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第25話 「守れなかった約束」と「守れるようになった約束」
しおりを挟む——三年前、あの砦で引いた線から、世界が全部変わったわけじゃない。
それでも、「あの線があって助かった」と笑う人が、少しずつ増えた。
◇◇◇
「リゼルさん、これ、最後の支部報告です!」
山みたいになった書類の向こうから、ミラの顔がひょこっと覗いた。
「“最後”って言い方、縁起でもないですね」
「今日が“三年試験期間の最終報告締切日”だからですよ。
この束が、まるっと大臣様たちの机に乗るんですから」
そう言って彼女が置いた束には、見慣れたタイトルが踊っている。
『地方支部運用記録/保険聖職者報告書』
三年前、街外れの礼拝堂で最初の窓口を開いたときは、支部は三つしかなかった。
今、この机の上には——
「ええと、礼拝堂支部、ギルド支部、辺境砦支部、それから新しくできた街道沿いの宿場支部が六つ……
全部合わせて、二十三カ所、か」
私は、感慨と頭痛が混ざったようなため息をついた。
「三年で、よく増えましたねえ」
ミラは、誇らしげに胸を反らす。
「“保険聖職者”第一期の同期、みんな、ちゃんと続いてますし」
「途中で“数字アレルギー”出て退職した人もいましたけどね」
「でも、その人たちだって今は“互助のことを知ってる村の祈祷師”になってますから!」
そう言われると、確かに悪くない。
◇◇◇
一通、一通。
私は報告書をめくりながら、三年前とは明らかに違う数字を追いかけた。
——“治療費の支払い不能を理由とした治療中断件数”
三年前の砦の報告書では、そこにずらりと名前が並んでいた。
今、辺境砦支部の記録には、そこに大きく「0」と書いてある。
『互助三割・砦予算二割・戦時特別金五割の線引きを継続中。
“互助枠を超える負傷”については、砦内での訓練改善と防具支給の見直しにより、全体発生件数自体が減少。
——“命を数字で節約しない”という約束は、まだ守れていると思う』
ヘルマン隊長の、ぶっきらぼうな文字。
別の支部の報告書には——
『村の祭壇に来る人が、“お金の話”を少しだけしやすくなった気がします。
互助に入って薬代の心配が減ったからか、
“今日は家族の愚痴も聞いてください”と言われることが増えました。
——祈りが、“お願い”だけじゃなく、“弱音”も含むものに変わりつつあるのかもしれません』
ハルクの、真面目で少し青臭い文章。
読みながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(ちゃんと、“弱さを隠さない世界”に、少しだけ近づいてる)
◇◇◇
「——と、現場担当が感傷に浸っているあいだに、締切が迫っている」
いつの間にか部屋に入ってきていたユリウスが、机の端を軽く叩いた。
「現場担当の感傷を集めた束を、これから会議室に持ち込むのはあなたでしょう」
「だから急いでいる」
彼は、相変わらず無表情のまま書類をまとめ始める。
昔より、少しだけ目の下の隈が濃くなった気がする。
でも、その手つきは迷いがなく、数字の列を確かめる指先は相変わらず正確だ。
「で、“三年間の総まとめ”として、君は何を書いた」
「え?」
「いつものだ。
最初の砦の報告書にも、神殿に送った書類にも書いていた“あの一行”」
私は、最後の一枚——“調整室総括報告”に目を落とした。
そこには、三年前と同じ言葉の続きに、ほんの少しだけ違う文が添えてある。
『——これは、守れなかった約束を書き残すための報告書でもある。
そして今は、守れるようになった約束を書き足すための報告書でもある』
声に出して読み上げると、ユリウスの眉がわずかに動いた。
「三年分の“書き足し”か」
「まだまだ余白だらけですけどね」
「余白があるなら、予算もまだ増やせるな」
「そうやってすぐ予算の話に持っていく」
呆れながらも、口元が緩む。
◇◇◇
王宮の会議室は、三年前と変わらず重々しい雰囲気だった。
でも、そこに並ぶ顔ぶれには、見慣れた人が増えている。
財務大臣。
軍務大臣。
ラドクリフ顧問官。
そして今日は——神殿からの代表として、あの長老と、数人の祈祷師たちも座っていた。
「——では、“医療互助制度試験期間・三年分の総括”を聞かせてもらおう」
長老の声は、三年前より少しだけ柔らかい。
ユリウスが先に数字の概要を述べ、私はそのあとに、現場の事例をいくつか紹介した。
砦で“治療費のせいで兵を諦めなくて済んだ”話。
村で“互助のおかげで一番下の子を学舎に通わせられた”と喜ばれた話。
街の施療院で“お金の心配より薬の飲み方の相談をされるようになった”話。
神殿代表の祈祷師が、真剣な顔でメモを取っている。
「——もちろん、失敗もたくさんありました」
私は、そこで一度言葉を切った。
「説明の不足から誤解を生んでしまったこと。
“互助に入っているから大丈夫だろう”と無茶をする冒険者が出てしまったこと。
数字ばかりに気を取られて、目の前の人の不安に気づくのが遅れたこと。
その一つ一つを、報告書の最後に書き足してきました」
「“守れなかった約束”として、か」
長老が、どこか苦味のある笑みを浮かべる。
「はい。
でも同時に、“以前なら守れなかったはずの約束を、守れた事例”も増えました。
だから、最後の報告書にはこう書きました」
私は、一枚の紙を掲げる。
「“これは、守れなかった約束を書き残すための報告書であり、
守れるようになった約束を書き足すための報告書でもある”——と」
会議室の空気が、静かに揺れた。
◇◇◇
結論が出るまでに、さらに何時間も議論が続いた。
互助の財政的な持続性。
他国との兼ね合い。
神殿との役割分担。
私は途中から、ほとんど聞きながら祈っているのか数字を数えているのか分からない状態になっていた。
——そして、夕陽が会議室の窓を赤く染め始めたころ。
「では、最終的な決定を告げる」
財務大臣が立ち上がった。
「“医療互助制度”は、三年の試験期間を経て——
“国の正式な制度として継続する”」
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
「ただし、今後三年ごとに見直しを行い、
“守れる約束”と“守れていない約束”の両方を確認すること。
また、その報告書には必ず現場担当者の一行を添えること」
そこで、大臣の視線がこちらに向く。
「——“これは、守れなかった約束を書き残すための報告書である”という、一行を」
喉の奥が熱くなる。
それは、あの日砦で震える手で書いた一文が、
いまや“制度の義務”になったということだ。
「神殿としても異存はない」
長老が、静かに頷いた。
「祈りが、“都合のいい奇跡待ち”ではなく、
“互いの弱さを差し出す行為”であり続けるよう——
我々も、“互助対応の祈祷師”として現場に立とう」
神殿代表たちの間に、緊張と覚悟と、ほんの少しの安堵が走ったのが分かった。
◇◇◇
会議室を出た廊下で、私は壁にもたれて大きく息を吐いた。
「……生きてます?」
隣でミラが、おそるおそる覗き込んでくる。
「多分」
「“多分”って」
笑いながらも、目の奥が熱い。
そこへ、ユリウスが歩み寄ってきた。
「お疲れさま」
「ユリウスさんこそ。
途中から数字の応酬がすごくて、私、半分意識飛んでました」
「君が飛んでいるあいだも、君の一行だけは机の上に残っていた」
彼は、珍しく少しだけ優しい声で言う。
「“守れなかった約束を書き残す”。
それを怖がらない制度なら、財務官としてはまだ付き合う価値がある」
「……付き合ってくれるんですね、これからも」
思わず口にすると、ユリウスはわずかに目をそらした。
「三年ごとの見直しで現場担当がいなければ、数字の意味が分からない」
「それはつまり——」
「君がどこかに逃げたら、すぐ探しに行くということだ」
さらりと言われて、顔が熱くなる。
「逃げませんよ。
“信仰の形を問い続ける聖女”らしく、しつこく残ります」
「肩書きが長い」
「そこはもう諦めてください」
◇◇◇
その夜、街外れの礼拝堂は、昔と同じように小さな灯りだけが点っていた。
でも、中の景色は少し違う。
互助の窓口カウンター。
契約書の棚。
“保険聖職者”のバッジをつけた人たちの写真が、壁に飾られている。
「……ただいま」
誰もいない堂内に、小さく呟く。
祭壇の前に膝をつき、胸の前で指を組んだ。
祈りの言葉は、昔と同じ。
でも、その中身は、あの頃よりずっと泥くさい。
「今日も、“守れなかった約束”がありました。
でも、“守れるようになった約束”もありました。
……それでもまだ足りないぶんは、
明日の報告書と、明日の制度と、明日の私のしつこさで、少しずつ埋めていきます」
神様が本当にいるのかどうか、正直、よく分からない。
でも、“こうやって誰かの弱さを差し出す場所”が続いていくなら——
それはそれで、十分“信仰”と呼んでいいんじゃないかと思う。
私は立ち上がり、机に向かった。
新しい報告書の一番下に、いつもの一行を書き添える。
『——これは、守れなかった約束と、守れるようになった約束を書き続けるための報告書である』
ペン先から落ちたインクが、じんわりと紙に滲んでいく。
その滲みが、どこかで誰かの祈りと数字をつないでくれますように——
「大丈夫。
信仰心が足りない私たちでも、
こうして約束を一つずつ書き足していける限り、世界はきっと少しずつ良くなっていく」
そう心の中で呟きながら、私は最後の一文字を書き終えた。
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