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第1話 追放聖女は、神殿の外で立ち尽くす
しおりを挟む「神の愛は、寄進額で決まります」
そう言われた瞬間、私は、自分が聖女失格だと悟った。
大聖堂の治療室は、今日も人であふれていた。
長椅子に座りきれない患者たちが、うめき声と祈りの言葉を交互にこぼす。石畳の床には血の跡が点々と続き、窓から差し込む光さえかすんで見えた。
私は、その中のひとりの少年の前に膝をついていた。
包帯の下からのぞく足首は、明らかに折れている。土埃にまみれた服、ところどころ繕った跡。どこにでもいる農家の子だ。
「大丈夫、すぐに楽にしてあげるからね」
そう声をかけた私の肩に、冷たい手が置かれた。
顔を上げると、そこには灰色の法衣をまとった執事長が立っていた。
「リゼル、こちらより先に、あちらの方を」
視線の先には、ふくよかな体を金の装飾で包んだ商人風の男がいる。
足をさすりながらも、こちらをじっと見ている。隣には、重そうな革袋を抱えた従者。
「ですが、この子は歩けない状態で……」
「寄進額は、あちらのほうが上です」
執事長は、それ以上説明する必要もない、と言わんばかりに目を細めた。
神殿では、寄進の多い者から優先して“神の癒やし”を受ける。それが暗黙の決まりだった。
わかっている。わかってはいる。でも——。
「順番を、変えるのですか?」
「当然でしょう。神に捧げる心の大きさが、奇跡の順番を決めるのです」
心の大きさ。
そう言いながら、執事長の視線は少年のつぎはぎだらけの服を、軽く一瞥しただけだった。
私の胸の奥で、何かがきしむ。
祈りの言葉を口にする前に、別の言葉が喉までせり上がってきた。
「……神様の愛って、そんなに値段で変わるものなんですか?」
あ、と自分で思ったときには、もう遅かった。
治療室の空気が、ぴんと張りつめる。
執事長の顔から、笑みがすっと消えた。周囲で手を動かしていた他の神官や聖女見習いたちが、一斉にこちらを見る。
「リゼル・アルマリア」
名前をフルで呼ばれるときは、たいていろくなことがない。
私は反射的に背筋を伸ばした。
「……はい」
「後ほど、上層会議室まで来なさい」
それだけ告げると、執事長は商人のところへ向かっていった。
私は少年と、心配そうにこちらを見る母親らしき女性の顔を見比べる。
治したい。今すぐにでも。
でも、ここで逆らっても、彼らの立場が余計に悪くなるだけかもしれない。
「少しだけ、待っていてくれる?」
自分でも情けないと思いながら、私はそう言って立ち上がった。
少年の瞳には、諦めと、それでもどこかで信じたいという色が混じっていた。
——神様って、本当に、誰の味方なんだろう。
◇◇◇
上層会議室は、何度来ても好きになれない場所だ。
高い背もたれの椅子に座った大神官たちが、こちらを見下ろすように並んでいる。壁には金と赤のタペストリーがかかり、床には分厚い絨毯。あらゆるものが「権威」を形にしたみたいだ。
「リゼル・アルマリア。お前が今朝、治療室で口にした言葉について、説明を求める」
中央に座る大司教が、低い声で告げる。
私は、両手をぎゅっと握りしめたまま、ゆっくりと頭を下げた。
「……わたしは、ただ疑問に思っただけで」
「“神の愛は値段で変わるのか”と、そう言ったな」
ああ、やっぱり聞かれていたか。
治療室にいた患者たちだけじゃない。壁際には、常に神殿側の人間が控えている。誰かが報告したのだろう。
「神の奇跡は、信仰によってもたらされる」
隣の席の老神官が、鼻息荒く言う。
「寄進とは、信仰の形のひとつだ。神に捧げる心の現れだ。それをお前は否定するのか?」
「否定したいわけではありません。ただ——」
言葉を選ぶ。
ここで間違えれば、本当に取り返しのつかないことになる。
「わたしは、目の前で苦しんでいる人を前にして、『寄進が足りないから後回しです』と言うのが、どうしても……できませんでした」
自分でも、少し震えているのがわかった。
「神様は、きっと誰のことも見てくださっていると、わたしは信じています。だったら、貧しい人にも、同じように手を伸ばしたいんです」
一瞬、沈黙が落ちる。
会議室の外から聞こえる鐘の音が、やけに遠く感じられた。
「……お前は、自分がどこにいるか理解しているのか?」
大司教の声が、冷たく落ちてきた。
「ここは王都アルマレスト最大の大聖堂だ。王も貴族も、戦場に向かう騎士たちも、ここに寄進し、奇跡を願う。
その寄進によって、我らは貧しき民にもパンを配り、冬には毛布を与えている。寄進の多寡を無視して勝手に癒やせば、全体の秩序が崩れるのだ」
「ですが——」
「黙りなさい」
ぴしゃりと遮られ、私は口をつぐむしかなかった。
「お前のその考えは、偽善だ。目の前の一人を救ったつもりで、全体を危うくする。
そして何より……“神の愛は値段で変わるのか”などと、神の采配に疑いを向けるとは、信仰心が足りない証拠だ」
信仰心が、足りない。
何度も何度も耳にしてきた言葉だ。祈りの言葉を間違えた時も、儀式で涙をこぼしてしまった時も。
今回ばかりは、さすがに笑えなかった。
「それが、神殿としての結論ですか?」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「……リゼル・アルマリア。
本日をもって、お前を“癒やしの聖女”見習いの任から解く。
聖印と法衣を返還し、日没までに神殿から立ち去りなさい」
ああ、本当に終わったんだ。
胸の奥が、すうっと冷たくなっていく。
「以上だ。下がりなさい」
私は、深く頭を下げるしかなかった。
視界の端で、何人かの神官がほっとしたように息を吐くのが見えた。
——あなたたちは、きっと間違ってはいないのかもしれない。
でも、私だって、間違っていたとは思いたくない。
◇◇◇
自室に戻ると、そこは驚くほど簡素だった。
狭いベッドと、小さな机。壁にかけられた木製の十字架。幼い頃から憧れていた「聖女の部屋」は、本当はこんなにも質素だったのだ。
荷物と呼べるものはほとんどない。
母の形見のペンダントと、擦り切れた祈祷書、それから——。
「……これも、置いていかなきゃいけないのか」
机の上に置かれた、銀色のペンダント。
胸元につけることで、癒やしの魔法を安定して行使できる“聖印”だ。神殿から貸与されているもので、所有することは許されていない。
私はそれをそっと手に取り、指先でなぞった。
私の魔力と、何度も何度も共鳴してきた感触。
「今まで……ありがとう」
小さくつぶやいてから、ペンダントを布に包み、返却用の箱に入れる。
その音が、妙に重く響いた。
法衣を脱ぐと、薄い麻のワンピースだけになった。
これで、見た目にはただの娘だ。どこにでもいる、信仰深い村の女の子。
「……ただのリゼル・アルマリア、ね」
聖女という肩書きがなくなった途端、自分の名前がすごく軽く感じられた。
同時に、どこか少しだけ、自由にも。
そんなことを考えてしまう自分に、苦笑が漏れる。
◇◇◇
夕刻の鐘が鳴る頃、私は神殿の大扉の前に立っていた。
長い石段を下りれば、そこはもう神殿の外。王都の雑踏が広がっている。
振り返れば、白い壁と尖塔が夕焼けに染まっていた。
幼い頃から、憧れて、目指して、やっと足を踏み入れた場所。
でも——今の私は、そこに戻ることは許されない。
「……お世話になりました」
誰にともなく頭を下げてから、私は一歩、外へと足を踏み出した。
石畳の感触が、いつもより固く感じる。
行き交う人々は、私なんて気にもしない。商人たちの呼び声、子どもの笑い声、遠くから聞こえる馬車の車輪の音。
世界は、私が聖女をやめても何も変わらないらしい。
「さて、と」
思わず、口からそんな言葉がこぼれる。
これからどうしよう。
帰る家なんてない。神殿に預けられてからは、ずっとここが私の家だった。貯金だって、ほとんどない。
でも——。
胸に手を当てると、そこにはまだ確かな魔力の温もりがあった。
聖印は返した。でも、癒やしの力そのものは、私から奪われてはいない。
「私には、これがある」
誰にも聞こえないように、そっとつぶやく。
神殿から追い出された聖女見習い。
その肩書きのない私が、この王都で、どうやって生きていくのか。
夕焼けはもう、夜の青に飲み込まれつつあった。
私は薄く息を吸い込み、一歩、また一歩と歩き出す。
——あの日、あの扉を出たことが、すべての始まりだったのだと知るのは、もう少し先のことだ。
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