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第4話 最初の契約が、あっさり「試される」日
しおりを挟む最初の契約者が、三日目で死にかけた。
できれば、もっと後に試してほしかった。せめて一月くらいは、何も起きないでいてほしかった。
◇◇◇
ギルドで「回復契約受付中」の札を出してから、三日が経った。
そのあいだ、私の仕事は思っていたより地味だった。
小さな切り傷や打ち身を治したり、酔っ払って転んだ人の額を癒やしたり。
「契約まではいらねえけど、単発で頼むわ」
そう言ってくる人たちも多くて、私はそれを断れなかった。
契約者を増やしたい気持ちと、目の前の怪我を見過ごせない性分と。
宿代と食費を払うには、単発の治療も大事な収入源だ。
その一方で、「もし本格的な怪我人が続いたら、魔力は足りるだろうか」という不安は、いつも胸のどこかにへばりついていた。
「大丈夫。最初は十人だけなんだから」
そう自分に言い聞かせても、夜眠る前に胸の奥がじわじわ熱くなる。
契約者たちと結んだ光の糸は、私の中に確かに存在していて、それが時々かすかにざわめくように感じるのだ。
――彼らが傷ついたとき、この糸が本当に私を導いてくれるのか。
そんなことを考えていた四日目の昼。
◇◇◇
「おい、負傷者だ! 重傷だぞ!」
ギルドの扉が乱暴に開かれた。
私がいつものように片隅の席で薬草茶を飲んでいたときだ。
「ロアンが、やられた!」
聞き覚えのある名前に、心臓が跳ねる。
同時に、胸の奥で、ズキン、と鋭い痛みが走った。
「っ……!」
思わず胸元を押さえる。
契約の光の糸が、一気に引き絞られたような感覚。
これが、“未来の怪我”が実際に起きたときの反応。
理論上は知っていたけれど、想像していたよりずっと強烈だった。
「リゼル! 契約してたよな、ロアンと!」
受付嬢がカウンターから叫ぶ。
私は、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
「どこですか!?」
「搬入口! 後ろ!」
ギルドの裏手にある搬入口へ駆け出す。
扉を開けた瞬間、血の匂いが鼻を刺した。
◇◇◇
荷車の上に、ロアンが横たわっていた。
革鎧は胸のあたりが大きく裂け、そこから真っ赤な血があふれている。
「ロアン!」
名前を呼ぶと、彼はかすかに目を開いた。
「リ……ゼル、さん……?」
声はひどく掠れていた。
「洞窟で、魔獣にやられて……。ポーションも足りなくて……」
「喋らないで。今、治すから」
私は荷車の縁に膝をつき、傷口に手をかざした。
深い。心臓を外しているのが救いだけど、このまま放っておけば間違いなく命を落とす。
「こいつ、契約者だろ? 早くやってくれ!」
ロアンの仲間らしき男が、焦った声を上げる。
そのすぐ後ろでは、別の冒険者が足を押さえてうずくまっていた。
「俺の足も、頼む……!」
見れば、太ももにざっくりと切り傷。
それだけじゃない。荷車の周りには、軽傷から中傷まで、何人もの負傷者が座り込んでいる。
「契約者は、ロアンと、あと……三人?」
胸の糸の反応で、かろうじてわかる。
他の何人かは、単発治療で一度だけ私にかかったことがある顔だ。
誰から治すべきか。
頭の中で、神殿で教わった「優先順位」が浮かぶ。
まずは、生命の危険がある者。
次に、失血や感染の恐れが高い者。
契約かどうかに関係なく、本来ならそうであるべきだ。
けれど、私は今、“契約者を優先する”と約束している。
守れなければ、この仕組みそのものが信用を失う。
「……ロアンから」
決断は、一瞬だった。
それは、人としての良心と、“保険屋”としての責任の、ギリギリの折り合いだった。
ロアンは契約者であり、同時に、今もっとも危険な状態にいる。
「《穏やかなる癒やしの光よ》」
私は胸の奥の契約の糸を引き寄せるように、魔力を解き放った。
手のひらからあふれた光が、裂けた胸を覆い、血を押し返していく。
周囲のざわめきが、遠のいた。
「……魔力、流れが違う」
自分でもわかるくらい、いつもの治癒とは感覚が違った。
契約のおかげか、ロアンの体のほうからも、私の魔力を受け入れようとする温かさが返ってくる。
「がっ……!」
ロアンの体がびくりと震える。
「大丈夫、痛いのは一瞬。もう少しで、楽になりますから」
自分に言い聞かせるように、声をかける。
深い裂傷が、ゆっくりと、だが確実に閉じていく。
血の流れが弱まり、肌の色も、さっきよりわずかに赤みを取り戻していた。
「す、すげえ……」
「本当に塞がっていく……」
仲間たちの驚きの声が聞こえる。
私は最後まで傷を追いかけ、完全に血が止まったのを確認してから、手を離した。
「……ひとまず、峠は越えました」
そう言った瞬間、膝ががくりと崩れそうになる。
「リゼル!」
誰かが支えてくれた腕に、私は一瞬だけ体重を預けた。
魔力の消耗が予想以上だ。
「大丈夫です。まだ、いけます」
私はふらつく足に力を込めた。
「次、契約者の方。手を上げてください!」
「お、俺だ!」
「こっちも!」
胸の糸が反応している三人を、順番に治していく。
骨折、深い切り傷、打撲。どれも放置すれば危険だが、ロアンほどではない。
契約のおかげか、魔法は驚くほどスムーズに発動した。
その分、私の魔力も容赦なく削られていく。
「はあ、はあ……」
三人目を癒やしたところで、目の前が少し暗くなった。
「リゼル、もう無理するな!」
ロアンの仲間が叫ぶ。
「まだ、契約してないけど、大怪我してるやつがいるんだ! こいつだけでも……!」
視線の先には、さっき太ももを押さえていた男がいた。
血でべっとりと濡れた布。傷口は、さっきより悪化している。
「……単発治療なら、なんとか」
契約外でも、見捨てるわけにはいかない。
私は、ふらつく足で男の前に膝をついた。
「治療院に運ぶなら、今すぐです。ですが、ここでできるだけのことは——」
「た、頼む……! 金なら、後でどうにかする!」
後でどうにかされても困るのだけれど。
でも今は、そんなことを言っている場合じゃない。
「《穏やかなる癒やしの光》……っ」
小さく呪文を唱え、必要最低限の治癒だけを行う。
完全には塞がらないが、血は止まり、歩ける程度にはなるはずだ。
「これで、治療院までなら持つと思います。あとは——」
「ありがとう……本当に、ありがとう……!」
男は涙目で何度も頭を下げた。
「おい、さっき“損するだろ”って笑ってたやつだろ、お前」
他の冒険者が、わざとらしく声を上げる。
「う、うるせえ! 次からは契約する! するから!」
悲鳴じみた宣言に、周囲から微妙な笑いが起きた。
さっきまでの嘲り混じりの笑いとは、少し違う。
私は、そこでようやく、大きく息を吐いた。
「リゼル、大丈夫か?」
ロアンの声が聞こえる。
さっきまで青白かった顔に、少し血の気が戻っていた。
「大丈夫じゃないですけど、大丈夫です」
「どっちだよそれ」
自分でも変な返事だと思った。
でも、胸の奥に残る熱は、嫌なものではなかった。
契約の糸が、うっすらと温かく輝いている。
――この糸を結んだ意味を、今、少しだけ理解できた気がした。
◇◇◇
ひと通り治療が終わり、搬入口が静かになった頃。
「はい、これ」
受付嬢が、湯気の立つカップを差し出してくれた。
「……ありがとう、ございます」
中身は、ハーブの匂いがするお茶だった。
甘い蜂蜜が溶かしてあって、疲れた体に染みわたる。
「見事だったわよ。あれだけの人数を、一人で」
「見事かどうかは……。正直、ギリギリでした」
私は苦笑した。
「でも、“契約だから優先”って言っても、重傷の人を置いておくのは、やっぱりつらいですね」
「そうね」
受付嬢は、カウンターに肘をついた。
「でも、“契約だから優先される”っていうのは、命を預ける側にとっては大きいわ。
今日のあれ見て、契約したいって人、たぶん増えるわよ」
「……その分、わたしももっと、ちゃんと考えなきゃいけませんね」
「何を?」
「人数の上限とか、料金とか。
“銀貨一枚で安心です”なんて軽く言ったけど、本当にそれだけの責任を負えるのかどうか」
ロアンの血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
あのとき、少しでも迷っていたら。
癒やしの量を間違えていたら。
彼は、ここにはいなかったかもしれない。
「“神の愛は値段で変わるのか”って、神殿で言ってしまったけど」
自分の言葉を、思わず反芻する。
「今日みたいなことがあると、“じゃあ私は、この銀貨一枚をどう扱うんだろう”って、考えさせられます」
受付嬢は、少し驚いたように目を瞬いた。
「……あんた、やっぱり面倒くさい女ね」
「えっ」
「褒めてるのよ」
そう言って、彼女は笑った。
「ほとんどの人間は、“得か損か”で物事を考える。
“安心の値段”とか“命の値段”なんて、本気で考えてたら、何も動けなくなるからね」
「だから、考えないほうがいいんですか?」
「違うわ。考えて、そのうえで動くやつが、一番面倒くさいし、一番強いの」
受付嬢は、まっすぐに私を見る。
「神殿を追い出されても、まだ“どうやって人を救うか”で悩めるなら、あんたはきっと、大丈夫よ」
その言葉は、思いがけず、胸の奥にすとんと落ちた。
――信仰心が足りない、と言われ続けて。
――でも、それでも、人を救いたいと願っている。
それは矛盾じゃなくて、たぶん私の“信仰の形”なのかもしれない。
「……ありがとうございます」
私は、カップを両手で包み込みながら、ゆっくりとお茶を飲み干した。
そのときにはもう、さっきまでの震えは、ほとんど消えていた。
◇◇◇
その日の夜。
宿に戻る途中、ギルドの二階の窓に、誰かの姿がちらりと見えた。
地味な紺色の上着に、質の良さそうなマント。冒険者というより、どこか役人のような雰囲気。
彼は、さっきまで負傷者で騒がしかった搬入口のほうを、じっと見下ろしていた。
誰だろう、と一瞬思ったが、すぐに視界から消える。
今は、それを気にしている余裕はなかった。
代わりに私の頭を占めていたのは、銀貨数枚が入った小袋の重みと、胸の奥に残る契約の温もりだった。
「銀貨一枚の重さって、こんな感じなんだ」
ぽつりとつぶやく。
それは、単なる金属の重さじゃない。
誰かの不安と、私が引き受けた責任の重さだ。
――神殿を出たとき、私は自分が軽くなった気がしていた。
でも今は、違う重さを、ちゃんと自分で選んで背負っている。
そのことが、少しだけ、誇らしかった。
「ねえ神様。もし本当にいるなら」
夜空に浮かぶ月を見上げながら、私は心の中でつぶやく。
「わたしのやり方で、人を守ることを、どうか見ていてください」
きっと返事なんてないだろう。
それでも、そう祈らずにはいられなかった。
そしてこの祈りは、神殿の天井ではなく、夜空のずっと向こうへと、静かに溶けていった。
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