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第16話 大神殿の白い階段と、「異端」と書かれた椅子
しおりを挟む——二度と登らないと思っていた階段を、私はまた登っていた。
今度は“追放の宣告”を聞くためじゃない。
“異端かどうか”を問いただされるためだ。
◇◇◇
「顔色が悪い」
白い石段の中ほどで、ユリウスが小さく言った。
「……悪くないほうがおかしいですよ」
自分でも、笑えるくらい手が震えていた。
アルマリア大神殿。
空に向かってそびえる白い塔と、広すぎる大理石の広間。
あの日、私はこの階段を、泣きながら駆け下りた。
“信仰心が足りない”という烙印を押され、背中に冷たい視線を突き刺されながら。
今日は、その同じ階段を——自分の足で、正面から登っている。
「怖いか」
「……チェックが好きですね、本当に」
「大事な指標だと言っただろう」
ユリウスは、いつも通り淡々としているように見えた。
けれど、よく見れば、彼の手もわずかに拳を握りこんでいる。
「私は、神殿よりも神殿の帳簿のほうが怖いが」
「それはそれで、どうなんですか」
くだらないやり取りが、ぎりぎりのところで足を前に出させてくれる。
今日は、財務省からユリウスと、もう一人の官吏。
ギルドからはマリナが代表で同行している。
「緊張するわねぇ、こういうの」
マリナが、胸元を押さえながら苦笑した。
「“冒険者ギルド受付嬢代表”なんて肩書き、後にも先にも今日だけよ」
「ありがとうございます、マリナさん」
「いいってこと。
うちの子たちの治療がかかってるんだから、黙って見てるほうが性に合わないのよ」
そう言って笑ってくれる、その存在が心強かった。
◇◇◇
大神殿の門をくぐると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
高い天井。
色ガラスを通した柔らかな光。
整然と並んだ長椅子。
全部、見覚えがありすぎて、逆に現実感がなかった。
「財務省グレンフィード殿、ご一行ですね。
こちらへ」
案内役の若い神官が、必要以上に感情を消した声で言う。
その横顔に、かつて一緒に掃除をしていた同期の顔が重なって、胸が痛んだ。
(——知ってる顔に、知ってる制服)
でも、視線は合わない。
彼らにとって私は、もう“ここにいてはいけない人間”なのだろう。
廊下を歩いていると、ふいに横から声がした。
「……リゼル?」
心臓が飛び出そうになった。
振り向くと、淡い栗色の髪を三つ編みにした女性が立っていた。
エレナ。
かつて同じ部屋で寝起きし、巡礼の付き添いも一緒にした、同期の聖女。
「エレナ……」
彼女は、一瞬だけ何かを迷うように唇を噛み、それから小走りで近づいてきた。
「本当に……戻ってきたんだね」
「戻ってきたっていうか、その……怒られに来たというか」
変な返しになってしまう。
エレナは、くすっと笑い、それからすぐ真顔になった。
「“保険”のこと、聞いてるよ。
……すごく、怒ってる人もいる」
その言葉に、喉がひりつく。
「でも、全部が全部じゃないから」
エレナが、少し強い声で続けた。
「“あんたのやり方が、全部間違ってるわけじゃない”って言ってくれる人もいる。
少なくとも私は、怒るより先に“なんでそんなことをしたのか、ちゃんと聞きたい”と思ってる」
胸の奥に、じん、と熱が広がる。
「……ありがとう」
「礼なんかいらないよ。
あんた、昔から“黙って追い出されるような性格じゃない”の知ってるから」
軽口を叩きつつも、その目は真剣だった。
「代表者たち、もう集まってる。
上のほうは正直、最初から“やめさせるつもり”でいると思う。
でも——」
エレナは、ちらりとユリウスたちを見た。
「数字の人たちも一緒なんだよね?」
「はい。財務省とギルドの代表です」
「なら、まだ話はできる。
せめて、“怖がってる現場”の声が届くように、がんばる」
それだけ言うと、エレナは小さくウインクして、通路の別の方向へと去っていった。
白い法衣の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、私はそっと息を吸い込む。
(……全部が敵じゃない)
その当たり前のことが、今はやけに心強かった。
◇◇◇
案内されたのは、大神殿の会議室だった。
広間ほどではないが、やけに天井が高く、壁には古い聖画が並んでいる。
長机の向こう側には、数人の神官と、銀糸の刺繍が施された法衣を着た老司祭が座っていた。
アルマリア大神殿の高司祭——セオドラル。
私に追放を言い渡したのは、彼ではなくその下の役職の者だったが、
その場に同席していたのは覚えている。
彼の横には、もう一人。
鋭い目つきの中年の男が座っていた。
「こちらが、教義院を代表して出席しているガルシス導師だ」
と、セオドラルが紹介する。
教義院——神殿の“教えの番人”たちだ。
“異端かどうか”を判定するのは、だいたい彼らの役目だった。
(思ったより、手強いメンバー……)
私は、無意識に背筋を伸ばした。
「遠路ご足労いただき、感謝いたします」
セオドラルが、儀礼的な挨拶を述べる。
「本日は、“癒やしを保険として扱う行為”について、教義に照らして話し合いの場を持ちたいと考えています」
その言葉に、ガルシスがわずかに顎を上げた。
「話し合いとは言うが、教義は明確です。
“癒やしは神の慈悲であり、値札をつけるものではない”」
視線が、私に突き刺さる。
「リゼル・アルマリア。
君は、その禁を破った」
喉がきゅっと縮む。
しかし、隣でユリウスが一歩前に出た。
「一つ、確認させていただきたい」
彼の声は静かだが、はっきりと通る。
「教義が禁じているのは、“神の慈悲そのものに値段をつけること”でしょうか。
それとも、“治療に必要な薬草や器具、人の労力に対価を払うこと”も含まれますか」
ガルシスが、眉をひそめる。
「詭弁だ。
結果として“癒やしに値札がついている”なら、同じことだろう」
「同じでしょうか」
ユリウスは、一枚の紙を机の上に置いた。
「これは、王都の一般的な治療費の一覧です。
既に“薬草代”“ポーション代”“治療師への謝礼”という形で、相当な額の金が動いている」
セオドラルが、紙をじっと見つめる。
「我々がやっているのは、“すでに存在している金の流れを、少しだけ整理している”に過ぎません」
「整理?」
「はい。
“怪我をした瞬間にまとめて払う”今のやり方だと、支払えない人が簡単に取りこぼされる。
だから、“怪我をする前に少しずつ払う”形に変えようとしているだけです」
ガルシスが、鼻で笑った。
「美辞麗句に聞こえるな。
要するに、“怖れにつけこんで金を取っている”だけではないか」
その言葉に、胸の奥がぐらりと揺れた。
——同じ言葉を、追放の直前にも聞いた。
「“怪我をするかもしれない”という恐怖につけ込んで、金を集めている。
それが“信仰心が足りない”ということだ、と」
あの日の声が、頭の中で響く。
そのとき、机の下でそっと腕をつつかれた。
隣に座るマリナだ。
彼女は、こっそり親指を立てて見せた。
(——しゃべれ、ってことですね)
喉の奥に、なにか熱いものが込み上げてくる。
「……違います」
気づけば、声が出ていた。
会議室の視線が、一斉にこちらを向く。
「私は、“怖れにつけこむ”なんてしたくありません」
膝の上で握りしめた手のひらに、爪が食い込む。
「怖いのは、怪我そのものじゃないからです」
「なに?」
「怖いのは、“怪我をしたあとに何も残らないこと”です」
言葉が、自然と溢れてきた。
「足を折って働けなくなること。
治療費を払うために借金をして、一生返せなくなること。
家族が、目の前で弱っていくのを見ながら、何もできないこと。
——それが怖いんです」
セオドラルの顔が、わずかに曇る。
「……現場で、そういう例を見てきたと?」
「はい」
私は、街外れの礼拝堂の光景を思い出す。
「この前、礼拝堂に通っている子どもが屋根から落ちて、足を折りました。
普通なら、金貨一枚かかる治療でした」
マリナとユリウスが、静かに頷く。
「でも、その子のお母さんは“平準化制度”の契約をしていたおかげで、治療費のことを気にせずにすみました。
もし制度がなかったら、その子はきっと、借金まみれになった家で、びっこを引いて生きていくことになっていたと思います」
ガルシスが、露骨に眉をひそめた。
「感情に訴える話で教義がねじ曲がるなら、教義など必要ない」
「ねじ曲げるつもりはありません」
私は、首を横に振る。
「ただ——教義が守ろうとしているものは、“言葉”じゃなくて、“人”なんじゃないでしょうか」
会議室の空気が、きしむように揺れた。
「“癒やしは神の慈悲だ”という教えは、私も否定しません。
でも、現実には薬草もポーションもただではありません。
治療師だって、寝ずの看病をすれば倒れます。
その現実から目をそらしたまま、“祈れば救われる”と言い続けるのは——」
言葉が喉で詰まる。
——それこそ“神を冒涜することなんじゃないか”。
そこまで言う勇気は、まだなかった。
代わりに、ユリウスが一歩前に出る。
「現実を見て、仕組みを整えることは、“信仰を捨てること”ではないはずです」
彼は、静かに続けた。
「私たちは、神殿と争うつもりはありません。
むしろ、“祈りの場を守るために、数字を使いたい”と考えています」
「数字で、祈りを守る……?」
セオドラルが、低くつぶやく。
「はい」
ユリウスは頷いた。
「治療費の負担が減れば、信徒たちは“祈る余裕”を失わずに済む。
礼拝堂が赤字に悩まされずに済むなら、神官たちは“金の計算ではなく、祈りに時間を割ける”」
「そのために“保険”とやらを広める、と?」
ガルシスの声には、まだ刺があった。
「“保険”という言葉に拒否感があるなら、呼び方は変えても構いません」
ユリウスは、あっさりと言った。
「“治療費平準化制度”でも、“救済積立金”でも、“癒やし共同基金”でもいい。
重要なのは、名前ではなく、“怪我をしたときに誰がどのくらい守られるか”という中身です」
「しかし——」
ガルシスがなおも口を開きかけたとき、セオドラルが手を上げて制した。
「ガルシス」
老司祭の声には、さすがに重みがあった。
「感情に流されてはいかん。
だが、数字だけを見て“神の家の在り方”を決めることもできん」
彼は、しばらく黙って私たちを見つめた。
その視線の中に、ほんのわずかだが“困惑”と“疲労”の色が混じっているのが見えた。
(この人も、この人なりに、ずっと揺れてきたのかもしれない)
そう思った瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
「……ひとつ、試みを提案したい」
セオドラルが静かに言った。
「王都の中心部で、いきなりその“平準化制度”とやらを公に認めることはできない。
信徒たちの混乱も大きいだろう」
予想通りの言葉に、胸がちくりと痛む。
「だが、“街外れの礼拝堂での限定的な試み”であれば——
“祈祷師ギルドによる互助制度”として、黙認する余地はあるかもしれない」
エドワルドの顔が、頭に浮かぶ。
「もちろん、条件はつける」
セオドラルの目が、再び鋭くなる。
「“癒やしを保険と呼ばないこと”。
“神の慈悲と混同させないこと”。
そして、“この試みが神殿の教えに反する方向へ暴走しないよう、定期的に報告を行うこと”」
ガルシスが、露骨に不満げな顔をした。
「高司祭、それは——」
「ガルシス」
ぴしゃり、と名前だけが飛ぶ。
ガルシスは、渋々口をつぐんだ。
「教義院としては、当然、反対意見が出るだろう。
だが、我々が守るべきなのは、“教義そのもの”ではなく、“教義が守ろうとしているもの”だ」
老司祭の視線が、すっと私に向けられる。
「リゼル・アルマリア」
「……はい」
「君は、神殿を追放された。
それでも、こうして戻ってきて、自分のやっていることを“諦めずに説明しよう”としている」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
「それを“信仰心が足りない”と切り捨てるのは、少々、年寄りの意地が過ぎたかもしれんな」
「た、高司祭……」
隣でガルシスが信じられないものを見るような目をしている。
私自身も、耳を疑った。
(今、この人……謝った……?)
セオドラルは、わずかに目を細めた。
「勘違いするなよ、リゼル。
君のやり方を全面的に認めるわけではない」
「はい」
「だが、“神殿の外に出た者の祈りの形”を、最初からすべて異端と決めつけるのも、神の御心からは外れているかもしれん、ということだ」
その言葉は、追放の日に受けたどんな言葉よりも、重く、そして温かかった。
◇◇◇
「……つまり」
会議室を出た廊下で、ユリウスが小さく整理するように言った。
「“保険”という言葉は引き続き使えないが、“街外れの礼拝堂での互助制度”としてなら、しばらく見逃してもらえると」
「はい」
私は、まだ少しふわふわした頭で頷く。
「定期的な報告書も必要ですし、“暴走しないように監視する”って言われましたけど、それでも——」
「“最初から叩き潰す”ではなかった」
マリナが、ほっとしたように息を吐いた。
「いやー、途中で拳が出ないかヒヤヒヤしたわ」
「出してないですよ」
「心の中でね」
図星なので、何も言い返せない。
「予想より、ずっとましな結果だ」
ユリウスが、珍しく素直な口調で言った。
「正直、“試験導入を即時中止せよ”と命じられる可能性も覚悟していた」
「それは……私も、覚悟してました」
あの白い広間に引きずり出されて、再び追放の宣告をされる未来も、一瞬だけ頭をよぎっていた。
それでも——
「エラの子の足が守られたことも、ミラが“保険聖職者見習い”になったことも、全部話せてよかったです」
胸の奥に広がる疲労感は大きい。
でも、その中心には、不思議な静けさもあった。
「怖かったか」
「……すごく」
正直に答えると、ユリウスはふっと笑った。
「私もだ」
「神殿の政治、怖いですか?」
「いや、君が暴走しないか心配で」
「今、その冗談いります?」
思わず睨むと、彼は少しだけ肩をすくめた。
「だが、おかげで一つ、はっきりした」
「何がですか?」
「“数字の盾”だけでは、神殿とは話ができないということだ」
その言葉に、思わず瞬きをする。
「今日の会合を動かしたのは、君の数字じゃない。
“エラと子どもの話”と、“ミラの迷い”の話だ」
ユリウスは、ゆっくりと続けた。
「私は、長いあいだ“感情を切り離した数字こそが正義だ”と思っていた。
だが、どうやらそうでもないらしい」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……それ、けっこうすごいことを言ってませんか、財務官として」
「安心しろ。
帳簿の数字は、これからも容赦なく叩きつける」
「安心できません」
くだらないやり取りに混ざって、足取りが少し軽くなった。
追放された場所に、自分の足で戻ってきて——
完全な和解でも、勝利でもない、曖昧な妥協点を勝ち取っただけかもしれない。
それでも。
「リゼル!」
玄関ホールで、エレナが駆け寄ってきた。
「……どうだった?」
「うん。
“異端”って呼ばれるのは、ひとまず先延ばしになった」
そう答えると、エレナは目をぱちぱちさせ、そして笑い出した。
「なにそれ。
あんたらしい決着のつき方だね」
「どういう意味ですか」
「“完全な勝利”でも“完全な敗北”でもなく、“怖いまま続ける権利”をもぎ取ってくるところ」
その表現に、思わず苦笑する。
「……エレナ」
「ん?」
「もし、ここで何かあったら。
街外れの礼拝堂と、ミラと、エドワルドさんのこと、お願いしてもいい?」
エレナは、一瞬だけ目を丸くし、それから真顔で頷いた。
「まかせて。
あんたが外で“祈りの新しい形”を探してるあいだ、
私は中で、“古い形が腐らないように見張ってるから」
その一言で、胸の奥にあったなにかが、静かにほどけた。
◇◇◇
大神殿の白い階段を降りながら、私はふと空を見上げた。
——神様が本当にいるなら、きっと今こう言っている。
“まだ途中だ。
怖いまま、ちゃんと最後まで歩け”
そう言われている気がして、私は小さく笑った。
「信仰心が足りない聖女」でいい。
その代わり、誰よりしつこく、誰より現実にしがみついて、
“祈りを諦めない仕組み”を作ってやる。
そう胸の中で呟きながら、私はギルドと礼拝堂へ続く道へ踏み出した。
——まだ、守れていない人たちが山ほどいる。
そのことだけが、次の一歩をくれる。
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