室で先生たちと話している平原さんは、いつもと同じだった気がする。
車に乗せてもらって、平原さんの質問攻めにあって、彼の表情が曇ったのはそのあたりからだ。
「あれって、キスだよね……?」
独りごちて、そっと唇に触れる。あれが私のファーストキスだったのに。
キスってもっといい雰囲気の夜景の見える公園なんかで、甘ったるい空気感の中するものじゃなかったのか。ついさっきまで自分を痛めつけていた女の子の前で、あんな公開処刑みたいにされるとは思ってもみなかった。
さっきだってそうだ。平原さんにしては珍しく乱雑にドアを閉めて、それに竦んだ隙に唇を奪われた。なんで機嫌が悪いのにキスなんかするんだろう。
そういえば、平原さんは確かクォーターだ。おばあさんが外国人だと言っていた。彼の口から家族の話が出たのはそのたった一回きりだけど、そのおばあさんの影響で彼も気軽にキスをする文化をお持ちなのかもしれない。
こじつけだとは重々承知だが、そうとしか思えない。というより、そういうことにしないと正気でいられそうになかった。
まだ答えは出ないけれど、いつまでも湯に浸かっているわけにはいかない。自分を奮い立たせるように頬を叩いて、湯船から上がることにした。
「ひ、平原さん、お風呂ありがとうございました」
「うん。じゃあ俺も入ってくるけど……逃げないでよ、倫」
「ひっ……は、はいっ」
この前借りたのと同じ、平原さんの黒いジャージを着てリビングに戻る。それと入れ替わるように彼もお風呂に向かったけれど、やっぱり今日の平原さんは怖い。
普段は心配になるくらい優しくて温和な彼とは別人のように、不機嫌さを隠そうともせず口元も全く緩まない。
でも、ここから逃げようなんて考えていなかった。いくら怖くても、平原さんは平原さんだ。
私を助けてくれた恩人で、ちょっと変わってるけど私の恋した大切な人だ。そう思ったら少しだけ緊張が解ける。
ふと、泥だらけになった制服のことを思い出してバッグを漁った。夏服だったからまだ良かったけれど、ブラウスはともかくスカートはクリーニングに出さないといけないかもしれない。平原さんの家で洗うのは無理だけど、濡れてしまっているから干すだけならば許してもらえるだろうか。
そう思ったのに、確かにビニール袋に入れて持ってきたはずの制服がない。平原さんの車に置いてきちゃったかも、と思って慌てて玄関に向かって靴を履いたら、ガチャンとお風呂場の扉が開いた。
びくっとして振り返る。
そこには腰にタオルを巻いただけの平原さんが、最大級の不機嫌さを纏った瞳で私を見ていた。
「……逃げるつもり?」
「ちっ、違いますっ! あの、汚れた制服、車に置いてきちゃったかもしれなくて! ていうか、ふ、服着てくださいっ!」
「だって倫がバタバタしてるから。制服なら倫がお風呂に入ってる間にクリーニングに出してきたよ。日曜日には仕上がるって」
「へっ? すっ、すみません! あ、ありがとうございます……?」
「うん、だからリビングに戻って。早く」
「は、はいっ!」
これ以上平原さんの半裸を見ていられないのもあって、私は逃げるようにリビングへと戻った。
心臓に手を当てる。どきどきどころではなく、ばくばくと大きく脈打っているのが分かる。
前から平原さんはちょっと強引なところがあったけれど、今日はそれに輪をかけて強引だ。逆らったら恐ろしい目に遭いそうな、そんな危険さをはらんでいる。
下手に動いたらいけないと思って、私は正座したまま彼がリビングに戻って来るのをじっと待っていた。
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