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第2話 路地裏のベッドと、初めての「値段」
しおりを挟む聖女をやめたからといって、日が暮れるのを止めることはできない。
当たり前のことを、あの日ほど恨めしく思ったことはない。
◇◇◇
神殿からそう遠くない場所に、安宿が並ぶ通りがある。
巡礼者や地方から来た商人が、一晩だけ身を休めるような場所だ。
「一泊、銅貨いくつ?」
私は、宿の受付にいた女将らしきおばさんに尋ねた。
おばさんは私の格好をちらりと見てから、「巡礼さんかい?」と首をかしげる。
「まあ、似たようなものです」
今さら「さっきまで聖女でした」なんて言う気にはなれなかった。
「そうかい。なら、あんたみたいな娘がひとりで泊まるには、ここは少し騒がしいかもしれないねえ」
おばさんは、奥から帳簿を引っ張り出す。
「一番安い部屋で、一泊銅貨五枚だよ。寝床とパンとスープがつく。風呂に入りたきゃ、別に銅貨一枚」
銅貨五枚。
腰の小袋の中に、何枚残っているかを頭の中で数える。
——三日泊まったら、もうほとんど残らない。
「……一泊だけ、お願いします」
今夜、雨風をしのげれば、それでいい。
明日からのことは、明日考えるしかない。
◇◇◇
割り当てられた部屋は、狭いが清潔だった。
粗末なベッドに、薄い毛布が一枚。窓からは、夕闇に沈む街並みが見える。
ベッドに腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けた。
「はあ……」
神殿では、日が昇る前から祈りの準備をし、昼は治療室、夜は祈祷会。休める時間はあまりなかったはずなのに、今のほうがずっと疲れている気がする。
心の支えだった場所を、丸ごと失ったせいだろう。
——でも、泣いている場合じゃない。
私は、窓の外を見つめる。
行き交う人影の中には、包帯を巻いた兵士や、杖をついた老女も見える。
癒やしの力は、神殿の中にだけ必要とされているわけじゃない。
むしろ、あの高い壁の外にこそ、救いを求める人はたくさんいるはずだ。
「明日、外で……試してみようかな」
神殿を追い出された私にできることは限られている。
でも、癒やしの魔法なら、誰にも負けない自信がある。
ただ一つ、問題があるとすれば——。
「……お金、か」
神殿では、治療に直接お金を取ることはなかった。
寄進という形で、大口の金は貴族や商人が払う。私たち聖女見習いは、ただ祈り、魔力を注ぐだけだった。
自分の癒やしに、いくらの値段をつければいいのか。
そもそも、値段をつけていいものなのか。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
「……明日は、考えてから話そう」
そう自分に言い聞かせ、私は床に横になった。
硬いベッドが、妙に心地よく感じられた。
◇◇◇
翌朝。
王都の広場は、朝から活気に満ちていた。
野菜や果物を並べる屋台、布を売る商人、旅芸人の一団。人々のざわめきと笑い声が入り混じり、神殿の静謐とはまったく別の世界だ。
私は広場の片隅、人の邪魔にならなさそうな場所に立った。
麻のワンピースの上に、薄い外套を羽織っているだけ。聖女の法衣はもうない。
「ええと……どうやって声をかければいいんだろう」
自分で言い出しておいて、早くも途方に暮れる。
「癒やしの魔法使えます」と書いた看板でも立てればいいのかもしれないが、そんなものを用意する余裕もない。
と、その時。
「うっ……いってえ……!」
すぐそばで、子どもの泣き声が上がった。
振り向くと、小さな男の子が石畳の上に転んでいた。膝から血がにじんでいる。
「大丈夫?」
私は思わず駆け寄った。
男の子のそばには、パンを売っていたらしい若い女性が青ざめた顔で立っている。
「ごめんね、ごめんね。だから走っちゃダメって……」
「大丈夫です。少し手当てをしますね」
私は膝をつき、傷口に手をかざした。
「……《穏やかなる癒やしの光よ》」
小さな光が、私の手のひらからあふれ出す。
膝の傷がゆっくりと閉じ、血も止まっていく。男の子の表情が、驚きに変わった。
「痛くない……!」
「よかったですね」
私はほっと息をついた。
「お、お嬢さん……その、今のって」
若い女性が、おそるおそる尋ねる。
「回復の魔法です。少しだけなら使えるので」
「聖女様、なの?」
「……昔、少しだけお世話になっていただけです」
正直に言うべきか迷ったが、今は深く立ち入られたくなかった。
「その、あの……いくら、お支払いすれば……」
女性は慌てて、腰の小袋を探る。
中から出てきたのは、銅貨が数枚。
——ここで、お金を受け取るべきなんだ。
神殿を追い出された今、私は、癒やしを仕事にしなければ生きていけない。
でも。
「今回は、いいです」
気づけば、そう口にしていた。
「えっ、でも……」
「たまたま目に入っただけですし。膝が治ってくれたなら、それで」
女性は、何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます……!
この子が大けがしたら、仕事もできなくなるところでした。助かりました」
感謝の言葉は、胸にじんわりと染みていく。
お金よりも、ずっと温かいものだ。
でも、その温かさだけでは、お腹は膨れない。
銅貨五枚の宿代は、待ってはくれない。
「……これじゃ、神殿と変わらないじゃない」
自嘲気味に息を吐いたとき、近くの屋台から、荒っぽい声が聞こえてきた。
「クソっ、またポーション代で赤字だぜ」
振り返ると、革鎧を着た若い男たちが何人か、酒場の前で愚痴をこぼしている。
腰には剣や斧。冒険者だろう。
「この前の洞窟の依頼、報酬はそこそこだったけどよ、帰りに仲間が足くじいたせいで、治療院に駆け込んだだろ? あれでポーション代がごっそりだ」
「神殿の聖女様に直接診てもらえりゃタダなんだろうが、あっちは貴族様専用だからなあ」
「“寄進が足りない方は、あちらの診療所へ”だとよ。笑わせんな」
彼らの笑いは乾いていた。
私は、思わず耳をそばだてる。
「怪我してから金を取られるくらいなら、怪我する前にちょっとずつ払ってたほうがマシだぜ」
「そんな都合のいい話あるかよ。怪我するかどうかもわからねえのに」
「でもよ、遠征のたびにヒヤヒヤして、ポーション代の心配ばっかしてんのも、なんか違くねえか?」
怪我する前に、少しずつ払う。
その言葉が、胸の奥で引っかかった。
——未来の怪我に対して、先に祈りを捧げる。
神殿で教わった理論の一つが、ふと頭をよぎる。
回復魔法は、本来「すでに負った傷」だけでなく、「未来に起こりうる傷」に契約を結ぶことで、発動の負担を軽くすることができる。
けれど、その術式は複雑で、神殿内でも一部の高位聖職者にしか扱えないと教えられていた。
「未来の傷に対する契約行為は、神と人との間の重大な約束であり、むやみに用いるべきではない」
教本の一節を、私ははっきりと思い出す。
でも——。
それって、裏を返せば。
「“未来の怪我に備えて、少しずつ支払う仕組み”……」
思わず、口の中でつぶやいていた。
冒険者たちは、まだ何も知らない顔で笑い合っている。
私の胸だけが、妙にざわざわと波立っていた。
怪我をしてからまとめて払うから、苦しくなる。
だったら、怪我をするかもしれない“未来”に対して、あらかじめ小さな祈りと支払いを重ねていけば——。
「それって、まるで……」
神殿では教わらなかった、別の言葉が頭に浮かぶ。
保険。
そんな概念は、この世界にはまだない。
でも、理屈だけなら、私にはわかる。
怪我をするかどうかもわからない未来のために、今、少しずつ払っておく。
もし何も起こらなければ、それはそれでいい。でも、もしものときには、大きな負担を一人で抱えずに済む。
「……もし、それを魔法でちゃんと“契約”できたら?」
未来の傷に対する契約。
それを、神殿の中だけじゃなく、もっと開かれた形で、人々に提供することができたら。
あまりにも突飛な考えで、自分でも笑えてくる。
でも、さっき治した男の子の膝と、冒険者たちの愚痴、神殿で聞いた数々の理屈が、頭の中で一本の線につながっていく感覚があった。
「怪我をしてからじゃ遅い、か……」
誰にともなく呟く。
神殿にいた頃、私はずっと「目の前で苦しんでいる人」を見てきた。
でもこれからは——。
「怪我をする前に、守る方法を考えてもいいのかもしれない」
そんなことを考えている自分に、少しだけ驚きながら、私は空を見上げた。
高い神殿の塔は、ここからでも見える。
あの塔の中では、きっと今日も同じ議論が繰り返されているのだろう。寄進と秩序と、神の愛について。
だけど私は、もうそこにはいない。
ならば——私なりのやり方で、人を救う方法を考えてもいいはずだ。
胸の奥で、かすかな炎が灯るのを感じる。
「癒やしを“保険”みたいに売るだなんて、きっと誰も信じてくれないだろうけど」
それでも。
「やってみなきゃ、わからないよね」
指先を握りしめる。
薄い麻の服の下で、魔力が静かに巡った。
——この瞬間の小さな思いつきが、やがて国の戦い方を変えることになるなんて。
このときの私は、まだ少しも知らなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていたのは。
「今度は、自分で選んだやり方で、人を救いたい」
その願いだけは、昔と何も変わっていなかった、ということだ。
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