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第5章
しおりを挟むエリス様が初めて自分からわたしの隣に座ったのは、皮肉なことに、わたしが「やっぱり何の役にも立てないのかもしれない」と心の底で思いかけていた日のことだった。
諦めかけた瞬間に差し出された小さな手ほど、人の心を揺らすものはない。
◇ ◇ ◇
ここでの生活にも、少しずつ慣れてきた。
朝は早く、夜は暗い。
雪かきをする兵士たちの掛け声や、薪を割る音が、王都では聞いたことのない生活のリズムを作っている。
わたしはといえば、ハンナさんと一緒に館の帳簿を整理したり、リネン庫の管理を手伝ったり、厨房で野菜の皮むきを覚えたりと、「伯爵令嬢らしくない」ことばかりしていた。
「リディア様、本当に手を動かしてしまってよろしいのですか? 貴族のお嬢様に、こんな雑事を……」
そう心配する声もあったけれど、わたしにとってはむしろ救いだった。
何かをしている間だけは、「役に立てない自分」のことを考えなくて済むから。
問題は、やはりエリス様だ。
あの日、部屋の扉からこっそり覗いてくれたあとも、彼女は相変わらず姿をあまり見せない。
朝食は部屋で、昼食もたいていは一人。
夕食も、「今日はお腹が痛い」「眠い」と、理由をつけては欠席することが多かった。
「無理に引っ張り出すのはやめよう」というのが、エドガー様とわたしの共通認識だ。
だからこそ、“出てもいい理由”を作る必要があった。
「……匂いに誘われてしまうような、なにか」
私は、昼間の厨房でそんなことを呟いた。
料理長が、丸い顔をしかめてこちらを見る。
「匂い、ですか」
「はい。
言葉で『来なさい』と言うのではなくて、『行ってみたい』と思ってしまうような匂いがあれば……エリス様、出てきてくださらないかしら」
料理長は、腕を組んで考え込んだ。
「……甘い焼き菓子なら」
「焼き菓子!」
思わず身を乗り出すと、料理長は苦笑いを浮かべた。
「王都の菓子のような洒落たものは難しいですが、蜂蜜とバターをたっぷり使ったクッキーなら、香りも出ますし、子どもはたいてい好きです。
しかも、形を一緒に作ることもできますよ。星とか、花とか、動物とか」
「……一緒に、ですか」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。
「それ、お願いします。
『飾り付けを手伝ってくれた人は、焼きたてを一番に味見していい』っていうことにしてもいいかしら」
「ふふ、いいですね。
では、今夜の夕食の前に焼き上がるよう、準備しておきましょう」
こうして、「甘い匂いで誘う作戦」が決まった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
館の一角にある小さなサロンに、簡素なテーブルを一つ出してもらった。
テーブルクロスを敷いて、花柄の皿を並べる。
昼間のうちに用意しておいたリボンと、布のお花も少し。
「うーん……少しやりすぎたかしら」
思わず呟くと、ハンナさんが笑った。
「いえいえ、とても可愛らしいですよ。
お嬢様がいらしたら、きっと目を輝かせると思います」
「……来てくだされば、ですけれどね」
窓の外を見ると、空はすでに薄暗く、雪が静かに降り始めていた。
ほどなくして、廊下の向こうから、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
「焼き上がりましたね」
「ええ。あとは……」
料理長と助手のメイドが、大きな鉄板にたくさんのクッキー生地を並べて運んできた。
まだ焼く前の、柔らかい生地だ。
星やハート、花の形もあれば、丸いままのものもある。
「飾り付けは、お任せしますよ。
お嬢様がいらしたら、一緒にやるといい」
「はい、ありがとうございます」
テーブルの上には、砕いたナッツやドライフルーツ、砂糖菓子が小さな器に分けて置かれている。
それだけで、見ているこちらがわくわくしてくる。
「さて……」
問題は、肝心のエリス様だ。
「エリス様の部屋の前に、そっと甘い匂いが届くよう、厨房の扉は少し開けてあります。
あとは、お嬢様次第ですね」
ハンナさんの言葉に頷きながらも、不安は消えない。
このまま誰も来なければ、ただの「大人の焼き菓子作り」になってしまう。
「まあ、それはそれで楽しいのですけれど」
自分に言い聞かせるように笑ってみせたそのとき、廊下の向こうで微かな足音がした。
……来た。
胸がどきんと鳴る。
扉の方を向くと、少しだけ隙間が開いて、その向こうから金色の髪の先が覗いた。
「……なに、してるの」
小さな声。
あの日のように、扉の陰に半分隠れたエリス様が、こちらをじっと見ている。
「こんばんは、エリス様」
わたしは、立ち上がらずに椅子から手を振った。
驚かせないように、ゆっくりと。
「今ね、クッキーの飾り付けをしているの。
焼く前の生地に、好きな模様をつけられるのよ」
「……いい匂い、してる」
エリス様は、ぬいぐるみを胸に抱きしめたまま、鼻先をひくつかせた。
その表情は、年相応の子どもそのものだ。
「ええ、とっても。
飾り付けを手伝ってくれた人は、焼きたてを一番に食べていいって、料理長が言ってました」
「ほんと?」
少しだけ目が丸くなる。
嘘をついているわけではない。
料理長も「もちろんそうしましょう」と笑っていたから。
「ええ、本当よ。
……ここからでも見ているだけで構わないけれど、もし少しでも触ってみたくなったら、いつでも来てね」
そう言って、わたしは自分の前の生地に、そっとナッツを並べ始めた。
エリス様の方を見すぎると、逃げてしまいそうだったから。
しばらくの沈黙。
やがて、ぎし、と床板が鳴る。
「……ちょっとだけ、手伝ってあげてもいい」
その言葉に、思わず顔を上げた。
エリス様が、扉から一歩、また一歩と部屋の中へ入ってくる。
「嬉しいわ」
本心からの言葉だった。
エリス様は、わたしの隣の椅子に、そっと腰を下ろす。
まだ少し距離を空けているけれど、それでも「自分から来てくれた」ことが何よりも大きい。
「これはね、星の形なの。
こっちは、お花。エリス様は、どれを飾ってみたい?」
「……お星さま」
そう言って指さした星型の生地に、わたしは器を寄せた。
「じゃあ、お星さま担当さんね。
わたしは、この丸いのをお月さまにしようかしら」
「お月さま?」
「そう。ナッツをこう並べて……ほら、三日月みたいに」
やってみせると、エリス様はじっと見つめ、それから自分の星に小さな砂糖菓子を埋め込んでいく。
「ここが光ってるところで……ここは、流れ星」
その横顔は、さっきまでの「いらない」と言っていた少女とはまるで違う。
目がきらきらしていて、頬もほんのり紅潮している。
「すてきね。
エリス様のお星さま、空に飾ったらきっと見分けがつくわ」
「……ほんと?」
「ええ。きっと、『あ、これはエリス様の星だ』って分かると思う」
少し大げさに言ってみると、彼女は照れたようにむすっとした顔をして、でも口元は隠しきれずに緩んでいた。
「リディアは、クッキーつくるの上手じゃない」
そう言って、わたしの月型クッキーを見て笑う。
「……そうね。刺繍のほうが得意かもしれないわ」
「お母さまのほうが、もっと上手だった」
ふいに出た「お母さま」という言葉に、空気が少しだけ揺れた。
エリス様は、慌てて視線を落とす。
「ごめんなさい。比べるつもりじゃ──」
「ううん」
遮るように、小さな声がした。
「……お母さまのこと、忘れたくないから。
忘れちゃうの、こわいから」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
彼女にとって、“新しい母親”を迎えることは、大切な記憶が塗りつぶされることと同じなのだろう。
「わたしね」
そっと、言葉を選ぶ。
「わたしは、エリス様のお母さまの代わりにはなれないと思うの。
それに、なりたいとも……実は、思っていないの」
エリス様が、不思議そうに顔を上げた。
「どういうこと」
「お母さまは、エリス様だけのお母さまだから。
誰にも代わりはできないでしょう? わたしがそこに入り込んだら、きっとお母さまが悲しむもの」
そう言って、テーブルの上の生地を指でなぞる。
「だからね、わたしは……エリス様にとって、“布のお花を一緒に作ったり、星のクッキーにたくさん飾りをつけてくれる、縁側のお姉さん”くらいの存在でも、いいの」
「お姉さん?」
「ええ。歳は全然違うけれど」
冗談めかして笑うと、エリス様はしばらく黙ってわたしを見ていた。
やがて、小さく呟く。
「……じゃあ、“仮のお母さま”じゃなくて、“クッキーのお姉さん”でもいい?」
思わず吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。
そして、胸の奥からじんわりと温かいものが広がる。
「ええ。とっても嬉しいわ、その呼び方」
「じゃあ、クッキーのお姉さん。
この星、焼けたら、お父さまにも見せたい」
「もちろん。きっと喜んでくださるわ」
そのとき、サロンの入り口で気配を感じた。
振り向くと、エドガー様が扉のところに立っていて、こちらをじっと見ていた。
「……すまない、邪魔をするつもりはなかった」
気まずそうにそう言うと、エリス様が慌てて立ち上がる。
「お父さま! 見て、これ、わたしが飾ったの!」
さっきまでの慎重さはどこへやら。
彼女は星形クッキーを両手で持ち上げ、誇らしげに見せる。
エドガー様は、一瞬驚いた顔をして、それからとてもゆっくりと微笑んだ。
雪解けのような、静かな笑みだった。
「ああ……とても綺麗だな。
空の星も、羨ましがるだろう」
「でしょ!」
はしゃぐ声が、サロンの中に響く。
それは、ここに来てから初めて聞く、心からの笑い声だった。
その光景を見ているだけで、胸がいっぱいになる。
わたしの存在なんて、きっと今は「クッキーのお姉さん」程度だ。
でも、それでいい。
その程度の役割からでも、人は誰かのそばにいていいのだと、やっと思えるようになってきた。
――“いらない”と言われた人生しか知らなかったわたしが、今は「いてもいいかもしれない」と思える場所に座っている。
その実感が、この館の暖炉よりも、焼きたてのクッキーよりも、何よりも温かかった。
いつかエリス様が、「クッキーのお姉さん」ではなく、名前でわたしを呼んでくれたなら──
そのときこそきっと、この場所は、胸を張って「わたしの居場所です」と言えるのだろう。
そう思うと、今のこの一歩が、たまらなく愛おしく感じられた。
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