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夜中のチャットウィンドウ
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一日中、誰とも声を交わさないまま仕事が終わる。
それでも、画面の隅で点滅する小さな吹き出しが、私の世界を少しだけ広げていく――。
その日、一番長く話した相手は、パソコンだった。
月曜の夜、二十二時。
終業時間はとっくに過ぎているのに、私はまだデスクに向かって、意味もなく社内チャットの画面を眺めていた。
フルリモートになって、もう三年。
最初のころは、通勤時間がゼロになったことを喜んでいたし、どこからでも仕事ができる自由さも、それなりに気に入っていた。
でも、こうして一日が終わるたび、胸の奥に、うっすらとした空洞みたいなものが残る。
今日、声を出したのは、朝の「おはようございます」をマイク越しに一度だけ。
あとはタイピングと、資料を読み上げる自分の息遣いだけが、このワンルームの空気を揺らしている。
チャットツールには、プロジェクト用のチャンネルがいくつも並んでいる。
「了解しました」「ありがとうございます」「ご確認お願いします」。
定型文のやりとりが、無機質な灰色の吹き出しになって流れていく。
誰かと話しているはずなのに、誰とも話していないみたいだ――そんな感覚が、日に日に濃くなっている。
スマホを手に取っても、プライベートの通知はほとんどない。
大学時代の友人たちのグループLINEは、いつからか既読だけつける場所になっていた。
「今度飲もうね」と言われてから、もう一年は経っている気がする。
替えがきく人間。
私がいなくても、誰かが同じようにチャットで返信して、同じように資料を作るんだろう。
そんなことを考えて、ため息をひとつ吐いたときだった。
画面の隅に、小さな赤い通知が灯る。
個別チャット。相手の名前を見て、私は姿勢を正した。
――開発部の、藤堂さん。
同じプロジェクトでよく一緒になる、エンジニアの人だ。
年齢は、確か私より二つ上。
ビデオ会議で何度か顔を見たことはあるけれど、いつもカメラオフで、はっきりとした印象は残っていない。
チャットの返事は簡潔で、スタンプもほとんど使わない。
でも、仕事は早くて正確で、こちらの意図を察して動いてくれる、頼れる人。
《仕様について少し確認したいのですが、今だいじょぶでしょうか》
「だいじょぶ」に、じわっと笑いがこみあげる。
普段きっちりした文章しか送ってこない人の、珍しい誤変換。
《はい、大丈夫です! 今、少し余裕あります》
そう打ち込んで送ると、すぐに返信が返ってきた。
《遅くまでお疲れさまです》
《資料の12ページ目のグラフについて、数値の根拠を教えていただけますか》
「遅くまでお疲れさまです」なんて、一言添えなくてもいいのに。
それだけで、今日いちばん人間らしい会話をした気がしてしまう自分が、少し情けない。
やりとりはいつも通り淡々としていて、必要な情報だけが行き来する。
けれど、最後に送られてきたメッセージが、画面の中で妙にあたたかく光って見えた。
《助かりました。これでバグもだいじょぶそうです》
わざとかな、と一瞬迷ってから、私は小さく笑って、ノートパソコンを閉じる。
顔もちゃんと知らない相手なのに。
今日一日でいちばん、誰かと繋がった気がするのは、どうしてなんだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、ベッドに潜り込む。
部屋の明かりを消すと、窓の外の街の光と、枕元で充電中のスマホの小さなランプだけが、暗闇の中で点いていた。
明日もきっと同じような一日が始まる。
そう思いながら、私はまぶたを閉じた。
***
火曜と水曜は、予想通り、忙しかった。
新しいサービスのリリースが近づいていて、マーケティング資料の最終チェックや、クライアントへの説明用スライドの修正が、波のように押し寄せてくる。
チャットの通知は、一日中鳴りやまない。
「この文言、もう少し柔らかくできますか」「ここの数値、最新のものに差し替えてください」。
それぞれはたいしたことのない依頼なのに、積もり積もって、心のどこかがすり減っていく。
水曜の午後、クライアントとのオンライン打ち合わせが終わった直後。
上司から、個別チャットが飛んできた。
《さっきの説明で、クライアントから数値の齟齬を指摘されました》
《資料、再確認してもらえますか》
心臓が、どくんと嫌な音を立てる。
急いで資料を開くと、グラフの元データの一部が、古いままになっていた。
「あ……」
私のミスだ。
慌てて修正版を作り、謝罪のメッセージを打ちながら、背中に冷たい汗がにじむ。
画面の向こうで、クライアントがどんな顔をしているのかは見えない。
でも、「信頼」という言葉が、砂のようにさらさらとこぼれ落ちていく音が、確かに聞こえた気がした。
《申し訳ありませんでした。以後気をつけます》
上司へのメッセージを送る指先が、少し震える。
返ってきたのは、短い一文だった。
《次から気をつけてください》
叱られたわけじゃない。
でも、画面に並ぶその言葉は、どこか冷たくて、よそよそしい。
「次からって、いつまで次からなんだろう」
声に出してみても、部屋の空気は何も答えない。
替えがきく人間。ミスをしたら、もっとできる誰かに席を譲ればいい。
そんな考えが、じわじわと頭の中に広がっていく。
そのとき、また小さな通知が光った。
《資料の件ですが》
送り主は、藤堂さんだった。
《こちら側でカバーできるところは修正しておきました》
《○○さんの提案が通ったから、この仕様になってる部分もあるので》
スクロールすると、修正した箇所のスクリーンショットや、補足のコメントがいくつも並んでいる。
胸の奥が、ふっと緩んだ。
《ご迷惑おかけしてすみません》
いつものように、反射的に打ち込んでから、送信ボタンを押す。
すぐに、返事が届いた。
《迷惑ってほどじゃないので気にしないでください》
《僕もよくやるので……というか、もっとひどいミスもしてます》
文末の「……」が、少しだけ照れた笑い声に見えた。
《そうなんですか?》
《藤堂さん、ミスとかしなさそうなイメージでした》
送ってから、「余計なこと言ったかな」と少し不安になる。
でも、返ってきたメッセージは、意外なほど柔らかかった。
《そんなことないです》
《チャットだと、仕事できそうに見えるだけですよ》
画面越しの彼が、肩をすくめて苦笑している姿が、なんとなく想像できてしまう。
その夜、終業時間になっても、心のざわつきはなかなか収まらなかった。
夕飯を作る気にもなれず、コンビニで買ったサラダとおにぎりを、机の上でぼんやりとつつく。
スマホをいじっても、タイムラインには他人の楽しそうな写真や、仕事の愚痴が流れてくるだけ。
自分だけが取り残されているような感覚が、じわじわと広がる。
ベッドに横になって、眠気が来るのを待ちながら、なんとなく社内チャットのアプリを開いた。
もう誰もオンラインにはなっていないだろうと思いながら。
そのとき、また小さな通知が、ぽん、と弾むように現れた。
《さっきの件、気にしてたら寝づらいかなと思って》
送り主の名前を見て、思わず息を呑む。
藤堂さん。
タイムスタンプは、二十三時過ぎ。
業務時間外に、彼からメッセージが来るのは、初めてだった。
続けて、短い一文が届く。
《クライアントも納得してましたし、大丈夫ですよ》
胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなる。
《ありがとうございます》
《正直、落ち込んでたので……少し楽になりました》
送信ボタンを押す指先が、ほんの少しだけ震えていた。
業務連絡以外のことを、社内チャットで打つのが、こんなにも勇気のいることだったなんて。
しばらくして、またメッセージが届く。
《僕も、終わったあとしばらく引きずるタイプなので》
《寝る前にスマホ見て、余計眠れなくなったりします》
その一文に、思わず笑ってしまう。
《分かります》
《タイムライン見てると、自分だけ何もしてない気がして、さらに落ち込みます》
画面の向こうで、彼が「ですよね」とうなずいているような気がした。
そこから、自然と短い雑談が始まった。
リモートになってから太った話とか、オンライン飲み会が苦手な話とか。
気づけば、時計の針は日付をまたいでいた。
《そろそろ寝ましょうか》
藤堂さんがそう送ってきて、私は「はい」と返す。
《おやすみなさい》
《おやすみなさい》
画面に並んだその言葉を見つめながら、私はスマホを胸の上に置いた。
誰かとこんなふうに、他愛もない話をしたのは、いつぶりだろう。
声も顔もほとんど知らない相手なのに、妙に安心している自分がいた。
***
木曜の夜、予想外のトラブルが起きた。
リリース直前のテストで、致命的なバグが見つかったらしい。
緊急のメンバーが招集され、私もチャットで呼び出された。
《至急対応が必要なため、関係者はオンラインで待機をお願いします》
プロジェクトマネージャーのメッセージに続いて、次々と「了解しました」が並ぶ。
私の役割は、クライアントへの説明文の作成と、影響範囲の整理。
藤堂さんたち開発チームは、原因の特定と修正だ。
夜の十時を過ぎても、チャットの画面はにぎやかなままだった。
それぞれのチャンネルで、ログとスクリーンショットが飛び交う。
《ビデオ会議室立てたので、必要な人は入ってください》
マネージャーのメッセージに、私は一瞬カーソルを合わせてから、結局入室ボタンを押さなかった。
ビデオ会議が、正直、苦手だ。
自分の顔が小さな四角の中に映るのを見ると、いつも落ち着かない気持ちになる。
そのとき、個別チャットがぴこんと鳴った。
《この時間に顔出しはさすがにきついので……チャットでいいですか》
藤堂さんからだった。
ビデオ会議室のURLと一緒に、その一文が送られている。
思わず吹き出してしまう。
《私もチャット派です》
《パジャマなので、顔出しはちょっと……》
送ると、すぐにスタンプが返ってきた。
めったに使わないはずの彼から、「分かります」と言わんばかりの、眠そうな顔のキャラクター。
深夜の作業は、思った以上に長引いた。
チャットと画面共有だけで、コードの修正状況やテスト結果が共有されていく。
集中しているときは、時間の感覚が薄くなる。
ふと時計を見ると、もう午前一時を回っていた。
《少し休憩しませんか》
藤堂さんから、そんなメッセージが届いた。
《いいですね》
《今、カップラーメン作ってきます》
私がそう送ると、彼からもすぐに返事が来る。
《僕はコンビニの肉まん温めます》
《この時間に食べるの、背徳感ありますよね》
キッチンでお湯を沸かしながら、スマホを片手に持つ。
カップラーメンにお湯を注いで、三分待つ間、私は壁にもたれてメッセージを打った。
《在宅になってから、夜食の頻度が増えました》
《通勤してた頃は、こんな時間まで会社にいることなかったのに》
《僕もです》
《終電っていうタイムリミットがなくなったので、逆にダラダラやっちゃいます》
湯気の立つカップラーメンを持って、またデスクに戻る。
画面の向こうでも、彼が同じように何かを温めている姿が、目に浮かぶようだった。
《通勤してた頃のほうが、人と話してた気がします》
私は、ふとそんなことを打ち込んでいた。
送信をためらって、一瞬指を止める。
でも、削除はしなかった。
《雑談とか、どうでもいい愚痴とか》
《今は、チャットだと用件だけになっちゃいますね》
しばらくして、彼から返事が来る。
《分かります》
《リモートになってから、人と話すのが前より怖くなりました》
その一文を読んだ瞬間、胸の奥で何かが動いた。
《怖く、ですか?》
《はい》
《もともと人見知りなんですけど、対面で話す機会が減ったら、余計に何を話したらいいか分からなくなって》
画面の中で、彼のタイピングの「……」が、少しだけ長く続く。
《ビデオ会議も、実は苦手です》
《自分の顔が映ってるの、落ち着かなくて》
私は、さっきまでの自分を思い出して、思わず笑った。
《私もです》
《自分の顔が映る小さい窓、ずっと気になっちゃって、話に集中できなくなります》
《あ、それめちゃくちゃ分かります》
チャットの向こうで、彼が少し安心したように笑っている気配が伝わってくる。
私は、カップラーメンの麺をすすりながら、画面を見つめた。
《リモートになってから》
《なんとなく、自分が薄くなっていく気がしてました》
気づいたら、指が勝手にそんな言葉を打ち込んでいた。
《画面越しだと、自分の存在感が、吹き出し一個分くらいしかない感じで》
《誰でもできる仕事を、誰でも送れる言葉で送ってるだけみたいで》
送信ボタンを押したあと、心臓が早くなる。
こんなこと、誰かに言ったのは初めてだった。
しばらくして、彼から返事が届く。
《薄くなっていく、って表現、すごく分かります》
《僕も、チャットのログの中に、自分が埋もれていく感じがしてました》
《でも》と、続きのメッセージが来る。
《○○さんの文章、ちゃんと届いてますよ》
《仕様書とか、提案資料とか》
《あれがあるから、僕らは動けてます》
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
《そんなふうに思ってもらえてたんですね》
《なんだか、救われます》
画面の中の小さな吹き出しが、急に重みを持った何かに見えてくる。
作業に戻るころには、さっきまでの緊張が少し和らいでいた。
同じ孤独を知っている誰かが、画面の向こうにいる。
それだけで、夜の静けさが、少し違って感じられた。
バグの修正が終わったのは、午前二時を過ぎてからだった。
《お疲れさまでした》
《お疲れさまでした。助かりました》
最後にそう打ち合って、私はパソコンを閉じる。
ベッドに倒れ込むと、全身が重たくて、でも心は不思議と軽かった。
***
金曜の夕方、プロジェクトは無事にリリースされた。
社内チャットには、「お疲れさまでした!」のメッセージと、拍手のスタンプが並ぶ。
私はそれを眺めながら、ソファに身体を沈めた。
燃え尽きた、という言葉がぴったりだった。
達成感と同じくらい、「明日からまた同じ日々が続くのか」というぼんやりした不安が、胸の中に広がる。
《お疲れさまでした》
個別チャットに、藤堂さんからメッセージが届く。
《お疲れさまでした》
《深夜までありがとうございました。すごく助かりました》
《こちらこそ》
《○○さんがいてくれてよかったです》
その一文だけで、何度も読み返したくなる。
ソファに横になって、天井をぼんやりと見つめていると、また通知が鳴った。
《明日、どうしても外に出たくなくてなければ》
《最寄り駅のベンチでコーヒーでもどうですか》
心臓が、どくん、と大きな音を立てた。
画面の中の文字は、いつもより少しぎこちなくて、慎重に選ばれた感じがする。
「どうしても外に出たくなくてなければ」という前置きに、彼の遠慮と不安が滲んでいた。
会いたい、と思う自分と、怖い、と思う自分が、胸の中でせめぎ合う。
顔を合わせるのが怖い。
画面の中の距離感が、壊れてしまうかもしれない。
もし会ってみて、「なんか違う」と思われたらどうしよう。
でも。
画面の中で、何度も救われた言葉たちが、頭の中をよぎる。
「薄くなっていく気がする」と打ち込んだときに、受け止めてくれた人。
深夜のバグ対応で、一緒に夜を越えた人。
私は、深呼吸をひとつして、メッセージを打ち込んだ。
《緊張しますが》
《行ってみたいです》
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が熱くなる。
画面の向こうで、彼がほっとしている姿が、目に浮かぶようだった。
《よかった》
《○○駅の改札出てすぐのベンチでどうでしょう。夕方のほうが人少ないので》
《分かりました》
《明日、十六時くらいで大丈夫ですか?》
《はい。楽しみにしてます》
「楽しみにしてます」という言葉が、画面の中で静かに光っていた。
***
土曜の夕方、私は久しぶりにメイクをした。
リップを塗る手が、少しだけ震える。
クローゼットを開けて、何度か服を着替えては脱ぎ、結局いつものシンプルなワンピースに落ち着いた。
最寄り駅までの道を歩くのも、なんだか久しぶりな気がする。
マスク越しの空気が、少しひんやりしていて、心臓の鼓動がやけに耳に響いた。
改札を出てすぐのベンチは、彼の言った通り、人はまばらだった。
ベンチの端に、一人の男性が座っている。
黒いパーカーに、ジーンズ。
マスクをしていても分かるくらい、少し緊張したような横顔。
目が合うと、彼は立ち上がって、ぎこちなく会釈をした。
「は、初めまして。藤堂です」
声は、思っていたより少し高くて、でも落ち着いていた。
チャットの文面と同じように、言葉を選びながら話す感じがする。
「初めまして。○○です」
自分の声も、少し震えていた。
彼は、手に持っていた紙コップを差し出した。
「あの、好きなの分からなかったので、無難にカフェラテにしました。もし苦手だったら、言ってください」
「ありがとうございます。カフェラテ、好きです」
紙コップを受け取ると、指先に、ほんのりとした温かさが伝わってくる。
二人でベンチに並んで座る。
最初は、お互いに何を話したらいいのか分からなくて、少しの沈黙が続いた。
でも、ふとした拍子に、チャットで話していた話題が出る。
「昨日、ちゃんと寝られました?」
「えっと、思ったよりは。藤堂さんは?」
「僕は、いつも通りタイムライン見て、余計起きちゃいました」
思わず笑ってしまう。
彼もつられて笑って、マスクの下で目尻が少し下がる。
チャットで見ていた「……」の間合いと、目の前の彼の話すスピードが、不思議なくらいぴったりだった。
「なんか、思ってた通りです」
私がぽつりと言うと、彼は首をかしげた。
「え?」
「いえ、その……チャットの雰囲気と、話し方が。ちゃんと、藤堂さんだって感じがして」
自分で言っておきながら、顔が熱くなる。
彼は少し驚いたように目を瞬かせてから、照れくさそうに笑った。
「よかったです。イメージと違うって言われたらどうしようかと」
「そんなことないです」
駅前のざわめきが、少し遠くに聞こえる。
ベンチの上だけ、時間がゆっくり流れているような気がした。
仕事の話を少しして、在宅の息抜きの話をして。
コンビニの新作スイーツの話で、思いがけず盛り上がった。
「チャットだと、つい用件だけになっちゃいますけど」
「こうやって話すと、意外といろいろ出てきますね」
彼がそう言って、紙コップを見つめる。
「僕、雑談苦手だと思ってたんですけど」
「○○さんとは、なんか大丈夫です」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちてきた。
「私もです」
私は、紙コップを両手で包み込む。
「雑談、苦手だと思ってました。何を話したらいいか分からなくて、怖くて」
「でも、藤堂さんとチャットしてるとき、意外といろいろ話せる自分がいて、びっくりしました」
彼は、少しだけ目を丸くしてから、柔らかく笑った。
「それ、たぶん僕も同じです」
夕方の光が、駅前のアスファルトをオレンジ色に染めていく。
人々が行き交う音の中で、私たちの声は小さく、でも確かにそこにあった。
***
日曜の夜。
ベッドに横になって、部屋の明かりを消す。
枕元のスマホだけが、小さく光っていた。
社内チャットのアプリを開くと、藤堂さんからメッセージが届いている。
《昨日、会えてよかったです》
《画面越しより、ちゃんと人だって感じがしました》
私は、ゆっくりと文字を打ち込む。
《私もです》
《チャットの向こうにちゃんと人がいるって、当たり前のことをやっと実感できた気がします》
送信すると、すぐに既読がついた。
《明日からも、またチャットだと思いますけど》
《たぶん、前より少しだけ、話しかけやすくなりました》
その言葉に、自然と笑みがこぼれる。
《はい》
《私も、前より少しだけ、話しかけてみようと思います》
画面には、いつもの小さなチャットウィンドウ。
吹き出し一個分の言葉たちが、静かに並んでいる。
でも、その向こうにいる相手を、以前よりも鮮明に思い描ける自分がいる。
明日からもきっと、同じような日々が続く。
朝起きて、パソコンを開いて、チャットに「おはようございます」と打ち込む。
それでも、その一文の向こうに、誰かの顔と声と、不器用な優しさを思い浮かべられるなら。
この小さな世界は、少しずつでも広がっていくのかもしれない。
私はスマホの画面を伏せて、枕元に置いた。
暗闇の中で、胸の奥に灯った小さな光だけを頼りに、静かな安心感の中で目を閉じる。
――チャットウィンドウの向こうに、ちゃんと「誰か」がいる。
そう思えるだけで、こんなにも眠りにつきやすくなるなんて知らなかった。
それでも、画面の隅で点滅する小さな吹き出しが、私の世界を少しだけ広げていく――。
その日、一番長く話した相手は、パソコンだった。
月曜の夜、二十二時。
終業時間はとっくに過ぎているのに、私はまだデスクに向かって、意味もなく社内チャットの画面を眺めていた。
フルリモートになって、もう三年。
最初のころは、通勤時間がゼロになったことを喜んでいたし、どこからでも仕事ができる自由さも、それなりに気に入っていた。
でも、こうして一日が終わるたび、胸の奥に、うっすらとした空洞みたいなものが残る。
今日、声を出したのは、朝の「おはようございます」をマイク越しに一度だけ。
あとはタイピングと、資料を読み上げる自分の息遣いだけが、このワンルームの空気を揺らしている。
チャットツールには、プロジェクト用のチャンネルがいくつも並んでいる。
「了解しました」「ありがとうございます」「ご確認お願いします」。
定型文のやりとりが、無機質な灰色の吹き出しになって流れていく。
誰かと話しているはずなのに、誰とも話していないみたいだ――そんな感覚が、日に日に濃くなっている。
スマホを手に取っても、プライベートの通知はほとんどない。
大学時代の友人たちのグループLINEは、いつからか既読だけつける場所になっていた。
「今度飲もうね」と言われてから、もう一年は経っている気がする。
替えがきく人間。
私がいなくても、誰かが同じようにチャットで返信して、同じように資料を作るんだろう。
そんなことを考えて、ため息をひとつ吐いたときだった。
画面の隅に、小さな赤い通知が灯る。
個別チャット。相手の名前を見て、私は姿勢を正した。
――開発部の、藤堂さん。
同じプロジェクトでよく一緒になる、エンジニアの人だ。
年齢は、確か私より二つ上。
ビデオ会議で何度か顔を見たことはあるけれど、いつもカメラオフで、はっきりとした印象は残っていない。
チャットの返事は簡潔で、スタンプもほとんど使わない。
でも、仕事は早くて正確で、こちらの意図を察して動いてくれる、頼れる人。
《仕様について少し確認したいのですが、今だいじょぶでしょうか》
「だいじょぶ」に、じわっと笑いがこみあげる。
普段きっちりした文章しか送ってこない人の、珍しい誤変換。
《はい、大丈夫です! 今、少し余裕あります》
そう打ち込んで送ると、すぐに返信が返ってきた。
《遅くまでお疲れさまです》
《資料の12ページ目のグラフについて、数値の根拠を教えていただけますか》
「遅くまでお疲れさまです」なんて、一言添えなくてもいいのに。
それだけで、今日いちばん人間らしい会話をした気がしてしまう自分が、少し情けない。
やりとりはいつも通り淡々としていて、必要な情報だけが行き来する。
けれど、最後に送られてきたメッセージが、画面の中で妙にあたたかく光って見えた。
《助かりました。これでバグもだいじょぶそうです》
わざとかな、と一瞬迷ってから、私は小さく笑って、ノートパソコンを閉じる。
顔もちゃんと知らない相手なのに。
今日一日でいちばん、誰かと繋がった気がするのは、どうしてなんだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、ベッドに潜り込む。
部屋の明かりを消すと、窓の外の街の光と、枕元で充電中のスマホの小さなランプだけが、暗闇の中で点いていた。
明日もきっと同じような一日が始まる。
そう思いながら、私はまぶたを閉じた。
***
火曜と水曜は、予想通り、忙しかった。
新しいサービスのリリースが近づいていて、マーケティング資料の最終チェックや、クライアントへの説明用スライドの修正が、波のように押し寄せてくる。
チャットの通知は、一日中鳴りやまない。
「この文言、もう少し柔らかくできますか」「ここの数値、最新のものに差し替えてください」。
それぞれはたいしたことのない依頼なのに、積もり積もって、心のどこかがすり減っていく。
水曜の午後、クライアントとのオンライン打ち合わせが終わった直後。
上司から、個別チャットが飛んできた。
《さっきの説明で、クライアントから数値の齟齬を指摘されました》
《資料、再確認してもらえますか》
心臓が、どくんと嫌な音を立てる。
急いで資料を開くと、グラフの元データの一部が、古いままになっていた。
「あ……」
私のミスだ。
慌てて修正版を作り、謝罪のメッセージを打ちながら、背中に冷たい汗がにじむ。
画面の向こうで、クライアントがどんな顔をしているのかは見えない。
でも、「信頼」という言葉が、砂のようにさらさらとこぼれ落ちていく音が、確かに聞こえた気がした。
《申し訳ありませんでした。以後気をつけます》
上司へのメッセージを送る指先が、少し震える。
返ってきたのは、短い一文だった。
《次から気をつけてください》
叱られたわけじゃない。
でも、画面に並ぶその言葉は、どこか冷たくて、よそよそしい。
「次からって、いつまで次からなんだろう」
声に出してみても、部屋の空気は何も答えない。
替えがきく人間。ミスをしたら、もっとできる誰かに席を譲ればいい。
そんな考えが、じわじわと頭の中に広がっていく。
そのとき、また小さな通知が光った。
《資料の件ですが》
送り主は、藤堂さんだった。
《こちら側でカバーできるところは修正しておきました》
《○○さんの提案が通ったから、この仕様になってる部分もあるので》
スクロールすると、修正した箇所のスクリーンショットや、補足のコメントがいくつも並んでいる。
胸の奥が、ふっと緩んだ。
《ご迷惑おかけしてすみません》
いつものように、反射的に打ち込んでから、送信ボタンを押す。
すぐに、返事が届いた。
《迷惑ってほどじゃないので気にしないでください》
《僕もよくやるので……というか、もっとひどいミスもしてます》
文末の「……」が、少しだけ照れた笑い声に見えた。
《そうなんですか?》
《藤堂さん、ミスとかしなさそうなイメージでした》
送ってから、「余計なこと言ったかな」と少し不安になる。
でも、返ってきたメッセージは、意外なほど柔らかかった。
《そんなことないです》
《チャットだと、仕事できそうに見えるだけですよ》
画面越しの彼が、肩をすくめて苦笑している姿が、なんとなく想像できてしまう。
その夜、終業時間になっても、心のざわつきはなかなか収まらなかった。
夕飯を作る気にもなれず、コンビニで買ったサラダとおにぎりを、机の上でぼんやりとつつく。
スマホをいじっても、タイムラインには他人の楽しそうな写真や、仕事の愚痴が流れてくるだけ。
自分だけが取り残されているような感覚が、じわじわと広がる。
ベッドに横になって、眠気が来るのを待ちながら、なんとなく社内チャットのアプリを開いた。
もう誰もオンラインにはなっていないだろうと思いながら。
そのとき、また小さな通知が、ぽん、と弾むように現れた。
《さっきの件、気にしてたら寝づらいかなと思って》
送り主の名前を見て、思わず息を呑む。
藤堂さん。
タイムスタンプは、二十三時過ぎ。
業務時間外に、彼からメッセージが来るのは、初めてだった。
続けて、短い一文が届く。
《クライアントも納得してましたし、大丈夫ですよ》
胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなる。
《ありがとうございます》
《正直、落ち込んでたので……少し楽になりました》
送信ボタンを押す指先が、ほんの少しだけ震えていた。
業務連絡以外のことを、社内チャットで打つのが、こんなにも勇気のいることだったなんて。
しばらくして、またメッセージが届く。
《僕も、終わったあとしばらく引きずるタイプなので》
《寝る前にスマホ見て、余計眠れなくなったりします》
その一文に、思わず笑ってしまう。
《分かります》
《タイムライン見てると、自分だけ何もしてない気がして、さらに落ち込みます》
画面の向こうで、彼が「ですよね」とうなずいているような気がした。
そこから、自然と短い雑談が始まった。
リモートになってから太った話とか、オンライン飲み会が苦手な話とか。
気づけば、時計の針は日付をまたいでいた。
《そろそろ寝ましょうか》
藤堂さんがそう送ってきて、私は「はい」と返す。
《おやすみなさい》
《おやすみなさい》
画面に並んだその言葉を見つめながら、私はスマホを胸の上に置いた。
誰かとこんなふうに、他愛もない話をしたのは、いつぶりだろう。
声も顔もほとんど知らない相手なのに、妙に安心している自分がいた。
***
木曜の夜、予想外のトラブルが起きた。
リリース直前のテストで、致命的なバグが見つかったらしい。
緊急のメンバーが招集され、私もチャットで呼び出された。
《至急対応が必要なため、関係者はオンラインで待機をお願いします》
プロジェクトマネージャーのメッセージに続いて、次々と「了解しました」が並ぶ。
私の役割は、クライアントへの説明文の作成と、影響範囲の整理。
藤堂さんたち開発チームは、原因の特定と修正だ。
夜の十時を過ぎても、チャットの画面はにぎやかなままだった。
それぞれのチャンネルで、ログとスクリーンショットが飛び交う。
《ビデオ会議室立てたので、必要な人は入ってください》
マネージャーのメッセージに、私は一瞬カーソルを合わせてから、結局入室ボタンを押さなかった。
ビデオ会議が、正直、苦手だ。
自分の顔が小さな四角の中に映るのを見ると、いつも落ち着かない気持ちになる。
そのとき、個別チャットがぴこんと鳴った。
《この時間に顔出しはさすがにきついので……チャットでいいですか》
藤堂さんからだった。
ビデオ会議室のURLと一緒に、その一文が送られている。
思わず吹き出してしまう。
《私もチャット派です》
《パジャマなので、顔出しはちょっと……》
送ると、すぐにスタンプが返ってきた。
めったに使わないはずの彼から、「分かります」と言わんばかりの、眠そうな顔のキャラクター。
深夜の作業は、思った以上に長引いた。
チャットと画面共有だけで、コードの修正状況やテスト結果が共有されていく。
集中しているときは、時間の感覚が薄くなる。
ふと時計を見ると、もう午前一時を回っていた。
《少し休憩しませんか》
藤堂さんから、そんなメッセージが届いた。
《いいですね》
《今、カップラーメン作ってきます》
私がそう送ると、彼からもすぐに返事が来る。
《僕はコンビニの肉まん温めます》
《この時間に食べるの、背徳感ありますよね》
キッチンでお湯を沸かしながら、スマホを片手に持つ。
カップラーメンにお湯を注いで、三分待つ間、私は壁にもたれてメッセージを打った。
《在宅になってから、夜食の頻度が増えました》
《通勤してた頃は、こんな時間まで会社にいることなかったのに》
《僕もです》
《終電っていうタイムリミットがなくなったので、逆にダラダラやっちゃいます》
湯気の立つカップラーメンを持って、またデスクに戻る。
画面の向こうでも、彼が同じように何かを温めている姿が、目に浮かぶようだった。
《通勤してた頃のほうが、人と話してた気がします》
私は、ふとそんなことを打ち込んでいた。
送信をためらって、一瞬指を止める。
でも、削除はしなかった。
《雑談とか、どうでもいい愚痴とか》
《今は、チャットだと用件だけになっちゃいますね》
しばらくして、彼から返事が来る。
《分かります》
《リモートになってから、人と話すのが前より怖くなりました》
その一文を読んだ瞬間、胸の奥で何かが動いた。
《怖く、ですか?》
《はい》
《もともと人見知りなんですけど、対面で話す機会が減ったら、余計に何を話したらいいか分からなくなって》
画面の中で、彼のタイピングの「……」が、少しだけ長く続く。
《ビデオ会議も、実は苦手です》
《自分の顔が映ってるの、落ち着かなくて》
私は、さっきまでの自分を思い出して、思わず笑った。
《私もです》
《自分の顔が映る小さい窓、ずっと気になっちゃって、話に集中できなくなります》
《あ、それめちゃくちゃ分かります》
チャットの向こうで、彼が少し安心したように笑っている気配が伝わってくる。
私は、カップラーメンの麺をすすりながら、画面を見つめた。
《リモートになってから》
《なんとなく、自分が薄くなっていく気がしてました》
気づいたら、指が勝手にそんな言葉を打ち込んでいた。
《画面越しだと、自分の存在感が、吹き出し一個分くらいしかない感じで》
《誰でもできる仕事を、誰でも送れる言葉で送ってるだけみたいで》
送信ボタンを押したあと、心臓が早くなる。
こんなこと、誰かに言ったのは初めてだった。
しばらくして、彼から返事が届く。
《薄くなっていく、って表現、すごく分かります》
《僕も、チャットのログの中に、自分が埋もれていく感じがしてました》
《でも》と、続きのメッセージが来る。
《○○さんの文章、ちゃんと届いてますよ》
《仕様書とか、提案資料とか》
《あれがあるから、僕らは動けてます》
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
《そんなふうに思ってもらえてたんですね》
《なんだか、救われます》
画面の中の小さな吹き出しが、急に重みを持った何かに見えてくる。
作業に戻るころには、さっきまでの緊張が少し和らいでいた。
同じ孤独を知っている誰かが、画面の向こうにいる。
それだけで、夜の静けさが、少し違って感じられた。
バグの修正が終わったのは、午前二時を過ぎてからだった。
《お疲れさまでした》
《お疲れさまでした。助かりました》
最後にそう打ち合って、私はパソコンを閉じる。
ベッドに倒れ込むと、全身が重たくて、でも心は不思議と軽かった。
***
金曜の夕方、プロジェクトは無事にリリースされた。
社内チャットには、「お疲れさまでした!」のメッセージと、拍手のスタンプが並ぶ。
私はそれを眺めながら、ソファに身体を沈めた。
燃え尽きた、という言葉がぴったりだった。
達成感と同じくらい、「明日からまた同じ日々が続くのか」というぼんやりした不安が、胸の中に広がる。
《お疲れさまでした》
個別チャットに、藤堂さんからメッセージが届く。
《お疲れさまでした》
《深夜までありがとうございました。すごく助かりました》
《こちらこそ》
《○○さんがいてくれてよかったです》
その一文だけで、何度も読み返したくなる。
ソファに横になって、天井をぼんやりと見つめていると、また通知が鳴った。
《明日、どうしても外に出たくなくてなければ》
《最寄り駅のベンチでコーヒーでもどうですか》
心臓が、どくん、と大きな音を立てた。
画面の中の文字は、いつもより少しぎこちなくて、慎重に選ばれた感じがする。
「どうしても外に出たくなくてなければ」という前置きに、彼の遠慮と不安が滲んでいた。
会いたい、と思う自分と、怖い、と思う自分が、胸の中でせめぎ合う。
顔を合わせるのが怖い。
画面の中の距離感が、壊れてしまうかもしれない。
もし会ってみて、「なんか違う」と思われたらどうしよう。
でも。
画面の中で、何度も救われた言葉たちが、頭の中をよぎる。
「薄くなっていく気がする」と打ち込んだときに、受け止めてくれた人。
深夜のバグ対応で、一緒に夜を越えた人。
私は、深呼吸をひとつして、メッセージを打ち込んだ。
《緊張しますが》
《行ってみたいです》
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が熱くなる。
画面の向こうで、彼がほっとしている姿が、目に浮かぶようだった。
《よかった》
《○○駅の改札出てすぐのベンチでどうでしょう。夕方のほうが人少ないので》
《分かりました》
《明日、十六時くらいで大丈夫ですか?》
《はい。楽しみにしてます》
「楽しみにしてます」という言葉が、画面の中で静かに光っていた。
***
土曜の夕方、私は久しぶりにメイクをした。
リップを塗る手が、少しだけ震える。
クローゼットを開けて、何度か服を着替えては脱ぎ、結局いつものシンプルなワンピースに落ち着いた。
最寄り駅までの道を歩くのも、なんだか久しぶりな気がする。
マスク越しの空気が、少しひんやりしていて、心臓の鼓動がやけに耳に響いた。
改札を出てすぐのベンチは、彼の言った通り、人はまばらだった。
ベンチの端に、一人の男性が座っている。
黒いパーカーに、ジーンズ。
マスクをしていても分かるくらい、少し緊張したような横顔。
目が合うと、彼は立ち上がって、ぎこちなく会釈をした。
「は、初めまして。藤堂です」
声は、思っていたより少し高くて、でも落ち着いていた。
チャットの文面と同じように、言葉を選びながら話す感じがする。
「初めまして。○○です」
自分の声も、少し震えていた。
彼は、手に持っていた紙コップを差し出した。
「あの、好きなの分からなかったので、無難にカフェラテにしました。もし苦手だったら、言ってください」
「ありがとうございます。カフェラテ、好きです」
紙コップを受け取ると、指先に、ほんのりとした温かさが伝わってくる。
二人でベンチに並んで座る。
最初は、お互いに何を話したらいいのか分からなくて、少しの沈黙が続いた。
でも、ふとした拍子に、チャットで話していた話題が出る。
「昨日、ちゃんと寝られました?」
「えっと、思ったよりは。藤堂さんは?」
「僕は、いつも通りタイムライン見て、余計起きちゃいました」
思わず笑ってしまう。
彼もつられて笑って、マスクの下で目尻が少し下がる。
チャットで見ていた「……」の間合いと、目の前の彼の話すスピードが、不思議なくらいぴったりだった。
「なんか、思ってた通りです」
私がぽつりと言うと、彼は首をかしげた。
「え?」
「いえ、その……チャットの雰囲気と、話し方が。ちゃんと、藤堂さんだって感じがして」
自分で言っておきながら、顔が熱くなる。
彼は少し驚いたように目を瞬かせてから、照れくさそうに笑った。
「よかったです。イメージと違うって言われたらどうしようかと」
「そんなことないです」
駅前のざわめきが、少し遠くに聞こえる。
ベンチの上だけ、時間がゆっくり流れているような気がした。
仕事の話を少しして、在宅の息抜きの話をして。
コンビニの新作スイーツの話で、思いがけず盛り上がった。
「チャットだと、つい用件だけになっちゃいますけど」
「こうやって話すと、意外といろいろ出てきますね」
彼がそう言って、紙コップを見つめる。
「僕、雑談苦手だと思ってたんですけど」
「○○さんとは、なんか大丈夫です」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちてきた。
「私もです」
私は、紙コップを両手で包み込む。
「雑談、苦手だと思ってました。何を話したらいいか分からなくて、怖くて」
「でも、藤堂さんとチャットしてるとき、意外といろいろ話せる自分がいて、びっくりしました」
彼は、少しだけ目を丸くしてから、柔らかく笑った。
「それ、たぶん僕も同じです」
夕方の光が、駅前のアスファルトをオレンジ色に染めていく。
人々が行き交う音の中で、私たちの声は小さく、でも確かにそこにあった。
***
日曜の夜。
ベッドに横になって、部屋の明かりを消す。
枕元のスマホだけが、小さく光っていた。
社内チャットのアプリを開くと、藤堂さんからメッセージが届いている。
《昨日、会えてよかったです》
《画面越しより、ちゃんと人だって感じがしました》
私は、ゆっくりと文字を打ち込む。
《私もです》
《チャットの向こうにちゃんと人がいるって、当たり前のことをやっと実感できた気がします》
送信すると、すぐに既読がついた。
《明日からも、またチャットだと思いますけど》
《たぶん、前より少しだけ、話しかけやすくなりました》
その言葉に、自然と笑みがこぼれる。
《はい》
《私も、前より少しだけ、話しかけてみようと思います》
画面には、いつもの小さなチャットウィンドウ。
吹き出し一個分の言葉たちが、静かに並んでいる。
でも、その向こうにいる相手を、以前よりも鮮明に思い描ける自分がいる。
明日からもきっと、同じような日々が続く。
朝起きて、パソコンを開いて、チャットに「おはようございます」と打ち込む。
それでも、その一文の向こうに、誰かの顔と声と、不器用な優しさを思い浮かべられるなら。
この小さな世界は、少しずつでも広がっていくのかもしれない。
私はスマホの画面を伏せて、枕元に置いた。
暗闇の中で、胸の奥に灯った小さな光だけを頼りに、静かな安心感の中で目を閉じる。
――チャットウィンドウの向こうに、ちゃんと「誰か」がいる。
そう思えるだけで、こんなにも眠りにつきやすくなるなんて知らなかった。
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