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第一章

24.私の特等席

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 初詣を終えてから歩いて平原さんの家に向かった。途中にあったスーパーで食材を買い込んで、夕飯は彼の家で作ることにする。
 ちなみにお昼ご飯は屋台で調子に乗っていろいろと食べ過ぎてしまったので無しにした。とはいえ、たこ焼きやクレープなど割とお腹に溜まるものを食べたのでお腹はいっぱいだ。
 
 平原さんの家に着くと、玄関ドアに小さなしめ飾りがかけられていた。一人暮らしのアパートなのに珍しいな、と思って彼に尋ねてみる。
 
「平原さん、このしめ飾りどうしたんですか?」
「ん? ああそれね、近所のおじいちゃんがくれたんだよ」
「え……?」
「ちょっと前にその辺散歩してたら、庭でそれを作ってるおじいちゃんがいたから声かけたんだ。それ何ですか、って。毎年趣味で作ってるらしくてさ、それで話してたらくれるって言うからもらった」
 
 人懐っこい平原さんらしいエピソードだ。きっとそのおじいちゃんも話しかけられて喜んだに違いない。珍しいものを見つけて無邪気に話しかける平原さんを想像して、なんとも微笑ましい気持ちになる。
 
「座って待ってて。今紅茶淹れるから」
「あっ、私もお手伝いします!」
 
 洗面所で手を洗ってから、キッチンでお湯を沸かす平原さんの隣に立つ。彼に言われた通り棚からマグカップを二つ取り出して、私のために買ってくれたという紅茶のティーバッグをそこに入れた。
 
「倫と付き合うようになってから、俺も紅茶にハマっちゃってさ。いろいろ買って試してるんだ」
「そうなんですか? でも平原さん、いつも喫茶店でコーヒー飲んでますよね」
「ああ、あそこのコーヒー美味しいから。たまには紅茶にしようかなっていつも思うんだけど、結局コーヒーにしちゃうんだよね」
「それ分かります。私もたまには違うのにしようかなって思うんですけど、やっぱりミルクティーにしちゃうんですよね」
「ふふっ、一緒だね」
「はい」
 
 こんな何気ない会話ですら楽しい。ここ最近、受験勉強ですり減っていた精神がみるみるうちに回復していくような気がする。
 そんな話をしているうちにお湯が沸いて、それをマグカップに注いでからリビングへと戻った。
 
「倫と観ようと思って、いろいろDVD借りてあるんだ。気になるのあったら観ようよ」
「わっ、ありがとうございます!」
 
 平原さんが取り出してきたレンタルDVDを物色して、どれにしようかと二人で悩む。普段はミステリーものをよく観ているのだが、ここはやっぱり感動系にしようか。でも泣いているところを見られるのは恥ずかしいし、笑えるコメディもいい。
 
「ん? この真っ黒いのは何ですか?」
「ああ、それはアメリカのホラー映画だよ。それにしようか」
「いやっ、絶対嫌です!!」
「ええー、久しぶりに怖がってる倫が見たかったんだけど」
「なっ……」
「今日は夜も一緒にいられるんだから、借りてきたやつ全部観れるよ。怖いのは昼間観た方がいいと思うけど、夜の方がいいの?」
「えっ……そ、それはもっと嫌です……」
「でしょう? それじゃ手始めにホラーにしようか。大丈夫、怖かったらお化け屋敷の時みたいに俺にしがみついていいから」
 
 随分用意が良いと思ったら、平原さんの目的はそれだったらしい。好きな映画を選ばせてくれると思ったのに、結局彼に言いくるめられて苦手なホラーを見る羽目になってしまった。
 ていうか、無理に今日全部観なくてもいいのに。平原さんは夜中でも平気でホラー映画を観れると言っていたし、私がいないときに一人で観てくれればいいのに。
 そんなことを考えているうちに、平原さんは心なしかわくわくした様子でDVDデッキをセットした。少ししてから「心臓の弱い方はご注意ください」なんてテロップが出てきて、私はそれだけでびくついてしまう。
 
「ひっ、平原さん……腕、持ってもいいですかっ……」
「え、もう? もちろんいいよ。ふふっ、やっぱりこれ借りてきてよかった」
 
 私が既に怖がっているというのに、平原さんは憎たらしいくらい機嫌が良い。ベッドを背もたれにして二人並んで座り、私は彼の腕にしがみつくというよりもはや顔を埋めていた。
 
「倫、最初は怖くないから大丈夫だよ。観てごらん」
「ほ、本当に……?」
 
 恐る恐る顔を上げてテレビを観る。話はどうやら、ある女性が不思議な人形を手にしたことで様々な怪奇現象が巻き起こる――といったものらしい。
 ホラー映画なんて観たことも、観ようと思ったことすらないので出来がどうだとかはさっぱり分からない。でも冒頭を観ているだけで続きが気になってしまって、私は怖がるのも忘れて画面を食い入るように見つめていた。
 
『……あれ? あの人形、どこに行ったのかしら……まあいいわ、今日はもう寝ましょう』
 
 主人公の金髪の女性が薄暗い部屋で独り言を言う。置いてあったはずの人形がどこかに行ってしまったのに「まあいいわ」で済ませるなんて、随分能天気な人だ。
 そんなひねくれたことを考えられるくらい私は気を抜いていた。平原さんの腕を力いっぱい握っていた手を緩めて、ローテーブルの上に置いてあったマグカップに手を伸ばした、その時。
 
『いやああああっ!!』
「ひいいっ!?」
 
 突然画面から女性の悲鳴が聞こえて、私はマグカップに向けて伸ばした手で再度平原さんの腕をがっしり掴んだ。心臓がばくばく言っているのが分かる。
 思わず目を瞑ってしまったので何が起きたのかよく分からないけれど、思いもしなかった場所に人形がいたらしい。でも、私を怖がらせるのには音声だけで十分だった。
 
「ひ、平原さん、もう駄目です! もう限界です!」
「まだ始まって十分しか経ってないよ、倫」
「だってっ……!」
 
 そんなことを言っている間にも、人に恐怖を与える不快な音楽やら女性の叫び声やらで、私の恐怖ゲージはいっぱいいっぱいだ。それなのに平原さんはそんな私を楽しそうに眺めている。
 前から少し思っていたことだけど、平原さんは絶対にSだ。私は自分がMだなんて思っていないけどそれだけは分かる。
 
「ひ、平原さぁんっ……! も、もう本当に、本当に怖いんですっ……」
「あれ、もうギブアップ? しょうがないなぁ、倫は」
「ご、ごめんなさいっ……」
「分かったよ、もう違うのにしよう。その代わり」
「え……?」
 
 案外すんなりと私の訴えを受け入れてくれた平原さんは、顔を伏せていた私の顎を掬う。少し涙目になって彼を見上げると、いつもの優しい瞳ではなく意地悪な妖しい瞳で私を見つめていた。
 
「たまには、倫からキスして? キスしてくれたら、次は倫の好きな映画を観よう」
「なっ……!」
「キスしてくれないなら、ずっとこの映画流しておくけど」
 
 やられた。平原さんは最初からこうなることを予測してこんなホラー映画を借りてきたのだ。
 思えば最初からおかしかったのだ。あの優しい平原さんが半ば無理矢理私の嫌いなホラー映画を見せるなんて。彼はホラー映画が見たいわけでも、私に嫌がらせをしたいわけでもなかった。
 
「ず、ずるいです、平原さん……」
「そうだよ。大人はずるいんだから、こうやって引っかからないようにしないとね?」
 
 やっぱり、どうあがいても平原さんには敵わない。私より大人ということもあるけど、それよりも私が彼を好きすぎるから駄目なのだ。こんな風に彼の手に引っかかっても、それすら嬉しくなってしまうのだから。
 
「……あの、目、つぶってください」
「はいはい」
 
 テレビの中では、場面が変わったらしく男女が言い争う声がする。でも、それよりも自分の心臓の音の方が大きくて、怖さなんて少しも感じなかった。
 平原さんが目を瞑ったのを確認して、彼の顔にかからないように長い髪を耳にかける。そして、恐る恐るその薄い唇にそっと口づけた。
 
「ん……っ」
 
 一瞬触れたら離れようと思ったのに、ぐっと手首を掴まれて離れられなくなる。私から口づけたはずなのにいつの間にか主導権は平原さんにあって、角度を変えながら何度も何度も口付けられた。これではいつもと同じじゃないか。
 
 最近は、外でもこんな深いキスをするようになってしまった。もちろん人気が無くて目につきにくい場所を選んではくれるのだが、それでもやっぱり外でキスをするのは落ち着かないものだ。
 でも、一度キスされてしまうともう駄目だ。もう平原さんのことしか考えられなくなって、彼と一緒にぐずぐずに溶けてしまいたくなる。
 触れるだけのキスならまだいい。でもこんな、いわゆる大人のキスを教わってから私の体はおかしくなってしまった。お腹の奥底が熱を持って、この熱をどうにかしてほしくなる。最初は違和感しかなかった舌同士の触れ合いも、今では幸福感と共に快感まで覚えてしまうようになった。こんなことはとても平原さんには言えない。でもきっと、彼にはお見通しなのだろう。
 
「んっ、ふぅっ……、ひ、んんぅっ……!」
「はぁっ……、倫、可愛い……もっと舌出して」
「あ、だめっ、もうだめですっ」
「なんで? もっとしてほしい、って顔してるけど」
「ち、ちが……、あっ、んんんっ」
 
 いつの間にやら平原さんに両肩を押さえられていて、抵抗しようと思ってもできない。そもそも激しいキスのせいで全身に力が入らない。キスだけですっかり骨抜きにされてしまっている。
 くちゅ、くちゅ、とはしたない音がして、もはやどちらのものかも分からない唾液をごくりと飲み込む。テレビはつけっぱなしのはずなのにその音は一切耳に入ってこない。聞こえるのは唾液が絡み合う音と、お互いの荒い息だけだ。
 
「ひら、は、さぁっ……だめ、もうだめっ、おかしい、からっ……!」
「ん……なに? 何がおかしいの?」
「んんっ、くち、はなしてぇっ……、へんっ、からだ、へんになりそうっ……」
「……へえ? どの辺が?」
 
 平原さんが一旦口付けを止めて、やけに良い笑顔で私の顔を覗き込んでくる。
 どの辺が、だなんて、分かってるくせに。
 
「っ……、な、なんでもないです」
「そう? じゃあもう一回しようか」
「ええっ!? あ、んんぅ……っ!」
 
 もうサディスト全開である。勘弁してほしい。こっちはド素人なのに。
 そう思ったところで、波に乗ってしまった平原さんが止めてくれるわけがない。私が高校を卒業するまでは抱かないと言ってくれたのはいいけれど、これではさほど変わりがないのではないだろうか。それとも、こんなのはまだ序の口なのだろうか。どちらにしても恐ろしい。
 
「んっ……ほら、倫? どの辺が変になりそうなのか、俺に教えて?」
「はっ、はぁっ……いや、だから、そのっ……」
「言えないなら、本当に口が溶けるぐらいずっとキスしてあげようか?」
「ひっ……! それは勘弁してくださいっ」
「そう? じゃあ教えて」
 
 教えてと言われたって、私にだってよく分からないのだ。本当に感覚的で、自分でも何をどうすればこの熱が治まるのか分からない。ただ、熱の籠もっていく場所だけは何となく分かっていた。
 
「あ、のっ……言っても、嫌いに……」
「ならないよ。教えてくれなかったら、嫌いになっちゃうかもね?」
「そっ、それは嫌ですっ!」
「ふふっ、冗談だけどね。ほら、どこが変になりそうなのか、俺に教えて」
 
 口調は優しいけれど、じりじりと距離を詰めてくる平原さんはちょっと怖い。
 普段は女性らしささえ感じるほど温和なのに、こういう時の平原さんは無駄に男らしいから嫌になる。でも、そんな彼でも嫌いにはなれないから困るのだ。
 平原さんに無言で促されて、私はおずおずと口を開いた。
 
「あ、あの……よく、分かんないんですけど……お腹が、熱い、ような……?」
「へえ。他には? 熱くなったの、お腹だけじゃないでしょう?」
「えっと……そ、の……何と言えばいいか……」
 
 平原さんとキスをして熱くなるのは、お腹の奥だけではない。無意識に太ももを擦り合わせてしまっていることに気付いたときは、自分でもぎょっとしたものだ。
 でも、何と言えばいいのだろう。直接的な言葉を言うのは恥ずかしいし、かといって医学的な言葉を使うのもかえって卑猥に聞こえる。
 考え抜いた末に、私は自分なりに一番口にしやすい言葉で言った。
 
「……こっ」
「え?」
「こ、股間、がっ……あつい、です……っ」
 
 恥ずかしさを押し殺してやっとの思いで素直に言ったはずなのに、平原さんは私の言葉を聞いて固まった。そして数秒経ってから、なぜかぷるぷると震えてうずくまってしまった。
 
「ひ、平原さん!?」
「……ぷっ、ふふっ、く」
「え……?」
「あははははは! だ、駄目だ! くっ、ふふふっ……ご、ごめんね、一生懸命言ってくれたのにっ……ぷっ、はははは!」
 
 何事かと思えば平原さんはお腹を抱えて笑い始めた。この反応は前にも見たことがある。初めて平原さんの家に来たあの日、私が「体で払います!」発言をした、あの時と同じだ。
 
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか! だって、平原さんが言わなきゃ嫌いになるって言うからっ……!」
「うん、ふふっ、そうだよね。ごめんね、倫。……くっ」
「も、もうっ! 笑うんだったら堂々と笑ってください!」
 
 何がそんなに面白いのか、平原さんはしばらく笑い転げていた。さっきまでの雰囲気はすっかり消え去って、ほっとしたけれどどうも納得できない。
 
「はあ、苦しかった……倫、俺を笑い殺そうとしたの?」
「ちっ、違います! いろいろ考えて、それで……」
「うん、分かってるよ。倫はいつも真面目で本気だもんね? ……でも、股間って……ふっ、くくっ」
「……もう、いいです。平原さんの意地悪」
 
 恥ずかしい思いを堪えて言ったのに大笑いされて、さすがに私もむっとする。元はと言えば平原さんが悪いのに。あんな風にしつこく聞いてこなければ、そもそもあんな深すぎるキスをしなければ私だって恥ずかしい発言はしなかった。
 ぷいっと顔を逸らした私に、平原さんが許しを請うようにすり寄ってくる。
 
「ごめんって、倫。倫があんまり可愛いからいじめたくなっちゃったんだ」
「ふ、普通逆じゃないですか? やっぱり平原さん、私のこと嫌いなんじゃ……」
「分かってないなぁ。好きな子ほどいじめたくなる、って言うでしょう? まあ俺も倫と出会ってから実感したんだけどね」
 
 そう言いながら赤くなった頬にちゅっと可愛いキスをされる。悔しいけれど、それだけで許してしまいたくなるから不思議だ。
 
「でも助かった。倫が笑わせてくれなかったら、歯止めが利かなくなるところだったよ」
「歯止め……?」
「うん。倫のここが熱いの、どうにかしてあげたくなっちゃいそうだった」
 
 平原さんの大きな手が私の下腹部をそっと撫でる。その撫で方がどうにもいやらしくて、たったそれだけで体がびくっと跳ねてしまった。
 
「あ……っ」
「倫、覚えておいて。ここが熱くなったら、倫が俺を欲しがってるって意味だよ。治してあげられるのは俺だけだからね」
「あ、えっ……?」
「分かった?」
「……は、はい」
 
 肯定する以外の選択肢を与えられず、私は真っ赤になった顔で頷いた。平原さんから漂う色気が半端じゃなくて、こういう空気に慣れていない私は息をするのも苦しい。
 
 そしてようやく体を離した平原さんは、未だ点けっぱなしだったホラー映画を消して別の映画を入れてくれる。今度は昨年日本で公開していた明るいコメディ映画で、私も安心して観られそうだ。
 
「倫、隣に来て」
「え……」
「大丈夫、もう何もしないよ。倫とくっついていたいだけだから」
 
 少し警戒しながら、もう一度平原さんの隣に座る。彼の隣は温かくて、どんな危険さえ回避できそうな、そんな安心感がある。――その平原さん自身に襲われる可能性はあるからちょっと危険だけど。
 
 平原さんの隣は、私だけの特等席だ。この先もずっとこの席に座っていられることを願いながら、私は幸せな気持ちで彼の肩に頭を預けた。
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