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第1話 王太子殿下の「恋の授業」開講ですか?
しおりを挟む「僕に、恋を教えてください」
そんな台詞、前世では一度も言われたことがないどころか、想像すらしたことがなかった。
しかもよりによって、それを真正面から口にしたのが、アルノルト王国の王太子殿下レオンハルト様だというのだから、人生(二度目)とは本当にわからない。
◇◇◇
春の柔らかな光が、学舎の窓辺から差し込んでいた。
書き込みだらけの教本と羽根ペンとインク壺。整然と並んだ椅子と机。
私はその一番前の席に腰を下ろして、向かいに座る少年――いえ、そろそろ「青年」と呼ぶべき年頃の王太子を見つめていた。
「……殿下、今のご発言をもう一度よろしいでしょうか」
念のため確認したくてそう言うと、レオンはすっと背筋を伸ばし、真剣な琥珀色の瞳で私を見返してきた。
「僕に恋愛感情というものを教えてください、ミサ。
父上と母上が、君なら適任だと」
ああ、やっぱり聞き間違いではなかった。
私はひそかにため息を飲み込み、内心で頭を抱えた。
――よりによって、私に。
――よりによって、恋愛感情。
早瀬美咲、享年二十八歳。
前世の私は、仕事ばかりしているうちに、結婚どころかまともな恋愛も経験しないまま過労死した。
同僚の結婚報告のたびに「おめでとう」と笑いながら、心のどこかで置いていかれるような焦りだけを抱えて。
勇気を出して登録した婚活アプリでは、年齢でふるいにかけられ、会えた相手には「美咲さんって、いい人だけど……彼女というより、職場の頼れる先輩って感じですね」と笑われた。
――つまり私は、「選ばれなかった女」。
恋の教科書どころか、試験本番にすら進めなかった落第生だ。
そんな私が今は、異世界アルノルト王国の中流貴族ハルヴィア伯爵家の養女ミサとして、レオン王太子の教育係を務めている。
礼儀作法、歴史、地理、政務の基礎、そして「感情の言葉」。
就任から三年。
レオンは十五歳となり、公式に「王太子」として立つことが増えた。春の空気は、少年と青年の境目にいる彼の輪郭を、どこか心細いほどくっきりと浮かび上がらせている。
――そして先日。
国王陛下と王妃陛下に呼び出された私は、いつもの謁見室で、静かな笑みを浮かべたお二人から新しい“課題”を告げられた。
「レオンには近く、政略婚約の話が持ち上がるだろう」
「しかし、ただの政略ではなく、民に“仲睦まじい夫婦”だと信じていただく必要がありますの」
王妃陛下は、ひそやかな溜息を混ぜながら続けた。
「レオンは真面目で誠実な子ですが、少し、自分の感情に不器用ですわ。
ミサ。あなたは物語や芝居で子どもたちに感情を教えるのが上手でしょう?
恋愛感情というものも、少しずつ教えてあげてほしいの」
――そのとき私が思ったことを、ここで正直に告白すると。
(よりによって私に?!)
である。
でも、王と王妃からのお願いを、教育係の立場で断れるはずもなく。
「はい、努力いたします」と頭を下げた私は、そのままこうしてレオンと向き合っているわけだ。
「……事情は理解いたしました。
ですが殿下。恋愛感情というのは、教科書で学ぶのとは少し違うものでして」
私が慎重に言葉を選びながら切り出すと、レオンは首をかしげた。
「違うのですか? 僕はこれまで通り、知識を学べばいいとばかり」
「知識も大事ですが……そうですね。
まずは、“好き”と“尊敬”の違いから整理してみましょうか」
“恋愛レッスン”第一回のテーマ。
それは、王妃陛下のお言葉を借りるなら、「“好き”という言葉の重さの違い」だ。
前世でも、私はこの違いがわからずに迷子になった。
「いい人」「頼れる先輩」と言われるたび、「それって、恋愛的にはどうなの?」と悩んでいた。
結局答えは出ないまま、あの夜の歩道で、そのまま全部終わってしまったけれど。
「殿下にとって、“好き”なものを挙げるとしたら何がありますか?」
私が問いかけると、レオンは少し考えてから指を折り始めた。
「本。特に歴史物。
それから、王都のパン屋の焼きたての黒麦パン。
……あと、庭園劇場で見る芝居も、好きです」
最後のひと言に、思わず表情が緩みそうになる。
庭園劇場は、私が子どもたちのために小さな人形劇や読み聞かせをしてきた場所だ。
「では、“尊敬している”相手は?」
「父上と母上。
宰相殿と、騎士団長。
それから……ミサ、君です」
さらりと告げられた名前に、私は一瞬言葉を失った。
「わ、私ですか?」
「ええ。
僕の欠点を指摘し、直す方法を一緒に考えてくれる。
それに、僕の感情を笑わない。
……尊敬に値する教師だと思っています」
真面目な顔でそんなことを言うから、心臓に悪い。
尊敬。教師。
そこに恋愛的な意味がないことくらい、私にもわかる。
――けれど。
(“尊敬している”と言われたことなんて、前世ではなかったな)
仕事をして当たり前。
怒られなければ合格。
褒められるより、ミスをしないことの方が大事な職場で、私は自分を削って働き続けていた。
「ありがとうございます、殿下。
でも、今おっしゃった“好き”と“尊敬”は、少し性質が違います」
私は、黒板代わりの大きな板に、チョークで丸を二つ描いた。
「“尊敬”は、相手の能力や人格に対して抱く感情です。
“好き”は……もう少し、ふわふわしていて、理由をうまく言葉にできないことも多い。
一緒にいたいとか、顔を見るとほっとするとか、そういう感覚に近いかもしれません」
「一緒に……いたい、ですか」
レオンは私の言葉を繰り返しながら、視線を窓の外へと滑らせた。
春の庭で、若い侍女たちが談笑している姿が見えたのかもしれない。
「では、今日は一つ、お芝居をしましょう。
“好き”と“尊敬”の違いが出てくる物語です」
私は椅子から立ち上がり、机の隅に積んでおいた手書きの台本を取り出した。
タイトルは『城下町のパン屋と旅の騎士』。
前世で読んだ恋愛短編を、こちらの世界向けに少しアレンジしたものだ。
「僕が……騎士ですか?」
「はい。殿下は怪我をした騎士役。
城下町のパン屋の娘が、騎士を看病していくうちに、尊敬から“好き”へと感情が変わっていくお話です」
「ミサは、その娘の役ですか?」
「ええ。読み合わせ程度ですから、気負わなくて構いません」
――本当は、私の方が気負っていた。
恋愛経験ゼロの元アラサー独身が、恋物語のヒロイン役だなんて、笑えてくる。
でも、物語の登場人物に自分を重ねることでしか、私は恋というものを測れないのかもしれない。
◇◇◇
場所を庭園劇場に移すと、石造りの小さな舞台に、春風がひらひらとカーテンを揺らしていた。
平日の昼間とあって観客はおらず、私とレオン、それに念のための護衛騎士が一人いるだけだ。
「では、第一場面から始めましょう」
私は台本を開き、娘の台詞を読む。
『うちのパンが、そんなにおいしいなんて。
騎士様にそう言っていただけるなんて、光栄ですわ』
続いて、レオンの番だ。
『君の父上の腕が良いのだろう。
……それに、君が運んでくれると、なぜかさらにおいしく感じる』
ぎこちないが、よく通る声。
王太子として多くの場に立ってきたからか、発声は悪くない。
場面が進むごとに、娘は怪我をした騎士のためにパンを届け、話を聞き、騎士に励まされ、自分も励ますようになる。
最初は「立派な騎士様」に対する尊敬だった気持ちが、少しずつ、「この人と話すのが楽しい」「また会いたい」に変わっていく。
――そして、クライマックス。
『ねえ、騎士様。
わたし、あなたのことが……好きになってしまいました』
そこまで読んでから、私は一度顔を上げた。
レオンの表情を確かめたかったからだ。
彼は台本を見つめたまま、眉をひと筋寄せていた。
「殿下?」
「……すみません。
この台詞の“好き”は、先ほど学んだ“黒麦パンが好き”の“好き”とは違うのですよね」
「そうですね。
一緒にいたい、一番に笑ってほしい、そう願うような“好き”です」
「なるほど」
レオンは短く息をつき、視線を紙から私へと上げた。
その瞳が、いつもよりわずかに真剣さを増しているように見えて、私は思わずどきりとした。
「では、続き、お願いします」
再び台本に目を落とし、私は娘の告白を読み上げる。
騎士の返事は、レオンの台詞だ。
『……すまない。
僕は王都に戻らなければならない。
君を“妻にしたい”と願う資格は、僕にはない』
「……」
そこまで言ったところで、レオンの声が少しだけ震えた。
演技なのか、本心なのか、私には判別がつかなかった。
「殿下、無理に感情を込めようとしなくて構いませんよ。
最初は言葉をなぞるだけで――」
「いえ。
……騎士がどんな気持ちでこの言葉を言っているのか、考えていました。
“好き”だけでは選べないこともあるのでしょう?」
「……そうですね」
身分、立場、責任。
それらが絡み合えば、“好きだから一緒にいたい”という願いだけでは叶わない。
それはきっと、この世界の王太子であるレオンにも、他人事ではないのだろう。
そして、“選ぶ側”にいるはずの彼もまた、誰かを本気で選ぶ自由を持っているとは限らない。
(少なくとも、前世の私は、“選ばれる側にすらなれなかった”けれど)
台本を閉じ、私は舞台の縁に腰かけた。
レオンも隣に立ち、一拍置いてから私に向き直る。
「ミサ」
「はい、殿下」
「君は……誰かに、今の娘のような言葉を言ったことがありますか?」
心臓が一瞬止まった気がした。
『わたし、あなたのことが好きになってしまいました』
前世を含めて、その台詞を口にした記憶は、一度もない。
思ったことならあった。でも、言葉にはしなかった。
勇気がなかったのか、相手にとって“本命”になれないとどこかで分かっていたからか。
「……ありませんね」
私は苦笑しながら答えた。
「私は教師ですから。
恋愛よりも、“立派な教育係”であることの方が、きっと似合っているんだと思います」
「僕は、そうは思いませんが」
小さく呟かれた言葉に、私は聞き返す前に護衛騎士の咳払いに遮られた。
「そろそろお時間です、殿下。次のご予定が」
「ああ、分かった」
レオンは頷き、私の方へ向き直る。
「ミサ。
今日は、好きと尊敬の違いについて、少し分かった気がします。
また続きを、教えてください」
「……はい。いつでも」
微笑みを返しながらも、胸の奥は妙にざわついていた。
“また教えてください”。
それは、私がここにいていいと告げられたようで、少しだけ嬉しかった。
◇◇◇
その日の夕方、私はひとり、人気のない学舎の教室で、今日の授業の復習ノートをつけていた。
窓の外では、夕焼けが王都の屋根を茜色に染めている。
遠くから、侍女たちの笑い声と、どこかの貴族青年たちの馬車の音が聞こえた。
廊下の向こうから、囁くような声が漏れ聞こえてくる。
「ねえ聞いた? 王太子殿下の教育係が、恋愛まで教えるんですって」
「中流貴族の養女が? 身の程知らずもいいところね」
……まあ、そう言われるだろうな、とは思っていた。
私が誰を好きになろうと、殿下が誰を選ぼうと、この国の人々にとって私は“王太子の教師”でしかない。
恋愛の練習台。恋物語の語り手。
物語の中でしか、誰かの“本命”にはなれない。
それでも。
(それでも、私は――)
レオンが、先ほど舞台の上で見せた真剣な横顔を思い出す。
“好きだけでは選べないこともあるのでしょう?”と問うたときの、悔しそうな、でもどこか寂しそうな表情。
私はゆっくりとペンを置き、窓の外の空を見上げた。
「殿下が、誰を選ぶことになっても。
そのとき、ちゃんと自分の気持ちに気づいていられますように」
それがきっと、私の“仕事”なのだろう。
前世で誰にも選ばれなかった私が、今度は誰かが誰かを選ぶための手助けをする役目を持てたのなら――それは少なくとも、ゼロよりずっとましだ。
夕焼けの光が、机の上のインク壺を淡く照らしていた。
温かい紅茶をひと口飲むと、胸の奥の冷たさが、ほんの少しだけ溶けていく気がした。
前世の私は、いつも「どうせ私なんて」とつぶやきながら、コンビニの明かりの下を家に帰っていた。
今の私は、王宮の窓辺で、誰かの未来を少しだけよくするための物語を考えている。
――選ばれなかった女にも、教室の片隅くらいは、居場所があっていい。
そんなことを思いながら、私は新しい台本の白紙を開いた。
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