ねるまえ短編集

cotonoha garden

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夜中のチャットウィンドウ

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一日中、誰とも声を交わさないまま仕事が終わる。  
それでも、画面の隅で点滅する小さな吹き出しが、私の世界を少しだけ広げていく――。




 その日、一番長く話した相手は、パソコンだった。

 月曜の夜、二十二時。  
 終業時間はとっくに過ぎているのに、私はまだデスクに向かって、意味もなく社内チャットの画面を眺めていた。

 フルリモートになって、もう三年。  
 最初のころは、通勤時間がゼロになったことを喜んでいたし、どこからでも仕事ができる自由さも、それなりに気に入っていた。

 でも、こうして一日が終わるたび、胸の奥に、うっすらとした空洞みたいなものが残る。

 今日、声を出したのは、朝の「おはようございます」をマイク越しに一度だけ。  
 あとはタイピングと、資料を読み上げる自分の息遣いだけが、このワンルームの空気を揺らしている。

 チャットツールには、プロジェクト用のチャンネルがいくつも並んでいる。  
 「了解しました」「ありがとうございます」「ご確認お願いします」。  
 定型文のやりとりが、無機質な灰色の吹き出しになって流れていく。

 誰かと話しているはずなのに、誰とも話していないみたいだ――そんな感覚が、日に日に濃くなっている。

 スマホを手に取っても、プライベートの通知はほとんどない。  
 大学時代の友人たちのグループLINEは、いつからか既読だけつける場所になっていた。  
 「今度飲もうね」と言われてから、もう一年は経っている気がする。

 替えがきく人間。  
 私がいなくても、誰かが同じようにチャットで返信して、同じように資料を作るんだろう。

 そんなことを考えて、ため息をひとつ吐いたときだった。

 画面の隅に、小さな赤い通知が灯る。  
 個別チャット。相手の名前を見て、私は姿勢を正した。

 ――開発部の、藤堂さん。

 同じプロジェクトでよく一緒になる、エンジニアの人だ。  
 年齢は、確か私より二つ上。  
 ビデオ会議で何度か顔を見たことはあるけれど、いつもカメラオフで、はっきりとした印象は残っていない。

 チャットの返事は簡潔で、スタンプもほとんど使わない。  
 でも、仕事は早くて正確で、こちらの意図を察して動いてくれる、頼れる人。

 《仕様について少し確認したいのですが、今だいじょぶでしょうか》

 「だいじょぶ」に、じわっと笑いがこみあげる。  
 普段きっちりした文章しか送ってこない人の、珍しい誤変換。

 《はい、大丈夫です! 今、少し余裕あります》  
 そう打ち込んで送ると、すぐに返信が返ってきた。

 《遅くまでお疲れさまです》  
 《資料の12ページ目のグラフについて、数値の根拠を教えていただけますか》

 「遅くまでお疲れさまです」なんて、一言添えなくてもいいのに。  
 それだけで、今日いちばん人間らしい会話をした気がしてしまう自分が、少し情けない。

 やりとりはいつも通り淡々としていて、必要な情報だけが行き来する。  
 けれど、最後に送られてきたメッセージが、画面の中で妙にあたたかく光って見えた。

 《助かりました。これでバグもだいじょぶそうです》

 わざとかな、と一瞬迷ってから、私は小さく笑って、ノートパソコンを閉じる。

 顔もちゃんと知らない相手なのに。  
 今日一日でいちばん、誰かと繋がった気がするのは、どうしてなんだろう。

 そんなことをぼんやり考えながら、ベッドに潜り込む。  
 部屋の明かりを消すと、窓の外の街の光と、枕元で充電中のスマホの小さなランプだけが、暗闇の中で点いていた。

 明日もきっと同じような一日が始まる。  
 そう思いながら、私はまぶたを閉じた。

 ***

 火曜と水曜は、予想通り、忙しかった。

 新しいサービスのリリースが近づいていて、マーケティング資料の最終チェックや、クライアントへの説明用スライドの修正が、波のように押し寄せてくる。

 チャットの通知は、一日中鳴りやまない。  
 「この文言、もう少し柔らかくできますか」「ここの数値、最新のものに差し替えてください」。  
 それぞれはたいしたことのない依頼なのに、積もり積もって、心のどこかがすり減っていく。

 水曜の午後、クライアントとのオンライン打ち合わせが終わった直後。  
 上司から、個別チャットが飛んできた。

 《さっきの説明で、クライアントから数値の齟齬を指摘されました》  
 《資料、再確認してもらえますか》

 心臓が、どくんと嫌な音を立てる。  
 急いで資料を開くと、グラフの元データの一部が、古いままになっていた。

 「あ……」

 私のミスだ。

 慌てて修正版を作り、謝罪のメッセージを打ちながら、背中に冷たい汗がにじむ。  
 画面の向こうで、クライアントがどんな顔をしているのかは見えない。  
 でも、「信頼」という言葉が、砂のようにさらさらとこぼれ落ちていく音が、確かに聞こえた気がした。

 《申し訳ありませんでした。以後気をつけます》

 上司へのメッセージを送る指先が、少し震える。  
 返ってきたのは、短い一文だった。

 《次から気をつけてください》

 叱られたわけじゃない。  
 でも、画面に並ぶその言葉は、どこか冷たくて、よそよそしい。

 「次からって、いつまで次からなんだろう」

 声に出してみても、部屋の空気は何も答えない。  
 替えがきく人間。ミスをしたら、もっとできる誰かに席を譲ればいい。  
 そんな考えが、じわじわと頭の中に広がっていく。

 そのとき、また小さな通知が光った。

 《資料の件ですが》  
 送り主は、藤堂さんだった。

 《こちら側でカバーできるところは修正しておきました》  
 《○○さんの提案が通ったから、この仕様になってる部分もあるので》

 スクロールすると、修正した箇所のスクリーンショットや、補足のコメントがいくつも並んでいる。

 胸の奥が、ふっと緩んだ。

 《ご迷惑おかけしてすみません》  
 いつものように、反射的に打ち込んでから、送信ボタンを押す。

 すぐに、返事が届いた。

 《迷惑ってほどじゃないので気にしないでください》  
   《僕もよくやるので……というか、もっとひどいミスもしてます》

 文末の「……」が、少しだけ照れた笑い声に見えた。

 《そうなんですか?》  
 《藤堂さん、ミスとかしなさそうなイメージでした》

 送ってから、「余計なこと言ったかな」と少し不安になる。  
 でも、返ってきたメッセージは、意外なほど柔らかかった。

 《そんなことないです》  
 《チャットだと、仕事できそうに見えるだけですよ》

 画面越しの彼が、肩をすくめて苦笑している姿が、なんとなく想像できてしまう。

 その夜、終業時間になっても、心のざわつきはなかなか収まらなかった。  
 夕飯を作る気にもなれず、コンビニで買ったサラダとおにぎりを、机の上でぼんやりとつつく。

 スマホをいじっても、タイムラインには他人の楽しそうな写真や、仕事の愚痴が流れてくるだけ。  
 自分だけが取り残されているような感覚が、じわじわと広がる。

 ベッドに横になって、眠気が来るのを待ちながら、なんとなく社内チャットのアプリを開いた。  
 もう誰もオンラインにはなっていないだろうと思いながら。

 そのとき、また小さな通知が、ぽん、と弾むように現れた。

 《さっきの件、気にしてたら寝づらいかなと思って》

 送り主の名前を見て、思わず息を呑む。

 藤堂さん。  
 タイムスタンプは、二十三時過ぎ。  
 業務時間外に、彼からメッセージが来るのは、初めてだった。

 続けて、短い一文が届く。

 《クライアントも納得してましたし、大丈夫ですよ》

 胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなる。

 《ありがとうございます》  
 《正直、落ち込んでたので……少し楽になりました》

 送信ボタンを押す指先が、ほんの少しだけ震えていた。  
 業務連絡以外のことを、社内チャットで打つのが、こんなにも勇気のいることだったなんて。

 しばらくして、またメッセージが届く。

 《僕も、終わったあとしばらく引きずるタイプなので》  
 《寝る前にスマホ見て、余計眠れなくなったりします》

 その一文に、思わず笑ってしまう。

 《分かります》  
 《タイムライン見てると、自分だけ何もしてない気がして、さらに落ち込みます》

 画面の向こうで、彼が「ですよね」とうなずいているような気がした。

 そこから、自然と短い雑談が始まった。  
 リモートになってから太った話とか、オンライン飲み会が苦手な話とか。  
 気づけば、時計の針は日付をまたいでいた。

 《そろそろ寝ましょうか》  
 藤堂さんがそう送ってきて、私は「はい」と返す。

 《おやすみなさい》  
 《おやすみなさい》

 画面に並んだその言葉を見つめながら、私はスマホを胸の上に置いた。

 誰かとこんなふうに、他愛もない話をしたのは、いつぶりだろう。  
 声も顔もほとんど知らない相手なのに、妙に安心している自分がいた。

 ***

 木曜の夜、予想外のトラブルが起きた。

 リリース直前のテストで、致命的なバグが見つかったらしい。  
 緊急のメンバーが招集され、私もチャットで呼び出された。

 《至急対応が必要なため、関係者はオンラインで待機をお願いします》  
 プロジェクトマネージャーのメッセージに続いて、次々と「了解しました」が並ぶ。

 私の役割は、クライアントへの説明文の作成と、影響範囲の整理。  
 藤堂さんたち開発チームは、原因の特定と修正だ。

 夜の十時を過ぎても、チャットの画面はにぎやかなままだった。  
 それぞれのチャンネルで、ログとスクリーンショットが飛び交う。

 《ビデオ会議室立てたので、必要な人は入ってください》  
 マネージャーのメッセージに、私は一瞬カーソルを合わせてから、結局入室ボタンを押さなかった。

 ビデオ会議が、正直、苦手だ。  
 自分の顔が小さな四角の中に映るのを見ると、いつも落ち着かない気持ちになる。

 そのとき、個別チャットがぴこんと鳴った。

 《この時間に顔出しはさすがにきついので……チャットでいいですか》

 藤堂さんからだった。  
 ビデオ会議室のURLと一緒に、その一文が送られている。

 思わず吹き出してしまう。

 《私もチャット派です》  
 《パジャマなので、顔出しはちょっと……》

 送ると、すぐにスタンプが返ってきた。  
 めったに使わないはずの彼から、「分かります」と言わんばかりの、眠そうな顔のキャラクター。

 深夜の作業は、思った以上に長引いた。  
 チャットと画面共有だけで、コードの修正状況やテスト結果が共有されていく。

 集中しているときは、時間の感覚が薄くなる。  
 ふと時計を見ると、もう午前一時を回っていた。

 《少し休憩しませんか》  
 藤堂さんから、そんなメッセージが届いた。

 《いいですね》  
 《今、カップラーメン作ってきます》

 私がそう送ると、彼からもすぐに返事が来る。

 《僕はコンビニの肉まん温めます》  
 《この時間に食べるの、背徳感ありますよね》

 キッチンでお湯を沸かしながら、スマホを片手に持つ。  
 カップラーメンにお湯を注いで、三分待つ間、私は壁にもたれてメッセージを打った。

 《在宅になってから、夜食の頻度が増えました》  
 《通勤してた頃は、こんな時間まで会社にいることなかったのに》

 《僕もです》  
 《終電っていうタイムリミットがなくなったので、逆にダラダラやっちゃいます》

 湯気の立つカップラーメンを持って、またデスクに戻る。  
 画面の向こうでも、彼が同じように何かを温めている姿が、目に浮かぶようだった。

 《通勤してた頃のほうが、人と話してた気がします》  
 私は、ふとそんなことを打ち込んでいた。

 送信をためらって、一瞬指を止める。  
 でも、削除はしなかった。

 《雑談とか、どうでもいい愚痴とか》  
 《今は、チャットだと用件だけになっちゃいますね》

 しばらくして、彼から返事が来る。

 《分かります》  
 《リモートになってから、人と話すのが前より怖くなりました》

 その一文を読んだ瞬間、胸の奥で何かが動いた。

 《怖く、ですか?》

 《はい》  
 《もともと人見知りなんですけど、対面で話す機会が減ったら、余計に何を話したらいいか分からなくなって》

 画面の中で、彼のタイピングの「……」が、少しだけ長く続く。

 《ビデオ会議も、実は苦手です》  
 《自分の顔が映ってるの、落ち着かなくて》

 私は、さっきまでの自分を思い出して、思わず笑った。

 《私もです》  
 《自分の顔が映る小さい窓、ずっと気になっちゃって、話に集中できなくなります》

 《あ、それめちゃくちゃ分かります》

 チャットの向こうで、彼が少し安心したように笑っている気配が伝わってくる。

 私は、カップラーメンの麺をすすりながら、画面を見つめた。

 《リモートになってから》  
 《なんとなく、自分が薄くなっていく気がしてました》

 気づいたら、指が勝手にそんな言葉を打ち込んでいた。

 《画面越しだと、自分の存在感が、吹き出し一個分くらいしかない感じで》  
 《誰でもできる仕事を、誰でも送れる言葉で送ってるだけみたいで》

 送信ボタンを押したあと、心臓が早くなる。  
 こんなこと、誰かに言ったのは初めてだった。

 しばらくして、彼から返事が届く。

 《薄くなっていく、って表現、すごく分かります》  
 《僕も、チャットのログの中に、自分が埋もれていく感じがしてました》

 《でも》と、続きのメッセージが来る。

 《○○さんの文章、ちゃんと届いてますよ》  
 《仕様書とか、提案資料とか》  
 《あれがあるから、僕らは動けてます》

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 《そんなふうに思ってもらえてたんですね》  
 《なんだか、救われます》

 画面の中の小さな吹き出しが、急に重みを持った何かに見えてくる。

 作業に戻るころには、さっきまでの緊張が少し和らいでいた。  
 同じ孤独を知っている誰かが、画面の向こうにいる。  
 それだけで、夜の静けさが、少し違って感じられた。

 バグの修正が終わったのは、午前二時を過ぎてからだった。

 《お疲れさまでした》  
 《お疲れさまでした。助かりました》

 最後にそう打ち合って、私はパソコンを閉じる。

 ベッドに倒れ込むと、全身が重たくて、でも心は不思議と軽かった。

 ***

 金曜の夕方、プロジェクトは無事にリリースされた。

 社内チャットには、「お疲れさまでした!」のメッセージと、拍手のスタンプが並ぶ。  
 私はそれを眺めながら、ソファに身体を沈めた。

 燃え尽きた、という言葉がぴったりだった。  
 達成感と同じくらい、「明日からまた同じ日々が続くのか」というぼんやりした不安が、胸の中に広がる。

 《お疲れさまでした》  
 個別チャットに、藤堂さんからメッセージが届く。

 《お疲れさまでした》  
 《深夜までありがとうございました。すごく助かりました》

 《こちらこそ》  
 《○○さんがいてくれてよかったです》

 その一文だけで、何度も読み返したくなる。

 ソファに横になって、天井をぼんやりと見つめていると、また通知が鳴った。

 《明日、どうしても外に出たくなくてなければ》  
 《最寄り駅のベンチでコーヒーでもどうですか》

 心臓が、どくん、と大きな音を立てた。

 画面の中の文字は、いつもより少しぎこちなくて、慎重に選ばれた感じがする。  
 「どうしても外に出たくなくてなければ」という前置きに、彼の遠慮と不安が滲んでいた。

 会いたい、と思う自分と、怖い、と思う自分が、胸の中でせめぎ合う。

 顔を合わせるのが怖い。  
 画面の中の距離感が、壊れてしまうかもしれない。  
 もし会ってみて、「なんか違う」と思われたらどうしよう。

 でも。

 画面の中で、何度も救われた言葉たちが、頭の中をよぎる。  
 「薄くなっていく気がする」と打ち込んだときに、受け止めてくれた人。  
 深夜のバグ対応で、一緒に夜を越えた人。

 私は、深呼吸をひとつして、メッセージを打ち込んだ。

 《緊張しますが》  
 《行ってみたいです》

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が熱くなる。  
 画面の向こうで、彼がほっとしている姿が、目に浮かぶようだった。

 《よかった》  
 《○○駅の改札出てすぐのベンチでどうでしょう。夕方のほうが人少ないので》

 《分かりました》  
 《明日、十六時くらいで大丈夫ですか?》

 《はい。楽しみにしてます》

 「楽しみにしてます」という言葉が、画面の中で静かに光っていた。

 ***

 土曜の夕方、私は久しぶりにメイクをした。

 リップを塗る手が、少しだけ震える。  
 クローゼットを開けて、何度か服を着替えては脱ぎ、結局いつものシンプルなワンピースに落ち着いた。

 最寄り駅までの道を歩くのも、なんだか久しぶりな気がする。  
 マスク越しの空気が、少しひんやりしていて、心臓の鼓動がやけに耳に響いた。

 改札を出てすぐのベンチは、彼の言った通り、人はまばらだった。  
 ベンチの端に、一人の男性が座っている。

 黒いパーカーに、ジーンズ。  
 マスクをしていても分かるくらい、少し緊張したような横顔。

 目が合うと、彼は立ち上がって、ぎこちなく会釈をした。

 「は、初めまして。藤堂です」

 声は、思っていたより少し高くて、でも落ち着いていた。  
 チャットの文面と同じように、言葉を選びながら話す感じがする。

 「初めまして。○○です」

 自分の声も、少し震えていた。

 彼は、手に持っていた紙コップを差し出した。

   「あの、好きなの分からなかったので、無難にカフェラテにしました。もし苦手だったら、言ってください」

 「ありがとうございます。カフェラテ、好きです」

 紙コップを受け取ると、指先に、ほんのりとした温かさが伝わってくる。

 二人でベンチに並んで座る。  
 最初は、お互いに何を話したらいいのか分からなくて、少しの沈黙が続いた。

 でも、ふとした拍子に、チャットで話していた話題が出る。

 「昨日、ちゃんと寝られました?」  
 「えっと、思ったよりは。藤堂さんは?」

 「僕は、いつも通りタイムライン見て、余計起きちゃいました」

 思わず笑ってしまう。  
 彼もつられて笑って、マスクの下で目尻が少し下がる。

 チャットで見ていた「……」の間合いと、目の前の彼の話すスピードが、不思議なくらいぴったりだった。

 「なんか、思ってた通りです」

 私がぽつりと言うと、彼は首をかしげた。

 「え?」

 「いえ、その……チャットの雰囲気と、話し方が。ちゃんと、藤堂さんだって感じがして」

 自分で言っておきながら、顔が熱くなる。  
 彼は少し驚いたように目を瞬かせてから、照れくさそうに笑った。

 「よかったです。イメージと違うって言われたらどうしようかと」

 「そんなことないです」

 駅前のざわめきが、少し遠くに聞こえる。  
 ベンチの上だけ、時間がゆっくり流れているような気がした。

 仕事の話を少しして、在宅の息抜きの話をして。  
 コンビニの新作スイーツの話で、思いがけず盛り上がった。

 「チャットだと、つい用件だけになっちゃいますけど」  
 「こうやって話すと、意外といろいろ出てきますね」

 彼がそう言って、紙コップを見つめる。

 「僕、雑談苦手だと思ってたんですけど」  
 「○○さんとは、なんか大丈夫です」

 その言葉が、胸の奥に静かに落ちてきた。

 「私もです」

 私は、紙コップを両手で包み込む。

 「雑談、苦手だと思ってました。何を話したらいいか分からなくて、怖くて」  
 「でも、藤堂さんとチャットしてるとき、意外といろいろ話せる自分がいて、びっくりしました」

 彼は、少しだけ目を丸くしてから、柔らかく笑った。

 「それ、たぶん僕も同じです」

 夕方の光が、駅前のアスファルトをオレンジ色に染めていく。  
 人々が行き交う音の中で、私たちの声は小さく、でも確かにそこにあった。

 ***

 日曜の夜。

 ベッドに横になって、部屋の明かりを消す。  
 枕元のスマホだけが、小さく光っていた。

 社内チャットのアプリを開くと、藤堂さんからメッセージが届いている。

 《昨日、会えてよかったです》  
 《画面越しより、ちゃんと人だって感じがしました》

 私は、ゆっくりと文字を打ち込む。

 《私もです》  
 《チャットの向こうにちゃんと人がいるって、当たり前のことをやっと実感できた気がします》

 送信すると、すぐに既読がついた。

 《明日からも、またチャットだと思いますけど》  
 《たぶん、前より少しだけ、話しかけやすくなりました》

 その言葉に、自然と笑みがこぼれる。

 《はい》  
 《私も、前より少しだけ、話しかけてみようと思います》

 画面には、いつもの小さなチャットウィンドウ。  
 吹き出し一個分の言葉たちが、静かに並んでいる。

 でも、その向こうにいる相手を、以前よりも鮮明に思い描ける自分がいる。

 明日からもきっと、同じような日々が続く。  
 朝起きて、パソコンを開いて、チャットに「おはようございます」と打ち込む。

 それでも、その一文の向こうに、誰かの顔と声と、不器用な優しさを思い浮かべられるなら。  
 この小さな世界は、少しずつでも広がっていくのかもしれない。

 私はスマホの画面を伏せて、枕元に置いた。

 暗闇の中で、胸の奥に灯った小さな光だけを頼りに、静かな安心感の中で目を閉じる。

 ――チャットウィンドウの向こうに、ちゃんと「誰か」がいる。  
 そう思えるだけで、こんなにも眠りにつきやすくなるなんて知らなかった。
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